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インプロヴァイザーの立脚地No. 313

インプロヴァイザーの立脚地 vol.19 吉田隆一

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2024年4月7日 町田ノイズにて

吉田隆一のことをバリトンサックス奏者と呼ぶだけでは不十分だ。SFへの深い造詣をもとにした文筆(日本SF作家クラブの理事も務めているのだ!)、サックス奏者たちの演奏法の分析、ラージアンサンブルのプロジェクト、無伴奏ソロなど、八面六臂の活躍ぶりである。

音楽家になるつもりはなかった

小学生のときからピアノや合唱をやってはいたものの、なりたいものは画家や漫画家だった。絵画教室に通い、小山田いくの漫画『すくらっぷ・ブック』(*1)から人格形成に影響を受けるような少年だった。中学でも美術部に入ろうと思い見学に行ってみたところ、ちょうど部が休みだった。そんなとき担任の教師が顧問を務める吹奏楽部と合唱団に入るよう誘われ、結局、入部することになってしまった。一方で吉田はSFが好きで、眉村卓の作品を知って驚いてもいた。かれはSF小説を書き始め、高校に入ったら音楽をやめてそちらに専念しようと考えていた。

ところが、高校の入学式で吹奏楽部の演奏を見てしまった。小説を書くのは、吹奏楽をやりながらでもできるだろう。そう思って入部してみたが、自信があるのは中学で始めたバリトンサックスくらいである。ピアノを習うことで譜面を読むことや和音を知ることはできたが、音感を育てるところまで至ったわけではない。

部には嘱託顧問として大学生が指導に来た。吉田の両親はクラシックギターを演奏する人だったし、その大学生からの影響もあって、クラシックが好きになった。愛好して聴いたのはモーリス・ラヴェルやオリヴィエ・メシアンなどのフランス近代の作曲家たちであり、その流れで武満徹。一方でサックスやエレキギターの歪んだ音が大嫌いで、だからロックはとても聴けなかった。ポップスもどうも苦手―――大貫妙子は好きだったけれど。

ジャズを聴きはじめた

そうこうしているうちに「バンドブーム」が訪れた(*2)。なんとなくロックへの苦手意識が薄れてきたし、同級生たちはソッチ方面にやけに詳しい。吉田も自分自身で好きなものを見つけようと思い、よしジャズを聴こうと決めた。いわば消去法である。

このころバリトンだけでなくソプラノサックスも吹いていた(吹奏楽部にはアルトもテナーもいるから「じゃあソプラノ吹こうかな」、という理由)。同じソプラノではジョン・コルトレーンという人がすごいらしいと知り、CDレンタル店に足を運んでみた。最初に聴いたのは、ジャケットにソプラノサックスが写っている『Ascension』(1965年)。ちょっと「無理」だった。次に、やはりソプラノが見える『Live at the Village Vanguard』(1961年)を試してみたら、受け容れることができた。だが、カッコよくてもどうも何をやっているのかわからない。

吉田は、歴史をさかのぼって聴いてみることにした。ニューオリンズ・ジャズを聴き、何よりスイング・ジャズにはまってしまった。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー。そしてビバップ、ハードバップと聴き進めるうちに、サックスへの苦手意識も薄れてきた。

サックスの音

とはいえ、良いと思えるのは柔らかくてきれいな音を出す奏者ばかり。コルトレーンは別として、ポール・デズモンド、ズート・シムズなど。ファラオ・サンダースのようなノイジーな音を出す人はまだ好きになれないでいた。

高校生のときには、日本テレビの深夜番組『Select Live in Jazz』も観ていた。吉祥寺のSOMETIMEや六本木ピットインといったジャズクラブで収録されたもので、出演者も、峰厚介(サックス)、板橋文夫(ピアノ)、坂田明(サックス)、井上淑彦(サックス)など一流の面々。ある回が梅津和時(リード)のどくとる梅津Divaによる演奏だった(*3)。こんなイヤな音はないな。吉田はムカムカして布団にもぐり込んだが、翌朝6時に起きたらなぜか聴きたくなっていた。ヴィデオを再生し、一転して好きになってしまった。吉田自身もマルセル・ミュール(*4)の教本でサックスを学んだのであり、おそらく、クラシックのバックボーンをもつ梅津のテクニックを感じ取ったのにちがいなかった。

吉田はもともとフリージャズなるものが嫌いだった。汚いし、暗い。わざわざそんなことをしなくてもいいだろう。だが、これを機に、フリージャズとは「選択の自由」なのではないかと思い至る。ロックだろうと、フォービートジャズだろうと、現代音楽だろうと、なんでもできるということなのではないか。じつはいちばんおもしろいのではないか。気が付くと、ノイズも、ディストーションギターも好きになっていた。ノイズギターの方に進もうかとさえ考えた。

そんな時期に、林栄一『MAZURU』(1990年)を聴いてしまった。高校卒業間際の1月のことである。吉田は「めちゃくちゃ感動」した。ふと居眠りをして目が覚めると<ナーダム>が流れていて、思いがけず泣いてしまったという。「こんなにシンプルでこんなに良いものはない」と思い、やはりサックスをやるのだと決めた。雑誌で梅津和時が林のことを「日本で音色が好きなアルト」だと発言していたことも印象的だった。

ビッグバンド

林のアルトサックスに感動してフリージャズの方向を視ていたはずなのに、大学に入ってみると、ビッグバンドも良いなと思ってしまった。ビッグバンド部の新人アンケートに「バリトンサックスを6年やっていた」と書いたところ、またバリトンをやることになった。

もっとも、なにも自分自身がアルトサックスを吹きたいわけではない。林だってたとえばオーネット・コールマンやデイヴィッド・サンボーンを好んでいたが、林自身はそのように吹こうとはしなかった。大事なことは、得たものを自分のフィルターを通じて出すことだ。だからアルトでなくてもよいし、バリトンならば演りなれている。とはいえ、ビッグバンド部で「バリトンサックスらしくない」音で吹いたところ叱られてしまった。

林栄一

林に習おうと考えた吉田は、アケタの店(西荻窪)にMAZURUのライヴを観に行き、教わりたいと話しかけた。林も「いいよ、こんど電話して」と応じてくれた(*4)。だが、話を続けてみると「人に教わるなんてダメだ」との反応、結局弟子入りは止めてしまった。

その後、バベル2nd(分倍河原)に林のサックスアンサンブル・林管楽交を観に足を運んだところ、林にその場でいきなり「新しいメンバー」だと紹介されてしまった。まだ大学1年生、高校までクラシックの基礎を身に付けてきたとはいえ、ジャズなどできない。いやこれは大変なことになった。吉田は猛練習した。

林管楽交では各メンバーのソロのコーナーがあり、吉田も無伴奏ソロを演らせてもらった。林からは、「いろんな音楽が好きなのはよくわかったが、演ることはひとつでいい」との助言を得た。そして、「技術があっても、ステージでは、生まれて初めて演る感じでひとつのことを演るんだよ。そうでないと発表会になってしまうし、伝わらないよ」と。

もちろん林は音楽理論に通暁しているが、それは自分自身で見出したあとで裏付けとして使っているものだ。自分の理論は借り物ではなく自分で身に付けなければならない。

さまざまなグループ

大学初年のころ、アルトサックスの吉野繁の知己を得た。吉野はチンドン屋での演奏を行っており(*5)、吉田も誘われて1、2年ほど参加した。それを通じて気づいたのは、野外で演奏することは見え方がちがうのだということ。だから、いまも野外演奏は好きだ。

そんなとき、林管楽交のメンバーでもあった多楽器奏者の中尾勘二に関心をもち、コンポステラのCD『1の知らせ』(1990年)を聴いた。メンバーは篠田昌已(アルトサックス)、関島岳郎(チューバ)、それに中尾である。これが吉田にとってエポックメイキングな作品となった。篠田のサックスはクラシックにもジャズにも分類されないインパクトのあるもので、JAGATARA在籍時代に目立っていたエッジがチンドン屋の活動で取れたように、吉田には感じられた。

吉野はウィレム・ブロイカー・コレクティーフを教えてくれた。チンドン屋にも通じるところのある演劇的なサウンドである。カーラ・ブレイを聴き始めたのもその時期のことだ。高校時代からギル・エヴァンスを聴いてもいたし、ラージアンサンブルが好きなのだと自認することになった。

林管楽交の活動の伝手で川崎聡(ベース)と知り合い、川崎が村上俊二(ピアノ、トランペット)を紹介してくれた。1993年から川崎、谷山明人(ドラムス)とのトリオ、96年からさらに村上が入ったカルテットでの活動を開始。また、村上のグループ・ミカラムにも参加し、サックスの清水ケンG(現在、飛松賢二)やトランペットの渡辺隆雄らとも知り合うことができた。そして渡辺がサックスの松本健一を紹介してくれて、その松本が藤井郷子オーケストラに推薦してくれた。テナーには片山広明も登敬三もいるし、パートはやはりバリトン。

藤井オケでの初演は1997年、新宿シアターモリエールである。吉田は大学を卒業したばかりであり、さほどの仕事もなくてバイトで糊口をしのいでいた。コンサートの日はそのバイトの最終日、運命的なものを感じた吉田はバイトを休んだ。オケのメンバーだった早坂紗知(サックス)の知己も得た。芳垣安洋(ドラムス)とは前から知り合いで、最初のきっかけはテレビ番組『タモリの音楽は世界だ』(*6)に、モダンチョキチョキズのメンバーのトラとして吉田が出演したときだ。芳垣はグループのドラマーだった。

このようにして、共演者から新たな共演機会が広がっていった。渋さ知らズには、藤井オケに在籍していた片山と北陽一郎(トランペット)が紹介してくれた。板橋文夫(ピアノ)からいきなり電話がかかってきて驚いたことがあったが、それは新宿ピットインの鈴木寛路店長が知らぬ間に吉田の話をしてくれていたからだ。また、早坂が横濱エアジンの店主・うめもと實に吉田を紹介、おもしろがったうめもとが板倉克行(ピアノ)につないだこともあった。

無伴奏ソロ

そのうめもとが、板倉について話したことがある。「いざとなったら、自分ひとりでなんとかなると思っている」のだ、と。おそらくこれは演者としての最低条件だ。自分だけで音楽を成立させなければならない。

無伴奏ソロをはじめたきっかけは偶然によるものだった。大学2年生のとき、荻窪のグッドマン(現在は高円寺に移転)でライヴの予定があったのだが、デュオの相手がいきなりドタキャンをしてしまった。そのときから、グッドマンでの無伴奏ソロのシリーズをはじめた。対バン方式が基本だから1セット30分以上は演奏しなければならない。これでずいぶんと鍛えられた。ただ、客はほとんど来なかった。

そのころ、吉野繁の家でペーター・ブロッツマンの吹く<Lonely Woman>を聴いてふたりで「最高!」と爆笑したことがある。あるいは阿部薫の『彗星パルティータ』(1973年)や『Last Date』(1978年)。このあたりが、吉田にとっての無伴奏サックスソロの目標だ。

最初はやむなくはじめた無伴奏ソロだが、やがて自分自身の重要なテーマとしてライフワークになってゆく。

吉田はこれまでにソロアルバムを3枚出している。『phone-phone』(2002年)と『tea-pool』(2004年)を吹き込んだころはポップスに興味があった。ポップスは冗長になってはいけない。だからこそ、刈り込んでいけば最低限のものだけで成立する。これはジャズよりも自由度があるのだという。

その後、ゴツゴツとしたサウンドを追求したこともあったが(*7)、いまはそこから離れてみたいと思っている。すなわち、「ダラッ」とたれ流すようでありながら、心地よい時空間が成立するかという命題。この過程では技量や潜在能力など、さまざまなものが試される。『境-SAKAI』(2023年)を作る過程においてはライヴを録音したが、うまくいかなかった。音だけを聴くとやはり「ダラッ」としていて、作品として成立するものとは思えない。敗北である。ライヴとして成立しながらも録音媒体としてダメだとは、どういうことなのか―――ライヴとは、場の空気、隣に座っている人、部屋の中の共鳴、そういった諸々の要素が貢献する、自分たちが想像する以上に総合的な表現のありようではないのか。吉田は録りなおした。場所は長野県の茶会記クリフサイド、客は店主の福地史人のみ。そして表現にあたり特徴づける要素はひとつだけ。これは「ダラッ」としたありようとは異なるものだ。

フリージャズ、フリーのラージアンサンブル

最近、吉田はあらためてアメリカのフリージャズなるものへの興味を持ち、オーネット・コールマンやアーチー・シェップの音源を聴き込んでいる。あの独特のサウンドは、つまるところ、マイナーペンタトニック・スケール(*8)がそうあらしめているのではないか。音色の特徴はむしろアンブシュアのコントロールによるものであり、運指に注目するならばそのスケールに帰着するのではないか。加えて、ビートのアタックの位置がずらされており、ここにはビバップのニュアンスが継承されている。さらにはアメリカにおけるフリージャズの受容史を、チック・コリアやガトー・バルビエリらの仕事の分析を通じて見出そうとしている。

また、フリーのラージアンサンブルとしてグローブ・ユニティ(*9)特有の方式もおもしろいのではないかと考えている。アメリカのフリージャズは「暴力的」であったとみられるかもしれないが、それはたとえば黒人の公民権運動など外に向けられたものであり、音楽内部に対してはそうではなかった。一方、ヨーロッパのフリーには演者に対して「好きにやりなさい」という力勝負を許すところがあった。最近ではジョン・ゾーンのコブラやブッチ・モリスのコンダクションなどなんらかのルールに基づく演奏形式が実践されることが多いが、グローブ・ユニティはそのように指示に基づくものではない形式であり、またソリストばかりに注目させるものではない形式でもある。

インプロヴァイザーたち

吉田は突き抜けたものを持つ人のことが好きだ。たとえばサックスの鈴木放屁の表現方法自体は「あれしかない」にも関わらず、悲壮感もコンプレックスも感じることがない。それは阿部薫にもペーター・ブロッツマンにも感じるところだ。演奏技術の上手さは音楽の上手さとは異なるのであり、重要なことは、自分で定めた場所を耕し、収穫物を人に届けることができるかどうかである。そして、自己表現が好きな人よりも音楽が好きな人。

芳垣安洋はもっとも頼りにしており、音楽好きという点で共感するところが大きい。

再演(2024年3月)したばかりの「プレイズ・カーラ・ブレイ」では黒田京子(ピアノ)をゲストとして招いた。もとより演劇的な側面のあるカーラの音楽を発展させ、ワークショップ「ORT」において大友良英(ギター、ターンテーブル)、池田篤(アルトサックス)、村田陽一(トロンボーン)らにも影響を与えた人である。さまざまに異なるところがあるが、今後も共演したいと話す。

フリーのプロジェクトを一緒に進めたいと考えている人は、たとえば、江藤良人(ドラムス)、小美濃悠太(ベース)、坂口光央(シンセサイザー)、後藤篤(トロンボーン)、本藤美咲(バリトンサックス等)、斉藤圭祐(アルトサックス)といった面々。

年齢的に後進のひとたちについてみれば、たとえば、ピアノの遠藤ふみには、もっともヒリヒリした感覚、ある種の怖さを覚えている。本藤美咲は同じバリトンであってもタイプが異なるし、音楽的な無邪気さに良さを感じるという。無邪気とはもちろん悪い意味ではなく、一見わかっていることに対してもなんらかの新鮮な発見ができるということ、そしてコンプレックスを感じないということ。

既に吉田自身がヴェテランなのであり、若手のつもりでいきがったり屈折したりしている暇はないという意識も明確になってきている。自覚をもって居場所を見つけ、やることをやっていくしかないのだ。

自身のblacksheepは「いちばんやりたいことができている」バンドであり、吉田にとっては「ホーム」のようなものだ。石田幹雄(ピアノ)とも共演を続けていきたい。石田とのデュオアルバムは、前作『霞』とはちがってカバー曲が多いものになるとのことである。

ディスク紹介

(*1)1980~82年、『週刊少年チャンピオン』に連載された。
(*2)テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』(通称『イカ天』)の放送が開始されたのは、吉田が高校2年生の1989年2月である。
(*3)どくとる梅津Divaのアルバム『Diva』の編成は、梅津、橋本一子(シンセ等)、高田みどり(マリンバ等)、れいち(ドラムス)。テレビ収録のときには高田は入っていなかった。
(*4)このとき林の隣に寒川光一郎(ライター、サックス奏者)が座っており、『JAZZLIFE』誌における寒川の連載「ジャズ人―寒川光一郎の東京JAZZ見聞録」(途中で副題が「寒川光一郎の東方JAZZ見聞録」に変更)の林栄一の回に、吉田が「若者」として登場している。
(*5)阿部万里江・輪島裕介(訳)『ちんどん屋の響き』(世界思想社、2023年)に詳しい。
(*6)テレビ東京系列で1990~94年に放送された。
(*7)大阪のStudio T-BONEで行われた「無伴奏バリトンサックス即興演奏ソロ」(2018年)がYouTubeとSoundCloudで公開されている。
https://youtu.be/j4fEydwEgx8
https://soundcloud.com/ryuichi-yoshida/yoshidaryuichi-baritonesax-solo-at-osaka-2018
(*8)マイナースケールの2番目と6番目の音を使わず5音で構成するスケール。
(*9)アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ(ピアノ)を中心として結成されたアンサンブルであり、ヨーロッパの名だたる即興演奏家たちが参加した。

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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