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インプロヴァイザーの立脚地No. 324

インプロヴァイザーの立脚地 vol.30 山㟁直人

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2025年3月8日 駒込にて

山㟁直人は「叩く」ことの少ない稀有な個性をもった打楽器奏者である。国籍もあまり関係なさそうにみえる。この独自の道を、かれはどのように切り開いてきたのか。

自然にドラムだった

はじまりは中学2年のとき。文化祭で先輩がバンドで演奏するのを見て憧れた。同級生たちと盛り上がり、バンドを始めた。最初はヴォーカルをやりたかった。声変わりする前のことである。だが、自然な流れとして向かったのはドラムだ。高校生の兄がよく練習していて、なぜか近所からもまったく苦情が来なかった。練習せずとも叩くことができたのは、兄の様子を見ていたからだ。バンドでは当時流行していたロックバンドのBUCK-TICKのコピーなどを演って、文化祭にも出た。愉しくなって、ずっと続けたいなと思ってしまった。

高校では軽音楽部に入った。サッカーもやってはいたが、なにしろ坊主頭にしたくなかったのだ。ニルヴァーナなどオルタナティヴ・ロック、グランジのコピーバンドを演った。他の高校の人たちとも意気投合し、次第に生まれてきた気持ちは「自分たちの音楽をやりたい」。卒業してからも音楽仲間と一緒にスタジオに入り、オリジナルを演奏し始めた。

ライヴハウスに出演し始めたのは2000年頃、二十歳になってからである。右往左往もしたが、バンドメンバーも固定できた。出演するハコは池袋LIVE INN ROSA、吉祥寺WARP、二子玉川ピンクノイズ(2011年閉店)、渋谷LUSHといったところ。ポストロックを続けてはいたが、それにフリージャズやノイズも侵入してきた。というのも、十代の終わりころにボアダムスやソニック・ユースの洗礼を受けてしまったからだ。ダーティ・スリーやアルバート・アイラーの影響もあった。

最初のころはギター、ベースとのトリオ、そのうちにベーシストが辞めてギタリストふたりとのトリオになり、さらにその後ギターがひとり辞めてギターとドラムのデュオになる。2007年ころまで続けた。

ドラムス

そのころ衝撃を受けたドラマーはジム・ブラックと外山明だ。ブラックは藤井郷子(ピアノ)、マーク・ドレッサー(ベース)とのトリオを組んでいた時代でキレッキレだった。外山はUAとの共演で広く知られるようになる前で、やはりカッコよくて追っかけた。

それまで山㟁は音楽やドラム演奏というものについて「勉強」を一切してこなかった。それでもよかったのだが、表現したいことに技術が追い付かなくなった。練習嫌いでもあるし、自分を縛るしかない。2000年代の初頭に近所でドラム教室を探し、埼玉音楽院(埼玉県富士見市)で阿部拓也に教わることにした。数年間通い、ルーディメンツを中心にジャズや世界の様々なリズム、フリーなんかも演った。そのおかげで自由なドラミングを得たし、自分の方向性を見出すことができた。

フリー・インプロヴィゼーション

あるとき、阿部拓也から音楽パートナーの榎田竜路(ギター)が演奏したことのあるバーバー富士(埼玉県上尾市)のことを教わった。理髪店でありながら定期的にフリー・インプロヴィゼーションのライヴを開催する場所だ。2005年にジョエル・レアンドル(コントラバス)の演奏があるというので、バーバー富士にはじめて足を運んだ。「これだ」と思った。自由なドラミングを求めていた山㟁にとっては「頭が開いた感じ」。外山やブラックなど自由なドラマーの音を聴いては、自分も自由になりたいと思い、もがいていた時期である。本当の意味でのフリー・インプロヴィゼーションに出会ったと確信した。

そんなことがあって、山㟁はバーバー富士に通いはじめた。店主の松本渉はいろいろなインプロヴァイザーについて教えてくれた。だから、山㟁にとって松本は師匠と呼べる人だ―――齋藤徹(コントラバス)もそのことを知り、「いい道を選んだね」と喜んだという。松本に最初に勧められたのがレ・クアン・ニン(Lê Quan Ninh、パーカッション)。その衝撃は大きいものだった。パーカッションの世界を開いてくれたのはニンだし、バーバー富士での中谷達也(パーカッション)の演奏を通じてニンも理解できたような気がした。中谷にも弓やゴングなど拡張奏法について学ぶことができた。

ジョエルショックのあと、ポストロックを続けるとともにひとりでフリー・インプロヴィゼーションについて模索を続けていたが、2007年になり、太田正彦(ギター)、高杉晋太郎(コントラバス)と出会い「盆ノ窪」を結成した。スタジオに集まったら、たまたま3人ともアコースティックだった。そして、かれらとはじめて音を出したとき感じたのは「もっとも自由で、受け入れてもらえた」との気持ち。演奏に制限がなかった。ペンギンハウス(高円寺、2020年に閉店)では即興のシリーズを始めており、盆ノ窪も呼んでもらえるようになった。Flying Teapot(江古田)やloop-line(千駄ヶ谷)、キッド・アイラック・アート・ホール(明大前)などでも演奏した。

盆ノ窪で学ぶこと、培われたことは多かった。手数を出す必要性がなくなり、完全アコースティックなため必然的に音量も小さくなってゆく。いかに小さな音でできるか―――そのようなダイナミズムである。仲間と価値観をシェアできることにも大きな意味があった。

ペンギンハウスで知り合ったミュージシャンは、森重靖宗(チェロ、ヴォイス等)、ヒグチケイコ(ヴォイス等)、カル・ライアル(ギター)、ノブナガケン(ドラムス等)、三浦陽子(ピアノ)、新井陽子(ピアノ)、といった人たちである。キッド・アイラック・アート・ホールから盆ノ窪のレギュラーライヴシリーズを提案され、ゲストとして招いた秋山徹次(ギター)との出会いも重要であった。

フランスへの扉

2000年代の初頭から、山㟁はMyspace(ミュージシャン向けのSNS)を使い、他国の人たちとコンタクトを取るようになった。日本に行くから一緒に演奏しようとの誘いなどもあったりして、特にヨーロッパとの距離が縮まっていった。その中にはユーグ・ヴァンサン(Hugues Vincent、チェロ)やダヴィド・キエーザ(David Chiesa、コントラバス)などフランスのミュージシャンたちもいる。詩人のアンヌ=ジェームス・シャトン(Anne-James Chaton)から連絡をもらったのは2008年のこと。京都のヴィラ九条山はアンスティチュ・フランセ日本が運営するアーティスト・イン・レジデンスであり、東京で一緒に演ろうとの誘いだった。そして打ち合わせも兼ねて京都のヴィラ九条山まで足を運んだところ、アンヌがすごいヴォーカリストがいるとイザベル・デュトワ(Isabelle Duthoit)を紹介してくれて初共演につながる。フランスへの扉が開けてきたのはこういうわけだ。

2009年に盆ノ窪のヨーロッパツアーが実現したのもユーグが組んでくれたからだ。はじめてのフランス、はじめてのヨーロッパ。せっかくなのでソロも組み合わせようと考え、イザベルに相談した。ジュネーブでの対バンが坂田明(サックス)とニコラス・フィールド(Nicolas Field、ドラムス)で驚いたこともあった。小さいところも大きなホールもあり、いいときもそうでないときも観客にはちゃんと反応してもらえてうれしかった。当時の日本では変わったアコースティック編成でのインプロヴィゼーションなどまったく受けなかったし、どんな反応なのかもわからなかった。どこにも属さないという意識はそれゆえのことだった。

この成果もあって一気にコネクションが増え、たくさんの大事な仲間に出会う。たとえば、対バンで演奏したセバスチャン・シロトー(Sebastien Cirotteau、トランペット)とエディ・ブーベカー(Heddy Boubaker、サックス)とのVortexは実音ではなく息音だけを出すデュオで、カッコよかった。エディはその後サックスを吹けなくなったが、エレキベースとモジュラーシンセを使って活動している。トゥールーズ近くのエディの家であるメゾン・ドゥ・ラ・パント(Maison de la pente)での演奏に何度か呼んでもらったこともある。レンヌで出会ったヌッシュ・ベルショースカ(Nusch Werchowska、ピアノ)も衝撃的だった。聴いたことのないピアノの音、内部奏法、その音はとても重くてとても綺麗。

2回目のフランスツアーは2011年、半分が盆ノ窪でもう半分がソロ。盆ノ窪もトリオからユーグらを含めたセプテットに増えた。企画している段階でフランスから帰国していた村山政二朗(ドラムス等)と知り合い、あれこれ教えてもらったりもした。

フランス移住

フランスツアーの終盤に大変なことが起きた。2011年3月11日の東日本大震災である。友人から連絡がありニュースを見て驚いた。帰国のフライトは震災翌日であり、ヌッシュを含め、レンヌの人たちから帰ってはダメだと止められてしまった。だが、かれは帰国すると決めた。パリに戻って実家の無事も確認でき、飛行機も飛んだ。その次の便から欠航となったから、ぎりぎりのタイミングだった。

そんなこともあって、日本にいられないと思ったし、ヨーロッパの音楽への興味が高まってもいた。山㟁がレンヌに移住した理由はそんなところだ。現地では語学学校でのフランス語と音楽活動の日々。街にはあまり即興演奏をできるような場所はなかったが、例外的にLa Basculeといういい店があった。

フランスで驚いたことは、ライヴ会場での食事文化のありようだ。演奏の前後は皆で食事をすることが普通であり、出演者は一切それに支払うことはない。これがいいコミュニケーションの場にもなる。場合によってはホテルや宿泊費も上乗せされる。店が出演者をもてなす文化が定着しているのである。DIYを基本とするような店もあって、そのような場合には自然と関係者の間で役割分担が決まり、食事も集まる。そして、ギャラは相応に高い。

だから、出演者が遠慮などしては対等な関係でなくなってしまうし、プロフェッショナル意識をもって演奏しなければならないという意識が明確になる。思い出作りなどではないのだ。

もちろん背景には日本との政策のちがいがある。国の差こそあれ、ヨーロッパにおいて共通する点である。政府がアーティストに対して出す助成金にはさまざまなものがあり、いくつも申請するのが一般的だ。

帰国、いま

山㟁は3年ほどフランスに滞在したあと、2014年に帰国した。渡仏前からの縁を使っての演奏も続けているし、海外から来日するミュージシャンに頼まれて共演することも多い。場所でいえば喫茶茶会記(四谷三丁目、現在は長野と神保町で店名を変えて存続)の毎月のシリーズ、Jazz Spot Candy(千葉市)、酒遊館(近江八幡市)など。

長年続けている活動でいえば、たとえば、白石雪妃(書)、塚越応駿(花)、藤髙りえ子(琵琶)とのプロジェクト「松樹」。白石とは長い付き合いだ。2018年にはカナダツアーも行ったし、年に1回はライヴを演っていきたいと考えている。

長野県小諸市在住の上田暁子(画家)とのプロジェクト「En Route」(道半ばといった意味)はフランスで始めた。上田が演るのはただのライヴペインティングではない。2013年から開始し、ライヴを重ねてもずっと同じキャンバスの上に描いており、終わりがない。最後に共演したのは山㟁がミュンヘンでのレジデンシーで滞在していた時期のこと、次が楽しみである。

最近では細川麻実子(ダンス)との「在る」。参加するダンサーやミュージシャンも増えた。山㟁はこのようなプロジェクトとパーカッションとの相性がよいと考えている。フランスでも打楽器をメンバーに抱えるダンスカンパニーが多いという。今年(2025年)の初頭に行った台湾ツアーでも台北のダンスカンパニー・HORSEが招聘してくれた。

池田陽子(ヴィオラ等)、池上秀夫(コントラバス)、南ちほ(バンドネオン)らとの「アンサンブル響む」は企画が大変でお休み中だが、続けたいと考えている。なにしろ池田陽子のことは2000年代初頭にポストロックのライヴを観て興味をもち、即興で共演するとピンときた存在だ。

「落穂の雨」は川島誠(サックス)をリーダーとしてルイス稲毛(ベース)と組んだトリオであり、2020年から活動している。もちろん、セッションや来日ミュージシャンのツアーでの共演などを通じてさまざまなインプロヴァイザーとの共演も多い。フランスのギレーヌ・コスロン(Guylaine Cosseron、ヴォーカル)、オーストラリアのリース・バトラー(Rhys Butler、サックス)、フィンランドのラウリ・フバリネン(Lauri  Hyvärinen、ギター)、・・・。日本でも秋山徹次(ギター)、石川高(笙)、矢部優子(ピアノ)、遠藤ふみ(ピアノ)、古池寿浩(トロンボーン)、マクイーン時田深山(箏)など。秋田在住の吉濱翔(サウンドアート)はとても繊細な美術作家であり、おもしろい存在である。

アルバム紹介

リンク:
https://yabukirecords.bandcamp.com/
https://naotoyamagishi.bandcamp.com/

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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