悠雅彦「悠々自適」アウトテイク Vol.3「タブー」
text by Masahiko Yuh 悠 雅彦
ファッツ・ウォーラーがつくった1曲に<エイント・ミスビへイヴン/浮気はやめた>がある。1943年の映画「ストーミー・ウェザー」における彼自身の愉快な弾き語りがとても印象的だった。もっとも、47年の「タウンホール・コンサート」での名唱を嚆矢とするルイ・アームストロングの幾つかの吹込によって、世界中の人々から愛されるようになった作品、といった方が分かりよいかもしれない。作詞はアンディー・ラザフ。男が歌う最後の8小節はこうだ。
もう夜更かしはしない
夜遊びする気もない
八時には家でくつろぐ
ラジオがたったひとつのよすが
浮気はやめた
君こそ私の生き甲斐
日本語に置き換えると他愛ないが、常識的にはユーモラスなニュアンスをこめた方が面白味の出る歌だろう。特筆していいのは、「ラジオ」の一語で何ともいえない陽気で温かな気分が湧き出すことだ。この曲が世に出たのは1929年、世界大恐慌の年。ラジオの最盛期がすでに始まっていた。
古ぼけた薄茶色のはこの中で陽気な声が飛び交う。音楽がひっきりなしに鳴る。
音楽に合わせてステップを踏む女たちの屈託ない笑顔・・・ニュースに耳を澄ます父親・・・キッチンの薄明かりと白い湯気にまぎれながら、フランク・シナトラの<イフ・ユー・アー・バット・ア・ドリーム/君はかなき夢なりせば>にしばし手を休めてうっとりする母親・・・スポーツの実況中継に一喜一憂する叔父・・・少年はラジオ・ドラマ「覆面の騎士」に目を輝かせて聴き入る。
1944年。ニューヨーク・クィーンズ地区ロッカウェイ。貧しいユダヤ人街の一角。二家族が雑居しあう喧噪絶え間ないある一日はこんなふうだ。44年といえば、第二次大戦も大詰めに差しかかっていたころで、テレビが茶の間に進出する以前、ラジオが人々の生活のリズムを陽気に刻んでいた時代だ。米国でテレビの営業が始まったのは41年だが、一般家庭に普及するのはずっとのちのことである。40年代は依然として<ラジオの時代>だったのだ。このとき少年ジョーは十歳であった。
ジョーの家にあった古びた粗末な箱とは、いうまでもなくラジオである。ウディ・アレン監督の87年度作品、映画「ラジオ・デイズ」は、この少年ジョーの目を通して描いた大都会ニューヨークの神秘、アメリカン・ドリームのまばゆい光、ヨーロッパから自立した米国の古き佳き時代なのだろう。少年はいわばウディ・アレン自身でもある。「覆面の騎士」に心躍らせ、この映画全編を縫って流れる3、40年代のヒット曲を聴いて育った彼の、いかにもニューヨークっ子らしいスマートな感覚や旺盛な好奇心、あるいはアメリカン・ドリームをもとめて困難を生き抜いた活気みなぎる庶民性が、ラジオをモチーフにして活きいきと活写されていて、同じようにラジオで育ち、ラジオとともに青春を過ごした私の奥底で眠っていた感懐を、ふと呼び起こした。
ところで、私がラジオで最初に思い浮かべる光景といえば、唱和20年8月15日の天皇の玉音放送である。
私たち一家は当時、山形県の谷地というところに疎開していた。私は小学1年生で、ほとんど何も覚えていない。ただ1つ、瞼に焼きついているのが母と叔母がラジオの前に居住まいをただして、天皇陛下の沈痛な声に身じろぎひとつせず耳を傾けていた姿だった。古びたラジオを通して聴きとれないほどの雑音のはるか底からかすかに響いてくる天皇の沈んだ重々しい声に、母のどことない安堵の気持が映っているような優しい沈黙を子供心に感じたことを憶えている。大人になって知ったのだが、あの玉音放送は前夜の14日の深夜に皇居で録音された円盤によるものだったらしい。当時の録音技術を思えば腑に落ちるが、雑音の理由が録音にあったと知ったときは驚いた。てっきり生のマイクを通したメッセージだと思い込んできたからである。これが終戦(いや敗戦というべきだろう)を国民に宣言する「終戦の詔書」であることものちに知った。あとで分かったことがもうひとつ。あのとき父はすでに特攻隊員として出撃する準備をせよとの指令を受けていたことと、遺書をしたためていたこと。母から世間話のように聞いた。父の遺書をすでにあずかっていた母はあの8月15日、どんな気持で詔書を聴いたのだろうか。疑いないのは終戦の詔書が間一髪で父の命を救ったということだ。
私もあのとき天皇の声を耳にして、かすかな記憶だが、これでとうとう戦争が終わったのだと肌で感じた。
ラジオについては、忘れられないことがもうひとつ。それは山形県の向原(むかいばら)でのことだ。
敗戦後ほどなくして父が軍務から解放されると、我が家にやっと一家団欒の春が訪れた。父の顔を滅多に見ることがなかった谷地から、穏やかな両親の会話が毎日耳に入ってくるこの向原への転居は、恐らくは両親にとってもそうであったように、私にとっても新生活の始まりを意味するものだった。
何もかもが新鮮といったらいいのか、目にする何もかも、ここで体験する何もかもが、私にとっては新しいチャプターの始まりを告げていた。近所の子供同士の言葉使いに始まって学校生活にいたるすべてで、私は何度も脱皮しなければならなかった。初めて彼らの輪の中に飛び込んだときの衝撃が脱皮を促す第一波だったろう。何しろ彼らのやりとりする言葉の一つひとつがチンプンカンプンだったからだ。だが、若さは強い。ものの数日のうちに、山形弁の中でも最高度に難解なこの”むかいばら弁”を苦もなく理解し、自分でも使うようになった。山形を去って1年もしないうちに、向原弁は一つずつ虚空へ飛び去っていき、懐古しようとしたときにはもうほとんど脳裏から消え去っていた。そうと分かったときは口惜しくもあり、独り苦笑した。
驚きついでにもうひとつ。ここは戸数僅か20数戸。転居してきたとき、電話はおろか電気も通っていなかった。つまり、ラジオが聴きたくても聴けない村だった。この辺鄙な村に電気が通るようになったのは引っ越して半年後かそこらだったろうか。父や父の知人たちの奔走のおかげで電気が通ったとき、一家揃ってラジオにかじりつくようにして聴いた歌やラジオ・ドラマが昨日の出来事のようだ。♫ 緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台/鐘が鳴りますキンコンカンのテーマソングで始まる<鐘の鳴る丘>や、「農家の皆さん今晩わ/一日お仕事ご苦労さん/これから始まるこの時間/ラジオのお側へ/さぁどうぞ」が冒頭で流れる、振り返れば他愛ない今流ラジオ・バラエティーなどなど。学校へ一緒に通っていた近所の学童たちとラジオから流れる声や歌を聴いたなんて、今思えば夢のような話だ
静岡県の島田小学校に入学したのは、昭和19年。戦局はますます悪化し、敵の米英に追い詰められつつあることが、頻発する敵機の来襲を告げる空襲警報のサイレンの音が昼と夜の区別なく毎日のようにつんざくように鳴り響くと、子供の私にもうすうす感じられるようになったころだった。電球も周囲を炭で塗り、卓袱台(ちゃぶだい)の下にだけ灯りが集まるようにしていた。さらに夜間、サイレンが鳴ると、母は部屋の電気の傘を黒い布でおおい、灯りが外へ漏れないようにきちんと戸締まりをしたものだった。実際、この町に原子爆弾の模擬爆弾が投下されたことがあったと後に聞いた。
そんな殺伐としたさ中でも私には唯一の潤いあるひとときがあった。それは折りに触れ、母が手回しの蓄音機を用意しては、童謡のレコードをかけてくれたこと。ほんの数ヶ月の島田小学校時代に、いったいこれらの童謡を何度聴いたことか。その中で今でもよく歌われているのは<あの子はだあれ>ぐらい。今では耳にすることもないが、♫ 私は真っ赤な林檎です。お国は寒い北の国〜 で始まる<りんごの歌>や<良寛さま>などは、1番だけなら今でも歌える。60年以上経っても間違えずに歌えるくらい数え切れないほど聴いたからだろう。旋律はむろん歌詞も脳に刷り込まれた。中には戦争時代ならではの、♫ 良いこのお国は強くなる。良い子になりましょ、僕たちは。暑さ寒さに負けないで、強い日本をつくりましょう〜などという歌詞の童謡もあった。
SP盤といえば、胸がジーンと熱くなる思い出がある。音楽と切っても切れない間柄となった私にとっての原点が、このときの体験だった。それは谷地での、今となっては幼き日の懐かしい一コマである。
私たち一家は島田から、大分県佐伯市へ移転した。ここには海軍の飛行場があり、私にとっては戦時中、両親の顔を見て暮らしたほとんど唯一の機会だった。私はその官舎から学校へ通ったが、満足に授業を受けた記憶はない。ひっきりなしといっていいくらい空襲警報のサイレンが鳴り響き、授業が中断したからだ。憶えていることといえば、サイレンが鳴るとみな一斉に走って下校したこと。ときには玄関前で待っていた母の言いつけ通り、家の近くの防空壕にランドセルごと飛び込んだこともあった。佐伯小学校での学友など名前はおろか顔も思い出せないし、佐伯から谷地へ転地した数ヶ月にいたっては、すべてが記憶から抜け落ちているのだ。
戦争疎開は戦況が急を告げるにつれて頻繁となり、特に大きな都市から田舎の町や村への学童疎開は日を追って増えた。父がパイロットの軍人だったせいもあるが、私の場合、1年生のときだけでも静岡県の島田小学校、大分県の佐伯小学校、山形県の谷地小学校と3度も転校した。一家は終戦と同時に父が最後に勤務した飛行場がある山形県の神町近くに居を構え、私は神町小学校に通って4年後にここを卒業した。
谷地には1年ほどしか住まなかったこともあってか、この地でも記憶に鮮明な思い出はほんの一握りしかない。たとえば、小学生全員で稲が刈り取られたばかりの田んぼで落ち穂拾いをし、落ち穂を精米したお米を炊いてみなで食べたこととか一つ、二つ。この時分はみな貧しく、米粒が少しかない雑炊や水団(すいとん)が当たり前の時代だった。ただ私は籾が苦手で、それを噛んだ瞬間、涙をこらえて必死で呑み込んだ。日本中が食べるものに事欠いていた戦争末期。一粒でも粗末にしたら母からはきつく怒られた。米粒のご飯を食べられるだけでもありがたいと思わなくてはならない時代だった。
私が洋楽に目覚めたのは、ひとえにこの谷地で親しんだSP盤のおかげといっていい。島田で童謡を聴いていたころ、我が家に洋楽のレコードがあるとはつゆ知らなかった。のちに分かったことだが、これらの洋楽盤のすべては祖父(母の父)が娘時代の母に買い与えたものだった。その中にはレクオナ・キューバン・ボーイズの<タブー>や、ポール・ホワイトマン楽団が演奏するフォックス・トロット調のダンス音楽もあり、いくら娘のためとはいえあの厳格一徹な祖父が、日本が泥沼の戦争に踏み出す前の良き時代には欧米の音楽に関心を示したことがあったかと思うと、狐に化かされたような不思議な思いがしたものだ。いやそれ以上に、祖父の柔らかな心を奪い去った戦争を心底憎んだ。
谷地での短い暮らしで、それこそレコードが擦り切れるほど聴いた日々ほど、私の脳裏で温かな笑みをたたえている出来事はない。戦争のまっただ中で、ほかに何の楽しみもなかったからだろうか。そうじゃないといったら嘘になるだろうが,私自身は同じSPレコードをたとえ毎日聴いても決して飽きなかったと信じて疑わないし、今でも歌や演奏の一部始終を口ずさめるほど身をよじるようにして愛聴したものだ。とはいえ,私にとってレコードを聴く行為は一種の儀式のようなものだったのである。
まず、母の承諾を取る。もっとも母が首を横に振ったことは多分ない。許しが出るとすぐに,奥の8畳間に面した廊下ごしの雨戸を全部閉める。音が極力外に漏れないようにするためだ。次にポータブル蓄音機を部屋のほぼ真中におき、SP盤を収めた箱とブック型のレコード袋を脇に揃える。最後に用意するのが毛布。これも音が外で聴こえないよう子供ながらにに考え出した工夫だった。蓄音機には音量調節の機能がないのだ。レコードをセットし,針(竹針は専用の鋏で先を切って揃える。金針より音は柔らかい)を装填したあとゼンマイを巻いて、アームを盤上におろした瞬間、蓄音機ごと毛布をかぶって聴くというわけだ。終わるとゼンマイを巻き,竹針を切りそろえて次のレコードをターンテーブルに載せ,再び毛布をひっかぶる。1枚や2枚ではない。何十枚とあるSP盤を片っ端から毛布をひっかぶって聴くと言えばかなりの面倒を想像してもおかしくはないが,苦になるどころか,当時この聴き方が当たり前と思っている私には天国に行く階段のようなものだった。明日はレコードを聴く1日にしようと考えただけで,ひとりでに胸がワクワク弾む気持を抑えられなかったものだ。私にとって最高の贅沢な時間がこのSPレコードの試聴だったのである。
私にとって当時のSPレコードは食べ物と同じで、気に入った大好きな音楽ほど最後までとっておいた。料理では好きなものから手をつける? それとも好きなものは最後までとっておく? というアレと同じだ。私は後者のタイプらしく、聴く順番が大半は決まっていた。学生のころ仲間との雑談で、最初か最後かの話になると,私の脳裏にとっさに浮かぶのは食べ物ではなく奇妙にも谷地で聴いたSP盤,つまり中身の音楽や演奏だった。最後に聴く盤は決まってレクオーナ・キューバン・ボーイズによる<タブー>と<アマポーラ>がカップリングされたコロムビア盤であり,終盤のクライマックスに用意された何曲かの中にはポール・ホワイトマン楽団の演奏する「蝶々さん」など数曲があった。ホワイトマンといっても、プッチーニの<ある晴れた日に>をフォックス・トロット調で演奏した<蝶々さん>は、ビックス・バイダーベックを擁してジャズの通が注目した時分のホワイトマン楽団ではない。むろん当時の私がそんなことは知るよしもなく、歯切れのいいダンス・テンポのこの演奏が小学2年生の耳にはえらくかっこ良く響いたのである。そのほか大半は1930年代の欧米の軽音楽だったが、<キャリオか>や<口笛吹きと犬>とか、<薔薇のタンゴ>とか。ハワイアンもあれば,ルネ・シュメイというフランスのヴァイオリン奏者が演奏した宮城道雄の<春の海>もあった。また軍歌もあり,<露営の歌>や<出征兵士を送る歌>などの軍歌は毛布なしで聴いた。ズッペの<金と銀>、<軽騎兵>序曲、<ボッカチオ>序曲、ワルツ王シュトラウスの<南国の薔薇>などのクラシックもかなりあった。クラシックと言っても軽音楽調だが、私がクラシック曲を好んで聴くきっかけとなった出発点ではあったろう。
しかし,私の音楽体験の原点となった演奏といえば、あの<タブー>をおいてない。この曲はマルガレータ・レクオーナが作詞作曲し、34年にキューバで出版された。その翌年レクオーナ・キューバン・ボーイズがパリで吹き込んだこの演奏はキューバ音楽史上の古典的名演のひとつとなった。
初めて聴いたとき,私は遠い未開の土地に住む人たちが神の祭壇前で生け贄を捧げて躍る図を思い浮かべた。後年、キューバにはアフリカの原始宗教とスペインのカトリックが混合して生まれたサンテリアという黒人宗教儀式があること,バタと呼ばれる大中小3体の両面太鼓のリズムに乗って演じられるこの”神を讃える”儀式が,キューバ音楽と深い関わりあいをもっていること、等々を知ったとき、私の想像が決して間違いでなかったと懐かしさを噛みしめた。<タブー>の中に出てくる”オチュン”、”オバタラ”、”イエマージャ”らは,実はアフリカのヨルバ族の神々だったのだ。その後は、この演奏を聴く度にサンテリアの儀式絵巻が脳裏に広がった。いつの日かサンテリアをこの目で見たいという思いに駆られるようになったのも,まさしくレクオーナ・キューバン・ボーイズの<タブー>ゆえだった。
1990年12月、親友の誘いに無条件で飛びつき、キューバの土を踏んだとき,願いが叶った。私はこのとき予定を延ばしてキューバに1ヶ月滞在した。それは大晦日の夜、知人が車を駆って案内してくれた JOVELLANOS という町のとある家で,ついに非公開のこのサンテリア儀式を目撃したときの幸運と感激,それは僅か数行の文章に尽くせるものではない。見終わったとき霊に憑依されて失神した生まれて初めての体験も、私にとっては<タブー>が招き寄せてくれた僥倖のしるしだったのだろう。
ともあれ、後年になって思い返す度に感心したのは、あの厳格で口やかましい祖父がたとえ娘のためとはいえ、よくもこれだけのレコードを買ったものだということであった。私の身体にはきっと祖父のDNA が入っているのだろう。