モダン・ジャズ・カルテット『Pyramid』 近藤秀秋
ジャズとは3度、大きな接触をしたように思います。最初は知らない音楽に興味を惹かれて。2度目は西洋のポピュラー音楽やギターの教科書として。3度目は音楽として。
ジャズをジャズとして意識して聴いた初体験は、高校生のころでした。音楽好きがエスカレートして「ジャズという音楽も聴いてみたい」と思うようになっての事でした。右も左も分からないので、音楽雑誌でジャズの特集が組まれた際に、面白そうなアルバムのいくつかに手を出しました。
その時に聴いたのは、ビル・エヴァンスなら【Unknown Sessions】ではなく【Walts for Debby】、ジョン・コルトレーンなら【Live in Japan】ではなく【Ballads】で、スタンダード寄りのものが多く、それも好きではあったのですがのめり込む所までは行かず、ファースト・コンタクトは教養的な聴き方に終わったように思います。ただし、その中にひとつ、素晴らしいと感じたものがありました。MJQでした。
モダン・ジャズ・カルテット【Pyramid】
2度目は音楽理論や演奏の教科書として、3度目は音楽としての体験で、このふたつは並行して進みました。両者を何とかひとつの物として接地させられるようになるのはずっと後になってからで、当初は分けて捉えざるを得ない状態でした。
この頃、自分に強く影響されたジャズのアルバムをいくつか挙げると、すぐに思い出すものは以下の通りです。
エリック・ドルフィー【Other Aspects】
ジョージ・ラッセル【Jazz in the Space Age】
セシル・テイラー【The Great Paris Concert】
チャールズ・ミンガス【Jazz Composers Workshop】
ジミー・ジュフリー【Thesis】
トニー・ウイリアムス【Spring】
大いに感銘を受けたのですが、いざこれらを自分で演奏するとなると、信じがたいほどに高いハードルで、システムも初学者には分析すら不可能でした。同時に聴いていた古楽や現代音楽や民族音楽と同様、聴いて感銘を受けるので精一杯の、雲の上の音楽でした。
これらジャズに惹かれる一方、音楽を志す過程でジャズに接している面もありました。西洋のポピュラー音楽、わけても機能和声法とギター演奏法は、最初にジャズから学びました。アドリブは、ジャズ以外には有効なメソッドすら見つけることが出来ない状態でした。
ジャズの理論書は、いままで何冊読んできたか分かりませんが、初期に読んだものはどれも似た内容で、渡辺貞夫さんの書いた『ジャズ・スタディ』に似ていました。それがバークリー・メソッドなのかも知れませんが、その中で特に自分にとっての「西洋ポピュラー音楽理論事始」となったものは以下の本でした。
沢田駿吾、谷口廣志『The Real Jazz Guitar volume 1』
一方、ギターの演奏メソッドは、分からない事が多すぎたため、途中からは「まずはどんなコードネームが出てきてもぜんぶ演奏できるようにしよう」、「長調、短調、ブルースの3つの曲種で、まずはスリーコードでアドリブを取れるようにしよう」といった具合に、自分なりに上達するための道筋を作り、その都度いろいろなメソッドに当たるようになりました。その中で、特に自分のジャズ・ギター書事始になったものを挙げるとすれば、以下のふたつでした。
ジョー・パス『Guitar Method』
パット・マルティーノ『Creative Force』
実際の演奏は、ギター内でオーケストレーションを作る正規のギター演奏法を知らない段階で、これらはジャズのメソッド本から学ぶことが出来ず、ジャズではない音楽を追っていました。ただ、ジャズには優れたギター演奏があったので、教科書よりも実際の演奏を参考にしていました。その事始になったアルバムは、以下のあたりです。
ジム・ホール【Live!】
カーメン・マクレエ【The Great American Songbook】(ギター:ジョー・パス)
チェット・ベイカー【The Touch of Your Lips】(ギター:ダグ・レイニー)
以降、ギター演奏はクラシックやフラメンコにも取り組み、和声法や作曲技法は古典純粋対位法や20世紀の作曲技法に取り組むといった状態で、さまざまな音楽の良い所を統合しようと活動してきたように思います。その活動は、もしかすると私にとって「音楽として」のジャズ事始になったジミー・ジュフリーやセシル・テイラーと似た視点なのかも知れません。
他の音楽からの影響なしに明確な原型を持つ音楽というものがあるのか、私には分かりません。作曲技法としてはあるでしょうが、演奏や思弁という所まで含めると、それは現代では遡ることが出来ない過去に起きた事ではないでしょうか。こうした音楽の歴史に私は畏怖に近い感情を覚えるのですが、それを前提として、敢えてジャズの原型を捉えるとすれば、ルイ・アームストロングのホット・セブンやブラントン/ウェブスター期のエリントン楽団、そしてそこから連なるチャーリー・パーカー、このラインを私は「ジャズ的なもの」として捉えているようです。そして、私の「音楽として」のジャズ事始は、これら「ジャズ的なもの」が他の音楽とシンクレディズムを起こして生まれた音楽でした。
時代思潮がそうだったのかも知れませんが、私が感銘を受けた音楽とは「強烈なリアリティを与えるもの」であって、この体験の成立させる条件として、どこかに「今この瞬間にもっともふさわしい演奏、形式、その背景にある何か」という事項があると思っています。いまも、自分にとってのジャズ事始になった音楽にあたる事があります。時代は次第にクオリティを重視するようになり、そこを優先するがあまりにクリエイティヴィティがやや後退したように感じられますが、こうしたバランスの悪さは、いつの時代だってそうだったのかも知れません。そうした中で、三者の拮抗したバランスの良い音楽を、自分のジャズ体験の初期に出会えた事は、実に幸運な事だったと思っています。