ビリー・ホリデイ 竹村洋子
Illustration by Yoko Takemura 竹村洋子
私の音楽好きは母からの影響である、とJazz Tokyo 200号記念の時に書いた記憶がある。
私は幼稚園の頃からクラシック・ピアノのレッスン(ピアノのお稽古)を受けていた。というより、母に受けさせられていた。母はかなりの音楽好きで、コーラスに参加したり、オペラ、ピアノのレッスンも取っていた。父は音楽に対する興味は皆無であったが、趣味で絵画を習いアート全般に対する造詣が深かった。両親ともに映画がとても好きで、家族は昭和30年代の中頃まで、福岡に住んでいた。父によると映画館の数は福岡が全国一だったらしい。(嘘か本当かは?)
私の家族は、私が小学生2年の時に横浜に越してきたが、我が家には私が中学に入る頃まで、テレビというものがなかった。
私には5歳年上の姉がいる。両親は、私と姉をよく映画に連れて行ってくれた。特に妹である私の方を母がしょっ中映画に連れて行ったことを、姉は今でも僻(ひが)んでいる(?)が、それは、姉が受験の時期と重なっていたこともあると思う。母が連れて行ってくれた映画はディズニー映画はほとんど全て。そしてミュージカル映画が多かった。母は私を連れて行くことを、本当は自分が観たい事の言い訳にしていたのだと確信している。
当時の母にとっては、『ジャズ=邪悪な音楽』だった。ジャズ自体より、おそらくジャズミュージシャンやジャズ好きな人たちが、自分の住む世界とは違うので理解できなかったのだろう。
父を除く私たち女性3人は、音楽はもっぱらラジオから聴いていた。私が中学に入った頃だったと記憶しているが、3人で相談して父に、「英語の勉強のためにステレオを買ってほしい。」と頼んだところ、父は激怒し「お前たちは遊びのために欲しいんだろう!それを認めたら買ってやる。」と言ったのを今でも鮮明に覚えている。結局、父は安物のステレオ・レコード・プレイヤーとかポータブル・FM・レコードプレイヤーとでも呼ぶのだろうか、そんな物を買ってくれた。縦50cm、横幅1mくらいで中央が空いていて、そこにターンテーブルがあり、LPを乗せるとLPが前後にはみ出す様な仕掛けのチープなものだったが、それが、私の人生を変えたかもしれない。
姉の部屋と私の部屋の間には引き戸があり、姉の部屋のその引き戸を背にして、ステレオを置き、両方の部屋から聴ける様にした。
最初はシングル盤で、エルヴィス・プレスリーや映画音楽のサウンド・トラックを買って聴いていた。今でもそのシングル盤は持っている。
ある日、土曜の午後だったのが鮮明に記憶にある。学校から帰って来て、何気につけたFMラジオから、今まで聴いたこともないようなとてもユニークな女性の歌声が流れてきた。ビリー・ホリデイだった。<奇妙な果実>だったかどうかは記憶にないが、それまで、私が耳にした事のないユニークなヴォーカルに大きなショックを受けた。それが私にとって初めてのジャズだった。
以来、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレイ、ナンシー・ウィルソンなどの女性ヴォーカルを聴く様になった。
クラシック・ピアノを習っていたせいもあり、レッド・ガーランド(<When There Are Gray Skies>は初めて買ったジャズのLP)、ウィントン・ケリー、ケニー・ドリュー、デューク・ジョーダンなどピアノの演奏に興味は広がっていった。デューク・ジョーダンの『Flight To Denmark』のアルバムの中から何曲か、またジュニア・マンスの演奏を耳で聴いてコピーし、ピアノで弾いてみたりし、”なんだ、そんなに難しくないじゃない!”な~んて生意気で馬鹿なことをやっていた。今考えると全く恐れ多い話だ。ピアノのレッスンは高校2年の時に、私には才能と我が家にはお金がないことが分かり辞めてしまっていた。
初めて行ったジャズのコンサートは、高校生の時、神奈川県民ホールであった「オスカー・ピーターソン・トリオ」だった。当時、『ジャズ=悪』であった母が「ピアノだったら行ってもいいわ。」と言った理屈は今でも理解できないが、ともかく、私と姉をコンサートに行かせてくれた。巨大な人が綺麗なピアノを弾くといった程度の記憶しかないが、楽しかったことは間違いない。
以後、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ハンク・モブレイ、ミシェル・ルグランなどのコンボから、ライオネル・ハンプトン、カウント・ベイシーといったビッグ・バンドまで手当たり次第に聴きまくった。
そして、その頃<星に願いを:ピノキオ><いつか王子様が:白雪姫><マイ・フェヴァリット・シングス:サウンド・オブ・ミュージック>など幼少の頃、母に連れられて観たディズニー映画の数々の曲がジャズのスタンダード曲になっていることに驚いた。
今回、このエッセイを書くにあたり、何を聴いていたのが、1970年あたりに最初に買ったシングル盤を探し出してみた。
<ボルサリーノ:クロード・ボウリング>、<スウィート・ハート・トリー:ヘンリー・マンシーニ>、<シシリアン:エンニオ・モリコーネ>、<私生活:フィオレンツェ・カルピ>、<黒いオルフェ:アントニオ・カルロス・ジョビン>、<死刑台のエレベーター:マイルス・デイヴィス>、<危険な関係のブルース:デューク・ジョーダン、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ>、<ファイヴ・イージー・ピーセスから、スタンド・ユア・マン:タミー・ワインネット(カントリー・ミュージックだが今でも大好きな曲の一つ)><ラスト・タンゴ・イン・パリ:ガトー・バルビエリ>など30枚ほど残っていた。何と、ジャズ、という物を知らなかったのに、ジャズを聴いていた訳である。我ながら「いいチョイス!」とちょっと笑いが出てしまう。
こういう話は書き出すとキリがないが、こんなことが私のジャズ事始めになる。ジャズを聴き始めた当時、まさかその未来にカウント・ベイシー・オーケストラのメンバーと家族ぐるみの付き合いをしたり、カンザスシティに20年以上通い、カンザスシティ・ジャズを研究したり、Jazz Tokyoに寄稿したりするなど、夢にも思わなかった。
現在は、私に大きな影響を与えてくれた姉とは好みがかなり違うが、時々来るアナログの手紙には「この間、レックス・スチュアートのすっごく良い演奏のカセット・テープが見つかり、懐かしく聴きました。貴女のところにはカセット・プレイヤーがなくて聴けなくて残念ね!」などと書いてくる。
『ジャズ=悪』の母は、昨夏96歳で他界したが、こんな姉妹に育ててくれた彼女には感謝の気持ちでいっぱいである。