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GUEST COLUMNR.I.P. 齋藤徹No. 255

齋藤徹ちゃんへ  今井和雄

齋藤徹ちゃんへ

今度ゆっくり話そうときみからメールをもらっていたがまだ話せていなかった。数日前には「また入院しました」とメールが来たので、今週は忙しいので来週行くからと入院した病院を訊いた。その週末だった。18日土曜日の午後2時前に井野信義さんから連絡が入った。「齋藤のこと知ってるか。」「いえ、知りません。」「11時36分に逝っちゃったよ。」「えっ、本当ですか、信じられない。」こんなに早いとは思っていなかった。翌日、きみに会いに行った。静かに寝ているきみは眼を覚ましそうだった。

きみと初めて会ったのはいつだろう。何処かにきみも書いていたが北里病院の高柳昌行さんの病室だった。お見舞いに行った時に偶然会ったんだ。きみもぼくも褒められて紹介された。そして、お前らはそのうち一緒に演奏するだろうと言われたね。それからしばらく会うことはなかった。次に会ったのは数年後の新宿で、レコード屋のレジの列だったと思う。数人先に大きな人が並んでいるなと思ったらきみだった。ぼくのレジが終わるのを待っていたきみは時間ありますかと声を掛けてきた。そして、まだ明るかったが一緒にビールを飲んだ。その時にきみから一緒に演奏しませんかと誘われたんだね。当時は高柳ときみの関係が良くなかったと聞いていたので、どうするか考えたが受けることにした。すると、今月の何日は空いてますかと聞いてきた。随分と早い予定だったな。この偶然の再開がなかったらきみとぼくの演奏は始まらなかったかもしれないから不思議だ。
この初めての共演はすごかった。ぼくがある音の形を作るとすぐにきみは同じ音形を作る。それもスピードを競うように速く。こんなコールアンドレスポンスのような反応を繰り返すのには驚いた。演奏の後にきみから「ジョジョと全然違うね」と言われた。当たり前だ。

次に演奏したのはいつだろう。新宿ピットインできみの誕生日ライブだったかな。考えると誕生日ライブなんてすごい企画だ。ぼくが演奏したのはきみとミッシェル・ドネダとのトリオ。この時にドネダと初めて会った。良いプレイヤーだった。その翌年の2003年、フランスのナンシーで開催された「ミュージック・アクション」というフェスティバルに誘われた。メンバーはきみとミッシェル・ドネダ、レ・クアン・ニン、沢井一恵さんとぼく。きみがぼくをドネダに推薦してくれたので参加できたんだ。このグループでカナダのビクトリアビルのフェスティバルに出演してからフランスをツアーして最後に「ミュージック・アクション」に出演した。このグループの名前は「影の時 une chance pour O’mble」。みんな素晴らしい演奏家で、本当に楽しいツアーだった。モンペリエだったか、ドネダが海に行こうというので遠かったが歩いて海岸に行った。するとドネダが泳ごうと裸になって海に入っていった。ドネダは海水パンツを履いていたのだ。ずるいなー、と言いながらぼくは下着のパンツで海に入った。しばらくするとニンも下着になって入ってきた。みんな入ったのできみもパンツになって入ってきたね。するとドネダとニンが「オーサイト~」「オーサイト~」と叫ぶので笑いながらみんなで叫んだ「オーサイト~」。沢井さんは浜辺でニコニコ見ていた。

この頃のぼくは中野富士見町のplanBでソロの活動を始めていた。2004年だと思うがplanBにソロのスケジュールを頼んだ際に齋藤徹さんにもplanBに出演して貰いたいのですがと言われたのでデュオで出演することにした。翌年の2005年にはお互いが50歳になるので合わせて100歳だねという話になって、その後も100歳になるまで毎月のシリーズでデュオを続けることにした。タイトルは「100年の軌道」。きみとぼくの生活は違う。そんな二人の軌道が重なることもある。だから一緒に音を出す。そんな思いでぼくが名付けた。このデュオは100歳を過ぎても継続したので「Orbit(軌道)」とした。デュオを始めた頃は2セットで演奏していたが、休憩を挟むとテンションが下がると思えたので1セットだけの演奏にした。その際に演奏時間は1時間とした。この時間はどのように計るのかと聞かれ、ぼくはいつも時計を見ていると話すときみも時計を見るようになった。
このデュオを始めた頃の2004年にきみはバール・フィリップスと同じコントラバスGand&Bernadel(通称ガンベル)を手に入れた。100年も眠っていてほぼ新品に近いと喜んでいた。しかし、音が若いということでバールのガンベルと交換するという。そして、交換の為に来日したバールとデュオでツアーをしていた。このツアーの中で深谷エッグファームの公演に間に合わないので東北新幹線の小山駅に車で迎えに来て欲しいと連絡が来た。ぼくは迎えに行ってきみとバールを乗せてエッグファームに行ったね。
2005年には来日していたバールトリオのバール・フィリップス、ウルス・ライムグルーバー、ジャック・デミエールとローレン・ニュートンを一人づつきみとぼくのデュオに招いて4つのトリオを前半に後半は全員で演奏というコンサートをきみは開催した。また、2006年にきみはミッシェル・ドネダを招いてツアーをした。この時はplanBでぼくも一緒にトリオで演奏をした。2007年には4月にフレデリック・ブロンディ、5月に再度ミッシェル・ドネダのツアーを企画した。また、2006年ぐらいからダンサーのジャン・ローレン・サスポータスさんが来日した折に共演したきみは、その後毎年のように日本やドイツで活動を共にしていた。サスポータスさんは今年の5月にも来日していたのでお別れができて良かった。

2008年にはバンドネオンのオリヴィエ・マヌーリ(兄は作曲家のフィリップ・マヌーリ)を招いて、きみがやらないことにしていたアストル・ピアソラの作品を再び演奏した。この時は、きみから現代曲もバリバリ演奏できてピアソラのタンゴも弾けるピアニストは知らないかと何度か相談された。まあ、ピアソラグループ最後のピアニストがヘラルド・ガンディーニだったということもあるだろう。しかし、そんなピアニストは知らないと答えていた。しばらくするときみが言ってきたのはピアソラ弾きませんか、いやですか?だった。人手不足ですね。ぼくはピアソラいやですと言えなくて参加することにした。編成はバンドネオン、ギター、ベースのトリオ。きみのプランはあまり演奏されない「プレパレンセ」や「ロケベンドレ」などのピアソラがパリ留学時代に書いた作品を中心にした選曲だった。まずは二人できみの部屋で練習を重ね、オリヴィエが来てからも何回かリハーサルをした。そして、ぼくは静岡とplanBが本番になった。この演奏はメンバー3人の個性が出たピアソラになったと思う。ツアーの後半はぼくが抜けてダンサーのジャン・ローレン・サスポータスさんに変わった。この公演の後にplanBのマネージャーが変わるなどして、しばらくplanBの「Orbit」は休止になった。

2009年1月になるときみは東中野ポレポレ坐で「徹の部屋」というソロのシリーズを隔月で始めた。そして、9月にはきみが企画したオンバク ヒタムを公演。そして、この年の夏からplanBで「Orbit」を毎月ではないが再開した。これら以外にもきみは沢山の活動をしていた。毎年多くの音楽家やダンサーと共演していたし、小林裕児さんのライブペインティングと共演したり、さらに国内だけでなく海外へのツアーにも出ていた。そして、2011年3月11日東日本大震災が起きた。翌日の3月12日がplanBで「Orbit」だった。我々は音を出すことしかできないので集客がなくても音を出すことにした。
この頃からきみは今まできみがあまりやってこなかった歌を使いたいと言っていた。以前からきみは歌が好きだった。シコ・ブアルキを尊敬し、ミルトン・ナシメント、カエターノ・ヴェローゾ、メルセデス・ソーサも大好きだったね。そして、さとうじゅんこ(うた)、喜多直毅(ヴァイオリン)と「うたをさがして」というグループを結成した。その後もこのグループを発展させた形で多くのダンサーや歌手と共演する企画を展開していた。さらに言葉を大切にしたいきみは詩人の朗読などとの共演も多くなったようだ。また、若いベーシストを中心にしたベースアンサンブルを結成。きみは若いベーシストにベースについての考えから技術までを伝えようとしたのだろう。
きみは活発な活動をしながらも、2011年にはミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニンとの日本ツアー。この時は沢井さんとぼくが参加して「影の時」としての演奏もした。2012年にはバール・フィリップスの最後となる日本ツアー。2013年には日韓のミュージシャン、ダンサーが参加したきみの企画「ユーラシアン・エコーズ第2章」を開催した。きみは以前からテーマを決めて活動することが多かった。そのテーマに合わせてメンバーを集めて演奏する。そして活動の成果を記録してCDやDVDにしていた。

2014年だったか、きみがすごく痩せたという話をライブハウスで耳にした。その頃はきみと会う機会がなかったので知らなかったのだ。心配していたところ連絡があった。痩せたので医者に行ったら糖尿病と診断されてインスリンも始めた。でも食事と運動で治ったのでインスリンも使わなくなって、医者も驚いていたよと自慢げに話していた。そして、またデュオをやろうということになって水道橋Ftarriで「Orbit」の演奏をした。2015年の春に会った時は体がつらそうだった。翌月にドイツへ行くというのでその前に医者へ行くことを勧めたのだが、そのまま出発したようだった。すると、きみがドイツで倒れて入院したという話を聞いて驚いた。しかし、無事に帰れたので良かった。今度はガンが見つかったという連絡が来た。ここからきみの病気との闘いが始まった。最初に連絡が来た時には、やれることは結構やったよね、これ以上売れる事もないだろうし、まあこんなものかなと弱気な事を言っていた。しかし、1回目の手術の後に病院を移り、抗がん剤の副作用と闘いながら演奏のスケジュールを入れていった。スケジュールと体調を合わせるのは大変だと思うがきみは頑張っていた。ぼくとのデュオも半年に1回ぐらい、入院の前や後にきみの自宅から近い稲毛のキャンディで続けた。会場に入ると生きてるぞーと言って手を出してくるきみの姿を今でも思い出す。2017年には再びミシェル・ドネダ+レ・クアン・ニンとの日本ツアーを企画。しかし、このツアーには手術の時期と重なったのですべてには参加できなかった。ツアー中の深谷エッグファームで沢井さんとぼくが参加する「影の時」の演奏があった。きみは2度目の手術後にもかかわらず、何とか退院して演奏に参加した。ぼくは少しだけだと思ったが、結局セカンドセットは全て演奏した。しかし、終了後に体調を崩したようで帰りの車で横になっていたのが心配だった。その後に電話で話すと、辛かったけど1週間ぐらいで体調は戻ったと話していた。そして、やりたい事がいっぱい出てきて大変だと言うようになった。きみのアーカイブを改めて見ると、いかにもきみらしい企画がたくさん並んでいる。やりたいことを形にしていったきみの記録だ。そして、きみを中心にした若い人達の集まりもあるようで、きみが目指した人と人との架け橋になるということを実践していたきみらしい仕事だね。

2019年になって和雄さんとはあと2~3回はやりたいねと言い出した。何を言ってるのもっとやろうよとスケジュールを入れることにした。場所は近くのキャンディでいいかしらと聞くときみはplanBでやりたいと言ってきたので、急いでplanBのスケジュールに入れてもらった。planBで会ったきみは懐かしいと歓んでいた。planBはきみが長年住んでいた幡ヶ谷から歩いて来れるところだからね。そしてきみはplanBでやっていた「Orbit」は遅れてきた青春時代のようだったと言っていた。ぼくは「Orbit」を続けようと思っていたので懐かしむことはなかった。この日のきみはピッチカートもしっかり鳴っていたし、いい音で演奏していたので安心していた。ただ、帰りに次回の予定を相談したが、今は体力に自信がないから夏過ぎまで分からないと言っていた。今思うと、体力的に無理をしていたのだろうと思う。だがこの後もきみは沢山のスケジュールを入れて演奏していた。だから身体への負担も大きかったのだろう。不覚にもぼくはまだまだ時間はあると思っていた。しかし、残念なことに126歳の「Orbit」から1ヶ月後にきみは帰らぬ人になってしまった。きみがいないのは寂しい。でも、ぼくの耳にはまだきみの音が残っているし、連絡すれば一緒に演奏できるんじゃないかと思っているよ。
きみの演奏は多くの人に様々な力を伝えたようだ。そして、きみのベースアンサンブルのメンバーがきみのメロディーを力いっぱいに弾いていく姿を見ると、きみのスタイルが伝わっていることが分かる。そういう演奏をするベーシストはきみ以外はいなかったからね。しかし、最後は急ぎ過ぎたかな、お疲れ様でした徹ちゃん。
齋藤徹の音源は沢山あります。travessiaのサイトからでも入手できると思いますので、多くの方に齋藤徹の音楽を聴いて頂きたいと思います。

2019.07.04 今井和雄

 


今井和雄  Kazuo Imai
1970年代から活動を始め、1976年イースト・バイオニック・シンフォニアの録音に参加。1991年サウンドインプロヴィゼーションシリーズ「ソロワークス」を開始。1997年より集団即興の為のプロジェクト「マージナルコンソート」を企画。2005年フリージャズグループ「今井和雄トリオ」を結成。その他、国内外で即興を中心に活動している。

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