インプロヴァイザーの立脚地 vol.39 宅 Shoomy 朱美
Text by Akira Saito 齊藤聡
Photos by Akira Saito 齊藤聡 and @hizumix (noted)
Interview:2026年2月22日 秋葉原にて
宅 Shoomy 朱美(以下「シューミー」)が身にまとう唯一無二の雰囲気に魅せられる者は少なくない。その音は自己流の活動によって培われたものである。
超放任主義
東京生まれだが5歳まで長崎にいた。母は詩人でジャズピアニストの中野美代である。その後福岡の祖母のもとに預けられたのは、母が結核を病んでしまったからだ。祖母は観世流能師範だった。
シューミーはピアノを習いたかったが、母は祖母に「行かせないでくれ」と伝えていた。幼少期に童謡の<ちょうちょ>なんかを自然にコードを変えて弾いていたりもする姿を見ていたからだ。それに、どうやら母は「藝大や音大を出て戻ってきた人」に教わらせたくないと考えていたらしい。
祖母の家にはピアノがなかった。シューミーが受けた音楽教育は学校の授業のみだが、放課後などに講堂のグランドピアノで<エリーゼのために>を探り弾きしたりして遊んでいた。教師には笛や鍵盤ハーモニカを他の生徒に教えるよう頼まれたりした。中学ではブラスバンド部に入りたかったが、祖母は許してくれず放課後迎えに来たりもして、自由がないし遊べない。そんなこともあって、東京の母に「もうイヤだ」と速達を出した。その結果、中学2年から東京の母のもとで暮らすようになった。
母の同居人は作曲家・ピアニストの宅孝二であり、藝大のピアノ科の主任教授でもあった。母はバンド以外では丸ノ内ホテル、東京や麻布のプリンスホテルでソロピアノを弾いており、バンドを休むときには養父がトラで入った。母としてはジャズを演りたい養父へのジャズの手ほどきだった。養父は、主任教授なんて柄でもないと思い自ら降りて講師になるような性格。当時の学部長は親友の池内友次郎だった。
シューミーは夜ひとりで留守番し、FENでポップスなどを聴く毎日。両親が離婚をしたり、祖母の家に預けられたりといった経験のため、音楽などやらず「普通の家庭」を築きたいと思っていた。
手に職をつけさせようと母が喫茶店で知り合った藝大楽理科の学生に習わせようとしたが、シューミーは先生と音楽の遊びを始めてしまい、先生も楽しくなってレッスンにならなかった。それでもシューミーはバイエルやブルクミュラーのピアノ教則本から好きなメロディの曲だけ自分流に弾いていた。わからないところは養父に訊いたのだが、その養父からみればシューミーは「好きにさせる」のがいちばんだし、シューミーのことを「磨けばダイヤモンド」だと母に言ってもいた。音大を出ていないことで苦労もした母はシューミーを音大に行かせようとしたが、養父はこのままでいいよと応じたようだ。
高校生活はまっすぐな道ではなかった。いったんは都立雪谷高校に入ったもののエレクトーンプレイヤーになり中退。やはり高校には行こうと私立の女子高に入ったが駅の反対側の男女共学の都立高に行きたくなり、元の高校の校長先生に相談した。それで編入試験を受け、都立八潮高校に入りなおすことになった。
高校1年の夏休みに、母が、高輪プリンスホテルのプリンス会館のバイキング会場でエレクトーンとピアノを弾かないかと聞いてくれた。30分を3回でいいとのこと、シューミーは演ると答えた。
シューミーはコード譜をもとに曲を弾いた。バイキング会場のコックさんなどに可愛がられて、毎日いいものを食べていた。あるとき様子を見に来た母に、会場の人が「雰囲気に合わないから、できれば童謡は弾かないでもらいたい」と打ち明けたという。シューミーが好きな<夕焼け小焼け>なんかも弾いていたからだ。ただ、演奏自体は気に入ってもらえたし、シューミーも好きに演ることができた。そのうちにホテルや結婚式での演奏機会も出てきた―――このときまだ16歳だから、年齢をごまかしていたのかもしれない。ひと月にギャラから4万5千円くらい受け取り、高校生にとってはいい小遣いになった。
シューミーが母にピアノを褒められたことはほとんどなかった。いちど「音色がいいと褒められた」と言ってみたところ、母の反応は「ふーん、朱美はその程度でいいの?」。だが、音楽的には過剰なほどの放任主義だった。母に教わったのは、Cのキーでのいろいろなコードだけだった。じっさいシューミーはああしろこうしろと言われずに独自の音楽を成長させていったし、自分自身でものちにそのような教え方をしている。
東京に来た時、家にエレクトーンがあった。養父がヤマハからもらった一号機だ。シューミーはそれを弾いたり、リズムもすべて自分で作ったりもしていた。あるときシューミーがヤマハの渋谷店で置いてある楽器を少し弾いていたところ、ヤマハ音楽振興会のプレイヤー担当者にスカウトされ、沖浩一というエレクトーンの先生のところに連れていかれた。だが、教わる必要はないと言われた。
母が法事などで1週間ほど実家の福岡に行ったことがあった。養父が椎名町での母の抜けたキャバレーのトラでピアノトリオに入り、シューミーが大泉学園で養父がやっていたキャバレーのトラに入ることになった。そのキャバレーではエレクトーンを弾いた。酔っ払いが絡んできて、ストリッパーのお姉さんが庇ってくれる。泣きながら通った。そのせいでシューミーは酔っ払いというものが大嫌いになった。
弾き語り
シューミーはまだ「普通の生活」に憧れていたから、高校を出たら四谷の日米会話学院に通い三菱系の会社に就職した。総務部のOLである。いろんな部署の部長などが自分のところの誰それと結婚しろと言ってきた。
カラオケが登場してきたのは当時のことだ。会社の面々と行くことがあって、彼女も歌ったところ、歌手になったほうがいいと社内で評判になってしまった。
あるとき、社長を訪ねてきた元社長秘書だという人と社内で遭遇した。その人が「なんでこの子がここにいるの?」と驚いたように叫んだが、よくみると隣に住んでいる人だった。じつは銀座のクラブのママでもあった。シューミーの家庭のことをよく知っていたから、すべて社内にばれてしまった。会社の前で養父とばったり遭うこともあって、社屋の裏が雀荘だとわかった。偶然がいろいろあって、不思議な環境だった。
会社では3年ほど働き、やめて上司と結婚した(3年で離婚)。相手は会社の人気者で、シューミーを気に入っているのがわかると一斉に女性たちにいじめられた。配られる湯呑にもほとんどお茶が入っていなかったりしたが、シューミーはそれを漫画や小説みたいだとおかしくて楽しんでいた。とにかく「普通の生活」をしたかったのだが、夫は音楽をやってほしかったようだった。シューミーはある意味で恩人かもしれないと思っている。
そんな経緯が弾き語りの仕事につながってくる。銀座のキャバレーやクラブだと客の歌伴を演ることが多いし、スタンダードの弾き語りをできる環境ではなかった。できる人も少なかった。27歳の頃、郡山のクラブにひと月ほど出演する仕事を引き受けた。シューミーは弾き語りができるようになろうと思い、練習を兼ねて郡山に赴いた。
当時、六本木で日拓が経営するOH-HOというレストランバーがあった。一階から三階までは台湾料理の海宮という高級レストランで、地下がピアノカウンターのある豪華で広いレストランバーになっていた。19時から23時くらいまで他のバーやホテルなどで演奏し、ライヴハウスを覗き、休憩時間に譜面を書いたりして過ごしながら、0時から4時半まで地下のバーで演奏する。シューミーはここの深夜のレギュラーとして10年以上出演した。
即興演奏
ピアニストの菅野邦彦や『11PM』のテーマを作曲したことでも有名な三保敬太郎も、よくOH-HOに遊びにきてくれた。三保は若い頃養父のアシスタントだった。菅野は来るといつもピアノカウンターで鍵盤ハーモニカを吹いていた。その菅野はシューミーが曲と曲の間を埋めるようにポロポロと弾くピアノを聴いて、こんなふうに言ってくれた―――「1、2、3で始まるような音楽は演らなくていいからね」「波みたいだね。そのまま曲に入っていくのでいいからね」と。
もとより、フリーや即興を突然始めたわけではない。養父の宅孝二は作曲家・ピアニストであり、即興演奏もすごい腕前だった。東京オリンピック(1964年)の体操競技・床運動の本番で養父は即興で伴奏していた。選手には大好評だったという。実父も母もジャズ。シューミーは放任されつつ即興の腕を磨いたようなものだ。
母と養父は渋谷のジァンジァンで詩と音楽の会を主宰して即興演奏を繰り広げており、そのときのバンドに川下直広(サックス)も加わっていた。母がベーシストを求めていた時に フェダインの演奏に接したことで不破大輔(ベース)とピアノトリオをやりたいと言っていたこともある(ただ、バンドを作る前に母はこの世を去った)。ジァンジァンの定例のライヴにはシューミーも出演した。
母が丸ノ内ホテルでソロピアノを弾いていたとき、交代で出るバンドが杉浦良三(ヴァイブ)のグループで、高柳昌行(ギター)、金井英人(ベース)、山崎比呂志(ドラムス、当時は「山崎弘」)というメンバー。シューミーが中学生になる頃である。それで母は高柳と親しくなり、ジァンジァンに高柳の演奏を観に行ったりもしていた。あとになって山崎にその話をしたところ「あっ、あのやさしい人がお母さんなの?」と驚いたという。シューミーには新宿などのG7で毎日曜日に弾き語りを演る時代があったが、日曜日以外には山崎が出演するという接点もあった。
加藤崇之
はじめてシューミーの音楽を認めてくれたのは加藤崇之(ギター)だ。
加藤のことは池袋でのオールナイトのジャムセッションで知った。大勢の参加者の中に加藤がいて、シューミーははじめてギタリストをいいと思った。その頃、六本木のロブノールにレギュラーで出演しており、弾き語りを中心にしてときどきはバンド。そこに加藤を呼んだところ、共演していたベーシストが「すごい人に頼んだね」と驚いた。加藤はそれくらいの存在だった。そして、シューミーも銀座や六本木を拠点としない人たちと共演するようになってきた。
そして、加藤のギターとシューミーの歌でアケタの店に出演するようになった。これがのちに「夢Duo」になる。是安則克(ベース)、樋口晶之(ドラムス)とのShoomy Bandで松風鉱一(リード)も加わりツアーしたりした。
アケタの店で山崎と加藤がデュオでフリーを演るとき、シューミーにも一緒に演らないかとの誘いがあった。それが「NEW渦」につながり、新宿ピットインに半年に1回くらい出演するようになった。エレクトロニクスを使った「エレクトリック渦」も演っている。
中野のピグノーズで即興のセッションホストを始めたのも、加藤がきっかけだった。加藤がホストを務めるセッションに行き、加藤とは別の日にシューミーがホストを務めることになった。まだ「インプロ」という言葉がさほど流行っていないときである。
松風鉱一
加藤の次にシューミーの音楽を認めてくれたのは松風だ―――「シューミーそのままでいいんだよ」、「お花の上を蝶々が飛ぶみたいでいいんだよ」と。
松風のプレイを初めて観たのはアケタの店であり、その後共演するようになった。東北のホテルでクリスマスショーを演ったときのこと。松風、水谷浩章(ベース)、小山彰太(ドラムス)に加えてヴォーカルもひとり入れてくれという話になり、「シューミーしかいない」と松風の結論になったという。シューミーは松風が独特の早口でMCを話し、ホテルの女将に「もっとゆっくりしゃべってください」と言われていたことを覚えている。シューミーは珍しくドレスを着て、2晩歌った。
松風はときおりシューミーに声をかけてくれた。外山明(ドラムス)が台風で島から帰ってこられないときも、トラはドラマーではなくシューミー。越生の山猫軒での松風、米木康志(ベース)との演奏はすばらしかったようで、終演後すぐに店主の南達雄に「CDにしよう」と提案されたという。だが、松風も亡くなり、音源は公表されないままだ。
いまの活動
「インプロネコ集会」は2009年12月にシューミーがなってるハウス(入谷)でオーガナイズしたインプロセッションであり、2023年10月のvol.31まで続けてきている。
最近の演奏場所は山猫軒やなってるハウスが多い。拠点にしていたイエローヴィジョン(阿佐ヶ谷)や公園通りクラシックス(渋谷)が閉店してしまい、さてどうしようかと考えているところである。
アルバム紹介
(文中敬称略)
フリー・インプロヴィゼーション, 宅シューミー朱美














