「デレク・ベイリーを論ず(1)」金野onnyk吉晃
text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野吉晃
1. フリー・ジャズとギター
ニュー・シング、ニュー・ジャズとも言われた60年代の新しい潮流。それを兎に角「フリー・ジャズ」と呼んでおこう。
ペーター・ブレッツマンは私にこう言った。
「私たちの始めた音楽は、フリー・ジャズに対する回答だった。それをFREIE MUSIK=フリー・ミュージックと言ったのだ」と。
独MPSレコードなどは早くから、こうした動きに目をつけて録音を開始したが、自主制作の動き、すなわち西独でFMP (=Free Music Production)、オランダでICP (=Instant Composers Pool)が発足した。
そして英国でもフリー・ジャズに呼応したミュージシャン達が少なからず活動していた。その一人がデレク・ベイリーである。
ベイリーは早くにFMP、ICPの録音に参加しているが、初期の多人数のアンサンブルの録音では全くと言っていいほど目立たない。特にFMPでは1970年以降全く録音がない。
しかしICPでの初期シリーズは彼の音楽に大きな転機を齎した。その事については後述する。
ジャズギターは、長い間、コンボ、ビッグバンドではリズム隊の一部だった。チャーリー・クリスチャンやジャンゴ・ラインハルトという例外を除けば、ギターが前面に出てくる事は、50年代後期の発展を待たなければならない。
そして、そこまでのジャズギターは、そのテクニックの発達を殆どブルーズに依っていたといってもよいだろう。
ジャズに限らず大衆音楽において、ギター演奏が発達したのは、電気的な増幅、つまりエレキギターの出現以降だった。
カントリー&ウェスタンでは電気増幅したスティール・ギターの出現が、完全にイメージを変えてしまった。
そして多くのジャズギタリストが、アンサンブルの中で、リズム隊的コードカッティングだけでなく、シングルノート、ダブルノート、アルアイレ、アポヤンド他、あらゆる技法を用いてソロでも妙技を披露するようになったのは周知の事実である。
そこで、いきなり疑問を提出する。
フリー・ジャズにおいてギターはどうなったのか。
ソニー・シャーロックという怪物が出現した。彼はそれまでのジャズギターの手法もサウンドも全くと言ってよい程無視した。ハウリングしながらひたすらかきむしり、弦が切れようがおかまい無し。まさに肉化したギター。
エレキギターによって、アンサンブルの中では比較的小さかったギターの音量は一気に増幅された。
しかもファズ、ディストーションの効果によってサスティン、つまり音の持続が効く。ギターのようなリュート族撥弦楽器の宿命は、弾いた瞬間のアタックから音量が下がって行くのだが、それさえも乗り越えた。ボディ付属のヴォリュームつまみをうまくコントロールすれば、アタックより後のサウンドが大きく出せる、バイオリン奏法も生まれた。
これはロックでは常識というか、ロックでの主力楽器がエレキギターであることにより、60年代では電気楽器に関するテクニックとテクノロジーは日進月歩していった。
ではアンプで増幅するだけがジャズギターの新時代であったか?
ひたすらかきむしることがフリー・ジャズのギターだったか?
勿論違う。
フリー・ジャズにおいて、ドラムがリズムキープの役目を破棄して、その抑制を外せば最大音量ではどの楽器も敵わない。相対的な問題ではあるが、一般にフリー・ジャズの演奏の音量が大きいと思われるのは、ドラムの役割が拡大された事で、他の楽器もマイクやアンプに依る音量拡大に進んだと考える事も出来る。これもロックにおいて同様だ。
それゆえ、ロックにある種の規範、つまりアンプリファイされたアンサンブルのあり方をみたギタリスト達が輩出してくる。
ジョン・マクラフリン、ラリー・コリエル、テリエ・ルピダル、あるいはジョセフ・ドジャンといった白人達である。
ブラック・ミュージックの視野からは、リズム&ブルーズの世界で、エレキギターは、ベースギターと供に新たな展開を見るが、ジャズにおいては意外に保守的なままで、グラント・グリーンの活躍を挙げるに留めておく。
前衛に確信的な黒人ギタリストは、マイケル・グレゴリー・ジャクソンの出現まで待つしか無かったのではないか。
2. ギタリスト、デレク・ベイリーの探求
さて、デレク・ベイリーはジャズギターにいかなる変革を齎したか。
1963年、ドラマー、トニー・オクスリー、ベーシスト、ギャヴィン・ブライアーズと供に、ベイリーが結成したトリオは「ジョセフ・ホルブルック」という名前だった。
この名は、19世紀末から20世紀初頭に生きた、英国の「忘れられた作曲家」に由来する。しかしトリオが彼の曲を演奏したという記録は無い。この名を提案したのは、ホルブルックを敬愛したブライアーズであろう。
後年、ベイリーがよく知られるようになってから、わずか十分の録音がCDで発表されたり、元のメンバー3人が32年ぶりに集まって演奏したことは知られている。60年代のリー・コニッツがこのトリオと一度共演したという記録はあるが、録音はお蔵入りのままだ。
残された65年のジョセフ・ホルブルックの演奏は、コルトレーンの「マイルス・モード」をモチーフに、「自由に発展させよう」と試みている。ジャズ的イディオムを解体して行こうという意気込みはあるのだが、しかしどこにも行き着かない。というより行き詰まりである。イディオムの引力から逃れられないのだ。当時の聴衆の証言からは、毎週のライブは刺激的だったというのだが、
メンバー三者がそれぞれ何をこのトリオに求めていたかについては既に幾つかのインタビューがベン・ワトソンの評伝にある。いや、格別に成果が無くてもよいのだ。それも一つの成果なのかもしれない。このやり方では限界だと感じる事も重要だ。
いずれにせよこのトリオは自然解消し、32年を経て再度集まった。しかしそれは別のヴィジョンに基づいてというしかない。ヴィジョンを幻影というならその通りだろう。
三者はそれぞれに方法を模索する。ブライアーズはジョン・ケージに師事するために渡米し、オクスリーはパーカッションの電子化を探る。
ベイリーは66年、ジョン・スティーヴンスの「スポンテニアス・ミュージック・アンサンブル=SME」に加入する。ギターサウンドは明らかに変化し、各楽器との関係も対等になっている。当時の言葉でいうならば「インタープレイ」だろうか。ここで彼は手応えを得た。
そして積極的に西ドイツやオランダのミュージシャンとの共演を重ねる事になる。
ドルフィー最後の共演者達でもある、ミシャ・メンゲルベルクとハン・ベニンクは、オランダで独自の理念から即興演奏を開始し、それは音楽学校で毎週定期的に行われていた。
ミシャのピアノは決してセシル・テイラー流のクラスターではなく、むしろモンクを思わせる点描的かつ間合いとユーモアを交えた演奏だった。
一方ハンは様々な民族楽器や打楽器に留まらない、一人でどこまで騒音を出せるかというような(しかし一切電気的増幅はないのだ)アグレッシブなものだった。
この対照的な2人が繰りかえし共演して行くのは、まさに弁証法的な即興の面白さである。
そこにベイリーがやってきた。
69年7月30日、ベイリーとハンは最初のデュオ・アルバムを、アムステルダムで録音した。もう半世紀前の話だ。
ハンのあっけらかんとした騒音、A面では共演者さえ圧倒するような遠慮会釈のないパーカッションを相手に、ベイリーは臆しているという印象がある。
しかしB面の長い即興では、いよいよヴォリュームペダルが活躍し始める。この装置の使用の意味は大きい。踏み込めばそのままフィードバックが起きて、管楽器奏者の嘶くようなハイトーンやヌードリングのごとき表現が可能になるのだ(後にインカスでの二枚目のソロ『ロット74』では、ベイリーはギターのサウンド・ホールに声を吹き込みつつ、ペダルを目一杯踏み込んでハウリングだけの演奏までしている)。
ここでは、「ジョセフ・ホルブルック」での閉塞感は微塵も無い。
何故なら「曲」という枠がないからだ。興と響の赴くまま、2人の演奏は継続する。
この自由さは、後に2人が再びロンドンで行ったデュオライブの録音、インカス9番に引き継がれる。このアルバムはジャケットも秀逸だ。イラストを描いているマル・ディーンも「コーリアン・ウォー」という即興演奏のアンサンブルをやっていた。
(「カンパニー・シリーズ」での共演についてはまた改めて書こう)
ベイリーは、66年SMEの『カリョービン』でようやくディストーションとヴォリュームペダルの組み合わせによる「新しいギターサウンド」に踏み出してはいた。
が、ハンのように自由闊達な即興的共演者が居なかったといえるかもしれない。当時のハンの凄い所は、全体をまとめようという志向がないところかもしれない。スティーヴンスもオクスリーもあまりにも、未だドラマーであったのだ。
またベイリーのようなギタリストが、当時のハンの周囲にはいなかった。もはやハンも「ジャズギタリスト」を必要とはしていなかったのだ。
ベイリーは明らかにこの69年のICPでのデュオを一つの契機にしている。
演奏だけではなく、ICPのようにミュージシャン自身が運営するインカス・レコードを運営する事も。
SMEで出会ったエヴァン・パーカー、そして旧知のトニー・オクスリーと「インカス」を創設し、その最初のレコードでもハン・ベニンクを招いて、エヴァンとのトリオで録音している。
経済的には逼迫していた。しかし彼は積極的に自らのレーベルで自らの演奏をリリースし続ける。彼は今後一切、即興演奏だけをやって自活しようと決意した。
1970年、新しい覚悟のときである。
3. スタイルの確立
ベイリーの初めてのソロアルバムは71年発表の、インカスの2番だ。
このA面で、その後のベイリーのスタイルは確立した。ディストーションとヴォリュームペダルの組み合わせによる「新しいギターサウンド」は自信を持って表明されている。
ギターから紡ぎだされる微細なパッセージ、その一つ一つの音のパラメータを全て、不連続に変化させようという意志が感じられる。ここで「音色旋律」という言葉をどうしても持ち出したいが、それは後に譲ろう。
と同時に、楽曲演奏の、この時点での結論とも言える録音がのこされた。あるいは作曲された作品の演奏への別離とも言えるかもしれない。
B面を占める3曲は彼の作曲ではない。ミシャ・メンゲルベルク、ヴィレム・ブロイカーというICP系の2人の作品と、旧友ギャビン・ブライアーズの1曲という組み合わせだが、おそらくベイリーの長いキャリアの中で最も異色な演奏が並んでいる。ここではそれについて敢えて述べない。述べる必要が無い。
ベイリー自身は作曲という問題にどう向き合っていたのか。
「曲」とは書き留められ、それを元にして作曲者とは違った意識を持つ演奏者が展開する演奏を可能にするものだ。
ベイリーの作曲意識、それは彼の即興概念と非常に強く関係している。ただし、よくある誤解を排除するために書いておけば、それは対立する物でもないし、補完的でもない。あるいは即興は即時的作曲だというのも偏狭な考えだ。
おそらくは、ベイリーを探求する者なら誰もが認めるであろうが、2002年に「Tzadik:ツァディック」からリリースされた『ピーシズ・フォー・ギター』は、最も重要なアルバムと言えよう。この録音は1966〜67年の間に、彼が個人的にしたものである。
この時期は、ベイリーの述懐では最もハードな「演奏稼業」の時期であった。毎晩のクラブ・ギグで歌の伴奏やらスタンダードを演奏するため、自分で運転して異なる町に何百キロも移動し、またロンドンに戻ってくるという状況、其の中で貴重な録音が、彼自身のテープレコーダーによって残されていた。
このテープレコーダーの存在は大きい。その理由は後述するが、ベイリーが後に自著『即興』で、ロックギタリスト、スティーヴ・ハウにインタビューした際、ハウが自分のソロを録音して何度も聞き直したという話を取り上げている事はここに再度とりあげておこう。録音と聞き直しという問題は重要である。
また、ベイリーは後に『タップス』という作品をリリースしているが、最初はオープンリールのコピーとして発売され(売れたのか?)、後にまとめてCD化された。これを聴くたびに、独自の方法論に達した喜びと、簡素すぎる程のリリース方法も含めての初々しさを感じるのである。
『ピーシズ・フォー・ギター』というソロが発表されなければ、ベイリーの「即興イディオム」の源は確認されなかったかもしれない。しかも彼自身がそれをライナーに書き残した。
私が70年代中期の、最も脂ののった時期のベイリー(と思うのだが)の演奏を聴いて直感としてあったものが、ようやく、霧が晴れるように明確になった。そう思ったのは、このアルバムを聴いた瞬間だった。
そして彼自身の言及により、それが作曲家アントン・ヴェーベルンの音楽に発しているということに強く納得できた。
ベイリーの演奏に慣れ親しんだ人ならば、初めて「作品27」以降のヴェーベルンの音楽を聴いてもなんら違和感を感じないだろう。あるいはヴェーベルンの曲とベイリーの演奏を同時に聴く事だって興味深くさえあれ、忌避はしないだろう。
レオ・ブローエルの現代のギター独奏曲あたりよりも、ヴェーベルンのほうが余程ベイリーに近親性があるのだ。
4. アントン・ヴェーベルンの発見
かつて私は、セシル・テイラーがいきなりジャズに無調とクラスターを導入したと書いた。ならば、ベイリーはジャズギターに、新ヴィーン楽派流12音主義を導入したと言えるだろうか。
例えば何故、シェーンベルクではなくヴェーベルンなのか。それはシェーンベルクがまだロマン派の影響をその根底に持ち続けているからであろう。ヴェーベルンにそれが無いとは言えないにせよ希薄であることは確かだ。
またヴェーベルンの到達した「微小形式=ミニアチュール様式」もベイリーに示唆を与えているだろう。ヴェーベルンの曲は、わずか数小節に完結するまでに至った。まるでジャコメッティの彫刻のように削ぎ落とされたのか。本質を抽出するという見方からすればそう言えなくもないだろう。ある意味ヴェーベルンは12音主義の陥穽に、同時にまた論理的帰結として「微小形式=ミニアチュール様式」に達した。しかしそこから出発して、戯曲の、バレエの舞台作品にまで戻ってくる意志があった(未完成に終わったが)。
ベイリーは、「曲」がほんの数小節まで凝縮されてよいのなら、即興演奏もまたそうあっていい筈だと思ったのではないか。
確かにフリー・ジャズの時代、アドリブは延々と、その意志の強さを示すように、強烈な音色と音量で演奏され、それが確たる表現力のように思われた。しかしベイリーの最初のソロ・アルバムにおける即興の各トッラクはそうした演奏に比較して実に短い。
主張としてなら延々と叫び続けることもしようが、即興=曲という意志においては、長くある必要はないのだ。たった一音出すだけでも、あるいは楽器をもって演奏しない事さえ可能なのだ。
これらのソロに聴く、全ての音のパラメータの逐次変化、これはシェーンベルクの「音色旋律」を具現化していると言って差し支えないだろう。確かに「どの曲も印象として大差はないし、曲自体が単調だ」という批判を避けるために、アンサンブルそれ自体が巨視的な意味で音色の変化にとんだ響きになるべきであった。
集団即興の中で、音量も音色も変化することなくギターが関わるのは極めて困難だ。まず音量は増幅によって乗り越えられ、その音色変化はギター側のピックアップマイクの選択のみならず、ギター〜アンプ間のエフェクターの関与で変容させる事ができる。
まさにその意味ではエレキギターは、大音量の中で音色を変化させることにうってつけの楽器だった。
5. 12音技法の音楽
1951年、ベイリーは音楽家、ギタリストとして生きて行こうと決意した。
そしてその後に、全くそれまでのジャズ・イディオムに依存しない即興演奏を追求しようと考えた。
この間にこそベイリーが、そのための踏み台にした重要な「作曲」がある。
それは同時期のジャズメンや、大衆音楽の作曲家達の「仕事」や「商品」や「歌」であった「曲」概念とは全く違う性質のものだった。
ベイリーの依拠したもの、それがシェーンベルクの弟子、新ウィーン楽派の一人アントン・ヴェーベルンの楽曲だった。
ここで少しだけ12音主義についての視点を、少し長くなるが引用させてほしい。
<「十二音技法」は自由な無調を組織立てる仕組みである。そしてそのコンセプトの中枢にあるのは、十二の音列(セリー)だ。音列の操作により、組織立ったかたちで作品が組み立てられていくわけである。
調性の枠組みは、オクターヴのなかの十二の半音、それぞれのなかで、中心となる音、その音と強い磁力、引力で結びつけられている音、そして関係の薄い音がそれぞれ差別化されたヒエラルキーの体型により成り立っていると考えられる。ヨーロッパの音楽の何世紀にもわたる歴史の中で調性の枠組みが拡大していったということは、言い換えるなら、この「引力」「重力」が次第に弱まっていったということである。すなわち、ヒエラルキーの秩序が弱まり、「中心の音」、およびそれとの距離を測ることによって位置付けがなされてきたオクターヴのなかの残る十一の音の関係性が水平的になったということである。>
(「ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム」岡部真一郎、春秋社、2004年、p148)
これは12音主義の一般的な解釈として疑問のないところだ。
同書の同じ章から続けて引用するが、それによって私がベイリーの演奏〜それが自作演奏であれ、即興であれ〜に感じるところはお分かり頂けると思う。
<無調の音楽は、言わば、無重力状態にあるということになる。主調に帰っていこうとする力、あるいは、そこから離れていくことによって生まれる緊張感によって、調性に基づく音楽が成り立っているとするなら、調性の崩壊によって、ある高さのところで持っているものから手を離せば、まっすぐ地面に向かって落ちていく、という落下の原理を支える重力がなくなって、音楽は方向性を失ったのである
ここに、無調の音楽、そして、その代名詞として、一般にはほとんど区別もつけずに用いられている「十二音音楽」(それは、巷に言うところの「現代音楽」の同義語である)の困難が始まる。>
(同書、p149〜150)
問題はこの先だ。
<「いつ始まっていつ終わったのかわからない」のも「感情がこもっていない」とか「無機的」だとか感じられるのも、「理解できない」と拒絶反応が起きるのも、この「重力の喪失」に由来するところと推察される。緊張が解決して安定へ、という枠組みのなかで得られるカタルシスは見つからず、解決されないまま続く緊張に、聴き手は「理解」の端緒を見いだせないのだ。>
(同書、p150)
「いつ始まっていつ終わったのかわからない」という批判に応える為、シェーンベルクもヴェーベルンも歌曲は多く作り、シェーンベルクはオペラまで書いた。また渡米後は調性のある音楽も書いている。
ヴェーベルンは、「その円を踏むな!」と言って殺されたアルキメデスのように、米兵の誤射によって、その生を途絶された。
12音主義の音楽について理解、共感を持てない人は、それが何を表現しているのか分からないという。これはフリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼーション、ノイズといわれる音楽についての共感を得られない感想とも共通である。
引用に即していえば、そういう感想を持つ人達は、重力の不在を感じ、それは言いようの無い不安を感じたのだ。言い方を変えれば、音楽を聴くことで通常なら、悲喜こもごもの感情的な昇華を得られないことが納得できないのである。
あるいはまた、こういう忌避もあるだろうか。
「調性のある中でいかに興に即して、演奏が、調の中と、調の間を自在に行き来するか、聴覚に調性を感じ取らせ、またそれを演奏者、聴衆が共有しつつ、想定内の安堵と想定外の刺激を楽しむ、そういう事態の否定としての12音主義、無調、無拍」。
12音音楽の、あるいはフリー・インプロヴィゼーションの齎す不安、それは蒼穹を見上げたとき、あたかもその天空に向かって真っ逆さまに落ちていく自分を感じるかのような不安であろう。
しかし、ある人はこう言ったのだ。
「12音主義の音楽は、地上の何物とも関係しないことによって純粋に音楽の芸術である。それは例えば天空の星座が人間の意図や運命と関係しないままに配置されていることに等しい。しかしそこには見えない厳密な力学が働いている。我々が天を見上げる時、星々の配置に畏怖と美を同時に感じるように、12音主義の音楽は、そこに厳然とある」と。
そして、どうしても「天の配剤」やら星の巡りに意味を見いだそうとする古代人が星座や占星術を見い出したり、オクターヴの発見を天界の音楽と結びつけた神秘主義が、この世界を調和ある組織として理解しようと努力してきた。
倍音の発見からドミナント、そして音律構造の確立までは紆余曲折はあれど、音楽史と一致し、旋法音楽から調性音楽への発達までを辿る。
そのこと自体に何ら罪は無い。しかしもう調性による表現は限界を見たのだ。 おそらくワグナーによって。
調性からの脱出が印象派の音楽家達によって模索された。無調や復調が生まれるのは時間の問題だった。ドビュッシー、ラヴェル、メシアン、スクリャービン、ムソルグスキー、アイヴス、ストラヴィンスキー、ミョー、オネゲル...知られた名前を並べただけでも十分だ。
世界は混迷に向かった。重工業が発達し、恐慌が襲い、ロシア革命が起こり、世界大戦が始まった。
19世紀前半まで、世界はまだ宗教によって精神的支配がなされていたと言って過言ではない。しかし、それは産業革命と資本主義の発達が、大衆社会の心性を徐々に変容させるまでの話である。
ユークリッド幾何学や、ニュートン力学の世界でも十分に不調和であった世界に、相対性理論と量子力学が現れると大きな悲劇を齎してしまったではないか。そしていま、IT、AI、ネットというテクノロジーが、また環境変動と人口爆発が世界を変える。
シェーンベルクからジョン・ケージまでの、あるいは、トーン・クラスター、スペクトル楽派までの西欧音楽は、二つの大戦と冷戦の始まりまでの社会、不確定性の世界を反映していると言いうるだろうか。
もしそれを肯定するならば、それ以降のミュージック・コンクレ、電子音楽、不確定性と偶然性の音楽、コンピュータ音楽、そしてフリー・ジャズ、そしてフリー・ミュージック、さらにノイズは、其の意味でこそ60年代以降の音楽なのだ。
6. 作曲と演奏
12音技法の音楽が「いつ始まっていつ終わったのかわからない」ように、フリー・ミュージックにおいても「始まりも終わりも無い」。いや「始まり」にも「終わり」にも意味が無い。
いや、それをさらに徹底すればノイズになるだろう。
そんな音楽を「作曲」できるのだろうか。
それが可能だとして、なぜそんな音楽の演奏を続けるのか?
終わるべきこととしての音楽を。それとも演奏は続くのだろうか。
音楽に付随する、いやテキストに付随する音楽ならば、テキストの終わりが演奏の終わりになる。即興詩人は、興に即して詩を紡ぎながら演奏を続ける。あるいは不眠症の王が眠りにつくまで、食事が終わるまで、祭儀が終わるまで、皆が相方をさがして踊り疲れるまで、演奏は続く。
延々たる即興は、ブルーズ循環で継続された。その呪縛を解くオルタナティヴなシステムが模索された。それは旋法音楽への回帰であったり、無調であったりした。
西欧音楽の滋養を吸収して限りなく成長するジャズ、そしてそこから脱しようとする即興演奏家、デレク・ベイリーはヴェーベルンを発見した。
彼はヴェーベルンのレコードを自分のテープレコーダーに延々録音して、毎日聴いた。隣室の住民から苦情が来ようとかけ続けた。
ベイリーはヴェーベルンを聴きこみ、そのフレーズを書き留めた。溜め込んだ多数のフレーズは、即興演奏の技法のプールとなった。
また随意に組み替え、合成したそれは「曲」となった。その結果は「曲」と「フレーズの集積」の同質化である。だからそれを敢えて人前で「曲として演奏」する必要も無かったのだ。
さらに彼はこうも言う。「実際の演奏では、自分が知っている限りの記譜法では書けないようなことをしている。例えばネックの後ろで親指が何をしているか」など。
ベイリーの「曲」は、他のジャズ演奏家のように、それを基盤に即興するという質のものではなく、繰り返すが、曲と即興が同質なのである。
それはかつての大作曲家達が「即興的に」思い浮かんだ旋律や和声を形式に閉じ込めて行くことで「作品」とする過程とも違う。
ベイリーのそれは、より自由に即興をするための「場」ともいえよう。
土方巽の創始した暗黒舞踏が、決して情念的な即興に依って上演されるのではなく、彼の研究した欧州の前衛ダンス「ノイエタンツ」がそうであるように、舞踏における様々の型、技の連続的、総合的表現であって、ベイリーの演奏も、その最盛期においては実に複雑に組み合わされた、彼の再発見したフレージングの連続で構成されていた。
その原型が『ピーシズ・フォー・ギター』に全てあると言っても過言ではないだろう。
ベイリーはここで遂に自分を発見した。
彼の課題は、いかにしてそこから抜け出るかであったが、世の中にはいかにしてベイリーになるかを目指すギタリストが溢れた。誰を思い出すだろうか。ユージン・チャドバーンか、ヘンリー・カイザーか、はたまた飯島晃だろうか。少なくともキース・ロウではなさそうだ。
そして、果たしてベイリーは自分の「曲=即興」から脱する事が出来たのだろうか。
(to be continued…)