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GalleryGUEST COLUMNNo. 298

ペレを見送るレコード

text by Shuhei Hosokawa  細川蹴平

 

昨年末、ブラジルのペレーの逝去を知った(ここでは敬意を込めて、元のアクセントに忠実に表記したい)。一年間に聞いた数多い訃報のなかでも、とりわけ強く時代の終わりを感じさせた。サッカー少年らしい情熱をある時期まで保っていたが、今では同世代の旧人類と「懐スポ」(懐かしのスポーツ)として話題にする程度、さる12月のワールドカップ・カタール大会にはまったく関心が湧かなかった。それだからこそ、久しぶりに聞くペレー(1940~2022)の名には、青春の思いがあふれてしかたがなかった。

1970年のワールドカップ・メキシコ大会はブラジルが3度目のチャンピオンに輝き、この国際イベントを企画実現した国際サッカー協会FIFA会長の名を採ったカップ、ジュール・リメ杯を永久保持する名誉を受けた大会である。日本ではそれよりも録画とはいえ、初めてテレビ放映された大会として重要だ。国内リーグとは別次元の試合を見て、高校のサッカー部員は心動かされた。3年のキャプテンが「ぼくらも同じボールを蹴っている」と力強く語ったのを、1年小僧は忘れられない。

そういうサッカー生活(といって運動能力は低かったが)のなかで、ペレーの存在は夢のように大きかった。ブラジル・チームの力は圧倒的で、その中心にいるのが彼だった。芸術家で軽業師で即興家で・・・。まずその名前がピンとくる何かを響かせていた。ペレー。少年時代のあだ名が一生の、世界中の呼び名になった。ブラジル代表は1958年から70年まで。71年には引退試合が組まれた。この間流行歌にも採用され、最初の数年には「ペレーと若い連中」「王様ペレー」「貧民のためのペレー」「ペレー」というようなベタな曲が世に送られた。1969年には1000ゴールが国中の興奮を呼び、記念切手になった。ブラジル社会では黒い肌は特別な意味を持つ。彼はブラジルの国民と同時に人種の代表のように賞賛された。その入り組んだ歴史を彼は誰よりも深く理解していた。

この時期はブラジル史でもまた特別な時期で、ペレーの名が時代ごとに入れ替わる人気選手に留まらず、時代の象徴として永久保持される理由でもある。とりわけ1958年は『幸せな1958年―終わってはならない年』(ジョアキン・F・ドス・サントス)という回顧本があるように、別の意味を持つ年だった。民衆寄りの大統領は「50年の変革を5年で」と国民を煽り、ポルトガル植民地時代からの首都リオ・デ・ジャネイロから砂漠の真ん中、ブラジリアへの遷都計画が建築中の未来都市のかたちを取って報道された(正式な新首都は1960年に開始)。ウィンブルドンとミス・ユニヴァース・コンテストでブラジル人が優勝した。国旗に書かれたモットー「秩序と進歩」がすぐそこまで来ていると信じられた。1958年はボサノヴァ誕生の年でもあり、ジョアン・ジルベルトの「想いあふれて」が新世代のアンセムとなった。日本でいうなら高度成長と東京五輪とグループサウンズの1964年が、表向きは似ているかもしれない。ペレーの特別扱いは、たぶん長嶋茂雄が記録破りの野球選手という以上の存在、時代のアイコン、さらにスポーツのアイコンとして記憶されているのと似ている。

1958年はLP、ロングプレイが標準化した年で、ブラジルで初めてワールドカップのドキュメントLPが編集された。国旗に選手・監督の顔写真をあしらったジャケットで、「ブラジル、世界チャンピオン」と堂々と記されている。裏ジャケは優勝の新聞記事をそのまま複写、コンテンツはラジオ中継の編集で、母国に向けてゴーール!と絶叫する人気アナを聴ける。録音テープが局に標準装備されたからこそ可能な企画だ。興奮アナウンスの合間に「我々が神に願ったカップ」「勝利の水彩画」という初優勝祝賀サンバが、国民のドキドキを歌っている。ヨーロッパが世界大戦から復活するのに忙しかった1950年、ブラジルは優勝の自信満々で自国開催を引き受けたのに、決勝戦の終了間際、ウルグアイに得点されて栄光を逸した(「マラカナンの悲劇」)。その雪辱をスウェーデンでは果たした。ラジオの周りに家族と友人が集まり耳を傾けた緊張と歓喜を再現する役目をLPは果たした。

これ以降、ブラジルでは少なくとも1990年のイタリア大会まで記念LPが制作された。1962年チリ大会では『ブラジル 二度目の世界チャンピオン』というラジオ・ドキュメンタリー盤と番号続きで、ラジオの人気アナによるペレーのゴール・アナウンスを集めた『ペレー、そのゴールと人生』が制作されている。この大会で彼は予選のうちに負傷し、大した活躍を果たせなかったが、この記念盤はその穴を埋めたかのようだ(代わってガリンシャの大活躍で連続優勝を果たした)。ブラジルには日本の競馬や相撲と同じく、テレビ中継があろうとラジオの名調子を好み、競技場で自宅で観戦のお伴に利用する観客が一定数いた。想像するだけだが、ペレーの元祖追っかけにはそのラジオ好き世代が多いのではないだろうか(一次リーグ敗退の1966年大会には、記念盤はたぶん作られなかった)。

さてメキシコ大会後、ポップ歌手・作曲家のウィルソン・ミランダがシングル盤「ありがとうペレ」(1971)を献呈している。A面「友だちペレ」、B面「ペレーはいつでもペレー」の両面で、ナショナル・チームから引退する英雄を讃えている。彼はペレーと同じ1940年生まれ、初回ワールドカップ参加優勝と同じ1958年のデビュー盤で成功し、60年代、テレビ・ラジオで人気を得た。「〽試合が始まると、人生とグラウンドのふたつに/栄光が分かれてしまう/ペレーの感情のなかでは・・・」。A面はこんな風にサッカーに人生を映し出すような歌詞で、厚化粧の人気ショー・ラジオ歌手、アンジェラ・マリアが歌うと演歌と変わらない。「〽カップを手に泣いた少年のイメージは永遠に残る/ブラジルが勝利した栄光の叫びに/みなは陽気に歌った、その喜びがいつか泣かせる」。メダル授与式直後、ペレーの有名な泣き顔写真が蘇ってくるようだ。泣ける英雄は強い。ペレーのユニフォームと感情を通すことで、勝った!万歳!に終わらないサッカーと人生へのアンセムになっている。彼の存在の大きさがしのばれる。

ペレーはブラジル代表を1971年に引退、3年後には古巣のサントスを退団するが、翌1975年、アメリカにサッカー熱を拡大する彼の熱意なり北米業界の野望を持って、ニューヨーク・コスモスに入団した。それに合わせて一種のバイオ映画が作られ、そのサントラLP(Atlantic)がセルジオ・メンデス・プロデュースで作られた。もちろん当時、ブラジル77のリーダーとして、北米の音楽界では最も知られたブラジル人アーティストだった。ジャケはコスモスのスタジアムでポーズを取るペレーだが、裏ジャケはセルジオ・メンデスのおしゃれな白スーツ写真で、彼の人気あって企画されたアルバムのようだ。ブラジルは北米にはスポーツ的にも音楽的にも遠い熱帯の大国だった。主題歌はペレー作の「ぼくの世界はボール」で、複数のヴァージョンで聴ける。「おいみんな、歌おうよ/世界はボール、世界は回り続けなくっちゃ/止まっちゃいけない、パスし続けよう、歌おうよ・・・」。ペレーとブラジル77のヴォーカリストのデュオには、ジェリー・マリガンのバリトン・サックスがかぶさっているし、ジム・ケルトナーのドラムスもクレジットされているので、本誌読者の間では案外知られた盤かもしれない。

一方、カエターノ・ヴェローゾはペレーがよくヒッピーのように、神がかった発言をしていたことに共感し、「ラブ・ラブ・ラブ」(1978)に仕立てた。カエターノ自身が1968年当時、ヒッピー風でメディアに登場したのだが、ラブ&ピースなどと歌ったことはない。サッカーに無関心と公言している、ブラジルでは稀な男性歌手が唯一吹き込んだサッカー関連曲だろう。「世界中にぼくは呼びかける/この呼びかけがペレーを動かした/ラブ、ラブ、ラブ・・・世界中でぼくは待っている/ペレーを動かしたビジョンを/ラブ、ラブ、ラブ」。ぼくがブラジルに滞在した1990年代、ペレーはテレビのゲストでよく招かれていたが、局側は面白い発言を引っ張り出そうとつっついていたように思い出される。細部は理解に程遠いが、その聡明なやりとりは愛される秘訣だった。

ペレー自身もシングル盤「ガキンチョ/子ども」(1979)を吹き込んでいる(*一番上の画像)。これは国際子ども年のためのチャリティ盤で、彼の長い社会活動の一環である。「ガキンチョ君、人生には気をつけろよ、大通りでは気をつけろよ、たぶらかされるなよ/ガキンチョ君、ぼくを助けてくれよ、君を助けるから」。こんな優等生目線で「君の人生の道をなるったけ変えよう/人生を変えよう/後から来る子らの模範になろう」と歌う。ネットにはギター片手にマラドーナに歌を聴かせるアルゼンチンのテレビ・ショーが乗っていたが、慣れた弾き語りぶりと見受けた。

最近になって(2020年)、アルシオーネが「三つの心臓の男」という賛歌を発表した。これはペレーの誕生地、ミナスジェライス州「三つの心臓(トレス・コラソン)」村にちなむ。「前後半が終わろうとしている/深く息を吸って胸に空気を入れる/歯をかみしめ、ボールを斜めに送り出す/牛のドリブル、バックキックの幻の痛み」。延長戦にもつれこまぬよう、背番号10は必死の様子だ。次の連では即興技がジャズにたとえられている。「神々はアランテス〔ペレーの母方の姓〕が即興するのをごらんになった/ちょうどジャズのアーティストがするように/規則やぶりで/ピアノバーのホリディのように」。軽妙なジャズ・アーティストはもっとほかにいそうだが、まったりレディー・ホリディが引き合いに出された。歌は続いてジジ-ニョ(小さいころのペレのアイドル選手)、オスカル・ニーマイエル(ブラジリアの設計者)、ルイス・ゴンザガ(北東部の田舎っぽい歌手)、ピシンギーニャ(ショーロ中興の祖)、ポルティナリ(モダン派アーティスト)など、20世紀の代表的ブラジル人を賛美したうえで、ゴール・ネットのなかでボールは「神ペレーとともに夢見る」と一言加える。生前、彼はこのように王の域を突き抜け神域に達していた。「〽ブラジルの地に巨人が育った/君の名はペレー、君の名はブラジル/君の名は国旗、・・・/行けブラジル、足を使って、ペレーを思い出して」(「ペレーはいつまでもペレー」)。

 

細川周平

細川周平 Shuhei Hosokawa 京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は音楽、日系ブラジル文化。主著に『遠きにありてつくるもの』(みすず書房、2009年度読売文学賞受賞)、『近代日本の音楽百年』全4巻(岩波書店、第33回ミュージック・ペンクラブ音楽賞受賞)。編著に『ニュー・ジャズ・スタディーズ-ジャズ研究の新たな領域へ』(アルテスパブリッシング)、『民謡からみた世界音楽 -うたの地脈を探る』( ミネルヴァ書房)、『音と耳から考える 歴史・身体・テクノロジー』(アルテスパブリッシング)など。令和2年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

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