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InterviewsNo. 234

#163 橋本孝之(.es)インタビュー:確かな「心」の芽生えと「自己」の消失の先にあるもの

橋本孝之(.es)インタビュー

Interviewed by 剛田武 Takeshi Goda
Photos by はた さちお Sachio Hata, except where noted

 

橋本孝之 Takayuki Hashimoto

2009年、コンテンポラリー・ミュージック・ユニット.es(ドットエス:橋本孝之&sara)結成。
現代美術画廊「ギャラリーノマル」をホームに、即興音楽の新境地を提示。

その圧倒的なライブパフォーマンスは瞬く間に注目を集め、.esとしては2013年にP.S.F. Recordsよりアルバム『void』リリース、2014年に美川俊治(非常階段/ INCAPACITANTS)とのコラボアルバムを香港のRe-Recordsよりリリース。現在では、K2とのコラボアルバム『Blackhole』(Musik Atlach)を含む、全16タイトルをリリースしている。
ソロ作品としては2014年のアルトサックスソロ『COLOURFUL』(時弦プロダクション/ノマルエディション)、日本のサウンドアートの第一人者である藤本由紀夫とのコラボレーションによるギターソロ『Sound Drops』(Nomart Editions)、ハーモニカソロ『SIGNAL』(Nomart Editions)、その他精力的なライブ活動とリリースを短期間で成し遂げ、3作品とも全てが英音楽誌『WIRE』にて紹介される。

2015年に「kito-mizukumi rouber」に正式参加、2016年には結成38周年を迎える日本の前衛ロック界の伝説的グループ、「グンジョーガクレヨン」の新譜にアルトサックスでレコ―ディングメンバーとして参加。

アートシーンでは2011年「させぼアートプロジェクト(長崎)」、2013年 「静岡市立美術館」、2016年 「大分県立美術館」で招聘公演。

そして2017年には、最新作であるアルトサックスソロ第二弾『AISA』をリリース。

あらゆるジャンルを縦横無尽に横断する音楽家として独自の存在感を放っている。

.es(ドットエス)公式ウェブサイト
http://www.nomart.co.jp/dotes/


橋本孝之と知り合ったのは、2011年末、新宿ピットインでの大友良英年末ライブ中に届いたツイッターのメッセージでだった。自分のバンドの音源を聴いてもらえないか、という文面だったと記憶している。筆者のブログの地下音楽の記事を読んだらしい。そして2012年元旦に届いたのが.esの『オトデイロヲツクル』というCDだった。アーティスティックなパッケージに包まれた激しいフリーインプロヴィゼーションに驚愕した。それ以来作品がリリースされる度に驚きは更新され、ライブを観る度に畏怖の念に駆られてきた。橋本が仕事の都合で東京に移ってからは、都内のライブの回数が増え、別のアーティストのイベント会場やアート・ギャラリーで遭遇したり、会ったりする機会が増えた。一度でも話したことがある方にはお分かりのように、とても理知的で紳士的な態度の好青年である。このナイスガイのどこに、これほどまで激しく容赦のない音楽を奏でる原因があるのだろうか。その秘密を探るため、数回に亘るメールのやりとりと新宿のカフェでの数時間の対話によるロング・インタビューを行った。この世に生を受けてから、最新サックスソロ・アルバム『ASIA』に至るひとりの表現者の生い立ちを辿ってみよう。



●子供時代

JazzTokyo(JT):お生まれは?

橋本孝之:1969年4月21日、大阪府堺市生まれです。しかし、生まれて間もなくからの数年間は、父の仕事の関係からインドネシアで暮らしました。

JT:どんな家庭でしたか?音楽環境は?

橋本:父親と母親、弟との4人家族でしたが、父親は商社マンで、仕事での海外勤務のために、ほとんど家にいなかったという思い出があります。何不自由なく育てられましたが、特に音楽や芸術的なことに関心が高い家庭環境というわけでもなかったです。

JT:どんな子供でしたか?

橋本:絵を描くのがとても得意な子供でした。一度、とても大きな賞をいただいて、美術館に展示された自分の作品を母と見に行ったこともあります。音楽の授業はむしろ苦手で、特に人前で発表するのはとても恥ずかしかったです。

JT:最初の音楽の記憶は?

橋本:『ブンガワン・ソロ』というインドネシアの曲です。家の電話の待受用のオルゴールのメロディがその曲だったのです。日本へ戻ってからも使っていました。

JT:そのうちにフィリピンに引っ越されたそうですがいつ頃ですか?その影響はありますか?

橋本:中学生時代です。フィリピンに行ってまず驚いたのは、貧富の差の激しさでした。現地では、同年代の少年達が路上で物乞いをしている一方、自分達をはじめとする一部のお金持ちだけが、大きなお屋敷に住み、女中さんを何人も雇い、どこへ行くにも運転手付きの車といった生活でした。特に多感な時期でしたので、強い衝撃を受けたのを覚えています。単純な話ですが、それまで自分が信じていた常識は、世界のほんの一部の事なのだと、子供ながらに実感しました。

あと音楽に関係した話で言うと、フィリピンに移住したのは、歌謡曲やニューミュージックなど日本のポピュラーミュージックに段々と興味を持ち始める年頃でしたので、それがもう聴けないのかと思うと、とても悲しかったのを覚えています。当時は、YouTubeはもちろん、インターネットすら無く、マニラではお正月になると日本人クラブへ集まって、大晦日に日本で放送された紅白歌合戦の録画ビデオを皆で見る。そんな時代でした。

そんなわけで、日本の音楽からは一旦遮断されてしまうわけですが、そのかわり、マニラ日本人学校では同級生達が、アメリカやイギリスのロックを教えてくれました。知らなかったのですが、多くの海外駐在員は、世界のあちらこちらを回っていて、その子供たちも、アメリカやヨーロッパ等の他の国での滞在を何ヶ所か経験している子が多かったのです。
それからは、ケイシー・ケイサムの「American Top 40」を聴くことが楽しみになりました。フィリピンでは、アメリカのラジオ番組が多く放送されていて現地の若者達に人気がありました。

JT:中学時代ビートルズのアルバム『Live at Hollywood Bowl』に感銘を受けたそうですが、何が魅力でしたか?

橋本:それまでに感じたことがない、胸が躍るような何かを初めて感じました。このレコードはライブ盤で、観客の熱狂的な歓声が入っているのもよかったのだと思います。それからビートルズを好きになって、他のアルバムも聴き漁りました。

JT:他にはどんな音楽を聴いていましたか?

橋本:主に「American Top 40」で、紹介されるような当時の欧米のヒット曲でした。フィリピンでは、欧米のメジャーレーベルのアーティストのカセットテープが、フィリピン製でしたが、当時の日本では信じられないくらい安価で、スーパーマーケット等で、売られていました。当時のお小遣いでも買う事ができたので、カセットテープを集めるのが楽しみでした。

JT:フォークギターを始めたきっかけは?

橋本:フィリピンから帰国することになった際に、両親から何か記念に買ってもらえるということになって、フォークギターを買ってもらいました。それが初めての自分の楽器でした。あまり知られていないかもしれませんが、フィリピンでは安くて良いギターが製造されていたのです。同時にビートルズの全曲が収められたコードブックを同じくフィリピンの書店で買いましたが、その何年か後にはビートルズの曲は、全曲弾き語りで演奏できるようになりました。その本はもうボロボロで酷い状態になってしまっていますが今でも持っています。

 

フィリピンで買ったビートルズのソングブックの実物 撮影:橋本孝之

●学生時代

JT:大学は日本で行かれたのですか?専攻は?

橋本:京都の同志社大学の経済学部卒業です。マニラ日本人中学校を卒業した後、帰国子女を積極的に受け入れていた同志社国際高校に入学しました。大学へは、高校からの内部進学だったのですが、経済学部を選んだ強い理由は特にはありませんでした。法学部と経済学部が、比較的人気が高かったので、そのどちらかに入れれば、くらいにしか考えていませんでした。それでも、入学してからは割と真面目に勉強したと思います。
あと自分には本来は受講資格のない、美術芸術学科の授業へもよく忍び込んでいました。今でもきっとそうだと思いますが、大学の講義には一人くらい他の学部生がまぎれ込んでもわからないからです。

JT:学生時代に音楽活動を始めたのですね?

橋本:高校で同級生と生まれて初めてのバンドを組みました。担当はエレキ・ギターでした。学園祭を活動の中心とした、洋楽のカバーを演奏するバンドでした。メンバーの一人は、後にラップグループの『キミドリ』でデビューした、DJのクボタタケシくんで、彼は主にキーボードを担当していました。

JT:音楽以外の芸術への興味は?

橋本:ビートルズを好きになった流れから、まずオノ・ヨーコさんとフルクサスに関心を持ちました。またレコードやCDのアートワークや、ミュージシャンのファッションにも、とても興味がありました。あとは、音楽にまつわる言葉や映像表現等、そんなところから自分にとってのアートの世界が広がっていった感じです。

JT:特に変わったものや前衛的なものが好きだったりしましたか?

橋本:確かに、傾向としてコンサバティブな芸術には、あまり魅かれなかったようには思います。
前衛的と言えば、高校時代、同志社大学で町田町蔵さんがメインで出演されるイベントが開催されたとき、クボタタケシくんと一緒に見に行ったのですが、とても強烈で驚いたのを覚えています。

●社会に出て

JT:就職で広告関係を選んだ理由は?

橋本:最初から広告関係を選んだ訳ではありませんでした。
大学卒業後は、アメリカのシカゴが本社の経営コンサルティング会社に入社しました。大きな会社で待遇もかなり良かったのですが、入社数年後に、やはり自分は何か表現に関わる仕事をして生きてゆきたい、という思いが強くなり、その会社をやめてデザイン事務所に転職しました。
今思えば、非常に浅はかな考えだったのですが、グラフィックデザイナーが、自分が上手く出来そうな職業の中で、一番アーティストに近いような気がしたのです。しかし、それは大きな勘違いでした。デザインも表現活動ではありますが、常にビジネスと共に存在するものだったのです。それでも、約5年は、デザイナーとして生計を立てていたのですが、次第に、あまり自分自身がデザインをやる意義が感じられなくなり、グラフィックデザインを専門的にやるよりも、広告会社の方が自分には向いていると思って転職しました。
ただ何の美術教育も受けてないにもかかわらず、デザインの世界に飛び込んで無我夢中で格闘した時代は、今の自分にとって、何かとても意味があるように思えています。

JT:奥さんと出会ったのは仕事関係ですか?共通の趣味はありますか?

橋本:最初に入ったデザイン事務所の同僚で彼女もデザイナーでした。共通の趣味ではないですが、彼女は、現在は絵画造形教室を主宰していて本人自身も講師なので、やはり美術や表現に関する話をすることが多いです。

JT:結婚後もギターを練習していたそうですが、人前で披露したいと言う気持ちはありましたか?

橋本:人前で披露という以前に、何とか自分の表現を確立したいと思い、日々もがき苦しんでいました。特に何の活動のヴィジョンもないまま、焦燥感をつのらせていました。

JT:奥さんが持っていたアルトサックスを吹き始めたきっかけは?

橋本:アヴァンギャルド・ミュージックを色々と聴き初めた頃、たまたま家にあったアルトサックスで何か出来ないか、ちょっと試してみたくなったのがきっかけです。ちなみにアルトサックスの演奏については、誰からも教わったことはありません。

 

●音楽の修練

JT:独学で練習する際、ひたすらレコードを聴いて研究したそうですが、元々研究熱心な性格ですか?

橋本:そうですね。ある部分ではとても凝り性な方だと思います。
当時は、音楽活動をするにしても、世界中の聞くべきレコ―ドはすべて聴いた上で、自分の音楽に価値があることを確認してからでないと発表してはならない、という強迫観念にとらわれていました。そんな状況でしたので、食事を抜いて浮かせたおカネで必死の思いでレコードを買ったりしていました。

JT:先ほども言われた焦燥感や強迫観念の正体は何だったのでしょうか?

橋本:何かを乗り越えたい、というとても強い感情でした。

JT:それは人前で演奏活動を始めた時に解消されたのですか?現在も同じような気持ちを抱くことはありますか?

橋本:今でも少なからず、そのような思いがあるので、演奏活動を続けているのだと思います。

JT:ギタリストとして影響を受けたのがデレク・ベイリーということですが、他にもスティーヴ・レイシーやアンソニー・ブラクストンに行き着くきっかけは?普通にジャズを聴いていたら簡単には行き着かないと思いますが。

橋本:よく覚えていないのですが、フリー・ミュージックに関しては、ある時期に一気に何でも聴きました。演奏活動をスタートさせるずっと前のことです。
あと普通のジャズに関しては面白いと思ったことが一度もないですし、いまだに全く興味がありません。

JT:最初に読んだ間章氏の文章は何でしたか?どこに惹かれましたか?

橋本:『この旅に終わりはない』でした。
デレク・ベイリー、スティーヴ・レイシー、ミルフォード・グレイヴスについて知りたいと思って夢中で読んだ本の著者がたまたま間章だった、というのが最初の出会いでした。
文章の印象としては、一言でいうと「とても冷たく、乾いた感じ」でした。それは、もしかしたら、今の自分の演奏に対する感覚の要素の一つになっているのかもしれません。

JT:最初に聴いた阿部薫氏の音源は何でしたか?どこに惹かれましたか?

橋本:『光り輝く忍耐』か『木曜日の夜』のどちらかだったと思います。何かただならぬ、特別な色気を感じました。
特に、歌い上げるような哀愁を帯びた切ないメロディが感動的で素晴らしかったのですが、しかしながら、それは一方で、自分がアルトサックスを演奏する際には、回避しようとしている演奏のアプローチでもあります。

JT:何故そのような意識になったのでしょうか?

坂口卓也さんが『COLOURFUL』のライナーノーツで、詳しく書いてくださいましたが、演奏する上で自分にとっては、「non-ideomatic(慣用からの脱出)」という概念がとても重要で、それは「常套句的な関連付けから遠ざかり、芸術を創出すること」とも言えます。激烈なサックス(空中に放たれる大きな声)から想起される絶望・怒り・悲しみといった予定調和的な情念から自由でいることが大切なのです。

JT:一方で橋本さんのハーモニカ演奏には「哀愁を帯びた切ないメロディ」があるように思うのですが、サックスとの違いは?

橋本:ハーモニカという楽器の本性の話になりますが、構造上、サックスよりメロディに向いやすく、それがとても自然な事として、演奏中の自分にも起こってしまうからです。

JT:つまり、橋本さんが回避しようとしているのはメロディ自体ではなく、安易にメロディに頼ってしまう薄弱な意志なのではないでしょうか。それゆえにハーモニカ・ソロアルバム『SIGNAL』で敢えてメロディを封印したのでは?

橋本:単に「哀愁を帯びた切ないメロディ」のハーモニカ・ソロアルバムなら、あえて自分がリリースする意味がないと思います。長谷川裕倫さんが、アルバムのライナーノーツに「見事に破裂と溜め息が同居しながら、生きるも死ぬのもあたりまえ過ぎると再認識された。」というテキストを書いてくださったのですが、それを読ませていただいて、確かに自分は、そんな作品を創りたかったのだと気付かされました。

●確かな「心」

JT:他によく聴いたサックス奏者は誰ですか?

橋本:阿部薫さんを知った後で、白石民生さんと浦邊雅祥さんの存在を知りますが、お二人の素晴らしい演奏には、とても感銘を受けました。海外のプレイヤーもほとんどは聴いたと思いますが、正直に言ってしまいますと、あまり夢中にはなれませんでした。
その理由を考える時、私がアルト・ソロアルバムを初めてリリースした際に、モダーン・ミュージックの生悦住英夫さんが書いてくれた作品の紹介文を思い出します。

(※下記、原文のまま転載)

<推薦盤>橋本孝之/ COLOURFUL
2015年9月3日
このところ、なぜか海外で大反響の、. es (ドットエス)の、橋本孝之のアルトサックス・ソロアルバムが、リリース。
音に、確かな『心』が入っている現役のアルトサックス奏者は、海外にはほとんどいないのだが、橋本も含めて日本には3人もいるのが凄いことだ。
ライナーノーツ:坂口卓也 翻訳アラン・カミングスの、日本語と英語の文章がまた、読み応えがあって素晴らしい。

確かな『心』とは何なのか?とても簡単に説明できるようなものでは、ありませんが、当時から自分の中に、既にこのような価値観が芽生えていたことは確かで、後に生悦住さんと出会い、この感覚を共有できたことが、P.S.F.レコードからのリリースにもつながって行ったのだと思います。

その後、高木元輝さんの『モスラフライト』の再発の為のライナーノーツを依頼されたときに考えたことも、もしかしたら、このテーマと関係があるかもしれません。

(※下記、高木元輝『モスラフライト』のライナーノーツより抜粋)

「日本には、太古から即興演奏とも親和性の高い『禅』のような、高い精神性を持った文化があり、それこそが、日本が世界に誇れるものだと思う。『間』といった概念もしかりだ。高木達が活躍した時代の日本のフリージャズの演奏からも、そんな日本文化独特の美意識が感じられるが、それは、現在の優れた演奏家にも継承されている。ただ、残念ながら、そういった演奏家達が活動の場を広げるのは、今も昔も、容易なことではない。だからと言って、悲嘆に暮れているわけではない。なぜなら、聴いた人の世界観までも覆してしまう、そんな鋭く研ぎ澄まされた音楽の可能性を、私は強く信じているからだ。」(橋本孝之)

JT:生悦住氏の言う確かな「心」に相当する橋本さんの価値観とは具体的に説明できますか?

橋本:残念ながら、言葉で説明するのは、非常に難しいです。音を聴いていただいて、もしそれでもわからないようであれば、それ以上、その人に言葉で説明することは無理だと思います。

JT:白石民生さんや浦邊雅祥さんにも確かな「心」を感じますか?

橋本:そのような表現が適切なのかどうか、私にはちょっと自信がありません。

JT:橋本さんが「聴いた人の世界観までも覆してしまう、そんな鋭く研ぎ澄まされた音楽の可能性」を感じた例を挙げてください。

橋本: そうですね、初めて難波ベアーズで、灰野敬二さんのソロパフォーマンスを拝見した時に、それを感じました。
阿部薫さんや、高柳昌行さんのソロ作品からもそのような感じを受けた事がありますが、残念ながら実際に彼らのライブを体験する機会には恵まれませんでした。もちろん現在活動中のアーティストの中にも、素晴らしい方は何人もいらっしゃいます。

JT:自分で演奏活動を始めようとした転機とは?

橋本:やはりデザインの仕事を完全にやめたことでしょうか。
生計を立てるための仕事とは、完全に切り離された形にはなってしまうけれど、そのかわり徹底的に何の制約もない自由な表現を追求するんだ、という決意をしました。

JT:具体的な活動のイメージはありましたか?

橋本:特に何の展望もなかったです。

JT:デレク・ベイリーの著書『インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ』を読むきっかけは?

橋本:まだインプロヴァイズド・ミュージックについて、ほとんど知らなかった頃にデレク・ベイリーの初期のレコードを偶然手に入れたことで彼の存在を知りました。それから彼自身の著作があることを知って取り寄せて読みました。

JT:それを読んでいろんなギタースタイルを学び始めたそうですが、目指すところは?

橋本:フラメンコギターを始めるきっかけになったのが、正確には覚えていませんが、こんなことをベイリーが書いていたからです。「インプロヴァイズド・ミュージックの本質のひとつは、その楽器のもつ本性を引き出すことだ。ギターにおいてもっともそのことが成されているのが、フラメンコギターだ。フラメンコには、ボディーを強く叩いたり、弦を激しくかきならして音をだすような豊かな奏法が多用されている。」それを読んで、フラメンコ特有のギターテクニックを身につけて、自分の即興演奏に応用したいと考えたのです。そして、フラメンコギターの先生のもとで、そのようなテクニックの習得を一生懸命にやりましたが、最終的に自分にとって一番大きな収穫となったのは、リズムというものに対する感覚が非常に鋭くなったことでした。

 

橋本 孝之
撮影場所:大阪
撮影日:2013年

●.es(ドットエス)結成

JT:フラメンコギター教室でsaraさんと林聡さん(ギャラリーノマルのオーナー)と出会ったきっかけは?

橋本:フラメンコギターを習い始めた頃、その教室の交流会で先生に、「気が合うのでは」と引きあわせてもらったのがきっかけです。その日は、予期せずステージに上げられたのですが、まだフラメンコの曲を全然やったことがなかったので、私だけ、ボサノヴァのギタリスト、バーデン・パウエルの『悲しみのサンバ』を演奏しました。そんなこともあって、とても仲良くなりました。

JT:林さんが経営するギャラリーノマルに行ったきっかけは?どう思いました?

橋本:フラメンコギターの先生がギャラリーのリニューアル記念のレセプションで演奏されることになり、何故か初心者の私がサイドギターを弾くことになったのです。
(ギャラリーノマルは)信じられないくらいに徹底的にアンチコマーシャルな姿勢で、美術界においてとても重要な、筋の通った活動を継続しています。語弊があるかもしれませんが、現代美術界のP.S.F.レコードのようにも思えます。
現時点では、ビジネス的には苦戦しているようですが、とても意義がある活動を行っており、一部からは熱狂的な支持を受けています。実際に、ギャラリーノマルは、名和晃平さんをはじめとするとても重要なアーティストを数多く輩出しています。
ギャラリーで演奏することの当初の目論見としては、自分達のやっているような音楽への理解をもつオーディエンスとより多くの接点が持てるのでは、ということでした。その目論見自体は大きく外れましたが、しかし結果的には、それ以上の意味を持つことになりました。

JT:saraさんとユニットを組んだきっかけは?

橋本:2009年10月頃、私にあるライブのオファーがあったのですが、彼女が自分自身も何かやってみたいと言っていたことを思い出して、ピアノで一緒に出てみないかと誘ったのがきっかけでした。その時の彼女の返事は、「そんなに急には出来ない」、だったのですが、「何でもいいから大丈夫」と言ったのを覚えています。ちなみに、彼女がピアノを弾けることは知っていたのですが、その時点では、まだ実際に彼女のピアノ演奏を聴いたことはありませんでした。

JT:演奏活動を行う為には、仲間と場が必要だと思います。saraさんと林さんという仲間と、ギャラリーノマルという場を得たことで、活動の方向性を見いだしたのですね。.esの由来は、フラメンコをベースに考えていたのですか?

橋本:その通りです。名前の由来は、「.com」、「.jp」、「.uk」といったスペインのインターネットドメイン名「.es」からです。

JT:橋本さんにとってのフラメンコとは、他の音楽と違いますか?

橋本:フラメンコというジャンル自体に、何か特別な思い入れがあるわけではないのですが、とても魅力的な要素があると思っています。

橋本 孝之
撮影場所:ギャラリーノマル(大阪)
撮影日:2013年

●初期の活動

JT:結成した当初はどのような活動をしていたのですか?

橋本:.esを始めた頃は、仕事が終わると毎晩ギャラリーノマルに行って、saraさんと林さんと飽きずにリハーサルばかりしていました。そして月に一度くらい、同じくギャラリーノマルでライブ活動をやっていました。当時は音楽をやっている知り合いもいなくて、今思えば完全に孤立した状態の数年間でした。
ギャラリーノマル以外で演奏したのは、阿木譲さんの「nu things」というお店に、デモテープを送ったところ、エリオット・シャープのサポートのオファーをいただいたのが最初でした。そのブッキングが決まった時は、saraさんと林さんと、とても喜んだのをよく覚えています。

JT:2010年に1stアルバム『.es』、そして2nd『Interference』をリリースしますが、きっかけは?また、それぞれについて制作意図と内容を教えてください。

橋本:林さんが作品を作るよう熱心に勧めてくれたのです。ちゃんとしたリリースも無いようでは、本気でやっていると思ってもらえない、と言って。
『.es』は、ファースト・アルバムですが、林さんが考えたストーリにそって曲を演奏してゆくというものでした。『Interference(干渉)』は、中西信洋さんという作家の同名の展覧会のコンセプトに合わせて制作し
ました。

JT :2011年『オトデイロヲツクル』をリリースしました。それまでの作品では打ち込みや歌もありバラエティに富んでいましたが、このアルバムではサックスとピアノを中心としたシンプルな演奏です。このアルバムを、私を含めて広く紹介しようと思った理由は?

橋本:ある程度、自分の理想とする音にたどり着けたと思ったからです。
内容に関しては、一旦、色々な要素を削ぎ落とすことで、ストレートでストロングなサウンドにしたくて、saraさんや林さんに半ば強引に主張しました。

JT:モダーンミュージック生悦住さんの影響は?

橋本:とても大きいです。当時は大阪に住んでいたので、そう頻繁には行けませんでしたが、明大前のお店へ伺うのがとても楽しみでした。生悦住さんとの対話を通じて、彼の価値観や審美眼を探り、それを少しでも自分の演奏に反映させて向上したい、という思い一心でした。ですので、ある日、彼から、P.S.F.レコードから、.esのCDを出さないか?というお話をいただいた時は本当に驚いたのと同時にとても嬉しく思いました。

JT:他に転機となる人との出会いを教えてください。

橋本:美川俊治さん(非常階段/ INCAPACITANTS)は、saraさんに頼んで紹介してもらいました。美川さんとsaraさんは旧知の中で、アルケミーレコードの『愛欲人民十二球団』でも共演を聴くことができます。
彼に、お会いしたかった一番の理由は、音楽と生活(仕事)の関係性について、どのような考え方をお持ちなのか、直接おうかがいしたかったからでした。美川さんは、名実ともに世界的に偉大なノイズミュージシャンでありながら、大手銀行員でもありましたので。

橋本 孝之
撮影場所:ギャラリーノマル(大阪)
撮影日:2012年
撮影者:不明

●音楽観

JT:橋本さんにとってアートと音楽の関係は?

橋本:音楽はアートを必要としていますが、アートは音楽を必要としてないような気がしています。
音楽は、純粋に音楽だけで存在することが難しいと思っています。音楽自体はとても抽象的なもので、外的な要素から、とても大きな影響を受けやすいのではないでしょうか?例えば、同じ音楽でもアルバムのジャケットや作品のタイトル、ミュージシャンの外見等によって、聴こえ方がまったく違ってくるはずです。逆の言い方をすると、音楽には他の表現を何でも取りこんでしまう力がありますが、一方で、アートは、必ずしもそうとは言えないと思います。

JT:スティーヴ・レイシーや阿部薫の影響と、逆にジャズから離れようとするアンビバレンスについては?

橋本:スティーヴ・レイシーからは、結果的には、それほど影響を受けていないと思います。阿部薫については、先程述べた通りです。
ジャズについてですが、特に日本では、舶来のありがたいものとして受け入れられてしまい、まだそれを引きずっている感が否めないと思います。例えば、「日本人離れした演奏」という表現があるように、お手本とされる海外のプレイヤーのように演奏することが評価されることだったりします。私の考える芸術とは、決して自ら進んで定型に収まるような卑屈なスタンスでなく、もっと生身の人間を、まるごと曝け出したようなものであるべきだと考えています。

JT:ライブは一回性の物、それをCDとして形に残すことの意味は?

橋本:プレイヤーの自分としては、ひとつの演奏のアプローチがあるレベルに到達したと感じた時に、CDのリリースでひと区切りをつける、という感覚があります。ですので、特にソロに関しては、すべての音源(現状ではアルトサックス2作品、ギター1作品、ハーモニカ1作品)を聴いていただくことで、私の演奏家としての一貫した姿勢を理解してもらえると信じています。
あとCDは、完全に自分だけの作品というわけではないと考えています。アートワーク、ライナーノーツ等、様々な人間や要素が絡み合うプロジェクトと捉えているのです。つまりライブの一回性の演奏とは、別の次元で作品づくりとして楽しんでいるわけです。例えば『Sound Drops』という作品では、藤本由紀夫さんに制作していただいた無調のオルゴールが付いたガットギターがあり、まず、その楽器を使用した演奏を録音しました。その音源から始まって、林さんにハンドメイドのパッケージを、藤本さんにはテキストとそのレイアウト(それは、マルセル・デュシャンへのオマージュとのことでした)を、アラン・カミングスさんには英訳詞を、お願いすることになってゆきました。その結果、私が当初予想した以上に、深淵な佇まいを持った素晴らしい作品に仕上がりました。CDの制作は、音源自体以外の部分も私にはとても重要なのです。

JT:自分のCDは複合的な「アート作品」だと考えていますか?

橋本:「アート作品」の定義にもよりますが、私の演奏した音だけがそのCDの価値であるならば、それでは、つまらないと考えています。

JT:音よりもアート性が強調されたとしたらどう思いますか?

橋本:可能性としては、あり得るのではないでしょうか?

JT:アルトサックスとギターとハーモニカ、それぞれの演奏の意識の違いは?

橋本:演奏の意識ということについては、どの楽器も違わないです。ただ、それぞれの楽器に対して、自分が発見した最も美しい特性を、最大限に引き出すような演奏を心掛けています。

JT:「破壊の為の破壊、ゆえに奏者は不可視となる」という坂口卓也氏の評は『COLOURFUL』の本質を捉えていると思います。サックスという楽器に付随する『情念的なもの』を無にすることで見えてくる新しい音像。それは『物音』に似て非なるものだと思います。それを『COLOURFUL』と名付けた意図は?『オトデイロヲツクル』でも伺える『色』ヘの拘りは?

橋本:『COLOURFUL』も『オトデイロヲツクル』もタイトルは両方とも林さんが付けてくれました。『COLOURFUL』は、写真家のはたさちおさんに撮影していただいた数百枚の私のモノクロのポートレートをジャケット用に選定してもらっている時に、突然「この作品のタイトルはカラフルだ!」と言いだしました。本人に理由を確認したところ「過剰な色彩はグレーになる。ニュートラルでいることの多彩さ。」ということでした。勿論、私もとても良いタイトルだと思ったので使わせていただきました。

橋本 孝之
撮影場所:六本木スーパーデラックス
撮影日:2017年6月25日 Tokyo Flashback P.S.F. 発売記念 ~Psychedelic Speed Freaks~ 生悦住英夫氏追悼ライブ
撮影者:アラン・カミングス Alan Cummings

●最新アルバム『ASIA』

JT:2013年『COLOURFUL』を出したあと、東京や台湾でライブし、美川俊治さんをはじめいろんなミュージシャンと共演し、さらにご自身の仕事の関係で東京に住むことになりました。活動の幅や内容が膨大に広がりましたが、意識の変化はありますか?

橋本:根本的な部分では何も変わっていません。

JT:saraさんと大阪時代のようにいつでも一緒にいられる時間が減ったことで、関係が変化しているのではないでしょうか?

橋本:特に変化していないと思います。

JT:『ASIA』は2016年10月14日新宿アートスペース・バー・ブエナでのライブ録音です。確か何人かのミュージシャンがそれぞれソロ演奏をするイベントでしたね。それをアルバムとしてリリースしようと思った理由は?

橋本:アルトサックスのソロ作品としては、2013年の『COLOURFUL』がありましたが、それ以降、色々な演奏経験や試行錯誤を重ねて、自分の音が随分変化してきているということを自覚していました。そのような中で、それを一番良いかたちで、作品として発表したいと思いました。

JT:『COLOURFUL』が奏者を不可視にする試みだとすれば、『ASIA』は音を発する肉体の存在を強く感じさせるように思えます。韮澤アスカ氏の肉感的なジャケット・アートからもそれは伺えますが、ご自身の意識はいかがですか?

精神的な部分では、以前のスタンスとの違いは全くありません。
ただ、サウンドが肉体の存在を強く感じさせるという印象を与えたのは、もしかしたら、こんな背景もあるのかもしれません。大阪時代のライブ活動のほとんどは、ギャラリーノマルにおいてでした。ギャラリーノマルは音響的に特殊な空間で、とても深くて美しいナチュラルリバーブがかかります。そんな環境に慣れていました。
ただし、東京へ来て演奏の環境が変わったからといって、電気的にリバーブ等の音響効果でそれを疑似的に作り出すことは、不自然だと思いました。あと、基本的には「スピーカを通さない音の方が美しい」という考え方が、自分にあることも関係しています。
あまり残響効果の期待できない環境での演奏については、最初は、とてもストレスを感じていたのですが、次第にそれを逆手にとったような演奏が出来るようになりました。その結果として、以前よりも力強く、スピード感のあるサウンドに変化した、のかもしれません。

韮澤アスカ氏のジャケット・アートですが、肉感的ということころに惹かれたというよりは、どちらかと言うとですが、輪廻転生をテーマにしていることに興味を持ちました。あと表現上のタブーを全く感じさせないエネルギーが凄いと思います。今回も素晴らしい作品とコラボレーションすることが出来たので、『ASIA』はアートワークも非常に気に入っています。現在、彼女は南アフリカに拠点を移して活動しており、今後もますます世界的な活躍を期待されているアーティストの一人です。

JT:以前の吹き鳴らす(エクスパンドする)プレイから、音を丸める(カーヴさせる)演奏に変化したように思われますが、意識的にスタイルを変えたのですか?

橋本:意識的に変えたわけではありませんが、結果的に、ユニークと言われるスタイルにはなったようです。

JT:つまりギャラリーノマルの残響の中に自らの肉体を拡散して「奏者(フィジカル)」を消滅させられた時代と異なり、現在のデッドな演奏環境では、吐き出した音を再び身に纏い、肉体感を強化し自己防衛する 必要があった?

橋本:それは考えたことがありませんでしたが、とても興味深い視点ですね。しかし自分自身の意識の上では、まったくその逆の方向へ進んでいるつもりなのですが。

JT:「逆の方向」とは何か、もう少し具体的に説明していただけますか?

橋本:私の演奏者として意識の上では「自己」、ましてや「防衛」という概念については、消失の一途を辿っております。そして、それは自分が理想とする、良い演奏を行うための重要なポイントだと認識しています。

グンジョーガクレヨン
撮影場所:六本木スーパーデラックス
撮影日:2016年8月20日 グンジョーガクレヨン「グンジョーガクレヨン」リリースライブ
撮影者:不明

●現在〜今後の活動

JT:普段の生活での音楽との関わりを教えてください。普段はどんな音楽を聴いていますか。

橋本: 週に一度は、街のレコードショップを回って、様々なジャンルの新譜等をチェックするのを楽しみにしています。
あとは、自分の演奏を録音してみた音源、音楽仲間からいただく彼らの新しいリリース、信頼できる方々から薦めていただいた音楽を聴いています。

JT:.es以外に参加している他のユニットについて簡単に紹介お願いします。

橋本:いくつかありますが、現時点で正式に音源をリリースしている活動について、お話させていただきます。

「kito-mizukumi rouber」
自分が加入する前から、世界で一番好きなロックンロールバンドでしたが、入ってますます大好きになりました。「元あぶらだこのメンバーのバンド」というところで語られてしまうのは、ある程度は仕方がないことなのかもしれませんが、そんな事とは無関係に素晴らしいバンドだと思います。この秋には、ライブ盤(カセット)、ベスト盤(CD)の2作品をリリース、ライブツアーも予定されています。

※「kito-mizukumi rouber」
4人組サイケデリックアシッドブルースバンド。ライブでは冷静に狂った演奏で、毎回客を凍りつかせる。音楽シーンや他のバンドからまったく相手にされず、無視され続けるダンスバンド。

 

「グンジョーガクレヨン」
彼らの22年ぶりの新譜『グンジョーガクレヨン』に、レコーディングメンバーとして参加させていただいたのは、大きな体験でした。
今思えば、組原正さんの音に初めて接したのは、坂本龍一さんの『B-2 UNIT』だったかもしれません。東京へ来て実際にライブを見てその凄まじい演奏に、完全に魅了されました。メンバーの前田隆さん、宮川篤さんも本当に最高の演奏家です。あと、この作品に関しては、プロデューサーのPASSレコードの後藤美孝さんの貢献もとても大きいと思っています。

※「グンジョーガクレヨン」
2017年、結成38周年を迎える日本の前衛ロック界の伝説的グループ。 1979年、組原正 (g)、大森文雄(key)、前田隆(bs)、宮川篤 (ds)、園田游(vo,reeds)により結成。1980年PASSレコードから5曲入LP『GUNJOGACRAYON』でデビュー。硬質なビートとフリージャズ的な即興演奏を融合したスタイルでポストパンクの象徴となる。その後、方法論を完全即興演奏に変化させ、1987年2nd『gunjogacrayon(2nd album)』(DIW)、1994年3rd『グンジョーガクレヨンIII』(日本カセット・レコーヂング)をリリース。以降も同じメンバーで活動を続け、2009年に解散を表明するが、2012年に完全復活。他のアーティストとの交流も積極的に行い、かつて無く意欲的かつ解放的な演奏活動を展開する。組原は2007年に1stソロ・アルバム『hyoi』(PASS/P-Vine)、2012年に2ndソロ『inkuf』(DIW/disk union)をリリースし、デビュー当時“パンク版デレク・ベイリー”と評価された特異なギター・プレイをさらに進化させている。 2016年5月にサックス奏者・橋本孝之をゲストに迎えた4thアルバム『グンジョーガクレヨン』をリリース。異形の即興ユニットは新次元に突入した。

 

JT:自分の演奏活動の未来の展望は?目標または理想はありますか?

橋本:演奏活動を通じて、少しでも世の中に良い影響を与えたいです。

JT:長い時間、どうもありがとうございました。

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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