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InterviewsNo. 227

#153 片山智(NORD):瞑想と見果てぬ夢の内なるサイケデリアを求める地下音楽の先駆者

片山智(NORD)インタビュー

Interview & photos by 剛田武 Takashi Goda

PROFILE

NORD / Satoshi Katayama(片山智)
1954年 8月22日生まれ、獅子座。神奈川県出身、現在千葉在住。
1965年 ポピュラーミュージックに興味を持ち始める。
1973年 11月上旬深夜、明治大学理工学部生田校舎にて、「裸のラリーズ」による音の灌頂を授かる。
1980年 及川洋とNORDを結成。吉祥寺「マイナー」でライブ活動を行う。
9月21日、 一発録りでマイナーにてファーストアルバムレコーディング。
10月、佐藤隆史宅にてミックスダウン。
1981年 ファーストアルバム、ピナコテカレコードより発売。「ACB」・「LOFT」・青山「発狂の夜」などでライブを行なう。
1982年 7月及川洋とのNORDラストライブを「ギャティ」で行なう。
1983年 NORD、片山智と伊藤真になりギャテイ、20000Vなどでライブ中心の活動を行う。
2002年 長谷川洋による提案の新プロジェクト「MESSIER 31」に参加、3回のライブを行ない2003年2月解散。
2003年 伊藤真と別れ、長谷川洋をメンバーに迎え、新生NORDとなる。
2015年 新たに内田静男をメンバーに迎え、再始動を果たす。
結成当初より音による快楽と精神の解放を目指し、瞑想と見果てぬ夢の内なるサイケデリアを求め現在に至る。

NORD Official Site

 

INTRODUCTION

80年代東京地下音楽シーンで活動し、日本で最初のノイズ・バンドのひとつとされるNORD。82年に「分裂」したのちも二人のメンバーそれぞれがNORDを名乗って活動を続けたこともあり、その実態は長年謎に包まれていた。今年になってオリジナルNORD唯一のアルバムが未発表音源CD付で約35年ぶりに再リリースされ愛好家を驚かせた。

オリジナル・メンバーの一人、片山智は再発の有無に関係なくNORDとして活動を続けていて、特に2015年にジャパノイズの代表アーティストのASTROこと長谷川洋と、東京の地下音楽のコア・シーンで活動する内田静男をメンバーに迎えてからは、回数は多くないものの、定期的にライヴ活動を行っている。

2017年2月11日(土)大久保ひかりのうまで「Saturday Afternoon Strut vol.1」と題されたサイケデリック・ロック・バンド「みみのこと」との対バン・ライヴを観た。タイトル通り土曜の午後2時開演のイベントで、20〜50代のサイケ/ノイズ・ファンに加えて、来日中の演奏家の姿もあった。

正面のモジュラーシンセやカオスパッドを並べた大きなテーブルに片山が座り、ベースの内田とエレクトロニクスの長谷川は背後の床に黒子のように鎮座する。片山がお香に火をつけ甘い香りが漂うと静かに楽器に息が吹き込まれる。アルバム『NORD』の1曲目「labyrinthe」を思わせるお経の声明で幕を開ける。アンビエント風のスペーシーなドローンが、徐々に音量と音数を増加させ、シャワーとなって注ぐサウンドの滝になる。片山がストロボライトを手にして、目くらましのように観客を照らし出す。明滅する光のリズムと耳殻を圧迫する音の波動に幻惑され、別の世界に引き摺り込まれる思いがする。片山の温和な表情で壮大なエレクトロニクスの砂嵐を巻き起こす片山の異形は、瞑想と見果てぬ内なるサイケデリアを求めるマッド・サイエンティスト宛らであった。

 

まだ明るいうちに終わった文字通り「白昼夢」のようなライヴの後、打ち上げ場所の居酒屋で、片山の生い立ちやNORD初期の音楽活動について話を聞いた。

 

INTERVIEW

剛田武(以下TG):プロフィールによれば1965年、11歳の頃にポピュラーミュージックに興味を持ち始めた、とあります。どういう切っ掛けでしたか。

片山智(以下SK):最初に好きになったのは園まりとグループサウンズでした。親の仕事の関係で小学校6年生から中学1年まで、愛知県豊橋の祖母の家に預けられて育ち、両親と一緒だと観せてもらえない大人向けの歌謡番組とかテレビ番組を観ることが許されたのです。そんな番組で「サイケ」と言う言葉を知って、興味を持ちました。そしたら小6の同級生の医者の息子が「これがサイケだぜ」と言ってレコードを持って来ました。ジェファーソン・エアプレインの『Somebody To Love(あなただけを)』のシングル盤。聴いてみたら普通のポップスで、全然ピンと来なかった。B面の『She Has Funny Cars(おかしな車)』も、なんだかもこもこしているだけで物足りない。

TG:大人が騒いでいるサイケに憧れたけど、どんなものか理解できなかったんですね。

SK:中2くらいになってサイケとは何か、ということに開眼しました。ジェファーソン・エアプレインの『After Bathing At Baxter’s』というアルバムを買ったのです。日本盤は田名網敬一が描いたサイケなジャケットで、『ヒッピーの主張』って邦題でした。ダブル・ジャケットを開けてみると中は福田一郎の解説。それを聴いて「あああ!すごいなー」と。その頃レコードは高いのでアルバムはあまり買えませんでした。初めて買ったロックのアルバムでした。

その頃1967年頃はクリームとかも出てきましたからね。クリームの「ホワイト・ルーム」を聴いてこれもサイケか、とか。それとアイアン・バタフライの「イン・ア・ガダ・ダ・ヴィダ」が民放ラジオでかかったんです。DJが「全部かけます」って言うから「何が全部なのかな?」と思って。曲の途中でラジオを消して、しばらくしてつけたらまだやってる(笑)。やけに長いんだな、と。気に入ってそれも買いました。あとヴァニラ・ファッジ、ドアーズ、ピンク・フロイド、スピリット、ジミ・ヘンドリックス。。。そういう音楽を聴いて、サイケというのはこういうものだ、というのがわかってきたのです。だから、レコードを聴くときに、部屋を真っ暗にして、海外のライトショーで使うストロボライトの代わりにクリスマスツリーのイルミネーションを点けて、仏壇にあった線香を持ってきて(笑)。それが今にもつながっているわけです。

そういえば、思い出しましたが、そのころ毎週土曜日午後2時から、大橋巨泉と星加ルミ子が司会、最近亡くなった藤村俊二がダンスの振り付け師で、小山ルミがゴーゴーガールで出ていた洋楽テレビ番組ビートポップスが楽しみでした。印象に残ったのは毎回ライブがあるのですが、カーナビーツが出演してアイアン・バタフライの「イン・ナ・ガダ・ダ・ヴィダ」のカバーを演奏しましたが、途中でファズの掛かったギターの音しか聞こえなくて最高でした。今考えるとまるで裸のラリーズでした。また、朝7時30分からヤング・セブン・ツー・オーという若者向けの番組でジャックスとかアニマルズが出演したのを記憶しています。朝からジャックスは「からっぽの世界」、アニマルズは「スカイ・パイロット」で演奏中スモークが焚かれ演出だと思いますがメンバーが喧嘩をし始めるというものでした。

そのうちにまた転機が訪れたんです。LSD・・・。

TG:ええっ・・(絶句)

SK:・・・LSDを飲んだ夢を見た。ドラッグ・カルチャーっていろいろ騒いでいるけど、薬を飲んだらどうなるか、という本が結構出ていたのです。拾い読みとかして、飲んでみたいな、と思ったけどどこで手に入れたらいいか、中2じゃ判らないですよね。その想いが強すぎて。『ヒッピーの主張』を買って数か月後かな。夢の中でLSDを飲んでそのLPをかけるんです。夢の中で(笑)。そしたらですね、凄いことになりました。スピーカーからは音とともに飛び交う蛍光色の洪水でした。それが私のサイケデリック体験です。何十年も経ちますけど未だに覚えていますね。

その頃は中2でロックを聴く人間はほとんどいませんでした。我々の世代は人数が多いので、中学で1学年7クラス、350人くらいいて、結局ロックが好きな奴はその中で10人もいない。クラスに一人もいない。殆どフォークでしたから。高校でも同じでしたね。

TG:バイオグラフィに書いてある「見果てぬサイケデリックの夢」とは中2のときに見た夢に繋がるんですか?

SK:それもそうですけど、そんなものは現実にはありえないですね。昔も今も。砂上の楼閣というか夢に過ぎないです。でも少しは夢が見たい、そんな自分の気に入る音楽をやりたいと思っています。

TG:ジャズは何か聴きましたか?

SK:最初はジョン・コルトレーンですね。きっかけは1973年のサンタナが来日した時に、ラジオか何かで、ドラムのマイケル・シュリーヴがコルトレーン好きでサンタナに聴かせたら、大ファンになったという話を聞いて興味を持ったんです。で、最初に聴いたのが『ジョン・コルトレーン・ライヴ・イン・ジャパン(LP3枚組)』。人気のある全盛期のカルテットではなく、ファラオ・サンダースやアリス・コルトレーンやジミー・ギャリソンやラシッド・アリがメンバーでしたが、「マイ・フェイヴォリット・シングス」を60分やっているのを聴いて「凄い!」と感動して。新作を聴きたいと思ったら、もうとっくに死んでいることを知ったのです(笑)。

じゃあ奥さんのアリス・コルトレーンはどうなのかな、と思って聴いたら、これがまたいいんですよ!(笑)。凄く気に入っちゃって、もう(ジョン・)コルトレーンよりいいじゃないかって(爆笑)。ジョン・コルトレーンの音に被せてオーバーダビングしたりしたので、ジャズ・ファンには凄い評判悪かったみたいですね、アリス・コルトレーンは。でも僕にはそれがよかった。通学途中にあるジャズ喫茶で大音量でアリスのレコードをよくかけてもらったのが記憶に残っています。高校のときにはジョン&アリス・コルトレーンのファンになってしまいましたね。当然、話し相手は誰もいなかったですけどね。

TG:73年に裸のラリーズを見た、とプロフィールに書いてありますね。

SK:私のサイケデリック体験にそれもつながるんですね。当時浪人中で、友達が気分転換にオールナイト・コンサートに誘ってくれて。その頃は大学の学園祭でオールナイト・コンサートがよく開催されていました。川崎の生田にある明治大学理工学部のオールナイト・コンサートでした。南正人が出たんですが、たまたま裸のラリーズが出てて、そのラリーズを観て、音のファンになってしまいました。「音」ですよ、「歌詞」じゃなくて、音そのもの。それを聴いて「これは録音しなくちゃ」と思って、その時たまたま持っていたテレコで録音しました。次の年に大学に受かって、夏休みにバイトしてカセットデンスケを買ってラリーズのライヴを録音しはじめた。ラリーズは70年代は行ける限り殆どのライヴに行きました。73,4年が一番好きですね。

TG:演奏を始めたのはいつ頃ですか?

SK:大学で入った美術部で、2学年下の仏文科の及川と出会いました。お互いロックが好きなので仲良くなり、一緒に裸のラリーズを観に行ったりしました。及川から一緒に音を出してみないか、と誘われて、美術部の部室にアンプとギターを持ち込んで、出鱈目に演奏を始めたのです。でも人前で演奏しようとは思いませんでした。楽器が出来ない人間が音楽を人に聴かせるなんて許されないと思っていたのです。

TG:吉祥寺マイナーに出るきっかけは?

SK:私は大学の理工学部を卒業してから、グラフィックデザインの専門学校へ行ったんです。その頃仏文科に在学中だった及川に、マイナーってところがあるんだけどちょっと行ってみないか?と誘われて、何回かお客として観に行ったんですが、「なんじゃこりゃ?」というのが最初の感想ですね。初めて行ったとき、スティックを10本くらい持ってドラムを叩いていて、飛んでくるスティックを避けながら観たんです。怖いところだな、何やってんだこれ?って。

とにかく滅茶苦茶な音楽が多かったですね。こんなの誰でもできるんじゃないか、自分だったら楽器は弾けないにしてももう少しましなものが出来るのじゃないか、なんて思っていたら、ある日及川が「出演決めてきたよ」って(笑)。79年でしたね。それでたまたま出演するようになりました。

TG:NORDという名前は間章の影響ですか?

SK:間章を知ったのは、ジャズではなくて、タンジェリン・ドリームのレコードについていた分厚い15,6ページの解説書でした。シュタイナー研究家の高橋巌と間章の対談と間章の評論が載っていたのです。また、渋谷陽一のラジオ番組のジャーマン・ロック特集に間章が出たことがあって、「間さん、よく煙草を吸いますね」という言葉。(笑) ゴホンゴホンという音がして「そうなんですよ、ヘヴィー・スモーカーでして」って言って。及川に間章という評論家がいるよ、と教えたらハマっちゃって。間章が亡くなったときに、渋谷にあった半夏舎の事務所に押し掛けたこともあります(笑)。

NORDという名前は間さんの影響ではありません。セリーヌは前から知っていて、『夜の果てへの旅』とか、どうしようもなく陰気な話だなあ、と思いましたが小説として面白いと思いました。及川がマイナーに出る話を取り付けてきたとき、及川のアパートで飲みながらバンド名どうするかと考えていて、彼の本棚にセリーヌの本が並んでいるのを眺めながら、『北(NORD)』て名前カッコいいね、と。本棚に『北』があったかどうか覚えていませんが。で、北(NORD)という名前でマイナーに出ました。

一番最初のライヴは滅茶苦茶でしたが、マイナーで滅茶苦茶やっている他のバンドよりは、楽器は弾けないにしてもましなことはできるかな、と思いました。及川はギター、私はギターとラジオとドライヤー。及川はシャンソンを歌いながらワウファズのギターをグアーッ弾いて(笑)、仏文科だったから。

1回やったら病み付きになりますね、音楽は。昔は楽器も弾けないのに音楽やるとは何様だ、と思っていましたが。やってみたら、楽器が弾けなくても自分の感覚だけでやったら、それなりのものが出来た。そこから病み付きになりました。

TG:ピナコテカからレコードを出す話は佐藤隆史さんから持ちかけられたんですか?

SK:そうですね。2,3回適当にやってたら、面白いから録音しないか、と言われたんじゃないかな、マイナーで。僕の記憶によると。何といっても30数年まえですから。

TG:NORDのマイナーでのライヴ回数は、そんなに多くないですよね。10回も出てないのにピナコテカの第2弾で出たから、相当佐藤さんが気に入っていたのでしょうか。

SK:そうかもしれないですね。よくわからないけど。

TG:マイナーで録音して、佐藤さんの家でミックスしたとのことですが。

SK:小さなアパートでしたが、グランドピアノが置いてあって佐藤さんと奥さんはその下で寝てると言っていた。本当かどうか未だに謎なんですが。ピアノの横の炬燵の上でミックスダウン。殆ど録音そのままで、1曲だけファズをかけたのかな。あとはそのまま一発録りです。レコーディングのときも、A面何曲にしようか?1曲目はこんな感じで、2曲目は・・・。裏(B面)はいっぱいにする、とにかくでかい音で。決め事はそれだけでした。B面の方は実際にレコーディングしてた時は、ほとんど何をやってるのか判らなかった。音がデカすぎて(笑)。自分で判らない。人間の耳ってでかい音になると飽和状態になってしまうので、何をやってるか判らなくなる。で、あとで聞いてみて、ほーっこんな感じだったのか、って(笑)。結局NORDの最初の頃は大きな音でやる、というのが目標でしたからね。そんなのあんまり意味がない、と後で判りましたが。今でも後遺症で少し難聴気味なんです。

TG:1曲目にお経と一緒に子供の声が入っていますが。

SK:あれは今でもよく覚えていますが、マイナーでライヴをやるから、その頃住んでいた川崎の実家の2階の窓から外にマイクでも出してフィールド・レコーディングでもしようかな、と思ったんです。その時たまたま子供たちが缶けりをしていて、「面白いね、面白いね」とか言ってる声が入っています。録音した後に判ったんですが。

それとチベット仏教の声聞。今も好きなんですが。今日のライヴでもマントラ(お経)を使いました。お経は心地よいし御利益があり面白いですよ。チベットのボン教のお経もあるし、中国のお経も、ロシア正教のお経もあるし、ムスリムの神秘主義のお経もあるし、日本神道のお経、祝詞ですけど、もあるし。全部一緒くたに混ぜても全然違和感はないですね。そのうちに罰が当たるんじゃないか、とは思いますが、好きなのでずっと使っています。

TG:当時のピナコテカレコードの広報紙「アマルガム」に、「TG(スロッビング・グリッスル)を全面的に支持する」と及川さんが書いていますが、そういったインダストリアル/ノイズを聴いていたんですか。

SK:私もノイズ関係はちらほら聴いていました。スロッビング・グリッスルとかラムレーとかいろいろありますよね。でも、あのへんのレコードのアートワークで使われる死体趣味とかは、自分には合わないな、と思って嫌でした。惨殺死体の写真とかねえ。

TG:でもアルバム『NORD』のレーベル面は首つり写真じゃないですか。

SK:あれは全部及川に任せたらああなっちゃったのです。

TG:ジャケット表は何の写真なんですか?

SK:アウシュビッツの犠牲者が焼かれた後の死体写真。嫌だった。でもそれが定着しちゃった。困りますよね。その辺の戦略みたいのが好きじゃなくて。音的にも喚いたり悲鳴とかは好きじゃない。悲鳴は人に不安感を与えますよね。それよりも女性の囁声、今回の演奏にも挿入しましたが、そういう感じがいいですね。

まあノイズ関係はたまたま我々が出てきた時代に、我々のように楽器が出来なくても、そういうシーンがあるならば受け入れてくれるかな、と思ったりはしたのですけど。別に深くは考えてなかった。

TG:そこを狙ったわけではない?

SK:全然ないです。「アマルガム」に載っている記事は「朱欄」というペンネームになっていますが、及川自身がすべて書いているのはご存知ですね?

TG:ボーナスCDに入っているロフトのライヴ録音では叫んでいますよ。

SK:あれは全部及川です。あの時は面白かったですよ。及川が前の席の人を蹴っ飛ばしたら、逆に客から及川が殴られましたね。何やってんだか、よくわかんないけどもっとやれって思いました。私はシンセサイザーで雑音を出していました。後ろ向いて。

TG:他のバンドやミュージシャンで仲良かったのは?

SK:あんまりいなかった。コサカイフミオさんとか美川さんとか。その辺ですね。あとはほとんど親交ありませんでした。演奏はやりたかったのですが、誘いがほとんどなかったです。

TG:及川さんと別れた後に伊藤真さんとのデュオになりました。メルツバウの秋田昌美さんやK.K.NULLこと岸野一之さんと共演を始めた経緯は?

SK:そもそものきっかけは、コサカイさんが成蹊大学の学生の頃、変わったグループばかり、陰猟腐厭、光束夜、メルツバウ、そしてNORDを集めて学園祭でライヴイベントをやったんです(1983年11月20日成蹊大学「迷走細胞処理場」)。その頃のメルツバウは秋田さんはドラム、水谷聖さんはそこらにあったシンセサイザー、彼はいつもそういう感じでしたが。初めて観て秋田さんのドラムがあまりに凄かったので、今度一緒にやりませんか、と誘ったら、「いいですよ」ということで、「ギャティ」でやることになったんです。岸野さんにも会って、何回か一緒にライヴをやりました。

TG:今回の再発をきっかけに及川さんと再び交流がはじまる可能性は?

SK:それはないと思います。83年に最後のライヴをやったんですが滅茶苦茶でしたね。及川が田端義男のテープをかけて、私は西田佐知子のテープをかけるし。エフェクトもなしで同時にテープをかけて。音楽でもなんでもなかった。

NORD/NORD (Pinakotheca ‎– Nord #1 1981)
NORD LP Label
from AMALGAM #5 (1981.3)

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CD Review #1382『NORD/NORD』
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剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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