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このパフォーマンス2017(国内編)No. 237

#07 齋藤徹×長沢哲

2017年10月28日(日) OTOOTO東北沢

Report and photos by Akira Saito 齊藤聡

Tetsu Nagasawa 長沢哲 (ds)
Tetsu Saitoh 齋藤徹 (b)

齋藤徹が癌に襲われたのは昨年のことだった。そこから粘り強い治療と手術を経て、即興シーンに戻ってきている。いや、「戻る」という表現は正しくないかもしれない。これまでがそうであったように、再び、新しい形や縁を見出し始めたと言うべきか。年のはじめのころは、体力的に明らかにつらそうだった。演奏の休止もあった。しかし、ことパフォーマンスを観る限りにおいては、着実に恢復を続けているようにみえる。

この日、長崎在住の打楽器奏者・長沢哲との演奏は、齋藤徹復活を感じさせるものだった。(そして、「恢復」の途上だからといって、その過程で提示される音楽が途上のものではないことが、音楽の面白いところにちがいない。)

マレットの丸さと、近づいては離れるコントラバスとが間合いをはかりあうようなはじまり。長沢がハイハットを少し鳴らすと、それがまるで刺激剤のように作用し、音楽が動き始めた。周波数の綺麗なプロファイルは、次第に激しくなるふたりの音により、ときに破裂をみた。ドラムは和楽器の鼓のようにも鳴り、コントラバスがその音の集約をまたダイヴァーシファイさせた。

長沢の小休止により、サウンドが次の章に入った。マレットとシンバルの残響を何層にも重ね合わせた、大気的な音。齋藤は哀しみの曲を奏で始め、ドラムスの響きに刻みを入れてゆく。ブラシでの強度あるパルス、齋藤の口笛によって吹き込まれる風。齋藤のノイズに対して長沢はマレットにより執拗なパターンを繰り返す。互いの音のシフトに次ぐシフト、しかし、そのふたりの音は孤立しておらず、大きく重なりもする。最後に、齋藤が両手を何度も握り、振って、コントラバスから肉体への回帰をみせた。

そしてセカンドセットが、齋藤徹復活を確信させられるものとなった。実に魅力的な倍音とノイズ、全開に向けて覚悟を決めたかのような演奏である。その大きな河の流れに向かい、長沢は、シンバルとマレットでのドラムの残響を細やかに丁寧に合わせていった。

激しい演奏でちょっと疲れたのだろうか、齋藤がコントラバスの背後でしばし休む。そして指に小さなパーカッションを4つ付けて、別の鳴り物も握り、力強く「歌」を奏でた(マイルス・デイヴィス/ギル・エヴァンス『Sketches of Spain』で演奏された「Saeta」)。マレットがそれにシンクロした。やがて指のパーカッションは次々に投げ捨てられ、それまでの素晴らしい過程を祝うように、長沢がシンバルを鳴らした。

豊かに発散した音を再び取り戻し、糸をよりあわせるように収斂させてゆく齋藤徹、それにより生まれる静かさを拡張させる長沢哲。収斂の際にまわりのさまざまなフラグメンツを巻き込んでゆく齋藤徹、鮮やかなスティールパンのような音を発する長沢哲。そしてカーテンのように吊るされたベルの綺麗な鳴りと、齋藤徹の足踏みによって、演奏が収束した。

後日、齋藤徹は、長沢哲について、故・富樫雅彦を想起させられると書いている。確かに、長沢の驚くべき多数のタムタムやシンバルから発せられる音は、楽器ひとつひとつの役割を定め集中しながらも、複数ということによって鮮やかに彩られたものであった。

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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