JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

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GUEST COLUMNNo. 243

「Jazz。豊穣の海。」

text by Yoshiaki Onnyk Kinno  金野Onnyk吉晃

 

1)異端者の不在

Jazz Tokyo #242に「追悼。CT考」と題する小論考を掲載していただいた。

その文末に、こう書いた。

「いでよ、今一人の異端者!今一人のセシル・テイラー!」

しかし、これは全く絶望的な呟きにしかならないことを私は知っている。

既に「異端者」など出て来よう筈も無い。

ジャズに話を戻せば、西欧音楽史の滋養と、電子的テクノロジーの成果を吸収して変容、発展して来たジャズが、新たな要素を取り込んで文脈を変えうるか否かという問題になる。

もし今一人の異端者が現れるなら、彼は何をジャズに移植するだろう。あらゆる様式が乱立し、技術がITに、AIに、ネットに依存するいま、そしてミュージシャンのテクニックも数十年前に比較して、まるでスポーツの記録を塗り替えるように向上したいま、どこに異端者が現れるというのだろうか。

前回の論考を一部繰り返す。

セシル・テイラーは、第二次大戦後のトーンクラスターや非定型リズム、ポリリズム、不確定性をダイレクトにジャズに注ぎ込み、ひいてはフィジカルなパフォーマンス性も見せていたことを指摘した。これは当然の帰結というべきでもあるが、その実は隘路でありニッチであり袋小路であった。進化の行き止まりと言っても良いだろう。

また、「真のフリージャズ」は70年11月25日で終わり(もしかしたらその前日かもしれない)、それ以降は「見せかけのフリー」になったと書いた。

ここで「真の」というのは黒人達の解放闘争、人種意識を基盤としたという意味だ。だから、これは状況が作ったものだと言える。また「見せかけの」という言葉が悪ければ、技法としてのフリーといってもいい。ミュージシャンのテクニックは磨きがかかり、いかなるフリーキートーンもノンブレスも、ポリフォニックも、全てアカデミーで教えられるものとなった。

勿論、音楽理論も、音響の制御も、録音手法も一通り知悉して、それでも自らのユニークさをなんとか売っていかなければ生計は立たない。人が聴いてくれなければ、何を主張しようと無意味だ。深山幽谷で革命を叫んでも無駄。しかしそこで技を鍛え、同志と誓いを立てる事くらいはできそうだ。

この時代、フリーを叫ぶのは誰か。それはかつて「禁止の禁止」だった戦線が、いつまにか、「何をやっても許される」どころではなく、「何でも出来なければならない」という「バーリ・トゥード(Vale tudo=何でもあり)」にされてしまったのである。つまりフリーとは、解放でも自由でもなく、供給可能な選択肢の問題になってしまったのだ。あたかもジョン・ゾーンが考案した「ゲーム音楽」のように(それは既にジャズではないが)。

しかし、我々は常に選択している。一瞬一瞬が選択だ。それは誰もが知っているが、いつも意識しない。演奏における一瞬毎の選択が即興とするならば、それは自らが制御できる音響のあらゆるパラメータを、選択していることになる。しかし実際演奏の現場ではそんな考え方はしない。むしろ、いかにその枠組みを見いだすか(壊すか)で決まってしまう。

私はジャズにおいて最も重視するのは「即興演奏」自体とその「在り方」である。これなくしてジャズはジャズ足り得ないと思っている。

「即興演奏」自体とは、演奏者の技術と姿勢に依存する。そして「在り方」とは、具体的には「即興演奏の枠組み」である。

ジャズとは、即興演奏を最大限に生かしきる音楽様式であるといってもいいと思う。

その観点から、問題を縮小し、具体例を以て、即興演奏の「在り方」を歴史的に現実的に検証しよう。

 

2)即興演奏の基盤

1969年に英国で製作された音楽ドキュメンタリーフィルムで、1970年代の初めにNHKで放映された『Super Show』(現在はDVD, BRで入手可能)。ロンドン郊外ステインズのリノリウム・ファクトリーにて録画。

https://en.wikipedia.org/wiki/Supershow

出演はローランド・カーク、MJQ、レッド・ツェッペリン、エリック・クラプトン、スティーヴン・スティルス、ジャック・ブルース、コロシアム、バディ・ガイ、バディ・マイルス、グレン・ロス・キャンベル(同名の歌手ではないスティールギター奏者)らで、彼らのセッションも含まれている。この記録映像では、60年代後期のロックとジャズのアマルガム状態から、それぞれが新たな方向性を見いだす様相が浮き上がって来た状況を垣間みる事が出来る。

基本的に60年代のロックもジャズも、ブルーズを基盤にしているので、ジャムセッションは容易に可能だ。その形式や規範を知り、適度な逸脱を喜び、喜ばせるのであれば。

しかし、この映像には、その即興基盤であるブルーズから決別しようと試みているアーティストがいることを教える。それを感じさせるのはデビュー間もない「レッド・ツェッペリン」であり、サードストリームを頑固に守るMJQだけである。

また、敢えてロックとジャズのハイブリッドを、あるいはロックに依るジャズの、ジャズに依るロックの変革を意図しているのは、ジャズドラマー、ジョン・ハイズマン率いる「コロシアム」だ。しかし彼らの演奏、即興は細部においては依然、ブルーズを、またジャズを基盤にしている。

またローランド・カークのクィンテットも、お得意の「小さな願い」をやっている。これはバート・バカラックの作曲でディオンヌ・ワーウィックにより大ヒットした、決してブルーズ的基盤の曲ではない。カークのコンボもこの一曲のなかに多様なスタイルを注ぎ込み、一種のスープを作り上げている。とはいえ、やはりカークの足元はブルーズ感覚に根ざしているのは間違いない。セッションの時にはそれがはっきりする。

ジャズもロックもブルーズを故郷にしているのだから、そこに戻って演奏をするのは困難ではない。むしろ容易いのだが、それだけに想定内に留まり、発展性に乏しいともいえる。いや、それは言い過ぎだろうか。ひとつのジャンルの中で、それを純粋に突き詰めたとき全く違うレベルが出現するのは珍しい事ではない。ジミ・ヘンドリックスを想像するまでもなく。

しかしまずここではブルーズとブルーノートを基盤とした即興についての枠組みが厳に存在する事だけを強調しておく。

ブルーノートについての詳細な研究がある。他でもない山下洋輔が論文を発表している。

https://www.amazon.co.jp/新編-風雲ジャズ帖-平凡社ライブラリー-山下-洋輔/dp/4582765025

ここで敢えてまたサードストリームの功罪を言及したい訳ではない。彼らの葛藤はもう十分である。もはや20世紀初頭の後期ロマン派、印象派あたりの様式での即興演奏は尽くされてしまった。というより当時の作曲家達の多くは名演奏家であり、コンサートサロンでの即興演奏を得意としていた。それをパターン化して後に譜面に定着させたとさえいえる。だからそれに続く演奏家たちも盛んに即興で装飾し、改変し、それを解釈として自在に編曲していた。それが後に著作権の問題にはなるのだが。その意味では録音という技術が無かっただけ、即興は譜面において定着したと言える。

(いや正確には自動ピアノという存在がある。ご存知かとは思うが、紙のロールにピアノ演奏を直接記録し、それを再現できる。プレイヤーピアノ、ロールピアノとも呼ばれ、ピアノラとも言われる。アムステルダムにはピアノラ・ミュージアムが存在するし、Condon CollectionというCDシリーズでは20世紀初頭の名作曲家にして名演奏家の演奏記録を最新の録音で再現したものが多数聴ける。さらに蛇足ながら、カート・ヴォネガットJr.の小説「プレイヤー・ピアノ」も面白い)

 

3)遅れて来た異端者?

ではシェーンベルクに始まる「12音主義」の展開において即興演奏は可能か?私の考える限りに於いて、それは極めて困難であるとしか言えない。それはこの様式が極めて音列の選択に限定的だからだ。むしろ即興演奏を拒否するようにさえも思える。これは極めてユダヤ教的とさえ言えないだろうか。すべては神の目の中に、いや手の中に、あるいはモーゼ五書の中に、不確定性も偶然性も存在せず収まっているとでも。

しかし、例えば、70年代以降の非イディオマティックな即興演奏と、厳密に演奏された「12音主義」の楽曲を聴き比べたとき、後者もまた即興的に演奏されているかのような印象を受ける事はある。これは両者が無調的な方向に発展した結果である。

あるいはまた、60年代に特に管楽器奏者達の即興演奏が、複雑化し、あるいは旋法化していくなかで、アドリブパート内で高速化するほどに、どうしてもそれは半音階的なパッセージを必要とする。結果的にそれは「無調化」していく。さらにそれが加速化すると、パッセージはサウンドの奔流となり、ノイズ化していくだろう。

ここで言う「ノイズ」は、多様なピッチと音色を分別できないまでに混在させたサウンドのマッスという意味である。この問題については最後にまた述べる。

少し話が進みすぎた。

しかし12音主義における即興演奏の問題は、しかし全く看過された訳ではなかった。

それが成功しているかどうかは別として、あのデレク・ベイリーが晩年にリリースを許諾した初期作品集は、彼のポスト・ヴェーベルン的作曲への強い志向がみられる。

DEREK BAILEY / PIECES FOR GUITAR [TZADIK TZ 7080] 録音;1966、67年 リリース;2002年

これを聴いたとき、私はそれまでベイリーに抱いていた種々の疑問が氷解して行くのを感じた。彼の演奏の独自性、それは全くジャズイディオム、そしてブルーズ的クリシェ、ブルーノートを逸脱していた。その根源こそは12音主義にあり、彼だけがそれに挑み、あの透徹な音楽を即興演奏の基盤となすべく果敢な挑戦をした演奏家・作曲家だったと感じる。

だから、もし彼が『Super Show』に出演していたら、そしてその時点で既に彼自身の理念を実践していたら、絶対にその他の演奏者達とは折り合いがつかなかっただろう。いや敢えて想像の中でさらに想像を逞しくするなら、MJQぐらいとなら面白い共演もありえただろうか。だがMJQのメンバーはセッションには登場していない。これもまた彼らがブルーズへ依存することを嫌った結果だろうか。

ベイリーの貢献はそれだけではない。彼は独自に即興演奏を分析して世に問うた。

彼の視点で選んだ様々なジャンルの演奏家に、連続したBBCラジオ番組の企画としてインタビューした内容をまとめた著書「即興」は、あまりにも有名である。

『インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ』デレク・ベイリー(竹田賢一・木幡和恵・斉藤栄一訳),工作舎,1980

ここでは以下の音楽様式から、演奏家を選んで即興演奏についての対話がなされている。

インド音楽、フラメンコ、バロック音楽、教会オルガン音楽、ロック、ジャズ、現代音楽、そして「フリー・インプロヴィゼーション」というそれ自体を名付けにした「ひとつの様式」が最後になっている。

 

4)ロックと即興

私がここで注目したいのはインド音楽とロックの2つである。

まずはロックの即興演奏家として選ばれたギタリストを注目しよう。それは当時「イエス」に在籍していたギタリスト、スティーヴ・ハウであった。ロックの即興演奏といえば誰しも三大ギタリストであるとか、ジミ・ヘンドリクスを思い浮かべるのは当然だったから、この人選には驚いた記憶がある。

ベイリーは「ロックのインプロヴィゼーションはブルーズに由来する」と言い切っているし、基本的には誰もそれを否定しない。ハウ自身もそれを肯定している。というよりも60年代までは、そして70年以降も基本的に、ロックの即興演奏は、殆どがブルーズの枠から抜け出ていないと言っても良い。

だが、ハウのギタープレイには、確かにブルーズ由来のみではないもっと新鮮なヴィジョンをもっていることを即座に感じ得る。

例えばイエスのアルバム『こわれもの』の冒頭、有名な「ラウンド・アバウト」のイントロを飾る実に印象的なギターソロは、フラメンコ、クラシックの香りも含んでいる。

ハウはインタビューの中で、自分の即興演奏をカセットに録音して何度も聞き直したと言う。これは実に重要な証言だ。そんな事誰でもやっていただろうと言われるだろう。しかし、ここで明確なのは「即興演奏という、瞬時に生まれすぐ消えて行く音楽を、音響自体として記録し、再現できる手軽なメディアとハードが、誰しも所有する事に依り、批判的に分析し、あるいは作品に、さらには商品音楽につないでいくことができる」という事態である。

それは「即興を録音するのは意味が無い」だの「録音されたものは即興ではない」だとかいう低いレベルの議論ではない。それはあたかも「言葉は心そのものではないから無意味だ」とか「音楽や絵を言葉で表現するのは無意味だ」という議論に等しい。勿論、音楽は録音でもないし、音楽も絵も言葉ではない。

誤解がないように敢えて断っておくが(そしてベイリーも書いているが)、録音する事は採譜することとは全く違う。

ハウが選ばれたのは、確かに当時いわゆる先進的ロックのなかで最も知名度が高かった現存する人材であったし、そのテクニックの高さもずばぬけていた。また彼は既に、以前在籍していたバンド「トゥモウロウ」においても、単なるポップバンドではない演奏を聴かせている。

また当時はよくあることだが、ビートルズのカバーをやったり、シタールの音色を用いている。ハウの場合は本当のシタールではなく、エレクトリック・シタールではあったが。

 

5)ビートルズの功罪

ハウがカバーしたのはビートルズの「ストロベリーフィールズ・フォレヴァー」であるが、この曲も完全に、ロックンロールからもリズムアンドブルーズ、つまりブルーズ的循環やブルーノートから脱している。

ここで、(私のビートルズ嫌いを知る人達からは意外に思われるだろうが)ビートルズの先進性を評価しなければならない。それは主に三つの点である。

まず彼らはそのデビューにおいて、ブルーズ的循環やブルーノートから脱し、すなわち、殆どどの曲に於いても大差ないロックンロールの型や、ラヴソングとしてのリズム&ブルーズの模倣から離脱する宣言をしていると思える。

次に、これは後期の話になるが、スタジオを自由に使える時間が増加し、スタジオにおいて様々なアンサンブルを試しつつ、マルチトラック録音と音響加工を駆使した、それまでの、歌とその伴奏という音響ではなく、音響それ自体が主役となるような大衆音楽(かといってムードミュージックではない)を作り出す事に成功した。ムードミュージックが壁紙だとすれば、ビートルズが産み出したのは細部まで微細に描き込まれた壁画というべきだろう。そしてこの音楽の最大の欠点は、あくまで当時の水準でいえばだが、ライブ演奏できないということだった。

ただし、このような方法をビートルズ以前に開発してアルバムを作ったのは、フランク・ザッパ(1966)であり、それより以前にレニー・トリスターノもアルバム構成に導入し(1955)、楽曲単位ではあるがレス・ポール(1961)があり、存在する事を忘れてはならない。また、総合的にではないがエリック・ドルフィーも多重録音を試みていた(1960)。

スタジオでの音楽製作が歴史的に最も早かったのは、ピエール・アンリ、ピエール・シュッフェールの二人が「具体音楽」として、テープ音楽の製作を始めたのは第二次大戦中のことである(これにはシュッフェールがラジオ放送の録音技師であったことが関係している)。

 

6)インド音楽

第三の評価点、それはインド音楽の再発見である。ベイリーも著書の中でインド音楽を最初に取り上げ、南北大きく二種の音楽文化の中で、特に北インドのヒンドゥスターニ音楽の即興演奏を重視している。それは、確かに北インド音楽はイスラム文化圏の影響を受けてはいるが、南のカルナータカ音楽とヒンズー教の関係程は宗教的制約を受けずに個人技が発達しているからだという(とはいえ、音楽家達はそのまま演奏家であり、「演奏=音楽」と神との関係を強く意識している)。

ビートルズが、というよりジョージ・ハリソンがまず北インド音楽に強く共鳴し、北インドの代表的な楽器であるシタールの達人ラヴィ・シャンカールに師事した。それがもっとも強く出ているのは、なんといってもサウンドトラックとして製作された『ワンダーウォールミュージック』(邦題「不思議の壁」、1968)であろう。ここでは北インド音楽の様々な楽器や声楽と、サイケデリックなロックが(映像とはほぼ関係なく)交互に登場し、当時のドラッグミュージック的雰囲気が濃厚である。

三つの評価点のうち、第三の要素は当時のロック、ジャズには大きな影響を与えたと言える

繰り返しになるが、当時の欧米の商品的な大衆音楽に於いて、延々即興をやるには、ブルーズの循環構造が必要だった。しかしそれは同時に制約であった。それから脱するに二つの路があった。ひとつは無調化、そして旋法化である。

前者はフリージャズに、後者はモーダルなジャズ、単一コードでの延々たる即興へ向かう。セシル、オーネットは前者に、そしてコルトレーンは後者に進んだ。

ロックでは相変わらずにせよ、延々即興演奏をやる連中は「ジャズロック」と呼ばれ、ブルーズの枠内での即興を続けていた(「ヤードバーズ」にせよ「クリーム」にせよ)。そこから脱しようとした少数派もある。彼らが選んだ手段の一つは旋法化であった。

しかしハリソンも、ビートルズもそういう即興をやる考えは無かった。そしてインド音楽まがいの旋法化は、その独自の音色とともに幾多のバンドが取り込んだ。

(スティーヴ・ハウの「トゥモウロウ」もその一つだったし、かの「ローリング・ストーンズ」も、「ザ・バーズ」も、大ヒットをとばした「ショッキング・ブルー」もそうだった。シタールの音色は、ペイズリー柄や、パンタロン、ケルティックなデザインと同じで流行のファッションだったのだ。)

また延々とモーダルな即興をやるという意味では、「アイアン・バタフライ」が試みたのが有名だ。彼らは、恥ずかしげもなくこの様式を「ラガ・ロック」と呼んだ。勿論北インド音楽の基本「ラーガ」からとっている。

しかし実際の所、北インド音楽における「ラーガ」を基にした即興演奏と、西欧楽器、西欧音律によるモード奏法の即興演奏では違いがある。

ラーガを簡単に説明する事は出来ない。それは関心のある人ならば、積極的に追求すべき物だ。敢えて言えば、それは選ばれた音律の群でもあり、装飾を含む旋律型でもあり、リズム(ターラ、ガット、ラヤそしてガマカといった概念が絡み合っている)も含んだ複合的な、しかし即興演奏の為の「素材」なのである。

ラーガは一旦決まれば、というかその場の演奏家達は、リーダーによってそれが提示されれば、それに合わせて各自の楽器をチューニングし、演奏の終わり迄それが変化する事はない。インドの基本的な二つの音律(それぞれも固定的ではない)は非和声的であるといわれる。西欧音律では、いかなる曲でも楽器に同じチューニングをして、調性の移動、つまり曲の中で移調が容易になるような構造をしている。音律の構造が楽器の構造も決定するのは当然であり、シタールは演奏毎にチューニングを変えなければならない。

60年代早期に、シタールを巧みに演奏した西欧人の奏者としてはビッグ・ジム・サリヴァンが有名だ。ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモアの師匠である。

そしてツェッペリンもファーストアルバムでは「ブラック・マウンテン・サイド」というインド風の作品を収録している。しかしツェッペリンの即興は旋法化に留まらなかった。前述した映像ドキュメンタリー『Super Show』において、非ブルーズ的な即興演奏を展開している。それはイエス、ハウの演奏とも全く違う。

ただし、ツェッペリンは根本的にブルーズの呪縛からは逃れられなかったと私は感じている。彼らがライブで即興に走る時、それはブルーズがどんどん露呈して来る瞬間だ。しかし、それを逆手に取って、聴き手の抵抗、新奇さに対する、あるいは前衛的、実験的なサウンドへの敷居を低くして、斬新なブルーズとして人気を博したのではないだろうか(ZEK3の面々にも意見を伺いたいところである)。

 

7)ジャズとインド音楽

ジャズにおいても、北インド音楽の影響は種々あるのだが、コルトレーンが、ラヴィ・シャンカールに心酔、傾倒し、コンサートに彼を招き、残念な事に酷評されたのは有名である。

ジャズにおける北インド音楽の影響は、ロックにおけるそれよりも大きかったとは思えない。何故なら、黒人音楽が既に一つの文化的な搾取の果てに成熟して来たのに対し、最初から故郷を持たない包摂型音楽(悪く言えば文化的侵略であり、資本主義的な経済化)としてのロックのように、容易にインド音楽を同化しよう(模倣しよう)とすることへの抵抗があったのか、もしくは60年代のジャズ状況がそれどころではなかったというのが理由だろうか。

しかし、インド音楽のモーダルなベースをもった即興は、ジャズの演奏家にも、ブルーズ的循環構造なしで延々と長時間の即興を可能にした。それは奏者の意識を変容させただろうか。しかしその即興は、テーマ/アドリブ/テーマという完結構造を持つジャズにおいては、循環構造以上に、予定調和的で初めから限界の見える音楽にしかならない。ジョン・ゾーンはそれを非難した。

エリック・ドルフィーは、作曲家としても演奏家としても実に様々な可能性に挑んでいるが、そのなかにインド音楽の様式もあった。それは死後の編集盤「アザー・アスペクツ」に聴かれる。ただ、それは未消化な実験に終わっているようだが。

(コルトレーンの即興演奏が、佳境に入るにつれてどんどん無調になったのは、シャンカールに代表される旋法音楽への絶望から、というのは言い過ぎだろうか。)

またジャズの管楽器奏者達も、インドや、中近東のダブルリード楽器に影響され、サックス、クラリネットなどのシングルリード以外の可能性を追求するため、ダブルリードを使用する試みには出たが、オーボエ、ミュゼット、ファゴットなどが主流になることはなかった。ダブルリード楽器は非常に不安定で、息づかいの微妙さが要求される。これはピッチを半音階的、あるいはさらに微分的音階を用いるには便利ではあった。微妙であるが故に困難であるのは、こうした楽器の常である。

マイルス・デイヴィスは少し遅れてインド音楽の要素を取り込む事になる。しかし彼の調理方法は決して即興演奏の基盤としてモーダルにしていくことではなかった。マイルスが北インド音楽の楽器を用いるにあたり、決してエキゾチシズムの香辛料として用いたのではないことはすぐに理解されたようである。まさかマイルスがマーチン・デニーになるとは誰も考えない。

そしてもう一つのコンボが、インド音楽を多くの民族音楽の一つとして取り込んでいた。その「ポール・ウィンター・コンソート」については後段述べる。

 

8)ジョン・マクラフリン!

最も顕著にインド音楽の影響をうけたジャズ奏者の一人は、コルトレーンにも傾倒していたジョン・マクラフリンであることは論をまたない。また彼のインド音楽への共感、折衷力(そんな言葉が許されるとして)は群を抜いていた。まさに身も心も捧げたという時期があったのは疑いない。

その代表的な作品の一つは”My Goals Beyond”(1971)であり、話題をさらったマハヴィシュヌ・オーケストラの前身というべきアンサンブルが、もっとインド寄りのモードで聴かれる。さらにマハヴィシュヌ・オーケストラがあまりにもエレクトリックで大音量だったことを反省したのか、1976年には、全面的なアコースティック・アンサンブル「シャクティ」を結成した。マクラフリンは多くの共鳴弦を追加した生ギターを弾き、インド的バイオリンと、インド固有のパーカッションを二人の奏者を加えて極めて技巧的な演奏を展開した。

その即興演奏は、ラーガに基づかないながらも北インド音楽のエッセンスを取り込む事に成功している。しかしこれがその後、音楽それ自体として発展する契機を持っていたかというと極めて疑問だ。つまり、シャクティの音楽は超絶技巧演奏という袋小路に収まったのである。

 

9)ラルフ・タウナーの登場

「エレクトリック・マイルス」というマトリックスから、「リターン・トゥ・フォレヴァー」、「マハヴィシュヌ・オーケストラ」、「ウェザーリポート」、「ヘッドハンターズ」が生まれて来た。まさにフュージョン、クロスオーヴァーが叫ばれ始めていた。

その中で、B面に東京公演を編集して収録したウェザーリポートのセカンドアルバム”I SING THE BODY ELECTRIC”(1972)は、ファースト以上の衝撃があった。特に二曲目「ムーアズ」の冒頭、聴いた事も無いような響きのギターソロは当時ロウティーンであった私には異世界からの贈り物とさえ思えた。これはラルフ・タウナーの12弦ギターによる演奏だった。これだけで彼の音の虜になったのだが、すぐに彼のソロ/トリオを収録したリーダーアルバム(1972)がECMからリリースされた。

ここでまた驚いたのはそのトリオにベースと、タブラを用いていたことだ。タブラは正確には「タブラ・バヤ」という北インドの打楽器である。現在ではこの楽器にさしたる説明も必要ないだろうが、マイルスが自らのコンボにシタール、タンブーラとともにタブラを擁し、ポリリズミックな楽曲を編み出したのは当時のジャズファンの間でも論議を醸したのは前述の通り。

ラルフ・タウナーは、ポール・ウィンターのコンボに在籍していた。ウィンターのコンボは敢えて「コンソート」と名乗った。これは中世のヨーロッパでの合奏形態の意味である。その名の通り、このコンボには古楽器が多く用いられ、また多種の民族楽器も使われていた。その中でコリン・ウォルコットはシタールを、ラヴィ・シャンカールに師事し、タブラも演奏する才人であった。また、後にタウナーを中心に結成された「オレゴン」では、やはりウィンター・コンソートに居たポール・マッキャンドレスと共に参加している。ウォルコットはまたマイルスの録音にも参加していた。ECMからリーダーアルバム「クラウド・ダンス」(1975)を発表するが惜しくも84年に他界した。

ウォルコットはあまりにもインド的な要素を吸収しすぎたミュージシャンだが、ラルフ・タウナーは、インド音楽でも、他の民族音楽でもなく、むしろ西欧クラシック音楽のギター音楽や、バロック、あるいはバロック以前の古楽の要素も栄養とした極めて豊穣な背景の演奏家・作曲家であると思う。その演奏は繊細さとダイナミックさを兼ね備え、決して電子機器に頼らず、テクニックと多様なサウンドに満ちあふれている。彼こそを「新たな異端者」と呼んでみたい誘惑はあるのだが、果たしてそう言えるのだろうか。

一体、セシル・テイラーに捧げた尊称としての異端が、彼に相応しいのだろうか。おそらくそれを妨げる意識があるならば、彼はもはやジャズではないという私の脅迫的な観念に由来するだろう。

 

10)ロックの新しい波

ビートルズ評価の第二点にもどる。

スタジオ使用、マルチトラック、それに電子的な音響変容については、以前にjazz tokyo #242で論じてみた。

「全ては電子音楽だ」 アトミック〜スペース〜コンピュータによる20世紀音楽の思い出

電子音を全面的に使用したロックバンドとして、1968年に「シルバー・アップルズ」が、非常に構造的で興味深い演奏をしている(電子音楽家モートン・サボトニックが1967年にイェイツの詩からインスパイアされて製作した同名の曲がある)。彼らは歌を重視した点ではドイツの「クラフトヴェルク」とも異なっているが、自作の電子楽器「ザ・シメオン」を用いている。

また無調化した電子音、電子ノイズによる長時間即興では「グレイトフル・デッド」や「ピンク・フロイド」も試みているが、決してその音響を主体とはせず、基本的に従来のロック、ブルーズを基本としている。

ブルーズの枠組みとは最初から無縁で、全面的に電子音響をとりいれたのは何度も言及するクラフトヴェルクだが、少し遅れて「タンジェリン・ドリーム」も初期のハードロックトリオの演奏を捨て去り、電子音中心の演奏になった。

アメリカでは、フランク・ザッパのスタジオ主義の先進性は特筆すべきではあるが、彼の即興もブルーズが基本である。彼よりもっと進歩的だったのはメイヨ・トンプスン率いる「レッド・クレヨラ」であり、ミニマリズムを具現したジョン・ケール、ルー・リードの「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」かもしれない。

(非常に人気があった「ドアーズ」はロックンロールからもリズム&ブルーズからも脱していないが、彼らの演奏フォーマットは、ベースレスのオルガントリオであり、ジャズ的でさえある。またロビー・クリーガーのギターは素晴らしいセンスを見せている。)

70年代に入り、モーグを初めとしてキーボード操作の容易な各種シンセサイザーの普及は一気にロックを、ブルーズ、リズム&ブルーズ、ブルーノートといった黒人音楽の影響から離脱させる大きな契機となった。先に言及したスティーヴ・ハウが在籍していた「イエス」もそのひとつではあるが、大人気を博したのは「エマーソン・レイク&パーマー」であろう。彼らにギタリストが居ない事は象徴的である(正確には曲によってグレグ・レイクが、フォーク調の生ギターを演奏する)。

そしてベーシスト兼ボーカリストのレイクが在籍していた「キング・クリムゾン」こそは、ブルーズ色を払拭した新時代のバンドであろう。クリムゾンはその即興演奏において二つの顔を見せている。ひとつはサックス奏者による激しいジャズ的な演奏であり、一方ギタリスト、バイオリニストは全くジャズ的イディオムが無い。後にクリムゾンはバイオリンもサックスも排し、完全に独自の楽曲構造と即興演奏をするに至った(70年に入る頃、ジャズ的イディオムで即興演奏をするバンドは欧米に少なくは無かった)。

またクリムゾンは一時期、ギター、ベース、ドラムをそれぞれ二人ずつ配し、あたかもツイン・トリオの構造を呈した。といえば誰しもオーネットの『フリージャズ』(1961)でのダブル・カルテットから、後期の「プライム・タイム」までの複合コンボを思い出すだろう。しかしオーネットが自らの理論というか理念<ハーモロディクス>によって延々と即興演奏を展開したのに対し、クリムゾンは即興の要素を極端に縮小した。

そして例えばライブにおいてさえ、無限音階を聴かせるような究極的演奏力を見せつけた。

(延々と即興演奏を持続させうる基盤としてのハーモロディクスをいかに考えるか。ここでは言及しないにしても、それがオーネットにしか出来なかったのではないかとだけ述べておこう。)

思うに、ベイリーが「即興」を編集するにあたり、ロックのインプロヴァイザーとして、クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップと対話していたら一体どのような内容になったか、あるいはまとまりのつかないまま、平行線で終わったか、想像するのは刺激的だ。フリップの即興演奏も、全くブルーズを感じさせない独自のスタイル、そして多様な音色を聴かせる点では忘れられない。

また、これも一派をなしたユニークなバンド「ヘンリー・カウ」のギタリスト、フレッド・フリスでも良かったかもしれない。フリス、そしてカウの活躍についてはいつか稿を新たにすべきであると考えている。それくらい、カウ、そしてフリスの即興演奏は、クリムゾンの技巧中心主義とも全く違う、新たな表現のレベルを獲得していた。そして彼らの影響を受けたバンドは数多い。フリスの編集した彼自身および、多くのギタリストによる3枚の”Guitar Solos”(1974, 76, 79)は非ブルーズ的即興の多様さが一望できる。

 

11)豊穣の海たるノイズの復権

アルバート・アイラーはそのデビューにおいて、根源的という意味での「ラディカル」であった。しかしそれは紆余曲折を経て、ソウル、R&B的な方向に回帰して行った。その意味でアルバム『ニュー・グラス』は最も直接的な言明である。彼は上ずりながら歌いはじめ、バックコーラスはそれに応え、サックスではフレーズが次第に分解して、遂には倍音だけで延々と吠え続ける。時には歌そのものも、次第に予言者の異言のようにジャーゴンをわめくだけになっていく。

そのジャーゴンは、ミルフォード・グレイヴスの声/ヴォーカリゼーションに近いだろうか。いや違う。ミルフォードのそれは「宇宙との共感を呼び覚ます」ものだった。アイラーの叫びは「死者達への祈り」だった。

アイラーの即興演奏は、果たしてそのフレージングの加速化により、ノイズの持続になって行った。それは彼の歌/声と一体化していた。

セシル・テイラーは、自らの作曲と演奏の理念をジャズのアンサンブルの形式で実現しようとした。その意味では最初からジャズを目指したのではない。最も似ていた様式がジャズだったというだけだ。その彼自身の形式は次第にソロへと収束して行った。これは袋小路、ニッチに入ったという意味にもとることができる。

そして欧州のフリージャズではなくフリーミュージックのシーンでテイラー再評価の動きがあり、確かに彼の実力は他を寄せ付けない程のものであった。そこで自己確信したテイラーは再度アンサンブル演奏を世に問うた。が、時既に遅しという観は否めなかった。いわば遅すぎた作曲家になっていたというか。

彼が、ツァラトゥストラの如く山に籠ってしまい、降りてきたとき、テイラーに助けを請わなければならないほど疲弊していた俗人達は一瞬驚き、恐れた。しかしもはやテイラーにも彼らを救う事は叶わなかった。あまりにも一人で修行していたため、彼自身が形式となっていた。その形式を音楽として鑑賞するならばそれは確かに「聴ける」。ただ、それはテイラーを聴く事であってジャズを聴く事ではない。

テイラーの演奏、それはまた高速化したフレーズの奔流となり、非分節的パッセージに近づいて行った。いや、彼はそこに向かうしか無いのだ。

この過程はテイラーだけのものではない。日本に孤高のギタリストが居た。ボサノヴァでプロデビューし、トリスターノの研究からクール派の演奏を成就し、タンゴを異形な演奏で示し、漸次投射/集団投射の方法論で日本独自のフリージャズを顕現させ、遂にはそのギターソロが轟々たるノイズの壁を屹立させるに至る。高柳昌行、その人である。

今回の論考では、60年代に始まる集団即興演奏において、電子的なノイズが如何に重要な役割を果たしたかについて述べる余裕は無い。サン・ラのシンセ・ソロ、英国のAMM、そしてローマで結成されたMEV、日本の「タジマハール旅行団」などは名前だけでも記しておこう。だが、高柳率いる「ニューディレクション」はそのどれとも違う位相であり、最後迄ジャズであったと言いうる何かを持っている。

AMMのオリジナル・メンバー、キース・ロウこそは、ギタリストを越えたギタリストと言える。彼についての言及も別稿を立てなければならないが、彼は高柳も、ベイリーも超越した存在かもしれない。ジミ・ヘンドリクスは、テリー・キャス(ブラス・ロックバンド「シカゴ」のメンバー)のフリー・フォーム・ギターを聴き、ウッドストックでの「星条旗よ、永遠なれ」のあのノイズ・ギターをプレイした(フィードバック奏法の栄誉はジェフ・ベックに預けよう)。それに刺激された高柳が、あのソロ・ノイズを作ったと言われる。しかしキース・ロウは彼らとは全く異なる理念、発想、方法で独自のノイズを確立していたのだ。

誰しも聴いていながら、聴いているという意識がない「音」。それはジョン・ケージの無響室における体験、理論的に無音である状態でも聞こえる音ではない、老子の謂う「大きすぎるが故に聞こえない、宇宙の始まりから終わり迄鳴り続ける『大音』」なのだ(作曲家、佐藤聡明は自らのアルバム「太陽讃歌」(1977、コジマ録音)のライナーでこれを引いている)。

ここにあらゆるジャンルに於ける「ノイズ」の意味を、即興演奏の基盤として捉えうるように思う。それは、ブルーズ、モード音楽、無調化、クラスター、ミニマリズム、電子化を越えて、それらすべての根底にあって、豊穣な上にも豊穣な「大音」である。

それは狭隘なジャンルとしての「ノイズ・ミュージック」ではなく、「信号/雑音=S/N」比の問題でもない。カオスを呑み込んだコスモス、「カオスモス」からの贈り物である。

しかし、単に「ノイズ」を即興演奏の基盤に据えるというのは極めて安易かつ困難である。それは単に制御放棄、制御困難という意味ではない。事実、ケージは「騒音=ノイズ」を組織化する方法をその作曲技法のごく初期から用いているではないか。

根本的な問題は、未分化なノイズを分節化することにある。つまり「荘子」に謂う「渾沌、七竅に死す」である。フリージャズのドラミングは、パルスそれ自体であり、決して分節化されたビートでもリズムでもないと喩えればいいだろうか。ミルフォードや、サニー・マレイのドラミングをサンプリングして、ループにしたら、それは全く意味がないだろう。

エアコンや冷蔵庫の音が一瞬切れたとき、我々はノイズがゼロレベルにあったことを悟る。列車に乗っているとき、走行音は変化がある時だけ意識する。我々は常に変化を感じ続けると同時に、それを無視も出来る。それが意識というものだ。我々は胎内にあるときからノイズを聴き始め、それ以後ずっとその中に生きている。豊穣の海、ノイズの意義を安易に示す事は出来ない。出来ないからこそ未来があると思うのだが。(未完)

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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