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GUEST COLUMNNo. 301

スコット・ジョンソンの憶い出
Memories of Scott Johnson (May 12, 1952 – March 24, 2023)

text by Tomoko Yazawa  矢沢朋子

 

スコット・ジョンソンが亡くなった。本人から知らせが来るわけがない訃報ではあるが、今生の別れというのはやはり突然で悲しい。

3月28日にFaceBookでピーター・ゴードンがスコット・ジョンソンの追悼文を書いているという知らせがあり(→リンク)、検索してみるとNYタイムスの追悼記事と、いくつかの追悼文(→リンク)がヒットした。

2週間ほど前の13日に、エレキギターのソロ曲を私がピアノにアレンジしたものに関する打ち合わせの長いメールをもらったのが最後のメールとなった。
「コンピュータがクラッシュして今、アップルストアからなんだ。中間部に関して自分はアイデアがあるので、次の化学療法を終えたらまたメールします。4~5日くらいだろうか。続きは後でまたーmore later, Scott」

スコット・ジョンソンは去年、私が主宰しているAbsolute-MIXというプロジェクトのコンサートで取り上げたロック・ギタリスト/作曲家で、エレキギター、キーボード、ヴァイオリン、チェロにサンプリングされたスピーチ・メロディとのエレクトロ・アコースティック・カルテットの曲と、ロック・バンドのようにアンプで増幅したカルテットの曲を紹介した。

この時取り上げた《Convertible Debts》や《Rock》は’96年に発表されたアルバムから抜粋したもので、当時のMIDIではないデータに手動でクリックを付け、デジタル化したものもあった。曲自体は今聴いても新鮮で、NYタイムスが「時代が早過ぎた」と評しただけのことはあるが、データは21世紀仕様にアップデートする必要があった。スコットと私は去年の6月から11月にかけて打ち合わせをし、「これらの曲をレスキューして後世に残す」という作業に取りかかった。

これは地味で発狂しそうに大変な作業で、スコットの化学療法と入退院のスケジュールの合間と体調に合わせて進めることになった。練習用はラフ・ミックスで私が作り、本番用も私の方でデータを作りましょうか、とコンサートに間に合うか心配する私に「大丈夫。ジョン・ゾーンをやってるスタジオのエンジニアだから」とNYのスタジオで仕上げてくれた。結局、11月21日のコンサートの2日前までプログラムのバグを修正したりする作業をスコットも行った。シンセサイザーのプログラムは東京でエンジニアも交えてオンラインでやり取りし3日前に完成した。

スコット・ジョンソンと初めて出会ったのは99年のNYで、日本から引き上げて間もない頃のジョン・ゾーンに紹介してもらった。

ジョン・ゾーンが高円寺に住んでいた頃、彼は即興やJazz方面のみならず、クラシックの現代音楽の作曲家や演奏家とも交流があり、私も’93年に作曲されたピアノ曲の《Carny》という曲を弾くことでジョン・ゾーンを知ることになった。コブラというイヴェントも観に行き、「こういうことをする人が書いたピアノ曲なのか。このままを譜面に落としたような曲だな。しかもサックス・プレーヤーなんだっけ?」という程度の認識だった。

ジョンがNYに帰ってしばらくして私も’98からNYに住むことになり、久しぶりに連絡をすると早速会ってくれて、ピアノ・コンチェルトのスコアと室内楽のスコアを「機会があったら弾いてね」とくれた。TzadikでリリースしているCDと一緒に。《Carny》を弾いたコンサートのビデオを持参すると、「一緒に観よう」と言い、《Carny》の終盤で鍵盤に頭突きをする特殊奏法の場面を何回か巻き戻して見ては「ハハハ!(書いた音に)当たった!ハハハ!」と泣き笑いしながら「おでこ痛かったでしょう?もう1回観よ」と自分の曲で大ウケしてくれた。他のプログラムも「えーと藤枝さんの曲」と飛ばしながらサーチして見て、私がステージから客席の作曲家を紹介する場面になると「藤枝さん!太った!ハハハ!」と巻き戻ししては「藤枝さん!ハハハ!」と笑い転げるのだった。

その日は久しぶりに会ったこともあり、「NYで誰に会った?」とか、「面白い場所とかCDショップはあった?東京はどんな感じ?」と長く時間を取ってくれた。その時に「誰に会いたい?」と聞かれて「スコット・ジョンソンに会ってみたい」と言ったら、驚いたような顔をして、「スコットは友達。電話しとくよ。スコットから電話いくように言っておくから」と約束してくれ、その次の日には「スコット・ジョンソンですが(英語)」という電話がきたのだった。私はジョン・ゾーンとは日本語でしか話したことがないのでとても緊張した。英語があまり通じそうにないと判断したスコットは私のアパートまで出向いてくれた。

初めて会った時、スコットはペイズリー柄のアスコット・タイをして革靴を履き、「How do you do?」と挨拶した。私は《Convertible Debts》や《Rock》の作風とあまりに違うイギリス紳士のような風情に驚いた。アメリカ人で「Nice to meet you」か「Hello」以外のこの挨拶は今のところスコットだけだ。当時、私はフランス留学から帰って6~7年経ったくらいで、まだ第2外国語はフランス語で第3外国語として英語を勉強し直していたところだったから、アメリカ人のフランクな感覚よりはヨーロッパ的なスコットの態度のほうに親近感があった。今から思うと、あの態度はどういうことだったのだろうとは思う。ジョンがなんと紹介したのか気になるが覚えてないだろう。

ジョンとはどこで知り合ったのか、とか日本のことを聞かれたり、ヨーロッパの話をしたりしたと思う。そして「最近、ピアノ曲を書いたんだ」と後に私がNYと東京で初演した《Jet Lag Lounge》の楽譜をくれた。その演奏を気に入ってくれてアンサンブル(バンドとは言わない)にも誘ってくれ、スコットのギターと一緒に弾かせてもらった。2001年には私のプロデュースするAbsolute-MIXの東京でのコンサートに招聘した。この時の来日が最初で最後になった。

NYに住み出すと、ジョン・ゾーンが出演するマサダのライヴも観に行くようになり、ジョンのサックスも聴くようになった。NYではダウンタウン住まいとはいえセレブリティだということも分かった。スコットもNYに来た頃は「エクスペリメンタル系」ロックということでダウンタウン・ミュージシャンと思われていたようだったが、私がNYに暮らした’98-‘02ではクラシックの現代音楽の作曲家というスタンスで、スコットから紹介された友人たちもアカデミック系が多かった。

私がスコットの音楽を聴いたのは、クロノス・カルテットが演奏している曲と’96の《Rock/Sissor/Papers》からだったので、ギターも弾く作曲家だと思っていた。曲は全て記譜されている。そういう意味でも完全にクラシック系の作曲家だ。有名なスピーチ・メロディを使った《John Somebody》も後にスコットからCDをもらって聴いた。確かにエクスペリメンタル系のサウンドではあるのだが、エレキギターでロックのグルーヴ感を持ったクラシック音楽の構造を持つ楽曲と感じる。これはスコットのヴォイス・サンプリングを使った曲全てに感じるテイストで、誰が聴いてもアメリカ人が作った音楽だと分かる。そういう意味でバーンスタインやアイヴズの後継者と私は捉えている。

スコットもジョンもバーンスタインも彼らの「記譜された曲」の演奏で難しいのは、ヨーロピアン・アカデミズムというかクラシック音楽のリズムの取り方とは違うジャズとロックのリズムが取り入れられているという点だ。ワルツなどは例外として、クラシック音楽はアップビートでリズムを取る。演奏家はそのように訓練してきているので、ジャズやポップスの曲でもアップビートで拍子を取って演奏してしまう。すると、もっさりとした何ともノリの悪い音楽となってしまうのだ。そのノリで気合いを入れると演歌やシャンソン、カンツォーネに近づいてしまう。バックビートでリズムを取るということは右利きが左手で箸を使うようなことでもあり、演歌状態よりひどい結果になってしまうこともある。

アメリカでもアカデミック系(大学の教授)クラシックの作曲家はアップビートを基本とした音楽を作ってはいる。とはいえ、アメリカならではの文化としてNYならブロードウェイのミュージカル、LAならハリウッドの映画音楽などの商業音楽との距離がとても近いという事情もある。NYフィルに入らなくてもブロードウェイでも稼げるからね、とそちらの仕事に流れたり、行き来をするクラシックの教育を受けた演奏家、音楽家が多いのだ。そしてジャズやロックのリズム感を身に付けていく。もちろん自分でもダブルスクールで習ったり研究したりはした上でのことだが。

スコットの曲のような複雑な楽譜を正確に譜読みをし、ジャズやロックのグルーヴ感を持って演奏出来る人材ということでは、クラシックの演奏家に求められるレベルの点でも「早過ぎた」ということになるのだろう。エレクトロ・アコースティックという通常のクラシックのコンサートより経費も手間もかかる編成の上、ノリだけでは弾けない記譜された楽譜とも相まって、その弾いて楽しい聴いて楽しい躍動感溢れる音楽があまり弾かれていなかった。

スコット自身がプログラムでこう書いている。「私の音楽は、私が育ったアメリカのポピュラー音楽のDNA 、伝統を継承しているクラシック音楽が混ざり合ったハイブリッドなものです。中略 《Listen》や《Rock》のような曲は、表面的にはポピュラー音楽のように聞こえることが多いですが、クラシックの室内楽のような細やかな配慮と技術を音楽家に求めています 」ーAbsolute-MIX2022に寄せたプログラムノートより(→リンク

スコットがミュージカルを書いていたらすごく面白かったのではないかとも思う。「早過ぎて」。。。

2001年9月の来日時、せっかく招聘したのだからギターを持ってきてもらって一緒にステージで弾けば良かったか?と思い返しても、段取りや規模を考えるとやっぱり無理だったこと、など思い浮かんでくる。この時は洗足学園での講義と東京大学でのレクチャーでギターは弾かなかったのだ。そして来日中に9.11があり、スコットは東京にいて、私の家でのパーティーの最中、速報が入って皆がTVに釘付けになったのだった。空港も閉鎖されて帰国が3日くらい伸びたと思う。

初めて日本に来て、渋谷を歩いた時、「トモコもそうだが日本にはblack hairのgirlsがいないんだな。みんなブロンドだ」と驚いて笑っていたこと、「せっかく日本に来たのだから、このリアス式の山に行きたい。駒ヶ根岳が良さそうだ」と登山具一式持ってきていたので、私と作曲家の菅谷昌弘氏と3人で行ったのだった。飛行機に乗っているわけでもないのに足下に雲がある風景を初めて見た。普段、登山などしない私は空気が薄くて頭痛がしたものの、高尾山クラス以上の初めての登山で、その後も現在までその記録は更新されていない。京都や鎌倉、秋葉原に興味のない初めてのゲスト・コンポーザーだった。

私がNYから東京に戻るFarewell Party では、私の選曲で踊りまくったことなども忘れ難い楽しい思い出だ。コーヒーもアメリカンでなく、私が好きな深煎りの美味しい豆の店を教えてくれた。

スコットは70歳になってたのか!と自分のことは棚に上げて驚いてしまう。病気じゃなければシャッフル・ダンス流行ってるよね!とオンライン・ダンス・パーティーも出来そうに思っていた。私のピアノ・アレンジに加えたかったらしいアイデアを聞くこともなく「また続きは後で」と去ってしまったスコット・ジョンソン。

お世話になりました。聴いて楽しい、弾いて楽しい音楽をありがとう。データもプログラムも引き継いだし、あなたの音楽はこれからも弾きます。「安らかに眠って下さい」というよりは、
また、この続きはあとでねーmore later.

写真:筆者提供

Absolute-MIX website: https://tomoko-yazawa.com/absolute-mix


矢沢朋子 Tomoko Yazawa  ピアニスト/ DJ / プロデューサー
東京出身。フランス近代、現代音楽の演奏で特に定評のあるピアニスト。多くの有名作曲家が曲を献呈。桐朋学園大学、パリ・エコール・ノルマル高等演奏家資格取得。第16回中島健蔵音楽賞受賞。2001年よりマルチメディア・プロジェクト、エレクトロ・アコースティック・プロジェクト「Absolute-MIX」をプロデュース。CDをAmazon、iTune、Spotifyなどで40カ国以上に配信、販売するGeisha Farmも主宰。2011年沖縄移住。

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