悠々自適アウトテイク Vol.4「ジャズ・シンガーとしての第一歩」
text by Msahiko Yuh 悠雅彦
ラジオといえばもう1つ、懐かしい思い出がある。あれは昭和28年、中学2年生のころだった。
パソコンはおろかテレビもない時代の唯一の楽しみと言えば,大袈裟ではなく私にはラジオとレコードしかなかった。しかし,子供の教育のためという両親の一存で一家が向原での田舎暮らしに見切りをつけ、逗子の祖父の家に間借りをして同居することになったこの当時、好き勝手にレコードをかけて楽しむ我がままは許されなかった。祖父の家には我が家にあったものより遥かに大きな蓄音機があり,大きさばかりでなく音質も遥かに上だった。
それはこの家では唯一西洋風の大きな応接間にあり、普段は鍵がかけられて勝手に入れなかった。だが、高校に通うようになって応接室へ入る自由が少しずつ許されるようになってからというもの,レコード・ケースに積まれたSP盤を片っ端から聴いては性来の癖で最後に聴く盤を決めたりしたのも、いま思えばほかにこれといった遊びがなかったこの時代のささやかな楽しみの一つだったろう。
とはいうものの、SP盤の試聴にそれ以前のようにはこだわらなくなった。最大の理由は,SP盤に代わってLPが出現し、ラジオを通して放送され始めたためだ。いつごろだったか確かな記憶はないが、NHKの第2放送でこのLPレコードを使ったクラシック音楽をたしか午後1時から2時間にわたって放送する番組があることを知った。私がクラシック音楽を夢中で聴くようになり,造詣を深めることができたのも、ひとえにこの番組のおかげだった。だが、1時といえば学校は午後の授業が始まる時間だ。当然どちらかを捨てなければならない。私が選んだのはラジオ番組の方だった。むろん毎日ではなく週に1度くらいだったと思うが、午前中の授業が終わると適当な理由をつけては早退し,後ろめたい気持を抑えながら家路を急いだものだった。
通っていた逗子中学校までは、湘南逗子駅から京浜電車に乗って次の神武寺駅で降り,校舎まで10分ほどの道のりである。思い出すと今でも吹き出したくなるのは,駅へ向かって歩くもう1人の学友がいたことだ。彼とはクラスが違うので親しく話したことはなかったが、たまたま神武寺駅で電車を待つ間に言葉を交わしたとき、彼が当時川上や千葉が主軸だった巨人ジャイアンツの熱狂的なファンで、巨人の試合の実況中継があると授業をボイコットすることが分かった。私も赤バットの川上、青バットの大下時代から、人後に落ちない巨人ファンだったので、彼の気持はすんなり理解できた。だが、ほぼ同じ時刻に学校を出て、誰も歩いていない道を時には連れ立って歩いている図は思えば滑稽だった。
この時代はテレビはおろかFM放送や民放もなく,ラジオといえば米軍極東放送(FEN) を除いてNHKの第1と第2放送しかなかった。それゆえでもあったろうか。この時分のラジオ番組は今でも忘れずに憶えている。山形にいたころ熱心に聴いていた「鐘の鳴る丘」、あるいは「話の泉」や「とんち教室」。解説の小西得郎と丁々発止で掛け合う志村正順アナウンサーの野球放送なども忘れられないが、特に「話の泉」のテーマ音楽やレギュラー出席者の顔ぶれとか、「とんち教室」の愉快な解答者たちの名前なら今でもすぐに口をついて出る。私が中学3年のころ始まったラジオドラマ「君の名は」も欠かさず聴いた。憶えている人もほとんどいないだろうが、たしか「アメリカ便り」という番組の冒頭で聴こえる、今日では聞く機会も滅多にないジョン・カーペンターの「摩天楼」を使ったテーマ音楽,あるいは夜のラジオドラマ「新しい道」の冒頭で使われたショスタコーヴィチの交響曲第5の出だし。デレビも民間放送もパソコンもなかった時代だからと思えば思うほど、このころがやけにいとおしい。民間放送が始まったのはその直後であった。
その中でもあのクラシック音楽のレコード番組(番組名は思い出せない)で聴いた作品の数々は、間違いなく私にとってかけがえのない知識と栄養になった。大抵の楽曲なら作曲者が誰で,どんなモティーフや背景のストーリーをもっているかが分かるのは、いかにこの番組を熱心に聴いたかの証左だろうか。授業を蹴って聴くのだから、受けられなかった授業の分まで身に染み込ませるぞ、とみずからを奮い立たせてラジオのスウィッチを入れたことを朧げに憶えている。あの健気なほどの意欲にかくも駆り立てられながらラジオにかじりついたことは後にも先にもない。番組の最後に女性のアナウンサーの「使いましたレコードはデッカ(あるいはRCA等々)の”長時間盤”でした」という締め言葉が懐かしい。そういえばこのときも私は毛布をラジオにかぶせ、みずからもその中に入ってヴォリュームを極力低くし,祖父たちに聴こえないように注意を払って聴いたものだった。授業を受けられなかったマイナスを差し引いても,この2時間は私にはかけがえのない大きなプラスだったと、あれから半世紀以上経った今も疑わない。
私のクラシック熱にはかくして拍車がかかった。当時のラジオ放送でいうと,ほかにはNHK交響楽団の演奏を放送する番組がたしか週に1度あり、ちょうど同じころN響の常任指揮者に就いたクルト・ヴェス(当時はウェスと呼称していた)の演奏をよく聴いたものだった。とりわけ彼のドイツ音楽,中でもブラームスがお気に入りだったが、私がブラームスの第4交響曲に熱中するようになったのもオンボロラジオで聴いたヴェスの演奏に負うところが大きかった。また、ヴェスが就任する直前だったか、名誉指揮者として数回タクトを振ったジョセフ・ローゼンストックの「運命」(ベートーヴェン)にも,オケの粗っぽさをこえた情熱的な演奏の迫力にひとしきり感激したことを思い出す。
この当時の私は、いわゆるジャズとはまだ巡り会っていなかった。戦争中の幼かったころからポール・ホワイトマンの名に親しんでいたとはいえ,彼がキング・オヴ・ジャズともてはやされていたことなどつゆ知らなかったし、祖父が米国で娘の母たちに買ってきた数枚のホワイトマン楽団演奏のSP盤はビックス・バイダーベックが在籍したころの演奏ではない、スウィートなダンス音楽と後に分かってがっかりした思い出が今となっては懐かしい。
また、祖父の家での間借り生活が始まったころ,ラジオから流れる笠置シズ子の「東京ブギウギ」や「買物ブギ」に心躍らせ、笠置シズ子が放送に出ると分かるとラジオにかじりついたことも。だが、田舎から出てきてまもない中学生には、ブギウギがアメリカの黒人音楽であることも,まして作曲した服部良一がジャズの強い影響を受けた進取の気性に富んだ才人だということも知らなかったし、関心もまだ芽生えてはいなかった。
曲がりなりにもジャズらしいジャズと出会ったのは、1年遊んで念願の早稲田英文科に入学してしばらく経ったころだった。
1つのきっかけを作ってくれたのは父である。私は父と面と向かって真剣に会話を交わしたり、相談事を持ちかけたりしたことがない。戦時中に父の顔をほとんど見ることのない暮らしを送ってきた一種のトラウマが無意識のうちに働いていたのかもしれないが、我がままを言ったり甘えたりしたことがなかった。気後れがあったのだ。ただ父の身になればきっと寂しかったことだろう。
父も母も私がシンガーになる夢を抱いていることをうすうす知っていただろうが、それについて口を差し挟むことはなかった。それどころか、私が大学に入って数ヶ月経ったころだったか、父は私を誘って当時は内幸町のビルに看板を出していた日本コロムビアを訪ね、私を洋学部の部課長に引き合わせてくれさえした。このときはさすがに、あの父が!と内心驚いた。音楽や芸事にはさしたる関心がないと思い込んでいた父の息子に対する愛情の深さを、このときほど身に沁みて感じたことはない。
父に洋学部長を紹介してくれたのは、宝塚歌劇団出身の女優として人気のあった小夜福子である。彼女は平成元年に80歳で亡くなったが、当時はコロムビアの専属歌手でもあった。父の話だと、彼女は戦時中、戦闘の兵士たちを激励する慰問団に加わり、たまたま父が勤務していた南方部隊の本部にやってきたとき応接した父と懇意になり、戦後も旧交を温める集まりをもったりしたと聞いた。その折りに高木洋楽部長が引き合わせてくれたのが、のちにディスコメイト・レコード社長となった吉岡孝保氏である。当時は洋学部の課長で、彼の下には後にフィリップスへ移籍した松井孝雄氏もいた。当時、日本コロムビアにはCBSのほかにヴァーヴなどのレーベルがあり、吉岡さんを訪ねていってはそれら大レーベルの試聴盤を何枚かもらって帰るのが常となった。その中にはデューク・エリントン・オーケストラもあればマイルス・デイヴィスもあり、ルイ・アームストロングの「セント・ジェームス病院」など後々も愛聴する名演名唱と巡り会った。ビング・クロスビー、トニー・ベネット、ドリス・デイ、ジョニー・マティスら有名ヴォーカリストのアルバムなどは、私にとっては終生忘れられないレコードとなった。もし吉岡さんを知らなければ、名演名盤で聴く私のジャズ体験は少なくとも数年は後になったことだろう。再訪問のときだったか、吉岡さんは近くの喫茶店に私を誘った。すでに高木部長から話が通っていて、私が父と訪ねてきた理由を知っていた彼は、「どう、歌手になる夢はまだあきらめていない?」と訊ねてきた。明快な返事をしそびれている私の心を波立たせないような穏やかな声で、「せっかく早稲田の英文で勉強しているんだから、歌手とは違う道へ進んだらどう? 面白い道が開けるかもしれないよ」と。どうやら氏は1年遊んでまで念願の大学の志望学科に進んだ青年が、プロの世界で成功する確率の低い、いわば一か八かの勝負を強いられるシンガーの道に進むことには反対だったらしい。コーヒーに砂糖を入れながらこうも言った。「才能だけの問題ではないからね、歌手として成功するか否かは」。
なるほどそうだろうな、とそのときは私も思った。たとえシンガーとしての能力が申し分ないからといって、それだけで歌手としての成功が保証されるわけではないからだ。だが、夢に向かって羽ばたいてみようと思ったかどうか。その時の私は、誰のどんな忠告や助言も耳に入らないほど余りにも若かった。青春まっただ中の大学生活を楽しむ一方で、唄うことの歓びにも目覚めつつあった。ことに吉岡さんを訪ねるつどもらうヴォーカルのサンプル盤に親しめば親しむほど、唄うことへの夢は膨らむ一方だったことは間違いない。だが、もしかすると、吉岡さんがジャズやヴォーカルの白盤を訪ねるそのつど融通してくれたのは私がシンガーになる勉強の手助けをするためではなく、レコード会社や放送局のディレクターとか新聞社などのマスメディア等々の、むしろ音楽文化の作り手(担い手)側に立つ方面へ進んで欲しいとの思いがあったからかもしれない。もっとも、それはシンガーの道を断念してしばらく経ってから青春を振り返ったときに、ふと脳裏をよぎった甘辛い残滓のようなものだった。
ちょうどそのころ、TBS(東京放送)ラジオにコロムビア・トップライトが司会をする「青春ジャズ大学」という聴取者参加番組があった。「素人のど自慢」番組のポピュラー音楽版といったらいいかもしれない。ジャズを銘打ったところなどは、笠置シズ子や淡谷のり子らの歌もジャズぐるみで親しんできた当時の日本人ならではのセンスの現れだろうか。我こそはと思う応募者が最初の挑戦で審査員から合格と判定されれば大学並みに進級し、2、3年と進んで4年の卒業試験に合格すればめでたく卒業ということになる。不特定多数の素人が喉を競いあう「素人のど自慢」に対して、「青春ジャズ大学」の出場者は単に素人が唄うことを楽しむ人々ではなく、将来のプロ歌手を目指すいわばプロ予備軍であることを知って、初めて出場したとき私は驚いた。というより、何とも言いようのない居心地の悪さを感じた。ピーナツ姉妹、西条慶子、デニー・白川などプロのシンガーとして巣立った人も少なくなく、彼らはみなこの”大学”を卒業した。これらの人々が目の色を変えてスタジオを右往左往する図に私は最初思わず後ずさりしたものだったが、実際、中にはプロの世界に首を突っ込んでいる者も何人かいることがやがて分かった。いずれにせよ、シンガーとして一旗揚げようとの野心を抱く者ばかり。のちにテレビに続々と現れることになるそんなプロ養成番組の走り、それが「青春ジャズ大学」だった。
私がこのラジオ番組を知ったのは吉岡さんからだった。それほどシンガーになりたいんだったら肝試しをしてみたら、と言われて応募してみたのだ。吉岡さん自身が審査員の1人であったことも応募した理由の1つではあったろう。予選は難なくパスしたが、当時の私はジャズ・ヴォーカルの何たるかもほとんど無知のまま、吉岡さんから頂戴したドリス・デイやフランク・シナトラのコロムビア吹込盤に夢中になる一方、ラジオの「L盤アワー」や「S盤アワー」でかかるさまざまなポピュラー・ソングも熱心に聴き、気に入った曲があれば譜面がないかとヤマハの楽譜売り場をのぞいたりもした。思い出しただけでも赤面ものだが、フランキー・レインで大ヒットしていた「OK牧場の決闘」を唄ったこともある。彼が知る人ぞ知るジャズ歌手であることも、名歌「We’ ll Be Together Again」の作者であることなどまったく知らなかったころだ。プロのシンガーを目指している出場者たちからは白い目で見られているのが分かった。彼らときたらこんな曲は歯牙にもかけない。シナトラやエラ・フィッツジェラルドらが唄うスタンダード・ソングをプロを目指すプライドを表に出して唄うのだ。彼らの多くは曲のメロディーとコード進行が書かれた通称メモリー・ブックを持っており、それをピアニストに提示すれば伴奏してもらえることを私はこのとき初めて知った。
何よりも、プロの著名なミュージシャンの伴奏で歌う快感を知った最初の機会でもあったということ。この番組で伴奏をつとめていたのは名手をうたわれたピアニスト八城一夫のトリオだったが、何の心配も気兼ねもなく歌える喜び、というよりひとかどのシンガーになった心地よい気分で歌うことができる高揚感は格別だった。八城一夫トリオには時おり名の通ったゲストが加わって演奏したが、私が卒業後に招かれたとき、ゲスト出演した渡辺貞夫さんのプレイをバックに歌ったときの快感は今でも忘れられない。その前後に渡辺さんは八城さんのクヮルテットへ参加し、直後には初リーダー作も吹き込み、ジャズ界期待の星として熱い注目を集めていた。渡辺さんはこの直後にバークリー音楽院で学ぶため渡米したので、このとき彼ともう少し話を交わしておけばよかったと思ったものだ。番組の卒業生として私が歌った曲は、フランク・シナトラの歌で何度も聞いた「Come Dance with Me」。
ヤマハの楽譜売り場でこの曲の楽譜を発注し、届いた楽譜を八城一夫さんに見てもらい、OKがでた。さすがプロのピアニストは違うなと感心したものだが、本番では何と渡辺貞夫さんが歌のワンコーラス後のソロを吹いてくれたのだ。感激したことだけは、もう半世紀以上も前の出来事なのに忘れたことがない。おかげで50年以上も前の録音テープを捨てられずにいる。
ある日,父の知人が突然訪ねてきた。戦時中に父の部下だったという彼は戦後、父を慕って消息を探し歩いたらしい。だが、所在が杳(よう)として分からないまま10年余が過ぎ、諦めかけていたときに仕事先でたまたま父をよく知る人と出会ったのだという。彼は当時、府中市にあった米軍空軍基地で通訳として働いていたということだった。父との話がはずんで、とある拍子に父が私のことを話題にした。恐らく息子が米国のポピュラー・ソングに熱中しており、できることならプロのシンガーの道に進みたがっているとかなんとか言ったのではないかと想像する。尊敬する上官であった父のために一肌脱ごうと奔走し、基地の担当官と掛け合ってくれた彼のおかげで、オーディションで数曲歌った数日後のある日、私はついに採用通知を手にした。曲がりなりにもジャズ・シンガーとしての第一歩を踏み出した瞬間であった。