インプロヴァイザーの立脚地 vol.37 柳沢耕吉
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2025年9月23日 神保町・月花舎にて
長野の山の中で即興演奏をするなどユニークな取組を続ける柳沢耕吉だが、ここに至るまでの道のりはまっすぐではない。日本とニューヨークで得たものをいったん横に置いて、あらためて即興とは何なのかと問い直しているようだ。
くるりからジャンル横断へ
家庭は転勤族だった。柳沢も生まれてすぐに長野から大阪に引っ越し、3年経って東京の団地に移り住んだ。姉が小学生のときピアノを習いはじめ、柳沢も教室についていって習うようになったが1年もしないうちにやめてしまった。
ただ、音楽は好きだった。洋楽好きの両親の影響だ。家ではビートルズが流れていたし、父親は若いころから趣味でギターを弾いていた。小学生になり、柳沢は大きい声で歌う気持ちよさを覚えた。目立ちたがり屋で喧嘩っぱやくもあった柳沢は応援団に所属し、運動会では助っ人として未経験のトランペットを吹くこともあった。
中学に入るときふたたび長野に戻り、3年になってアコースティックギターをはじめた。バンドブームでロックのBump of Chickenなんかが流行っていて、学祭でカバーを演ろうという話になったからだ。3人でバンドを組み、柳沢はギターとヴォーカル、1人はギターとコーラス、もう1人はヴォイスパーカッション。その一方で歌がずっと好きだった。まだ高い声が出ていたから、合唱コンクールではハイドン<天地創造>のテノールソロを担当した。
家では夕食のときテレビ番組の「ミュージックステーション」を観る習慣があった。だから耳にするのはメジャーなものが中心だったが、父親の影響でインスト系のギターも好きになっていた。マイケル・ヘッジス、ジェフ・ベック、それからギターデュオのDEPAPEPEにはまり、友人と一緒に練習した。
サッカーを小学生のときから続けていたが、高校2年生のときやめてしまった。実力主義が人間関係も規定するありように嫌気がさしたからだ。それからは帰宅部。中学のとき同級生だった友人と音楽を勧め合う中で、柳沢はくるりにはまってしまった(その友人とは、いまもコモド大真面目という弾き語りユニットを組んでいる)。くるりがオーケストラと共演したアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer』に衝撃を受け、それ以前のくるりのアルバムを聴いて音楽性の広さに驚いた。いったいかれらはどんな音楽を聴いてきたんだろう―――柳沢はあとで考えてみれば、これが能動的に音楽を聴き始めるきっかけだった。くるりの岸田繁のブログをチェックし、地元の書店でCDを借りたり渋谷のレコファンに遠征したりして、岸田が影響を受けたというミュージシャンのアルバムを探す。クラシックのシベリウス、ドビュッシーも、ロックのザ・フー、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルもあった。くるりのサポートでドラムを叩いていたあらきゆうこのソロプロジェクトmi-guのアルバムで初めて指弾きのコントラバスの音を意識した―――いったいこれはなんなんだ。その勢いで父親が所持するCDを漁っているうちに、パット・マルティーノ、タル・ファーロウ、ジェシ・ヴァン・ルーラーといったジャズギタリストに触れるようになる。だが、それがジャズなのだとはまだ知らなかった。
高校で柳沢は軽音部には入らず、友達とくるりのコピーバンドをやった。文化祭に出て、卒業後に一度だけ長野のライヴハウスに出演した。外のライヴハウスはこのときがはじめてだ。
いつからか、くるりに一緒にはまった友人が詩を書きはじめた。それを見て、柳沢は曲を作りたいと思うようになった。
ジャズ研
進学の時期になり、柳沢は生物に関わる勉強をやりたくなった。動物より植物に興味があり、花の品種改良なんてやってみたい。千葉大学の園芸学部を選んだのはそれが理由だ。1年次の授業は西千葉のキャンパスで行われるため、園芸学部のキャンパスがある松戸から毎日電車で通った。最寄りの駅前の古本屋で何となく手に取った太宰治や村上春樹が面白く、柳沢は読書をするようになった。
音楽サークルに入りたくて新入生歓迎会ライヴを回っていたとき、ジャズ研に衝撃を受けてしまった。自分が知っている音楽は1曲でなにを演るか決まっている。だが、ジャズ研の音楽はあきらかにちがうものだ。この人たちはどうやって演奏しているのか。もっとも、アドリブというものに気がついてはいた。東京事変の浮雲も、またくるりの大村達身も、ライヴ映像を観るとギターソロが毎回違っていたからだ。
当時のジャズ研には外部から様々なミュージシャンが遊びにきていたこともあり、かれらや先輩からいろいろと教わった―――石田衛(ピアノ)、Masa Ogura(ドラムス)、落合康介(ベース)、大熊紺(ベース)、寺井雄一(サックス)など。下の代では片山士駿(フルート)、阿部真武(ベース)が入部し、よく一緒に演奏をした。
ジャズ研の決まりで1年生バンドをくじで組むことになり、一緒になったテナーサックス奏者は、いちど千葉大を卒業して社会人になってからジャズ研に入部し直したジャズ研OBだった。ビバップやハードバップを好み、まずはジャズを四六時中聴いてみたらいいよと助言をくれた。それで、借りたCDをMDにまとめて、家でも移動中でもつねにジャズを聴くようになった。大学を出るまではずっとそんな感じだ。
タル・ファーロウはずっと好きだったし、ジャズ研の先輩のおすすめもあれこれと聴いた。感銘を受けたのは、セロニアス・モンク(ピアノ)、ジム・ホール(ギター)、ジミー・レイニー(ギター)、エディ・コスタ(ピアノ・ヴァイブ)、マル・ウォルドロン(ピアノ)など。ジャズ研の先輩にはコントラバス奏者が多く、音が好きだったこともあって、チャーリー・ヘイデン、ゲイリー・ピーコック、その延長でオーネット・コールマン(サックス)。石田がフリージャズのライヴ映像をまとめたVHSが部室に置いてあり、みんなで観たりもした。千葉大のジャズ研にはマイルス・デイヴィスのマラソン・セッションを手本にする流れがあり、セッションで人と演奏する感覚を身に着けた。
3年生のときには、ジャズ研の習慣で稲毛のコルトレーンで月1回のライヴを演った。柳沢以外は1つ上の先輩たちで、大熊(ベース)、アルトサックス、ドラムスとのカルテットである。主に演奏するのはスタンダードだが、自分でアレンジをしたり、キース・ジャレット(ピアノ)のトリオに影響を受けて曲の前後に長いインタールードを入れたりといった工夫もした。柳沢自身も曲を書くようになっており、それらを演奏するために同級生たちと大所帯のバンドを組んだ。メンバーへの当て書きで、ブルースやテンポのないメロディだけの曲があった。
一方でフリージャズにも興味が出ていた。ライヴで特に驚いたのはペーター・ブロッツマン(サックス等)だ。薦められて何も知らずに稲毛のJazz Spot Candyに観に行った。衝撃体験だった。部室に集まった人たちでフリージャズっぽいことを演ってみたりもした。
ニューヨークのコンテンポラリー系
並行して、アメリカの2000年代から現在進行形までのジャズも聴くようになる。ブラッド・メルドー(ピアノ)、マーク・ターナー(サックス)、ホルヘ・ロッシ(ドラムス)、ラリー・グレナディア(ベース)、カーラ・ブレイ(ピアノ)、ビリー・ハート(ドラムス)。イーサン・アイヴァーソン(ピアノ)が特に好きになったのは、ハートのアルバム『Moment’s Notice』に収録された<Moment’s Notice>や<Confirmation>でのアイヴァーソンの演奏やアレンジがとても「変」だったからだ。そして、そのあたりの指向性はポール・モチアン(ドラムス)の音楽性が総括してくれるように感じた。あらためて振り返ってみると、好きだったエディ・コスタの『House of Blue Lights』にも、もちろんビル・エヴァンス(ピアノ)のトリオやキース・ジャレットのグループにも参加していた。モチアンを追っていくとポール・ブレイ(ピアノ)、エレクトリック・ビバップ・バンド、そして菊地雅章(ピアノ)に辿り着いた。モチアンを通じて得たものは、より即興的でオープンなありようだ。
3年生のとき、かむろ耕平(ギター)の演奏を聴いて衝撃を受ける。8分音符の質感や並びが気持ちよく、和音の鳴らし方など、他では聴いたことのない音だった。かむろはバークリー音楽院卒業後に滞在していたニューヨークから帰国し間もない頃だった。ギターを習い始めて基礎練習のやり方と重要性を知った。
そんな刺激もあり、4年生の春休みにニューヨークにひと月ほど滞在した。いろいろなライヴに足を運んだり、ピーター・バーンスタインにギターのレッスンを受けたりもした。
ニューヨーク留学
もともと柳沢は大学院に進学するつもりでいたが、気持ちはもう音楽だ。フリーターをしながら東京で活動することも考えていたら、中途半端になるくらいならニューヨークに行ってきたらいいじゃないかと父親が提案してくれた。そんなわけで、大学を卒業するタイミングで試験とオーディションを受け、2013年の秋、ニューヨークのシティ・カレッジに3年次編入で入学することができた。シティ・カレッジは市立で学費が安く、働きながら、子育てをしながら通うも人いて、音楽を学ぶ動機にバラつきがあり良い環境だった。
当初困ったのは英語であり、話そうとしても赤ん坊のような水準。授業はすべて録音し、英語に慣れるまで丸一年を費やした。幸い音楽の授業は独学していた範囲と被っていて、音を聴けばある程度理解はできた。
授業の内容はオーソドックスなジャズが中心だった。スコット・リーヴス(トロンボーン)、マイク・ホロバー(ピアノ、ビッグバンドリーダー)らに加え、ジェイソン・リグビー(サックス)やアダム・クルーズ(ドラムス)など現役ばりばりの講師もいた。フレッド・ハーシュ(ピアノ)がゲスト講師を担当したバンドアンサンブルのクラスでは、ハーシュ作曲の課題曲を演奏したあとに「ギターの人(=柳沢)はコードが追えていないね」なんてコメントをもらって恐怖だった。レイ・ギャロン(ピアノ)による「Neglected Jazz Masters」「Thelonious Monk」といった歴史とリスニングの授業はおもしろく、アメリカのジャズミュージシャンたちの見え方が憧れからひとりひとりの存在に変わる一因となった。頑張った甲斐あって、2年目には必要な単位をほぼ取り、他のクラスを聴講する許可が得られた。現代音楽のクラスにも顔を出した。
最後の1年くらいは何回か人前で演奏する機会があったものの(Tomi JazzでのBGM演奏など)、ニューヨーク留学はインプットに偏った。レッスンに加えてライヴにも足しげく通った。ある日、Jazz Galleryでスタッフをしていた知り合いから「今日欠員が出たから来られないか」と聞かれたことをきっかけに手伝い始めるようになった。1階のエレベーター前で案内をする係は英語が拙い頃でも担当することができた。リー・コニッツ(サックス)が出演した日、柳沢は図書館で借りたレニー・トリスターノ(ピアノ)の伝記をちょうど持ち歩いていたことに気が付いて声を掛け、それがきっかけでレッスンを受けることになった。
ビル・マッケンリー(サックス)のレッスンはダイナミクスや12音階をいかに音楽的に練習するかという基礎的なもので、コニッツのレッスンにも通じるところがあった。アルゼンチン出身のギジェルモ・クライン(ピアノ)がIBEAMで開いた1か月間の作曲ワークショップにも参加した。最初にギターを習ったケニー・ウェッセル(ギター)はオーネット・コールマンのプライムタイムにも所属していた人で、バッハのヴァイオリンコンチェルトを一緒に弾くなど譜読みを通して様々なマテリアルに触れるきっかけをくれた。ラーゲ・ルンド(ギター)には定期的にしばらく教わり、いまだにそのときの練習を繰り返している。ジャズ然、ジャズギター然とした構えで独自のサウンドを更新しており尊敬している。またベン・ストリート(ベース)とレッスンなどで過ごす時間は、音楽と音楽以外のことを根本から観察し直す機会になった。「We have to be a thinker」ということばが記憶に強く残っている。
日本にいた頃からニューヨークのコンテンポラリージャズに夢中になっていたが、ちょっと耳が飽きはじめてもいた。一方でフリー・インプロヴィゼーションに惹かれていて、ティム・バーン(サックス)、メアリー・ハルヴァーソン(ギター)、クリス・デイヴィス(ピアノ)、ブランドン・シーブルック(ギター)などのライヴをよく聴きに行った。大きな刺激となった機会は、ベルギー出身のベースのラファエル・マルフリートやチェコ出身の作曲家ルツィエ・ヴィッコバと出会い、即興演奏のセッションをしたり議論をしたりする機会を得たことだ。ラファエルはトッド・ニューフェルド(ギター)や蓮見令麻(ピアノ)ともつながりがあって、トッドの家で色々と音楽を聴いた。「この人知ってる?」とかけてくれた高柳昌行(ギター)の<Lonely Woman>にショックを受けて、日本のジャズ周辺の歴史についてもっと知らなければならないと思った。
ライヴで印象的だったのは、ヴィレッジ・ヴァンガードで観たマーク・リボー(ギター)、ヘンリー・グライムス(ベース)、チャド・テイラー(ドラムス)のトリオで、「どフリー」の即興の姿勢でボブ・ディランを歌い、最後はコルトレーンの<Sun Ship>で終わる混淆ぶりに呆然とした。
2015年の夏には1ヶ月かけてギリシャからベルギーまで移動しながら民俗・民族音楽を聴いて回る旅をした。帰国したとき、ニューヨーク滞在は3年半に及んでいた。
日本のインプロシーン
日本のインプロシーンへの入り方は「色々だった」。2017年、帰国後ほどなくして、リュック・フェラーリ(作曲)のサウンドアーカイヴを使って作品を作るコンペティションがあると知った。勢いで作品を作り応募したところ、大賞(プレスク・リヤン賞)の連絡があった。どんな人たちが作っている音楽なのか気になった柳沢はパリで年明けに行われた授賞式に参加した。それまで知らなかったエレクトロアコースティックの世界は新鮮だった。渡辺愛(作曲)によるインタビューを受けることになったのはそれがきっかけだ(*1)。そのとき日本の演奏場所について聞いた。渡辺は、ユーグ・ヴァンサン(チェロ)、岩瀬久美(クラリネット)の3人で演奏するのだと水道橋のFtarriを教えてくれ、そのライブを聴きに行ったことをきっかけに、柳沢もFtarriに出演するようになった。
また、落合康介の紹介で、沼部のいずるばで齋藤徹(コントラバス)が主催していたワークショップに何度か参加した。即興演奏と身体や響きの関係を考え体感し言語化する場だった。「種まき種まかせ」という即興演奏のアンサンブルを始めるとき声をかけたのは、そのワークショップの参加者たちである。
さらに中野のピグノーズで加藤崇之(ギター)がホストを務めるインプロセッションに行きはじめ、そこで遠藤ふみ(ピアノ)に出会った。遠藤や阿部真武(ベース)はジャズから即興演奏に入ったという点で自分と似ていて、ジャズでは無意識にすることを即興演奏では問い直せるなど発見があればシェアするようになった。
細井徳太郎(ギター)のことは、柳沢がニューヨークにいたころに千葉大ジャズ研の先輩と共演していたため名前を知っており、帰国後間もなく会いに行き「合わせ鏡一枚」というギターデュオを結成。そこからの縁で奥住大輔(サックス)、宮坂遼太郎(パーカッション)とも知り合い共演するようになった。
「こういう人がいるのか」と聴きに行くとまた思いがけない出会いがある。いまも続けていることである。ただ、コロナ禍前のように毎月東京に出て行くのは大変で、いま演奏に行くのは年に数回だ。そのペースではジャズはできないこともあって、Ftarri、Permian(不動前)、OTOOTO(東北沢)、試聴室(神保町)といった場所での即興演奏に偏っている。
そんな中で意識することのひとつが、ニューヨークと東京との違いである。ニューヨークの即興演奏の多くはシリアスで濃密、音数が多く展開も早い。まるでニューヨークの生活。(日本でいえばフリージャズのほうに近いかもしれない。)だが、日本(東京)の演奏家にはまったく異なる即興をする人たちもいる。柳沢は、即興演奏について「フリージャズのような即応性を必要とする以外の状況に開く可能性、かつ演奏者の判断がまさにその場で行われる可能性を持っている」ことを特質として挙げる。また「演奏者としても聴者としても、流星群が来た夜空を見上げるような側面がある。見慣れた星座を目安にひとつの視点に集中してもいつ流れるかわからず、他のところを流れるかもしれない。全く見られないかもしれない。しかし、見上げていないとまず気が付かない。」と例えてみせる。
東京とは別に、長野でもいろいろ活動している。たとえば、give me little more. (松本)では手段の中心に即興演奏を置いたセッション「SELDOM」を店主と企画している。Story House Café(松本)のジャズのセッションではコントラバスを弾いている。セッションではいわゆるギターソロが終わると実時間の音楽との関わりが薄れてしまうことが多いのに対し、コントラバスでは関わり続けることができるからだ。喫茶茶会記クリフサイドには数回訪れたことがあり、たどり着くまでの道のりを含めておもしろい場所だと思っている。また。2019年から地元の山の中で演奏した録音をシリーズとして発表し続けている。
(*1)渡辺愛「プレスク・リヤン賞2017で頂点に立った、柳沢耕吉ってどんな人?」
アルバム紹介
(文中敬称略)
フリー・インプロヴィゼーション, 柳沢耕吉







