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インプロヴァイザーの立脚地No. 339

インプロヴァイザーの立脚地 vol.42 山内桂

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2026年6月6日 新橋にて

山内の音楽は「ひとり」を原則とし、「手法的」なものではない。その原点は幼少期にあり、「ひとり」を続けているうちに結果として独創性がついてきた。

釜山、サガイン、引き揚げ

山内桂は1954年に別府で生まれた。

もともと祖父が住んでいたのは釜山であり、電機店を営んでいた。父は本籍地名古屋を経由して兵役で出征した。駐屯地はミャンマー(当時はビルマ)のサガインである。マンダレー近くの町であり、インパール作戦の最終補給地だった。父の役割は補給だったから戦闘には参加していないが、やはり終戦となれば逃げなければならない。川沿いにヤンゴン(当時はラングーン)へ下るときマラリアに罹ったが、仲間がミミズを煎じてお湯で溶き、治してくれたという。武装解除後1年間捕虜になった。

祖父も終戦直後に着の身着のまま別府に引き挙げた。資産は釜山に放置せざるを得なかった。父のことは死んだものと思っていたから、戻ったときには仰天し、「幽霊かと思った」といった歌を詠んだという。

一方、母は終戦より1年くらい前に釜山から松山の実家に戻っていた。父とは釜山でも知り合いだったわけで、結婚することになり別府に合流した。

原点

山内も4歳まで別府で過ごした。父親は転勤が多く、その後も博多、熊本、大分、広島、松山と引っ越しを続けた。

山内がピアノを習い始めたのは熊本時代、小学校1年生のときだ。ピアノも、音楽の授業でも、自然にできた。2年生のときには簡単な作曲をしていたし、普通の曲ならなんでもドレミで歌い、リコーダーやハーモニカを練習せず演奏できた。山内はこれを「唯一の得意点」だという。それもあって、小学校3、4年生のときには一日中音楽を楽しむような環境だった。山内の原点である。

ただ、ピアノは5年生のときにやめてしまった。そして6年生のとき大分に転校になったが、彼的には音楽的「不毛の地」だった。教師は山内の音楽センスをまったく見抜けなかったわけである。

一方で力を入れ始めたのは野球。だから中高は音楽から離れていた時期である。ただ、山内は当時も今もプロ野球にまるで興味がなくて、セ・リーグやパ・リーグがあることも知らなかった。これはその後の冬山でのスキーや渓流でのフライフィッシング、さらには音楽にも通じることだ。チームが勝つことよりも自分自身が満足できるかどうかが大事なのであり、「ひとり、自己流」はむかしからの流儀。

野球ではショートを守ることがほとんどで、打率はいつも上位。相手のちょっとした動きも気付く選手だった。これもまた演奏のとき周囲を「見落とさない感覚」につながっている。

転機

広島時代、高校3年生のときに転機が訪れた。

姉は熱狂的なエルヴィス・プレスリーのマニアで、兄は音楽全般について異常なほどに詳しい人だった。そんな環境だったから、山内もリアルタイムでビートルズを聴いていたし、家にあった30枚ほどのジャズレコードを次々に聴くようになる―――たとえば、キャノンボール・アダレイの『Somethin’ Else』やスタン・ゲッツの『Focus』といったアルバム。そのうちジャズ喫茶にも通うようになり、小遣いからレコードを買ったりもした。そして、大学では絶対ジャズをやるぞと思ってしまった。

高校を出て浪人になり、広島駅の前をぶらついていると、楽器店に中古のアルトサックスがぶら下がっていた。1万8千円の値札がついていた。運命だと思い、夜の土方の仕事をしてお金を稼いだ(3千円/日くらいだった)。いまになって山内が考えるのは、すべてが運命的につながっていたのだということだ。サックスもそのとき意識して選んだのではないが、向いていたからそこに導かれたのだし、30年間も西野流呼吸法をやっていることも無関係ではない。

買って家に帰るとすぐに曲を吹けた。しかし、自己流ではまずいと考えた山内は、5か月ほどヤマハ音楽教室に通った。教師は、後年名を馳せることになる井上敬三だった。まだ井上がフリージャズに手を染める前のことだ。

松山、フリージャズ

山内は松山の大学に進み、フリージャズを始めた。むしろ松山には「ジャズを演りにきた」ようなものだ。だから入学した翌日にジャズ研に入部したのだが、廃部寸前で「ひとりぼっち」の日々が続いた―――夢を持って入ったのに。年上のふたりが入部したが、理屈ばかりで部室ではずっと議論。もとより部がつぶれかけていた理由は、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ、AACM、JCOAなどに影響を受けた面々がフリージャズを演っていたからだ。日本でも珍しい部だった。

やがて、広島に住む井上がフリージャズを始めたという情報が入ってきた。それで松山で演奏会を企画し、井上を呼ぶ機会ができた。なお、井上にいつも同行していた人が、現在も広島に住むサックス奏者の庄子勝治である。

このころ山内が学んだのは、過去ではなくいま何が起きているかを大事にしなければならないということ。ジャズ喫茶に行っても、フリージャズを知りたくてリクエストしまくり、ノートも作った。ジャズ研の先輩が残した2、30枚のレコードのなかには、当時でも貴重なヨーロッパのフリージャズがあった―――マンフレッド・ショーフ、ゲルト・デュデック、スティーヴ・レイシー。

たしかに理論も勉強したが「半端なまま」だ。それよりも感覚での表現が大事だった。それは、小2のときに感覚で自分のメロディーを作り演奏したことからつながっていた。もっといえば、いまもそれを続けているようなものだ。理論的ではないし、それがまずいということでもない。山内曰く「だから、進歩はなにもない」。

山内は、大学1年の終わりころには人前でフリージャズを演奏していた。2年になると大人と組んだりして学祭では他の大学の人やプロも呼び、総勢11人でフリージャズオーケストラを演った。山内の作編曲の5曲だった。

当時はまだ法政大学のニュー・ジャズ・シンジケート(*1)もそんなことを演っていない時代であり、松山で録音したカセットテープを井上が法政に持っていき、そこで流すようなこともしていた。広島リアルジャズ集団(*2)とも交流があった。

当時の松山はかなりの「熱い街」。ジャズ喫茶アウラには近藤等則や土取利行、徳弘崇トリオなんかもやってきた。フリーで「東京なんか」に行く必要はない、松山で十分だと書く者もいたほどである。山内はそのシーンの中心にいた。

即興

だがやがて、山内は即興演奏に軸足を移していく。フリージャズも「結局はジャズと同じ」と思った。大学の先輩が言った「ジャズは死んだ」ということばが強烈に頭に残っていたし、レスター・ボウイもレコードの中で「Jazz is dead」と言っていた。山内はジャズということば自体を使わなくなった。

ミルフォード・グレイヴス、デレク・ベイリー、ホンジンガー、近藤等則、高木元輝、間章などが山内の家に宿泊した。

大学を出た山内は就職した。そして計9年間松山で過ごしたあと、実家が大分に引っ越したこともあって、山内も大分に居を移した。28歳だった。それ以来ずっと大分に住んでいる。ジャズということばも、大分のシーンが即興ではなくジャズ中心だから思い出したようなものだ。

考えるところもあり、山内は松山最後の2年間と大分に移ってからの2年間は音楽をやめていた。「出口のない状況」であり、即興の宿命かもしれない。頭を冷やす期間でもあった。

音楽を再開

とはいえ山内は音楽が好きだった。やはり小学生のときの原体験が大きいのである。山内は久しぶりに大学生を集め、パッチワークスというグループを始めた。さまざまなジャンルの音楽を集め、レコードの針が突然飛ぶように譜面に線を引いて跳躍するようにしたりした。皆は即興どころかフリージャズも知らない。

こうして活動再開したものの、即興を人前で演ることはほとんどなかった。そんなシーンがなかった。ひとりで日本中の冬山を登ってはスキーで山頂から滑っていた。雪が溶けたら日本中で渓流釣り。

楽器

大学時代のメイン楽器はソプラノサックスである。スティーヴ・レイシーの影響もあった。

楽器については、当初はサックスを分解したり手を加えたりもしたが、やがて細かいことは山内のフォーカスからは外れていく。情報も小道具もそんなには必要がないし、大事なこだわりとは情報の中にあるわけではない。情報のなかで音楽をやることは、世の中のオカネの中で音楽をやることと同義だ。

即興がいい点は「その場に対応する」ことであり、いましかない。もちろん何もしなくていいということではないし、採点もなされる。だが、たとえば音がうまく鳴らなければ、鳴らない音を生かす。

防府で演奏したときのことだ。コントラバスサックスを持っていったところ、キーがひとつ外れていた。演奏を始めると一音しか出ない。山内は困惑しつつも最後まで一音をアンブシュアと気合で音を変化させて演り通した。

なおコントラバスサックスは大きくて重く、クルマでないと運搬できない。だから東京ではよほどのスポンサーがつかない限りは演奏することは不可能である。じっさい、欲しい人たちは持ち運びの点で諦めているらしい。

受けるという役割

働きながら活動を続けているうちに、錚々たる即興音楽家たちとの共演機会が増えてきた。ハン・ベニンク(ドラムス)、ミシャ・メンゲルベルク(ピアノ)、スティーヴ・ベレスフォード(ピアノ)、ポール・ラザフォード(トロンボーン)、バール・フィリップス(ベース)、エルンスト・レイスグル(チェロ)、大友良英(ギター等)、内橋和久(ギター、ダクソフォン)、藤山裕子(ピアノ)、豊住芳三郎(ドラムス)といった人たちである。山内の役割は、かれらが大分に来ると企画して共演すること。

ただ、勤めを続けていてはそれ以上の活動ができなかった。制約がストレスにもなっていた。ある日、山内はふと「このままサラリーマンを続けていたらどうなるか」ということを初めて考えた。自分の地位が少しでも上がると会議なんかが突然入ってくる。そうなると音楽活動ができなくなる―――そう考えた瞬間に「音楽ができない人生だけはダメだ」と思い至った。山内が辞表を出したのは翌日のことである。23年半の会社勤務だった。

脱サラ、ヨーロッパ

48歳で脱サラした山内は、すぐにアムステルダムに渡り、ひと月滞在した。もとよりヨーロッパのことを知らないし、ヨーロッパの空気を吸わなければならないと思ったからだ。

その前にハン・ベニンク、ミシャ・メンゲルベルク、エルンスト・レイスグルといったオランダのミュージシャンと共演したことがあったが、伝手としては使わなかった。英語が話せないからでもあった。ベニンクにも電話したがどうにもならない。ただ、電車に乗っていたらその前をメンゲルベルクが横切っていくなど愉快な事件もあった。

ビムハウスは移転前の建物で、運河沿いにあった。そこでのセッションなど2、3回演奏できた。(ちょうど大友良英がツアーで来て、ブリュッセルに誘われ、アンコールで共演したこともあった。)

即興で作品を出すような活動は脱サラしてからのことだ。勤め人時代の最後のころ、福岡のミュージシャンたちと一緒に大友良英を呼び、大分、湯布院、福岡のミニツアーを実施した。事前に新宿ピットインにおいてコブラ(*3)で演る大友を観たが、九州でもそんな音楽だった。何年かして、I.S.O.も呼んだ。2003年に発表した初CDアルバム『Salmo Sax』に大友がレビューを書いてくれたのはそれが縁である。大友は山内を評価してくれていたし、六本木のスーパーデラックスでデビューさせてくれた。

ミシェル・ドネダ(サックス)との共演(2004年)も脱サラのあとだ。ドネダが齋藤徹(コントラバス)と大分に来たとき、山内の知人がライヴを主催した。同行する機会ができ彼らと長い話をした。それがきっかけとなり、山内はヨーロッパツアー時にフランスのトゥールーズでドネダとレコーディングした(白雨)。

やがて欧州との関係もできてきた。大分在住のデンマーク人の助力で国内でもデンマークでも演奏する機会ができたし、スイスの面々ともいろいろやった。そのうちのひとりがジェイソン・カーン(ドラムス、エレクトロニクス等)である。山内はカーンと知り合いになったことで、かれの住むチューリヒに泊めてもらったり、向こうや日本で共演したりすることができた。スイスのグループが2006年に来日した際、YCAM(山口情報芸術センター)にいきなり山内が呼ばれて共演したのは、その縁からきている。そのときの演奏は2枚のCDになり、翌07年と08年のスイスツアー、10年のフランス・NUIT BLEUE Festivalへの出演につながった。

国内でのひろがり

宮本隆(ベース)は山内の音を気に入ってくれた人であり、ときどき共演する関係である。2017年に宮本のアレンジで千野秀一(ピアノ、キーボード)、木村文彦(パーカッション)も加えた4人で演奏したところ、客席にいた澤居大三郎が録音し(界隈では有名人である)、CD化されることになった。『live at Futuro Cafe』である。誰がリーダーというわけでもないのに、なぜか山内の写真だけがジャケットを飾っている。山内は「ちょっと申し訳ないような、ありがたいような」と当惑している。

今西紅雪(箏)とは、彼女が大阪在住の時代からなんどか共演している。今西が東京に居を移したこともあり何年か共演していなかったが、数年前に久しぶりに誘った。これがアルバム『風水音 Fumine』につながり、その後も共演を重ねている。ちなみにタイトルはかれの造語である。

「手法的」ではない

大友良英が山内の初CD『Salmo Sax』に寄せた文章の中で「現在の音楽シーンにおいて即興演奏は、ああすればこうなる的な様々な形式に囚われているように思われますが、私が強く言っておきたいのは、彼はそのような傾向とは無縁であるということです」と語っている。(*4)

山内はこれをみごとな洞察だと考えている。山内自身、何十年も演奏していると記憶してしまうことはやむを得ないことだとしながらも、「こうしたらこういう音が出る」という回路にできるだけ縛られないことを心掛けているという。「同じキイの運指であっても、ちがう音が出てくる」ことを信じての演奏である。だから、山内の演奏は「手法的」ではなく「成り行き」である。

この行動原理は音楽に限らない。日本中の冬山にひとり登り山頂からスキーで滑り降りる。渓流釣りも同じだ。基本ひとりである。既存のものや他者の方向性に依拠するわけではないのだ。山内の音楽は、理論や演奏の方法論をなるべく排除するところで成り立っている。

もっとも、大分ではひとりにならざるを得なかった。即興演奏も山スキーもフライフィッシングでの源流釣りも、他にやっている人がいなかった。だからひとりでやってきた。

むかし、大分でジャズのジャムセッションに参加していたが、その日ベーシストが来ないと、「今日はやめ」などと言っていて、山内にはそれが信じられないことだった。そして山内はひとりでも吹いた。決まりごとに束縛されたくはない。

山内はミニマルで括られることもあるが、かれは単音やフレーズを繰り返す時に、機械的反復だけでなく、スピード、音量、音色、拍子を変えながら奏するという。その場合、聴き手にそれらの固定化による安心感を与えない。彼自身それは「間」に通じることでもあると最近気づいた。人工でない自然界の反復も変化を続けていることに符合する。

ほとんどのミュージシャンは音楽をやるために生業を持っている。山内は脱サラをして現在は年金で暮らしている。でも毎日温泉に入って音楽活動を続けている。「もう奇跡としか言いようがない」一方で、「流れに導かれているのかな」と思うようにもなったという。

アジア回帰

脱サラ後24年経った(2026年現在)。欧州11回、北米2回のツアー後、徐々にアジアに関心が高まった。東南アジア5回の他、台湾には今年(2026年)を含めて7回渡航していて演奏48回。最近の渡台ブームとは無縁の行動だ。若手が出てきて勢いがあるし、古典楽器を使ったり、身体表現をしたりと、最前衛的感覚があるという。韓国の即興ミュージシャンが台湾でワークショップをやり、その結果として古典音楽もやる台湾のミュージシャンたちが即興演奏を始めているらしい。独自の活動を基本としているから見えることがある。

ミャンマーのサガインには父親の足跡を追う理由もあり、ヤンゴンからバスや船で足を運んだ。そこで演奏もした。それもまた自分自身のルーツへの回帰なのかもしれない。

(*1)1974年、完成したばかりの法政大学学館における自由な参加・演奏の場を指向して組成された集団。プロデュースの任にあたったのが草の根で演奏活動を展開していた原尞(ピアノ)である。
(*2)広島において鈴木恒一郎らが立ち上げた集団。70年代以降、同地においてフリージャズの企画などを主導した。
(*3)ジョン・ゾーンが考案した、ゲームスタイルを取り入れた即興演奏のスタイル。日本においてもさまざまな「部隊」での演奏が行われてきた。
(*4)大友良英による『SALMO SAX』の推薦文

アルバム紹介

(文中敬称略)

 

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。linktr.ee/akirasaito

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