JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 42,397 回

Interviews~No. 201

#117 ピーター・キューン Peter Kuhn

ピーター・キューン Peter Kuhn
1954年2月25日、ロサンゼルスの生まれ。クラリネット奏者、録音エンジニア。
10才の頃からドラッグに耽溺し、アート・ペッパーの自伝『ストレート・ライフ』にも更生施設「シナノン」でピーターに出会ったことが記されているほど。
「12ステップ」(依存症回復プログラム)をマスターして完全に脱却、現在では、更生施設や刑務所などで依存者の更生に手を貸すカウンセラーとして活躍。その間を縫って年に数回コンサートなどに出演している。
仏教(禅)にも深く傾倒し、究極的には世界平和を祈願している。
今回のインタヴューは、依存症からの脱却を啓蒙するため自身の体験を赤裸々に語ることになった。

Interviewed via e-mails by Kenny Inaoka, June, 2013

♪ バス・クラをもらったので今年から演奏活動を再開した

JT:現在はどんな音楽活動を?
PK:しばらくシーンから遠ざかっていたが、今年から演奏活動を再開した。近々の予定は、親友のデイヴ・セウェルソン(Dave Sewelson,sax) のグループ「ノン・プロフィット・プロフェッツ」(The Non Profit Prophets) でのコンサート。バークレー・アーツ・フェスティバル。メンバーは、スコット・ウォルトン(Scott Walton, b)、マーク・ミラー(Mark Miller)、ジム・ライアン(Jim Ryan)、レント・ロムス(Rent Romus) 。それから、自身でサン・ディエゴで組織したコンサートで、メンバーは、アレックス・クライン(Alex Cline,ds)、ネイサン・ハバード(Nathan Hubbard,perc)、ヒュー・レイジン(Hugh Ragin)、デイヴ・セウェルソン(Dave Sewelson)、ハーリー・マグジーノ(Harley Magsino,b)。

サックスのデイヴ・セウェルソンとは長い付き合いで、70年代からいろいろなグループを組んで共演している。じつは彼からベース・クラリネットをプレゼントされてね、眠っていた音楽をする喜びを呼び覚まされたんだ。素晴らしいパーカッショニストのネイサン・ハバードとは、ここサン・ディエゴで最近出会ったんだ。彼とは、ルイ・ダミアン(Louis Damien, as, bamboo flute, harmonica) やハーリー・マグジーノを交えて何度か手合わせをしている。ドラムスのアレックス・クラインとは高校時代からの顔見知りなんだけど、実際に手合わせをするのは初めてなんだ。

JT:セウェルソンからバス・クラをもらった?
PK:そう。彼は素晴らしい人間なんだ。プラスチック製のバス・クラだったけど。良く使い込まれた楽器だった。

JT:アレックス・クラインはNobu(須藤伸義)がインタヴューをしたばかりだ。
(インタヴュー#114/http://www.jazztokyo.com/interview/interview114.html
PK:そうだってね。

JT:他に予定されている活動は?
PK:ネイサン・ハバードが夏か秋にコンサートを計画しているし、アレックス・クラインからは年末に素晴らしいコルネット奏者のダン・クルーカス(Dan Clucas) を含むカルテットでの演奏を伝えてきた。今は音楽で生計を立てているわけではないので、年に数回演奏の機会があれば嬉しいというところだ。

JT:音楽以外にはどんな活動を?
PK:自分にとっては音楽と同じくらい重要な活動に時間を取られている。つまり、依存者の更生の手伝いとか、地元の刑務所での瞑想の講習、別の刑務所での仏法の講習などだ。

JT:音楽以外の活動についてはあとで聞かせてもらうとして、 レコーディングについては?
PK:リトアニアのNoBusinessレコードが、ニューヨーク大学の「トップ・オブ・ザ・パーク」でのカルテットのラジオの公開録音をノー・カットでリリースする計画を立てている。メンバーは、デニス・チャールス(ds)、ウィリアム・パーカー(b)、ウェイン・ホーヴィッツ(key)。マサチューセッツのワーチェスターでデニス・チャールスとデュオで演奏した録音からもピックアップする予定だ。

録音のアーカイヴを聞き直しているんだが、近藤等則(tp)、デイヴ・セウェルソンとのトリオと、ウィリアム・ウィナント(per)、クリス・ブラウン(p, electro instruments) との1985年のコンサート録音もリリースを考えている。デイヴ・スウェルソンが7月に戻って来るので、そのときにネイサンを交えて新録を予定している。

♪ 長兄の影響で10才の頃からドラッグに染まった

JT:話は戻って、かなり長い間シーンから遠ざかっていたけど、その理由は?
PK:人生のほとんどを薬物依存症(ドラッグ・アディクション)に付き合う羽目になったんだ。アート・ペッパー(as)の自伝『ストレート・ライフ』を読むと、1968年にシナノンで自分と出会ったと書かれている。シナノンというのはカリフォルニア州サンタモニカにあるドラッグとアルコール依存症の更生施設で、アートと出会ったのは自分が14才の時だった。自分は何年間もドラッグとうまく付き合ってきたんだが、人生で最優先してきたのは音楽だった。まずいことに、ドラッグは自分には悪影響がなかったんだ。これは奇妙なシナリオだと思うけど、多くの偉大なミュージシャンの人生やキャリアにドラッグがどれほど決定的な障害になっているか。だけど、自分は特別なんだと自信を持っていたんだ。

しかし今では、ドラッグがいろんな面で自分の演奏の機会やライフスタイルに影響を及ぼしていることを知っている。今まではそれに気が付かなかったり、目を背けていただけなんだと。更生するためにニューヨークから生地のカリフォルニアに戻って環境を変えてみたりもした。しかし、環境を変えても”自分”を変えない限り、どこへ行っても同じことなんだ。

依存症が嵩じて収監され、家族との関係は断絶、楽器も手放し、最後はホームレスになった。完全に依存症から脱却できた時(1986年1月5日)、身を正し、社会の有用な一員として生きたいと思った。昔の環境に戻って、再び悪い習慣につかまらずに同じライフスタイルを生きるのは自分にとってとても挑戦的なことだった。ドラッグなしに幸せを満足させる道を見つけたことは本当に幸運だった。そういう意味でここ25年間はドラッグ抜きで人生を生きることを学ぶために費やしてきたといえる。

JT:そもそもドラッグ依存症にはまったきっかけは?
PK:自分の前に長兄がドラッグにはまった。いつもパワーとコントロールの幻想に取り憑かれていた。それが自分と世界との関係を変えることのように思えた。ドラッグを始めたのは10才の時で、60年代の中頃のことだ。当時、ドラッグ・カルチャーが全盛で、自分にとってそれがとてもロマンチックに思えたんだ。ドラッグが蔓延し、すぐに手に入れることができた時代だった。
JT:自分が目撃したのは70年代の中頃から後半だね。仕事で何度もNYに足を運んだんだけど、ダウンタウンのクラブの楽屋でミュージシャンやエンジニアがコーク(コカイン)を吸ってた。マリワナは強烈な匂いがするんで、さすがに楽屋では駄目で、ロフトで吸ってたけどね。角砂糖のようなコークをナイフで削って鼻から吸い上げるんだ。当時は、ヴィレッジを歩いていてもプッシャー(売人)がすっと寄ってきて、耳元で「グラス、グラス」ってささやくんだ。シカゴでは1本のマリワナをミュージシャンが回しのみしてた。こういうときは自分だけ抜けるわけにはいかないんだ。タバコより害にならないといわれて。LAではロックバンドのホームパーティで自家製のクッキーをつまんでぶっ倒れたことがある。純度の高いマリワナを焼き込んであるのを知らなかったんだ。

JT:ところで、どんなドラッグを?
PK:最初は、酒、それからマリワナ、主に幻覚剤(サイケデリックス)系。シナノンを出てからは、薬剤系と鎮静剤系に走った。成人してからは、ヘロインなどだ。

JT:ドラッグを摂取すると?
PK:初期の段階でドラッグがまともに効いていると、平和、平穏、不思議な陶酔感を体験する。少量でも終日気分が良く、ありのままの状態でも快適で、他人がしていることや考えていることがとくに気にかることがないんだ。それが人為的な作用であるという事実には目をつぶる。薬の力を借りれば錯乱も来たさずに6から8時間はいい気分でいられるなんて素晴らしいじゃないかと思う。依存症の特徴として、ドラッグの必要量が増えていき、ついには所期の効果を生まなくなって来る。量を増やしてもあの陶酔感はやってこない。そして当初のあの陶酔感を得るためにどんどん量を増やしていくことになる。
JT:自分の場合は、ドラッグが原因だとわからずに、急に寒気に襲われ、心臓がバクバク高鳴って、皆の話し声が天上から聞こえ出したので、心臓発作に襲われたと勘違いした。いわゆるハイになった状態だったのだろう。

JT:薬物依存症が原因でトラブルを起こした経験は?
PK:個人的にはうんと若い頃からね。ドラッグをやるために学校を抜け出したりね。シナノンに収容されて..。依存者には裏の人生があるということだ。依存していることを隠さなきゃならないから。自分は不運の犠牲者だって自らに思い込ませ、それが自分が原因だっていうことに気が付かない。問題を合理化したり、悪癖を正当化してしまうんだ。

自分の依存症が原因で家族が迷惑を被っていることは明白だった。自分にとってヒーロー的存在だった長兄は依存症を管理できずに人生を破滅してしまった。家族は自分が手に負えない存在になってしまったことを理解すると関係を絶たざるを得ないんだ。これは家族にとっても堪え難いことだと思う。
自宅に警官がやってきて自分が連行されるのを見るのも辛いことだよ。
犯罪を犯すようにまでなると法的な処罰にまで発展する。世間の邪魔者になって、強盗や窃盗、挙げ句の果てはピストル強盗にまで行き着いた。

JT:ドラッグが切れるとどんな症状が?
PK:ジョン・コルトレーンは、「ファイヴ・スポット」にセロニアス・モンクと出演中、ステージでヘロインを打っていたという。正直なところ、自分はジョン・コルトレーンではないから、ヨーロッパ・ツアー中など、アムステルダムまで足を延ばして(ドラッグを入手し)、オーストリアなどで使っていた。たわけた話で音楽を遠ざけ、キャリアに禍をもたらすだけだ。プロモーターやファンに迷惑をかけ、仕事を失うことにつながる。旅に出ていない時にドラッグが切れる、ということはドラッグを買う金に不自由している、ということを意味し、結果として犯罪に走るということになる。
依存症にはまっている間は、他人や物事を一切気にかけることがなくなるんだ。

JT:ドラッグに依存している時の1日の生活とは?
PK:ボロ布の状態で、ヘロインを打ったあとは終日惚けているだけだ。依存症が嵩じてくると、終日どうやってもっとヘロインを手に入れようかということだけを考えて過ごすようになる。それがすべて、と言っても過言ではないだろうね。

♪「12ステップ」をマスターして依存症から脱却した

JT:依存症から抜け出した方法は?
PK:ドラッグは問題だけど解決法はないと何年間も思い込んでいた。初期の頃はしばらく止めてみるんだが、また手を出してしまう。そのうちそれが偽りであることに気付く。ドラッグを入手する手立てが切られると、戻る道はなくなる。しかし、薬物を絶つ方法をいろいろ試してみるんだが、そのうちいい加減、嫌になってくるんだ。NYからLAに移住するなど環境を変えてみる、彼女を手に入れる、彼女を手放す、アルコールだけに限定してみる、マリワナだけを吸う、週末だけは許してみる、注射は止めて吸引だけにしてみる、吸引は止めてマリワナだけを吸う、錠剤だけにしてみる、ビールだけでごまかしてみる、いろいろやってみた。
更生プログラムも試してみた、デトックス・センターにも出掛けてみた、精神病の施設にも入ってみた、監獄にも収容された、家庭にも戻ろうとしてみた、しかしどれも自分には効果がなかった。人生でいちばん辛い時期だった。いつまでも続けるわけにはいかないことは分かっていた、しかし、どうやって抜けたらいいか分からなかった。一旦止めると時限爆弾を抱えた状態になる。情緒不安定になり、イライラし、不機嫌が募って来る。最後になって、「12ステップ」(依存症回復プログラム)こそ自分が取り組める方法であることに気付いた。

じつは「12ステップ」は以前にも挑戦してみたことがあったんだが、途中で投げてしまっていた。最後の段階まで辿り着くということは「降伏」を意味していると思っていた。薬物が自分の苦悩の要因であり、断ち切ることにどれほど苦痛を伴おうとも、ドラッグを続けることはより事態を悪化させること以外の何ものでもないことを思い知ることなんだ。そして遂に薬物依存を断ち切ることからくる恐怖、孤独、自暴自棄の感情から開放された状態をイメージすることに成功するに至った。そして、この「12ステップ」を完遂した暁には、薬物や飲酒から得られる一時的な快楽ではなく、自由と幸せに満ちたより素晴らしい人生を得ることができるのだと確信することができた。そして、一時的にではなく終生、ドラッグには手を出さずにいられるという確信を持てるようになった。これは天啓だった。

♪ 集中瞑想の訓練が人生のあらゆる分野を豊かにしてくれた

JT:更生には禅も関係している?
PK:集中瞑想の訓練は自分の人生のあらゆる分野を豊かにしてくれた。薬物依存症の頃は、平和を希求することは基本的に自身との闘いになるだろうと考えていた。禅にあっては、争い事(貪欲、怒り、無視)の種子を理解という果実に変換することを認識することだった。自分は、禅とは心の鍛錬の一形態であると認識している。不幸にも自分はそのためにはドラッグが必要であると長年考えていた。薬物やアルコールに対する依存症の根源は、利己主義、自己中心的な考え方、あるいはいわゆる”自己妄想”であると言われている。音楽を演奏するときは、心を鎮め利己から抜け出すことを学ばねばならなかった。

聴衆はどう考えるだろうかとか、自分は格好よく演奏できているだろうとか、あるいは、コード・チェンジがしっかり頭に入っているだろうかとか、”そろそろ山場が来るぞ”とかが頭をよぎるということは自分のことしか考えていないということになる。そうではなくて、禅あるいは願わくば音楽というものは、小さな自己や自分が提供できるものは何かなどという考え、つまり自己中心主義からの超克を意味しているはずなんだ。今の自分は、自分のソロや何を言いたいのかが中心にあるのではなく、他人の音に良く耳を傾け、心と身体をひとつにして反応している。このようにしてすべての個の奇跡的な超越的集合体に触れているのであり、そのわれわれの利己の集合体を自由に活用してすべてを理解した上でわれわれが生来保有している創造的本質(仏陀の性質)に依存し深く信じながら即興的に作曲しながら反応することができるんだ。

自分は、ヴェトナムの禅僧チーチ・ヤー・ターイ(Thich Nhat Hanh) を師と仰ぎ、伝統の儀式に則って聖職者としての身分を与えられているが、この場は知的訓練の場ではないので、本線を外れた発言があればお許し願いたい。しかし、驚異に満ちた生き方に触れる方法は複雑なものではなく、意を尽くした呼吸により四方に自由と安定を醸成し、苦痛を癒し、変換し幸福に導く条件を認識するものなんだ。

このことこそ私を音楽に惹きつけるものなのだ。つまり、超越的な何かに触れる能力、私の心のもっとも純粋な表現を提供し、願わくばそれを他者に伝える能力。落ち込んでいる人間が僕の最初のアルバム『Livin’ Right』を聴いて元気が出た、という手紙をもらったことが忘れられない。それがまさに覚醒の瞬間であり、創造的アーティストとしての自分の目的が完遂されたと認識したんだ。太古の昔から音楽はひとびとの気持ちを高揚させるものであり、本質的にすべてのアーティストはヒーラー(癒し人)であると考えている。

そういうわけで自分は毎日禅に励んでおり、豊かな心を醸成するために集中力を涵養している。結果として理解力という果実が知らず知らずのうちに実ってきている。自分の時間のほとんどは依存者の更生と刑務所での仏法の訓練に費やされている。即興演奏家としてのスキルを使って心の真奥まで耳を傾け、瞬間ごとにもっとも有効なやり方で即時的に反応し、教義や先入観にこだわるべきではないことを学んできた。これは音楽を演奏することと同じ体験であり、だからこそ今では1年に数回演奏するだけで満足しているんだ。音楽で生計を立ててはおらず、また、音楽だけが達成感を得るための手段ではないので、演奏のあとでさらに演奏を追い求めずに済んでいる。
今では、音楽が私の存在を証明するものではないが、他の方法では表現し得ないことを表現するための素晴らしい手段であることに違いないと思っている。

クラシックであろうとジャズであろうと、新しい音楽は世界の意識を変えた。音楽により新しい知覚の方法を教えられ、頭の中で新しい神経経路が開発された。ノイズやハーモニー、音の善し悪しについての先入観から開放されたんだ。その結果、文化的な変化が起き、アメリカではホワイトハウスに有色人種を受け入れる結果を生んだのだ(それがすべての原因ではないにせよ)。
禅により私の知覚は成長し続けており、同時に他者の苦悩の変転の手助けをするスキルも成長している。

♪ 戦争と貧困に終わりが来ることを夢見て

JT:あなた自身のバックボーンについて教えて下さい。
PK:1954年2月25日、ロサンゼルスの生まれ。3人兄弟の末っ子。母親はロンドンの出で、父とは第二次大戦中にロンドンで出会った。両親とも音楽にはまったく関係がないが、母親の兄がスイング・ドラムを叩いていたので何らかの遺伝子が働いているかも知れないね。6、7才の頃にピアノのレッスンを受けるように仕向けられたが、先生たちはピアノを弾く楽しさを教えてくれなかったのでレッスンが嫌だった。レッスンはクラシック中心だったが、自分でブギウギを混ぜ込んだりしていた。母親はいつか僕がレッスンを感謝する日が来ると言い続けていたので自分もそんなものかなと思っていたことは事実。ピアノは、中学校のバンドでクラリネットを担当するまで4、5年続けたかな。サックスが足らなかったのでクラリネットを選んだけど、木管の音が好きになったんだね。そのうち、だんだん音楽そのものが好きになってね。しかし、僕の精神に強く訴えてきたのは、アルバート・アイラーやエリック・ドルフィー、サン・ラを聴いたときが初めてだった。そして、ペリー・ロビンソンに出会ってすべてが氷解したんだ。当時、僕は改めてカリフォルニア大学サンタ・クルス校で音楽を勉強していた。幸いにも、大学ではジェームズ・テニーとドードン・ムマについて作曲と演奏を、デイヴィッド・キルパトリックについてワールド・ミュージックを学ぶことができた。

JT:プロとしての最初の仕事は?
PK:サンタ・クルスというのは、70年代初期はとても活気のある街でね、大勢の素晴らしいミュージシャンと仕事をして腕を磨くことができたんだ。たとえば、ウェイン・ホーヴィッツ、デイヴ・セウェルソン、クリス・ブラウン、マーク・ミラー、ポリー・ブラッドフィールード、ビル・ホーヴィッツ、ジトロとか。他にもそれほど名前は知られていないけど優秀なミュージシャンは大勢いた。僕の初めてのギグは、ベース・プレイヤーのマックス・ハートスタインと彼の21世紀アンサンブルだった。そのあとは、エディ・ゲイルとベイ・エリアで何年も演奏した。それに上に挙げたミュージシャンとそれぞれいろんなバンドを組んでね。

JT:アンソニー・ブラクストンasとの係わりと彼の影響については?
PK:サンタ・クルス時代の1972年から1976年の間に僕の音楽に大きな発見があったんだ。その頃、独立系ローカル・ラジオのKUSPで仕事をしていたんだがクリエイティヴなインプロ系の音楽をやるウィークリーの番組があってね。同時にエンジニアリングのスキルの修得にも励む機会があった。これが後に役立ってね。NYCでHat Hutレーベルなどの録音の仕事を受けたんだ。たとえば、ビリー・バング、マックス・ローチ、セシル・テイラー、ジャミール・ムーンドック、ルーサー・トーマスなどを録音した。この成果で奨学金を得て、生放送の技術を磨いて、クリス・ブラウンやルー・ハリソン、ウェイン・ホーヴィッツなど多くのアーティストのドキュメンタリー・シリーズをCAアーツ・カウンシルのために制作することになるんだ。

1975年だったか76年だったか、サンタ・クルスのポエトリー・フェスティバルがソロ演奏のためにアンソニー・ブラクストンを招聘したんだ。僕は、AACMやNYロフト・シーンに刺激を受けていたんだが、アンソニーには演奏者としてだけではなく作曲家としても大きな影響を受けた。アンソニーのアルトに修理が必要になってね、知合いのリペアマンへ連れて行ったんだが、それがきっかけで一日中アンソニーと音楽について話し込むことになった。時には僕の演奏の録音を聴かせたりしながらね。本当に素晴らしい人間でね、人生や音楽に心底ひたむきなんだ。そして、僕にNYに出て来ることを薦めて電話番号を教えてくれたんだ。彼の家を訪ねると僕の名前を書いたプレートの付いた部屋が用意されていてね、彼の「クリエイティヴ・オーケストラ」に入る手筈が整っていたんだ。僕の夢が実現したと思ったね。いよいよ田舎のぬるま湯から抜け出る時が来たと決意した。
出掛けるまではアンソニーはNYCに住んでいると思っていたんだが、実際はアップステート(註:ニューヨーク市以外の北部ニューヨーク州)だったんだね。だけど、僕が着いたときは運悪く、アンソニーはツアー中にちょっとしたトラブルに巻き込まれていてね。幸いにもペリー・ロビンソンに知り合うことになって解決したんだが。ペリーはソーホーの自分のロフトの中に僕のスペースを確保してくれて、僕を保護してくれただけではなく、音楽やクラリネットについてのすべてを教えてくれたんだ。その関係は今でも続いている。いつでも手を広げて迎えてくれるんだ。

そんなわけで、アンソニーが旅から帰ってくるまではNYCにいたんだ。アンソニーが帰って来たので、「クリエイティヴ・オーケストラ」で演奏させて欲しいと頼んだ。譜面が読めるのか聞かれたんだが、正直なところそれほど自信はなかった。結局、アンソニーのオーケストラはあきらめたんだが、そのうち、フランク・ロウtsやビリー・バングvln、フィリップ・ウィルソンdsと知合い、家族のような付き合いをするようになった。フランクも素晴らしい男で、アリス・コルトレーンpやドン・チェリーtpが彼を世話したように僕を世話してくれたんだ。そんなわけで僕の最初のレコードはフランクのオーケストラ・プロジェクトで、『Lowe and Behold』(1977/Musicworks)というんだ。
この頃から数年間はレスター・ボウイーの「Sho Nuff Orchestra」で毎日のように演奏していた。とてもパワフルなバンドだった。

JT:近藤等則tpとも何度か演奏したようだが。
PK:僕は5丁目に住んでいて、角にはフランク・ロウ、通りの向いにはアーサー・ウィリアムスが住んでいた。僕の上階の住人にカチエ・イケダという大のジャズ・ファンがいた。ありがたいことに彼女が近藤を紹介してくれたんだ。僕らの”Livin’ Right”というバンドは本来カルテットだったんだが、近藤と知り合って演奏しているうちに彼をバンドに入れざるを得ない状況になってきた。彼はバンドの仕事がうまくいくように頑張ってくれてね。その後、彼が帰国して成功したことを聞いて友人としてとても嬉しく思っている。君のお陰で最近近藤と連絡がとれるようになったよね。彼の新作DVD『Blow the Earth』を観て、感激した。素晴らしい音楽を演奏している。近藤についてずっと後悔していたのは、LP『Livin’ Right』(1979/Big City)で彼のソロを編集せざるを得なかったこと。収録時間の関係で止むを得なかったんだけどね。リトアニアのNoBusinessレコードが『Livin’ Right』を無編集でオリジナル通りCD化してくれることが決まって大変嬉しく思っている。これで近藤のファンは彼が意図した通りのソロを全部聴くことができるんだ。

Lester Bowie Sho’ Nuff Orchestra


JT:現在のジャズ・シーン、とくにNYのジャズ・シーンについては?

PK:残念だけど、ここ何年もジャズ・シーンには真から心が躍ったことがなかった。原因は僕の耳にあり、音楽にあるのではないことは確かだった。何故なら僕は音楽以外のことに集中していたからね。事実、首を突っ込んでみると、胸躍る事実がたくさんあるんだ。たとえば、ウィリアムとパトリシア・パーカー夫妻が「ヴィジョン・フェスティバル」などを通じて、ニュー・ミュージックを維持し、さらに豊かなものにしようと奮闘している姿、若いミュージシャンには機会を与え、ヴェテランを尊敬する、こういう事実にはじつには励まされる。ヘンリー・グライムズ、マーシャル・アレン、ミルフォード・グレイヴズ、キッド・ジョーダンらヴェテランらの復活には興奮させられるね。マーク・ホワイトケイジやギュンター・ハンペル、オリヴァー・レイク、カヒル・エル・ザバールらの不断の活躍にも感激するね。

JT:アイドルを挙げるとしたら?
PK:大きな影響を受けたミュージシャンではピー・ウィー・ラッセル。アイドルがいるかどうか確かではないけど、無数の教師とインスピレーションがあることは確かだ。まず、絶対的なものとして、釈迦牟尼仏だ。仏陀は、すべての存在に対し自由と変容への道を示してくれる。

JT:夢といえば?
PK:世界中が平和になるようにまず自分の心の中に平和を醸成すること。戦争と貧困に終わりが来る日を夢みている。学校で自己変革とヒーリング(癒し)のツールが提供され、若ものたちが競争心を治め、避け得ない傷や焦燥感、失望を理解と思いやりに変える術を自己と他者のために学ぶことができるように。つまらないことを豊かなものに変える方法と手段を見出せる創造的なアーティスとして生きることができるように、創造性と心の価値を教えることができればと願う。人類が健康で幸せでありますように。人類が安全で苦しみから開放されますように。平和を。

「12ステップ」
http://cocomananet.blog89.fc2.com/blog-entry-211.html

*初出:Jazz Tokyo #187 published June 30, 2013

*Down below updated February 05, 2018

*First three CDs are on NoBusiness Records

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください