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インプロヴァイザーの立脚地No. 305

インプロヴァイザーの立脚地 vol.11 中村としまる

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2023年8月11日 下北沢にて

中村としまるはノー・インプット・ミキシング・ボードから強烈な音を出す人でありながら、自分の音という我を通すわけではなく常に飄々としているようにみえる。このギャップは、状況の変化とそれへの対処を愉しむというスタンスのゆえだ。

ギター演奏からの変容

1962年、大阪市天王寺区生まれ。父親が転勤族であり、幼少期には愛知県岡崎市に、小中高は千葉県市原市と千葉市若葉区に移り住んだ。その後は東京で生活。まだ二十代だった1990年、中央線界隈でイラン人サックス奏者のソーラブ・サダト・ラジュバーディと知り合い、かれのリーダーバンドSADATOに加入することになった。

バンドメンバーはドラムス、ベース、キーボードなど録音やライヴのたびに変わった。中村はギターで参加。1991、93、95年の3回ニューヨークに渡り、マーティン・ビシ(ソニック・ユースやビル・ラズウェルのエンジニア)のスタジオで録音した。最初の2回は現地のメンバーを集め、3回目になって日本人のメンバーで固めた。また、バンドとは別に、サダトが新宿のシアターPOO(2020年に閉店)で月に1回主宰していた即興セッションに参加していた。

だが、SADATOは次第に即興ではなく曲を演奏するバンドに変化してゆき、中村は95年に「はじけるもの」があって辞めた。自分自身ではそんなつもりはなかったが、周囲からはあまりにも唐突でなにかトラブルでもあったのかと思われたらしい。

そのころ中村がギターでやっていたことは、4トラックのカセットMTR(マルチトラックレコーダー)を使って自宅で多重録音したり、友人と一緒にスタジオに入って練習したり、それからSADATOのセッションに参加したり。だが、バンド活動というものがいやになってしまい、それでSADATOも辞めたわけである。

ノー・インプット・ミキシング・ボード

エフェクターを使い始めた転機はそのあたりだ。はじめのうちはミキサーを介してギターとエフェクターを使っていたが、そのうちにエフェクターばかりに偏ってきた。やがて、ギターが姿を消した。

中村は大学で「放送における音響」を履修した経験があった。また20歳のときに得た職は、週末はコンサート音響、平日はスタジオでの効果音と音楽制作だった。だから、ミキサーはつねに近くにあるものだったということができる。

ミキサーは本来アウトプットをインプットにつなげてはならない機械である(と、取説には書いてある)。というのも、アウトプットからは微細なノイズが出ており、これを再入力するとノイズが増幅されるからだ。中村のノー・インプット・ミキシング・ボードはこれを逆手に取った手段であり、外部からのインプットなくフィードバックのループを作るわけである。

ただ、他の楽器とはちがって、意図的に狙った音が出るわけではない(経験的にはこのような音が出ると粗く予期できるとはいえ)。「準備嫌い、勉強嫌い、練習嫌い」を自認する中村にとって、演奏は「完全に出たとこ勝負」であり、「恥をかいても良い」と考えている。

状況を変化させること

中村にとって重要なことは、自分の音そのものではなく、その場の状況を変えることだ。むしろせっかちなため「何でもいいから変化」してほしいくらいである。状況が変わればそれに対処する。だから中村の演奏はあらかじめ構想をもって臨むわけでもないし、目標設定型でもない。

かれはこれを四半世紀以上続けている。だが、同じままではない。はじめたころは「おっかなびっくり」で、良い音が出たらそれを持続させたい気持ちがあった。そのときと比べれば、いまは変化が速く大胆になっている。また激しい音も使い、よりノイジーになってきている。

共演すること、共有すること

誰かと共演するとき、中村は、共演相手に対して「自分がこうしたい」と思ったところで仕方ないと認識している。相手のコントロールなんてできないのであり、むしろ「ぜひ勝手なことを勝手にやってくれ」と考える。そうなれば、自分も勝手にやろうという状態に身を置くことができる。そこには共演相手との間の主従関係はないし、あってはならない。だから、たとえば音で「攻める」という発想はない。そもそも自分の出す音が出すまで細かくはわからないのだ。

それよりも、音を出してみて、相手の反応、自身の反応、それらから生まれる状況の変化を観察したい。共演の結果としてのサウンドは、観客の内部でブレンドされる。自分自身がそういったことに驚きたいし、「今日はどうなのかな」という心持ちでいるという点では観客と同じ側にいる。

したがって、演奏による物語性といったものは気にしておらず、偶然にまかせることを選ぶ。即興演奏を綺麗に終えるのは楽かもしれないが、まるで作ったかのように終えるのはいやで、疲れたから終える、ぎこちなく終える、外的要因のために終える、なんてのが大好きだ。電源をいきなりパッと切ることもよくやる。綺麗に終わりそうなこともままあるが、そんなときに強烈な自己主張をすることはない(イジワルくらいしてみることはあるが)。「今日はそういう日なんだな」と思うまでのことだ。

秋山徹次(ギター)とは、そのような演奏のあり方に対して「美意識を共有している」と話す。いちどこんなことがあった。パワーのあるPAを使うような大きな会場で、アコースティックギターを持ってきた秋山が「マイクを使わないから」と言ってきた。中村は、好きなようにやればよいと考え「キャプテン(※秋山の愛称)の音聴こえないけど良いよね」と応じた。実際に観客には秋山の音は聴こえなかっただろうが、秋山自身には自分の音も振動も伝わっていたにちがいない。たとえば、嵐のせいでサウンドの一部が聴こえなかったのだとしたらどうか。これも状況のひとつなのであり、仮に均等に演者の音が聴こえるのが良いミックスだという見方があるとしても、それはひとつの思い込みに過ぎない。答えなどないのだ。そして、それも観客とともに観察したい。自分はあくまで他者のひとりなのである。

そんなわけで、ハコが小さいほど、音楽の全体像を把握できるし、自分がやっていることを観客と一緒に観察できる。観客が自分と違う音を聴いているのではないかと不安でもある。だから、できればモニタースピーカーを使わず、PAだけを手掛かりに音を作りたいと考えている。

共演者たち

1996年にMANDA-LA2(吉祥寺)に出演したとき、対バンの秋山徹次や杉本拓(ギター)との知己を得た。そのあと、ジェイソン・カーン(ドラムス)が来日する機会があり、かれらと良い場を作ろうと始めたのが、バー青山における月1回の即興ライヴ「the improvisation meeting at bar Aoyama」である(1998-99年)。秋山、杉本、中村のトリオにゲストを入れる形であり、初回にカーンを呼んだ。このシリーズの場は代々木のオフサイト(美術家・サウンドパフォーマーの伊東篤宏と藤本ゆかりが運営していたアートスペース、2005年まで存続)に受け継がれ、2003年まで続けることとなった。

90年代からは海外からも声がかかるようになった。渡航先は欧米が多く、それは91年から99年まで年に1〜3ヶ月の間ベルリンに滞在して活動を積み重ねたことが縁となっていたからでもある。加えて中国、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアにも行ったし、オーストラリアやニュージーランド、またアルゼンチンやメキシコにも足を運んだ。その一方で、海外から来日するミュージシャンから頼まれ、国内でのライヴを企画することもあった(得意ではないが)。

そんなことが切れ目なく続き、また次の展開につながる。それをずっと続けてきて、いまに至っている。やめようと思えばやめられたが、厭きないからやめなかった。中村は「国際交流だ」と笑って話す。

90年代の終わりころ、中村はSachiko M(サインウェイヴ)、キース・ロウ(テーブルトップ・ギター)に相次いで出会い、それぞれと共演を積み重ね、何枚ものアルバムをものしている。

Sachiko Mは、ちょうど大友良英(ターンテーブル、ギター)のグループ「Ground-Zero」後期のメンバーとしてサンプラーを使った演奏をする一方で、サンプリングされた音を取り除き、もともとサンプラーに内蔵されているサインウェイヴ(正弦波)に焦点を当てはじめる時期だった。すでにノー・インプット・ミキシング・ボードを始めており、インプットを削ぐという点で表現の方向性に相通ずるものを感じた中村は、彼女に声をかけた。最初のデュオ『Un』(Meme)は1998年に中村の自宅で録音したものであり、タイトルは否定の意を加える接頭辞であるとともに1枚目のデュオ盤ということでフランス語の「アン」をかけたものだ。このすぐあとに彼女は音をサインウェイヴだけにしぼったソロ作を、また中村もノー・インプット・ミキシング・ボードのソロ作を作った。それぞれ、いまにつながる活動への端境期であったわけである。

バー青山の活動やライヴ盤のリリースにより、少しずつ他国より注目を集め始めてもいた。翌1999年にドイツに招かれて演奏する計画を立てていたところ、バー青山で演奏してもらった大友良英から、同時期にオーストリアでの「Music Unlimited」でキュレーションをやるのだと聞いた。そんなわけで、中村はそこでも演奏することになった。そして、Erstwhile Records代表のジョン・アビーが観に来ていたことが縁となり、Sachiko Mとの2枚目のデュオを同レーベルから出すこととなった。音源は2000年に行ったヨーロッパツアーでの演奏であり、タイトルは、やはりフランス語の「ドゥ」と行為の意味をかけた『Do』(Erstwhile Records)である(なお、まだ『トロワ』はない)。

キース・ロウの演奏を初めて目にしたのも「Music Unlimited」である(もとよりアビーが来ていたのはロウの大ファンだったからだ)。そのときに話をすることはなかったが、そのあとドイツ・ハンブルクに足を伸ばしたとき、ロウのライヴがあると知り観に行った。終わってそのまま帰ろうとしたら、中村のことを覚えていたロウが追いかけてきてくれた。ふたりはカフェで話をした。2001年にふたりがフランスに招かれて共演したのも、その縁があったからだ。このときシアターを借りて録音したデュオ『Weather Sky』もErstwhile Recordsから出すこととなった。

もしかしたら、かれらの存在に意を強くしたことがあったかもしれない。だが、互いになんらかの影響を受けたわけではないし、細かい技術的な話をしたこともない。Sachiko Mもキース・ロウも、もちろん中村自身も、他人に影響などされたくない人たちである。Sachiko Mは偶然なのか時代によるものなのか、同時期に共感できる行動を始めた。ロウとはツアーの合間に「盛り上げるのは簡単で誰でもやることだ」、「誰もいない静かな道に行ってみよう。そこから誘う側でありたい」といったことを、互いに口にした。

数年前までは年に5回前後は外国に行くペースだったが、コロナ時代になり生活が一変してしまった。ただその間は東京のミュージシャンとの交流が深まったし、それも良かったと考えている。

そのようなスタンスであるから、共演者を選ぶにあたり自分から働きかけることは少ない。ただ、すずえり(ピアノ、サウンドアート)とは共演したいと思っている。うまくいくかいかないか、ぎりぎりの線がおもしろいのであって、絶対にうまくいくことがわかっている人と演りたくはない。

また、ノルウェーのシェル・ビヨルゲエンゲンとは今後も共演したいと考えている。共演者の音をヴィデオミキサーに取り込み、映像を生成する映像作家である。もともとCRTのブラウン管を使っていたが、モニターがデジタルに移行し、かれの意図するフリッカーを出せなくなり困ってしまった。だが、デジタルでもCRTの動作を模した回路を作ってくれるエンジニアの助力を得て、表現活動を続けている。中村とはもう20年以上前に知り合い、ノルウェーでの大学の講義に招いてくれた。かれが来日した機会(2012年、23年)に共演したし、今後の再来日の予定もある。

他におもしろいと感じたミュージシャンは、たとえば「CxGx」。歌とドラムスとのユニットであり、ハンディサンプラーなどは使うが即興はほとんどない。また、札幌の「湿った犬」がリズムマシーンやミキサーのフィードバックなどを使っていて好きだったが、最近はどうしているのかなと思っている。

ディスク紹介(近作を中心に)

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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