ジェームス・エムトゥーメの思い出
text by Oscar Deric Brown オスカー・デリック・ブラウン
エムトゥーメに初めて会ったのは1969年のLAだった。ドーシー高校の最終年。自分にとってミュージシャンとしてプロのキャリアをスタートさせる特別な年でもあった。アメリカはいまだアパルトヘイト(人種差別)の真っ只中にあり、ブラック・パンサー・パーティとUSオーガニゼーションとの戦いは激化していた。
戦いのリーダーのひとりがUSオーガニゼーションのリーダーでブラック・ナショナリストのロン・カレンガだった。UCLAのキャンパスで開かれた大会でカレンがは、黒人社会のなかで自らビジネスを自営し、立ち上げる必要性をぶち上げた。この時エムトゥーメは組織の要にいて、ロン・カレンガの事実上の右腕的存在だった。出会った時は、エムトゥーメがミュージシャンで、父親が世に知られたサックス奏者ジミー・ヒースであることはまったく知らなかった。彼の実態を知ったのは2年後にマイルス・デイヴィスのグループに参加した時だった。
それから1年後の1970年、エムトゥーメと初めて手合わせする機会を得た。クラブのアフター・アワーのジャム・セッションで、ベースのラリー・ゲイルが参加していた。
この時は、もうひとりコジョ(Kojo)という友人の打楽器奏者が参加していたが、メンバーはピアノの自分と、ラリー・ゲイル (b)、ビリー・ヒギンス (ds)、エイゾー・ローレンスとルドルフ・ポーターのテナーサックスだった。その夜は他にフリッツ・ワイズ、ンドゥング・レオン・チャンクラーのドラマーもいた。エムトゥーメがコンガで参加したのは最後のセットだった。その次の共演は、ホレス・タプスコット (p)と。さらには、1971年の「ワッツ・サマー・フェスティバル」で、アーサー・ブライス (as)をフィーチャーしたワッツ・サマー・フェスティバルでのザ・ワッツ・ポエッツだった。同じ年のサンタ・モニカのアズ・イズ・クラブでは、ドラムのコーネル・ファウラーとベースのロバート・ミランダが一緒だった。
http://www.SoundCloud.com/user-2044330,
https://schoolofmusic.ucla.edu/people/Roberto-Miranda
このギグで最初に気付いたことは、コンガ演奏のアプローチ法を変えてきたことだった。
伝統的な奏法ではなく、独自のユニークなものだった。誤解しないでいただきたいのは、もちろん伝統的な奏法でも演奏できるのだが、独自の双方も開発していたのだ。ドラムにンドゥングに参加したた1971年のマイルス・デイヴィス・バンドでのドン・エイリアスとを比較してみると良いだろう。
https://youtu.be/v0IGV0SG4uQ
エムトゥーメとンドゥングがマイルスと最初にツアーをした時の演奏だが、マイルスが“ブロークン・リズム”に乗って演奏しているのだ。マイルスやキース、ゲイリー・バーツが発するメッセージに応えようと絶えず空間で模索しているのが分かる。動作と沈黙の中での演奏。
1972年には、ヴァーモント文化センターでファラオ・サンダースのバンドで演奏した。編成は、フリッツ・ワイズ(ds) https://vimeo.com/54678337、スタンリー・クラーク(b)、ドン・チェリー(pocket tp)、コジョ(perc)、エムトゥーメ(conga)、筆者オスカー・デリック・ブラウン(el-p)。
翌1972年には、筆者はバークレイ・ジャズ・フェスでヴァイオリニストのマイケル・ホワイト・カルテットで演奏したが、ヘッドライナーはマイルス・デイヴィスのバンドで、この時のラインナップは、アル・フォスター(ds)、バダル・ロイ(tabla)、ゲイリー・バーツ(as,ss)、ロニー・リストン・スミス(key)、レジー・ルーカス(g)、マイケル・ヘンダーソン(g)、ピート・コージー(g)、エムトゥーメ(conga)。アル、バダル、エムトゥーメからなるリズム・セクションは強力で、初めて耳にするアフリカンと東インドがミックスしたリズムだった。そのリズムに乗ってマイルスが自由に吹く、初めて耳にするファンキーな演奏だった。その夜、ステージ上のマイルスは笑みを絶やしたことがなかった。マイルスが満足していることを示す表情でこれも極めて稀なことだった。マイルスが完全に即興で通した演奏を聴かせたのはこの時が最後だったかも知れない。
1976年、NYに移住した筆者が最所に居住したのはギタリストのロニー・ドレイトンが住むクインーズのジャマイカだった。NYに着いた翌日、ロニーとマンハッタンに出かけ、まずはヴィレッジのブルーノートを訪ねた。その夜はギル・エヴァンス・オーケストラで、パーカッションにエムトゥーメが入っていたからだ。セットの合間にエムトゥーメとジャバリ・ビリー・ハートと連れ立ってブルーノートの東側にある小さなクラブを訪ねた。当時まだ無名だったデイヴィッド・サンボーンをチェックするためであった。デイヴィッドはボストンからNYに出てきたばかりで、若いドラマーのスティーヴ・ジョーダンとギターのハイラム・ブーロックを従えたクインテットで出演していた。
ヴァンガードが明けてから皆で連れ立ってドラムのラシッド・アリが経営するロフト、アリズ・アレイにジャムの出掛け、日曜日の明け方5時までジャムった。ロニー・ドレイトン、エムトゥーメ、ラシッド・アリ、シェームス・ブラッド・ウルマー、デニー・デイヴィス(ds)、オーネット・コールマン、フランク・フォスター、ソニー・ロリンズ、ダン・ジョンソン(perc)、キース・ジャレット、スペースマン・ビリー・パターソン、TMスティーヴンス、レニー・ホワイト(ds)、マイケル・シュリーヴ(ds)、それぞれが仕事仲間として、さらにはNYでミュージシャンとして生き抜くための情報交換の相手として筆者にとって重要なサークルとなった。
1986-87年、NYのニューミュージック・セミナーに参加し、パネリストとして音楽の未来について語り合った。
1991年9月28日のこと、エムトゥーメが電話があり、マイルスが死んだことを告げられた。それから数時間後にディジー・ガレスピーから電話があり、10月6日に聖ピータース・ルーテル教会でマイルスの葬儀を行うという。葬儀を取り仕切ったのはジェシ・ジャクソン牧師。筆者は2列目の左側にディジー、マックス・ローチと並んで座り、キース・ジャレット、ジャック・ディジョネット、デイヴ・ホランドを真ん中に挟み、その右にハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーターが並び、さらにその右端にエムトゥーメ、アル・フォスター、レジー・ルーカスが座った。我々の後ろの列の左側にはレニー・ホワイト、ドン・エイリアスらが席を占める。その日はまさに歴史の転換点を見る思いだったが、音楽社会の中での絆、ミュージシャン同士、あるいは家族や生命を繋ぐ絆は不変であることも確認した。そういう意味で筆者にとっては忘れ得ぬ1日だった。
かつてエムトゥーメが筆者に語った忘れ得ぬ言葉がある。
「生きること以上に尊いものはない。自分が尽くして欲しいように相手に尽くせ。分け隔てなく全力で愛し、尊敬せよ」。
筆者がミュージシャンたり得ること、家族を持つべきであることを教えてくれたのは、他でもないエムトゥーメであった。
1994年、エムトゥーメは、「ニューヨーク・アンダーカヴァー」というFOX-TVのショーの音楽制作とプロデューサーを任されることになった。筆者は請われてキーボードプレイヤーとして参加し、ジョージ・ベンソンと共演した。このショーは、1994年から2年間続いた。
https://www.facebook.com/oscarderic.brown/videos/10218755998480048/
1995年2月には、プロデューサーのケニー稲岡と古賀賢治とともに、阪神淡路大震災の被災者支援のための Rainbow-Colored Lotusプロジェクトに参加した。ハービー・ハンコックからはCD収録用の楽曲の提供が得られたが、当時ロバータ・フラックの音楽監督を務めていたエムトゥーメからは楽曲提供の同意を得られたものの、締めには間に合わなかった。
2001年の9.11の直後には、LAで開かれたラテン・グラミーの表彰式でエムトゥーメと再演することになった。2002年から2009年の間は会う機会がなかったが、電話ではガンと戦うンドゥングや他の仲間たちの救済などについて語り合ったことを覚えている。
2010年1月、カリフォルニア・アナハイムで行われたNAMMショーでエムトゥーメと久しぶりに再会した。彼は、マイルス・デイヴィスの音楽に関するパネル・ディスカッションのホストを務めていた。そこではまったく久し振りに彼の生演奏を聴くことになった。
父親ジミー・ヒース同様、エムトゥーメも我々に豊かな音楽の大樹を遺してくれた。
今日こそ、我々は、エムトゥーメの人生とジャズというアートフォームへの貢献を祝福しよう。
エムトゥーメの魂よ、安らかに眠らんことを。愛と友情をありがとう。君のインスピレーションが永遠に続くことを。
オスカー・デリック・ブラウン Oscar Deric Brown
1953年、ジョージア州トッコア・フォールズ生まれ。ピアニスト、キーボーディスト、コンポーザー、プロデューサー。LAとNYを往来しながら現在はNYに居住。1969年〜1973年、作編曲家のオリヴァー・ネルソンに師事。その間、映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のサントラ制作に携わる。サンタナ(1976~77)、ユッスー・ンドゥール(1990)などとのツアー、中川勝彦の『Human Rhythm』(1989)、『レインボウ・ロータス』(1995)などのアルバム制作、ヴィム・ヴェンダースの『Until the End of the World』 他3作の音楽制作など多彩な活動を展開。