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GUEST COLUMNIssue NumberNo. 341

さがゆき 連載エッセイ「どこかで〜中村八大という人」Vol.2

text: Yuki Saga  さがゆき
photo: From private collection

当時、新橋にGenさんという方が経営してらした【JUNK】というJAZZの店があった。親の知り合い関係だったその店でクラリネットの北村英治さんのライブを2回ほど聴きに行った。勉強のつもりで行っているので後ろの方の席で集中して、テーブルの上のコーラも氷が溶けても飲まずじっと聴いていた私を不思議に思われたのか、北村さんは休憩時間に「君、ジャズが好きなの?僕たちお茶しに外へ出るけど、一緒に来る?」と声をかけてくれた。え〜なんでだろう…と不思議に思いながらメンバーに付いて行く。「君、どんな歌知ってるの?」と聞かれ、急な事なので、「えーと、そうだなぁ…Gone with the wind (風と共に去りぬ)とか…」「どんな曲だっけ?」と首を傾げる北村英治さん。プロなのに知らないのかなぁ…なんて、失礼な気持ちをちょっと抱きながら ♫Gone〜with the wind…と小さく歌ったら「オッケー、次のステージで歌って」ですって。ビックリ!そうか、テストだったのね。失礼致しました!

満席のお客様の前に立つ。「今日は新人のボーカリストが遊びに来てくれています!何か歌ってもらいましょう!あ、何処からきたの?お名前は?」
「佐賀ユキです。鎌倉から来ました。」さっきまで聴いていた北村英治さん達の音の中に自分がいる…不思議な感じ。ドキドキしたけど無事歌い終ってホッ…。ライブ終了後、有難うございました、と帰ろうとする私に北村さん、「何月何日…空いてる?」え、何の事だろう…「松山全日空ホテルのディナーショー、一緒にやりましょう」といきなりのお誘い。え〜っ!私でいいのかなぁ…。人生って突然思わぬ事になるんだな〜!
帰宅して、興奮してディナーショーだって!と報告すると母は、あぁ、それならバンドの人達はきっと黒タキ(黒のタキシード)だから、あなたは黒じゃない方がいいわね。赤じゃ子供っぽいからシックなグリーンかなと。お母さん詳しい…しかもなんで驚いて、わ〜、凄いじゃない、とか言ってくれないの?
落ち着いてにこにこ微笑んでる母にこちらがビックリ。

母は8人兄姉の末っ子。叔父達はピアノやギターを演っていて、週末には時々家に集まってジャズを演奏していた。母も時々ウクレレを弾いたりしながら一緒に歌っていたっけ…。
叔父たちの影響で、C=ツェー、D=デーのようなバンドマン用語が日常会話に普通に混ざっていて、お小遣いD千(2千円)あげようか、え〜E千(3千円)がいい〜みたいな感じだった。時に父が機嫌が悪く、家の中が暗くなりそうな空気になると「ヤジオがワイコ〜」(オヤジが怖い…バンドマンだ〜)と、明るく軽く笑い飛ばす母。

…と、母の話になると、4歳から10歳頃まで父の仕事の関係で住んだ穏やかな神戸時代が蘇る。もしかしたら人生でいちばん幸せな時間だった…気もする。妹が生まれるまでの母と2人きりの、思い切り甘えていられた至福の3年間。
「ドーナツあげようか」と母。「うん!ドーナツくれて」と私。あげる〜くれる〜確かに間違いではない(笑)。日本語って面白い。
♫ 頭を雲の上に出し…、母は富士山の歌もよく口ずさんでいたっけ。
「お母ちゃま、枕のおうたうたって〜」
母「……えっ…?」「アタマ、おくもの、のおうた…」頭置く物/頭を雲の…確かにね…なるほど…(笑)。

母がその頃、台所でよく口ずさんでいた歌は「富士山」「Moon River」「お山の杉の子」「小さな竹の橋の下」そして「Fly Me to the Moon」…等。「フライって…牡蠣フライの事?」と私。「違うのよ、揚げるフライ(Fry)じゃなくて、お月様まで飛んじゃうフライ(Fly)なのよ〜」と。わぁ、似てるね〜、と笑いながら辞書を一緒に見る母子…のどかだなぁ。

神戸の幼稚園に最初に通い始めた頃、母親べったりで人見知りだった私は(今の私からは想像出来ないが)母が幼稚園まで送って来て先生に引き渡して帰ろうとすると大粒の涙。結局、午後に母がお迎えに来るまで他の子と遊ぶ事もなくずっと泣いていたらしい。
困り果てた母は、よく着ていた…きっとお気に入りだったであろう黒とベージュの千鳥格子の柄のスカートを壊して小さなポシェットを作った。
「これを持っていればおかあちゃまとずっと一緒に居るのと同じだからね」と。本当に翌る日から、母が帰っても私は泣かなくったと言う。母親って偉大だ……。
そのポシェットの柔らかくて温かい手触りは、今でも時々、淡く、恋しく…想い出す。

そして数ヶ月後には、母と一緒じゃなくても幼稚園に行けるようになっていた。父と一緒に家を出て、碁盤の目の六甲の道を、父は一本海寄りの道を行く。私は山寄りの道を…。
とことこ歩いて次の角まで行くと、父が数メートル向こうで笑顔で手を振っている。
また歩いて次の角…次の角…と、何度も父と手を振り合って、父は仕事場へ。私は幼稚園へ…。

だいぶ慣れた幼稚園から帰ると、今日はどんなお歌習ったの?と母。♫ ソミミ〜ファレレ〜蝶々のおうた〜。じゃぁそれ、暗い蝶々にしてみようか〜!
♫ ソミ♭ミ♭、ファレレ〜、ワァ〜怖い蝶々〜とはしゃぐ二人…。メジャー、マイナーを学ばせて教育しよう、なんて気持ちは毛頭無い。今思えば東京・青山生まれの母は、父の転勤で数年間住んだ神戸に友達もおらず毎日退屈だっただろうから、小さな私は良い遊び相手だったのでしょう。
レコードのピックアップの針を落とす直前の最初の音を当てるクイズ。これも夢中になって遊んだっけ…。何も無いけど、あったかい時間でしたね。

ある冬の日、私が通っていた幼稚園の園長先生が家を訪ねていらっしゃる。年長組の卒園式で、お祝いの歌の中のひとりで歌う短い部分、ゆきちゃん歌ってくれないかな?と。玄関先で応対する母…もう熱は下がってはいるけど…どうでしょうねぇ……奥の部屋で聞いてた私、タオルケット持ったままトコトコ玄関先まで出てきて、ゆきちゃん、やる…と言ったそうです…。
歌で必要とされている、という何かがもしかしたら閃くように芽生えた…瞬間だったのかも知れない。その時は、一生音楽だけで生きて行く事になろうとは…知る由もないのだが。

文学少女だった母は小さな手帳によく詩をかいたり、俳句を作ったりしていたっけ。祖父も亡くなった後、引き出しの中から俳句が書かれた手帳がどっさり出て来た。そして私も、多少そんな血を受け継いだ…のだろうか、その後八大さんがスカウトにいらしていた14才の頃に作ったオリジナル曲は、歌詞がなかなか渋い。

健康そのものだった母は、2001年に検査で大脳動脈瘤が見つかり、それまで2人で回って居たイタリア、スペイン、ポルトガル、ベルギー等ヨーロッパは飛行時間が長過ぎて破裂の危険性が高いからとドクターストップ。どこにしようか、と2人で決めたのは飛行時間約4時間の台湾。何もかもが楽しかった。その当時、母と同年代の方達は皆、日本語で対応してくれたっけ。出逢う人誰もが温かくて親身で…大好きな国になった。本当にあの選択は正しかったなぁ…。
※後から思うと、台湾と言う国が、人が…先々私の音楽の大きな力になって行ってくれる、なんて事はその当時は勿論知る由も無かった。

そして翌2002年11月23日、母は亡くなった。人生で1番辛い出来事だった。
ここでちょっと母の履歴を振り返っておきたい。私への影響が大であるからだ。
母は松竹の取締役、歌舞伎座のプロデューサーを務めていた父親・遠藤為春と、小唄の師匠だった母親・貞子との間に8人兄姉の末っ子として青山に生まれた。子供1人に乳母が1人着くような家。父親に会うのもアポが必要。運転手がいて、女中さんが沢山いて、女中頭なんて言う人まで…私の母は篤姫なのか…笑。
祖父は藍綬褒章を1964年受章。天皇陛下に日本の古典芸能をお教えに皇居に伺って居た。青山の家には歌舞伎の俳優達がよく集まり、中にはお金を借りに来る人も。祖父はお金を渡す時は返して来る事は念頭に無いと聞いた。

祖母は《胡蝶》という名で小唄をレコーディングもしていたらしい。そうか…私の弾き語りの大先輩だったと言う訳だ。※祖母の実家は柏木と言う、何か歌舞伎座の創立に関係ある…らしいと昔母から聞いたが、今となっては詳細は全く不明。
母の実家、青山の家は空襲で焼けてしまったと後に聞いた。

母は一級建築士の免許も趣味で取って、自分の同級生の瀟洒な家を鎌倉に建てたこともあった。
でも中学の授業参観の時、他のお母様達はきちんと正装してらっしゃるのに、ポニーテールに派手なフレアスカート、スニーカーの我が母。先生、うちの子よろしくお願いしますとか言わない。担任の先生に向かって「お〜水野〜〜!」って悪びれる事無くニコニコ…可愛いかったけど恥ずかしかった。
暫くしてからいきなり髪をロングからベリーショートにしたのには本当に驚かされた!いつも表参道の小さな洒落た美容院でカッコいい美容師にカットしてもらってた。我が親ながら全く先が読めない母なのであった。

 

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さがゆき

さがゆき Saga Yuki [ボーカリスト、ボイスパフォーマー、シンガーソングライター、ガットギター及びLapTopギター、パーカッション、インストラクター] 東京出身。5才にして歌手になることを決意。 一切のジャンルを超えた言葉を伴う”うた”を歌う歌手であると同時に言葉の伴わない”声”を楽器としたフリーキーで幻想的な”完全即興”を歌う稀有な存在。フランス、ドイツ、オランダ、インド、シンガポール、韓国、アメリカ、中国、台湾など世界各国から招かれ、フェスティバル等に数多く出演。内外のライヴ。コンサートの他、完全即興ワークショップも定期的に20数年間行っている。 様々なアートにも自在に出入りし、共演者には(故人を含む)、中村八大(p). 小川俊彦(p). 高橋悠治(P). 富樫雅彦(perc). Shih Yang-Lee(P). 潮先郁男(g).沢井一恵(箏). 金大煥(perc). 姜泰煥(sax). 菅野邦彦(P).鬼怒無月(g). 加藤崇之(g). 内橋和久(g).渋谷毅(p).林栄一(sax).Elliott Sharp(multi). Anil Eraslan(cello) .大野一雄(舞踏). 谷川俊太郎(詩人) .白石かずこ(詩人). Heinz Geisser(ds),石原雄治(ds).森順治(Reeds).タップ・レオナ(タップ)…等とボーダレス。 アルバム多数。最新アルバムは、ハーモニカの八木のぶおとのデュオで『中村八大作品集』(地底レコード)。

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