インプロヴァイザーの立脚地 vol.32 川島誠
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2025年5月13日 駒込にて
川島誠はソロ演奏を指向する。それは、かれの表現が自身の内奥の声を出すことにほかならないからだ。
別の世界
フォーク世代の母親は吉田拓郎や井上陽水を好み、ときどきギターを爪弾いていた。それを見ていた川島もギターを手にし、小学2年生のときに弾き語りを始めた。よく覚えているのは、ザ・フォーク・クルセイダーズのヒット曲<帰ってきたヨッパライ>を聴いたときのことだ。天国への階段をのぼっていくおじさんの姿が見えたような気がした。人間世界とは別の世界があるようなイメージを抱いた。
特段の意識をしていなくても、もとより日常世界から隔離された世界のようなものへの感覚はあった。祖父は尺八、祖母は三味線を嗜んでいたし、彫刻家の曾祖父から作品をよく見せられてもいたからだ。曾祖父は割り箸を削って墨で絵を描いており、そこにあらわれた子供のころの祖母はまるで生きているようだった。
9歳のとき両親が離婚し、川島は叔母の家に引き取られることになった。かれは母親のギターを宝物のように手元においてずっと触り、またピアノを習っている従弟と一緒に楽譜を見て弾いたりもした。練習するとか習うとかいった意識はなく、それが日常生活。
HIDEモデルのギター
中学1年になり、X JAPANのギタリストHIDEに憧れて、雑誌『BANDやろうぜ』の通販コーナーで見つけたHIDEモデルのセットを買ってもらった。隣に住んでいた「お兄ちゃん」がギターを教えてくれて、その成果あってHIDEギターで奥田民生の弾き語りを1曲こなせるようになった。「めちゃめちゃ愉しかった」し、音楽とは自分で完結できるものだという感覚を得た。
その勢いのまま、川島はメタリカやX JAPANの楽譜を買ってきて少しずつ練習を続けた。中学2、3年で仲間と始めたバンドでも、演奏曲はX JAPAN、LUNA SEA、ボン・ジョヴィといったところ。川島はリードギターを演った。中学を卒業する思い出にしようと近くの公民館で演奏したことが、川島にとっての初めてのライヴだ。同級生たちが200人近くも集まってくれた。本番までの1週間は生徒会長の家に皆で泊まり込み、喧嘩もしながら本気で練習に明け暮れた。
高校に入ってからもバンドを組んだ。ニルヴァーナやヴェルヴェット・アンダーグラウンドのコピーに加え、作詞作曲も始めた。シューゲイザーのようなバンドも22、23のころまで続けたが、感情的になって解散してしまった。原因はメンバーとのギャップである。楽譜にしばられず異常に長いソロを取るなど即興的な要素を取り入れ始めた川島に対して、周りが戸惑ってしまったのだ。川島自身は、決められたことを演ることについて抑圧的でつまらないと感じていた―――即興でなにかが生まれるんじゃないか、と。結局、そういった音楽観のちがいから大喧嘩となってしまったわけである。
それから音楽活動は基本的にひとりになった。
ソロ
25歳のころ、たまたまジム・ジャームッシュの映画『パーマネント・バケーション』を観た。強く印象に残ったのは夜の場面。サックス奏者のジョン・ルーリーが<Over the Rainbow>の様なものを吹いていた―――なにこれ?奇妙だけど惹きつけられる。川島はすぐにアルトサックスを買いに行った。声と似ていて自分が思っていることを表現するのにちょうどいいし、肉体の内臓に直結しているように感じたからだ。
手に入れたのはJ. Michaelのいちばん安いタイプで、5万円くらい。さっそく真似しようとしたが、まったくできなかった。音は出てもルーリーではない。そのときになって、あれは高度なテクニックだったのだと気がついた。
阿部薫、生悦住英夫
川島は作曲もアルトサックスやベースの演奏も続けており、「つねになにかを生み出していないと生きていけない」ような精神状態にあった。
あるとき、知り合いが阿部薫のCD『スタジオセッション 1976.3.12』を貸してくれた。だが、30秒もしないうちに止めてしまった。「人が出すような音ではない」と感じたからだ。ただ、阿部薫のことはずっと気になっていて、ディスクユニオンで『なしくずしの死』を手に入れ、聴いてみた。無機質な『スタジオセッション』とは異なり、「ものすごいリアリティ」をもって迫ってきた。怖さもあった。そのとき、川島にとって「なにかがぱっと変わった」。阿部薫の音とはこれからずっと向かい合っていくことになるだろうと覚悟した。
たまたま、雑誌で知った山猫軒(埼玉県越生町)に足を運んでみたところ、大きな阿部薫の写真パネルが飾ってあった。主人の写真家・南達雄がかつて撮った作品であり、驚いた川島は南と話し込んだ。自分自身の音を南に聴いてほしいと思った。そして山猫軒でソロ演奏を録音し、アルバム『Solo: Unification』として出すことができた。
そのCDをレコード店モダーン・ミュージック(明大前)に持ち込んでみた。店主の生悦住英夫のことは店員としてしか認識していなかったが、思いもよらない対応をしてくれた―――CDプレイヤーが壊れているからあとで聴くよ、と。生悦住は延々と話を続け、その後、「一音聴けばわかるから」と言って壊れたCDプレイヤーで頭だけ聴いて「おお、いいね」と言ってCDを店に置かせてくれた。それどころか、生悦住が設立したPSFレコードの新譜案内に「まだまだだけどすごく期待」と書いてくれた。「こんな人がいるんだ、そんなふうに感じてくれる人がいるんだ」と思い、うれしかった。これを機に、CDを送るたびに生悦住は「心が足りない」「自然感覚を大事に」といった助言をくれるようになったし、船村徹、ちあきなおみ、こまどり姉妹など演歌を聴いて心を勉強してと大量のCD-Rをくれたりもした。
茨城県にある阿部薫の墓の前でアルトを吹いたことがあった。ライヴなどではなく川島の個人的な行為だ。これに住職が感動し、その場で阿部の母親に電話してくれた。その後グッドマン(高円寺)で川島が演奏したときのこと。生悦住から「阿部の母親が米寿になるからお祝いに行くんだけど、阿部薫の墓で演奏した人がいる。誰か知ってる?」と聞かれ、「それ、ぼくです」。「えー!じゃあ一緒に行こうよ!」と誘ってくれた。
そんなわけで、岡本勝壽(近代仙台研究会)、生悦住と3人でお母さんの自宅を訪ねた。したたかに酒に酔ったころ、お母さんが「川島さん、薫のアルトを吹いて。薫がそう言っている」と言いながら阿部薫のサックスを持ち出してきた。当時からほとんど触れられたことがないであろうセルマーのマーク6だ。手にすると、特殊なセッティングであることがすぐにわかった。まるで手の跡がついているようで、鳴らすには命がけになると感じた。音は辛うじて出すことができ、お母さんが「薫が吹いてるみたい」と涙を流して感激してくれた。
もらったリードを自分の楽器に付けてみたところ、とてもいい音が出た。山猫軒で録音したら、大雨が屋根を打つ音や木の濡れた感じが奏功して集中できた。録音を聴いた生悦住は「いいね、これ出そう」と即決してくれた―――それまであんなにダメ出しを続けていたのに。PSFレコード最後のリリースとなった『Homo Sacer』である。川島自身も、それまでの迷いがぷつんと切れて精神的に統一された感覚を得ていた。
だから、川島はこう考える。ひとりでは作れないものがあるし、命を燃やした音にすぐに反応してくれたのは一生の宝だ。人と共鳴するとは、つながるとは、こうしたことだ、と。
「ただ、人生をかけた音というのは、ネットでは絶対伝わらない。それを伝えていくためには、今を生きる僕たちが、LIVEで実証していくしかない。そう思ってます。」(*1)
数年ののち、生悦住は2017年に亡くなった。追悼ライヴが六本木のスーパーデラックスで開かれ、川島も参加してアルトソロを吹いた。最初の2、3分は力んでしまった。観客席から「いきみすぎ」という声が聞こえ、あっと思ったら力が抜けた。そこから入ったのは意識と無意識の半分くらいの領域である。
齋藤徹
2017年、バーバー富士(埼玉県上尾市)に初めて足を運んだ。両親が美容室で働いていたこともあって、即興ライヴを開く理髪店という場所に親近感も興味もあった。なにしろ齋藤徹のコントラバスソロを聴いてみたかったのだ。体調がひどく悪いという話だが、命を削りながらどこまで演れるんだろう、と。
終演後、川島は齋藤と握手をした。川島が力を入れず握ったところ、齋藤はその感触を受けたうえで握り返してきた。体調を気遣っての行動だったが、後日、齋藤は自身のFacebookに「川島の人間性がわかった」と書きこんでくれた。共演が実現したのは翌年のこと。
当日の演奏前、バーバー富士の主人・松本渉の娘の部屋で1時間半ほど打ち合わせをした。音楽的な話は皆無だったが、必要はなかった。友達がいないと話す川島に、齋藤は「大丈夫、大丈夫。僕にもずっと友達がいなかったけど、ずっと経ってからできたんだよ」と答えてくれた。ふたりはそのままステージに向かう。
演奏のあいだ、川島は齋藤の呼吸と熱量を感じていた。体調が悪い中で、反応するにはエネルギーを必要としただろう、きつかっただろう。齋藤からは血の匂いもした。死んでしまうのではないかと気になっていた。齋藤は、演奏前に次のようにFacebookに綴っていた。そのことは演奏中に伝わってきたし、音楽を通じてエネルギーを燃やし尽くすことが可能なこと、演奏で壊れてもかまわないことを教えてもらった。音楽に完成というものはないのだ。
「川島さんのCDから、何とも言いがたいものを感じます。それを確かめたいです。賢治さんのいう『蒼く・くろぐろとした』ものなのかもしれません。」(*2)
落穂の雨
バンドを解散してから、川島はソロにこだわっている。その一方で、人と演ることで良い影響も受ける。
ふたたびロックバンドをやりたいと思った川島がメンバーを募集したところ、打楽器の山㟁直人がすぐにやろうと声をかけてくれた。やるならドラムスをびしばし叩くよ、とも。山猫軒の南達雄から山㟁のことは聞いていたし、家が近いこともあって「隣町のお兄ちゃん」みたいな感覚。ベースのルイス稲毛はヒグチケイコ(ヴォイス、ピアノ等)とのデュオでベースの一音を聴き、それだけで「このベースとやりたい」と確信していたし、生悦住追悼ライヴのときに「生悦住さんから川島くんのこと聞いているよ」と声をかけてくれもした。いちど阿佐ヶ谷天でデュオを演ったときに「ぴたりと合う」感覚も得ていた。
こうして、川島、稲毛、山㟁による「落穂の雨」が結成された。トリオとはいえ、川島にとっては「みんなソロ」だ。それぞれがソロとして確立しているので、互いに応じてはいても気を遣わずに自由に泳がせてくれる。人と演ってそんなふうにできることがわかったことは大きい。それに、みんな精神的に本質がハードコアで、ジャズを意識することなどは一切ない。
海外
ケヴィン・ライリー(Relative Pitchレーベルのオーナー)のブッキングで、2017年に初めてニューヨークに渡った。Downtown Music Galleryでアルトソロを演ったあとにGallery Three-Two-Oneでマイケル・フォスター(サックス)とのデュオ、そして同じ日の夜に地下鉄のホームで白石民夫(サックス)とのデュオ。
強く感じたことは日本とニューヨークとのちがいだ。ニューヨークの音は、川島にはなにか決まった中で演るもの、ややパターン化したものにみえた。サックスのベルを太腿でふさぐようなテクなど川島は好まない。フォスターとの共演にあたっては、川島は「間」をどのように入れていくかと考えて臨んだ。
ニューヨークでの演奏は貴重な経験になった。良いでも悪いでもない。自分に出す音はどこであろうと同じだ。そのままでいることができたのも大きな自身になった。もとより、それも生悦住が認めてくれていたことが揺るがない自身となっていた。
2019年になり、PSFレコードをアメリカのBlack EditionsレーベルからLPで出す計画が持ち上がり、レーベルを手掛けるピーター・コロヴォスがニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコでのブッキングをしてくれた。特に印象深いのはZebulon(ロサンゼルス)でのタシ・ドルジ(ギター)、パトリック・シロイシ(サックス)との共演だ。皆がアジア系ということもあって、ニューヨークとは異なる空気。リハーサルも2、3分やったところで、即興を損ねないため続けないほうがよいということになった。本番もすばらしく、飛ぶことができた。
2024年には北京と上海で演奏した。向こうのオーガナイザーから希望があって実現したツアーである。ほぼ満員の観客席には二十歳前後の若い人たちも多く、たいへんな熱狂だった。李劍鴻(リー・ジェンホン)のギターがとてもよかった。
2026年にはロンドンのCafé OTOで演奏する計画がある。
最近の活動
2022年にソロを録音し、『Zoe』としてリリースした。意識としてはいままでやってきたことの搾り滓。終わっていく感じの「滓感」を出したかった。そして『Zoe』をひとつの区切りとし、そしてまた0からの感覚を再醒して、新しい2024年にソロ『Arteria』を吹き込んだ。イタリアの芸術運動アルテ・ポーヴェラ的というのか、動かないもの、石ころであればよい。自分は人間でもなく石ころと変わらないだろう。そんなことを意識して表現した。
マレー系アーティストのザイ・クーニン(チャンゴ、ダンス等)との共演は対照的に人間的なものでもあった。ザイはすべての対象に中指を立てることができる人であり、考え方に似ているところがある。尊敬する大親友だ。かれと共演するのは愉しく、気を遣わないでいられる。自分がなにかにこだわっていることがばかばかしくなってしまう。
大友良英(ギター、ターンテーブル等)のことはもともと大ファンだった。ジョン・ルーリーを知ったことがきっかけでオムニバスアルバム『NO NEW YORK』を聴き、それに出ていたジェームス・チャンス(サックス)が来日したとき代官山UNITに観に行った(2005年)。対バンが大友良英、中村達也(ドラムス)、RECK(ベース等)で、リアルな即興体験を得た。だからいつか演ってみたくて、2021年に山猫軒で共演できたときはうれしかった。今年(2025年)に4回目の共演に際して川島から「Aマイナーしばりでいきましょう」と提案したところ、大友も5弦が切れるまで遠慮せずに応じてくれた。「あれ」を見たかったのだ。
昨2024年、落穂の雨の演奏を岐阜県の西柳ヶ瀬アーケードで演ってほしいという依頼があった。昼間に1時間くらい演って、地元の老若男女が百人くらい集まって楽しかった。東京での初ライヴ(2025/7/5)も控えているが、これは大事な公園通りクラシックス(渋谷)が存在しているうちに演りたいからだ。そのクラシックスでは山崎比呂志(ドラムス)とのデュオも行う(2025/7/15)。
Sayaka Botanic(ヴァイオリン、エレクトロニクス)はベルリンにおいてgroup Aという2人組のユニットを演っていた人で、彼女の内からでる狂気と自然感覚に共鳴している。
潮田雄一(ギター)は弟のような存在だ。ニューヨークのユニット・タリバム!と川島とが共演したとき対バンで出演しており、知り合った。潮田が参加する「みみのこと」とも2回ほど対バンで演った。ポラリス(神田)でデュオを演っているときには纐纈之雅代(サックス)が乱入してきて、Bar Isshee(千駄木)での纐纈とのデュオにつながった。ふたりとも縁の深かったBitches Brewのマスター杉田誠一(2025年逝去)のことを想いながら吹いた。
小林七生(ドラムス)、大上流一(ギター)、アキオ・ジェイムス(ドラムス)といった人たちとも共演を続けたい。
アルバム紹介
最新作『artelia』(Relative Pitch Records) 2025/5/23リリース
https://relativepitchrecords.bandcamp.com/album/arteria
(*1)川島誠「阿部薫について」(『阿部薫2020―僕の前に誰もいなかった』、文遊社、2020年)
(*2)拙著『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』(カンパニー社、2022年)
(文中敬称略)
川島誠、フリー・インプロヴィゼーション