菅原光博 ジャズを撮る!#13 NYジャズ・シーン 「ロフト・ジャズ」#1

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photos: Mitsuhiro Sugawara 菅原光博




写真は、1974年7月、NYダウンタウン、ソーホー(SOHO)地区のスタジオ・リブビーでのアーチー・シェップ(ts)と共演する渡米まもない川崎燎(g)。
1973年夏にNY 入りした川崎は、小川隆夫によるインタヴュー【連載】証言で綴る日本のジャズ (2020.4) で次のように語っている;

近くのボンド・ストリートはロフト・シーンの中心で、ライヴをやっているロフトが3つあったのかな。ジョー・リー・ウィルソンの「レディース・フォート」(地図❼)、サム・リヴァース(ts)の「スタジオ・リヴビー」(地図❸)、ラシッド・アリ(ds)の「スタジオ77」(地図❹)。それらがコミュニティみたいな感じで、ぼくは入り浸りで。
やっていると、プレイヤーで面白いのがいっぱい遊びに来るんです。アーチー・シェップ(ts)、サニー・マレイ(ds)、ウディ・ショウ(tp)、ジャッキー・マクリーン(as)の息子のルネ・マクリーン(ts)とかね。そういうひとたちと共演する機会にも恵まれたし、ネットワークもできたし。「スタジオ77」にはレコーディングの設備があったから、ジョー・リー・ウィルソンのアルバムを作っています。

72年と73年に取材でNYを訪れたフォト・ジャーナリストの杉田誠一は以下のように証言する:

いわゆるジャズ・ロフトのはしりは Studio We (地図❷)だと思う。釘のオブジェで有名だったアーチストがジャズのためにスタジオを開放し、サニー・マレイ、デイヴ・バレル、アラン・シルヴァなどが拠点にしていた。ダウンタウンのイースト・ヴィレッジ、アヴェニューBとCの間にあって、近くにリー・モーガンが射殺されたクラブ Slug’sがあった。ヘルス・エンジェルスの拠点もあって、近付きにくいスリリングなロケーションだった。
1972年にニューポート・ジャズ・フェスがNYに移ってきたとき、アンチ・フェスが開かれ、Studio Weに本部を置いたことでも知られる。
スタジオ・リブビーは、サム・リヴァースと奥さんのビーの共同経営で夫婦の名前を取ってリブビー (Studio RivBea 地図❸)と称していた。所有していた2フロアのうちの1フロアを解放した。

©Ed Hazell/NoBusiness Records
©Ed Hazell/NoBusiness Records

編集部 注)上記のロフト・マップとアドレスは、エド・ヘイゼルの労作で、NoBusiness Recordsからリリースされた Jameel Moondocの3枚組CDセット『MUNTU Recordings』に添付されたロフト・シーンについての論考から制作者の許可を得て転載した。なお、次号の菅原光博のロフト・シリーズに、エド・ヘイセルの論考を抄訳する予定。

菅原光博

1949年、北海道上川郡愛別町生まれ。ワークショツプ写真学校細江英公教室OB。1973年1月よりジャズを中心に、レゲエ、ブルース、ソウル系コンサートを内外で取材開始、雑誌、ジャケット、ポスター等をメデイアとする。著作に、『田川律+菅原光博/ジャマイカの風と光』(1984 音楽の友社刊)、『菅原光博+藤田正/ボブ・マーリー よみがえるレゲエ・レジェンド』(2014 Pヴァイン)。 https://mitsuhiro-sugawara.wixsite.com/photographer

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