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Jazz Right Nowニューヨーク:変容するジャズのいま 蓮見令麻InterviewsNo. 240

ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第22回 ラン・ブレイク〜独創と孤独を泳ぐピアニスト〜<後編>

独自の発想とロマンチシズムをもって唯一無二の音楽的世界観を切り開いてきた孤高のピアニスト、ラン・ブレイクのインタビュー後編。

photo (above): ©Roberto Masotti


ラン・ブレイク(以下R): マーティン・ウィリアムズ(注:米国のジャズ批評家)は僕の音楽をあまり良く思っていなかった。だけどある時、僕にこう言ったんだ。「バーナード・ストルマン(注:ESPレーベルの創設者)と連絡を取って彼のところでアルバムを制作したらどうだ?」ってね。早速連絡を取ってみたら、バーナードはもう1枚僕のアルバムを作ることに同意してくれた。その後きちんと電話して話をつければ良かったんだけど、なぜか僕はそうしなかった。…彼の母親の作ったオートミールクッキーは最高だったよ。ストルマン家はアップタウンのリバーサイド・ドライブ沿いに住んでいて、ピコという名の小さな犬を飼っていた。アルバート・アイラーとその弟のドナルドも、よくあの家を訪れていたんだ。僕達は何杯も水だけを飲んでその家で時間を過ごした。ニューヨークでの生活も終わりに差し掛かる頃だったかな。そこで夜を明かしたこともあった。そうやって彼とは仲良くなったんだ。タダでアルバムをくれたりしてね。バーナードの事務所に電話すると、「うちに寄っていかないか?」とよく言ってくれた。

バイロン・コーリー(以下B): あのアルバム(注:『Ran Blake Plays Solo Piano』(ESP-Disk, 1965)のこと)のファーストプレスではオリジナルという説明がありますが、実はカバー曲がいくつか入っていますよね?

R: (ESP)レーベルの活動後期に入るまで、ミュージシャン達はオリジナルばかりをレコーディングしていたんだ。アルバムには「Vanguard」っていう曲も入っていたかな。当時僕はアヴァンギャルドの作曲家、チャールズ・ウォリネンと音楽制作していた。

B: バーナード曰く、そのアルバムのマスターテープはあなたが買い戻したとか?

R: リールテープはバーナードのところにはないかもしれないね。

B: アルバムが廃盤になったのはESPのLPとしては初めてだったと聞きました。

R: 売れ行きが良くなかったんだろう。

B: そんなことないですよ。『Ni Kantu En Esperanto』(ESP-Disk, 1963)は何年間も廃盤にはならなかった。(注:世界共通言語エスペラント語で歌われたフォークソング集、おそらくこのアルバムの売上も振るわなかったという文脈で例にあげられている。)

R: 彼の両親があのレコードのファンだったんだ。

(注:ここからはESP関連のツアーについて話している)

R: ニューヨーク州のアップステートの方に行ったんだ。パティ・ウォーターズ、ジュゼッピ・ローガン、バートン・グリーンとサン・ラ・アーケストラがツアーには参加していた。

パティとは一度一緒に演奏したことがあった。ソロピアノを弾いたんだ。サン・ラは僕を誘ってくれなかった。サン・ラとバートンは互いに口をきかず、ローガンは自分のカルテットを連れていた。僕達はバスに乗っている間ずっと黙っていたよ。バートンは前の方の席に座るのが好きだった。4つの街を回ったかな。シラキュース、バッファロー…。あまりギャラは良くなかったけどツアー自体は楽しかった。 パット・パトリックと知り合えたのも、サン・ラと一緒にツアー出来たのもラッキーだった。

R: バーナード・ストルマンは面白い人だったよ。朝食にオートミールクッキーが出るんだ。朝、目が覚めるとアルバート・アイラーがいて、犬のピコが飛び跳ねていた。いつ誰がそこに来るか予測出来ないんだ。バーナードが朝食を用意していたと思うかい?そうじゃない、彼の両親が用意していた。バーナードは別の部屋にいてね。僕はまるで何度もあの家に行ったことがあるような話し方をしてしまうけど、実際に行ったのは3度ぐらいだったかな。
(中略)

B: 当時はソロピアノのアルバムというのは珍しかったのでは?トリオの方が人気がありましたよね。

R: 僕はどうしてもベース奏者と仲良くなれなかったんだ。ドラマーは大丈夫だったんだけどね。ジョン・ハジラとはドラムとピアノのデュオをやってるよ。(中略)僕はスタンダードの曲なんかはよく知っていたけど、映画のことで頭がいっぱいだったからかな…1人で演奏することが多かった。

B: その当時はライブ演奏はしていましたか?

R: ほとんどしなかったね。ポール・ブレイがニューヨークのFront Page(注:ブロードウェイのコメディショー)でのギグをくれたんだ。だけどその後ポールはスティーブ・スワロウとのツアーを中止した。

マドリッドで演奏したことはあった。だけど僕が弾くと客足が遠のいてしまうんだよ。代わりにアーティストや画家達がよく聞きにきてくれた。マドリッドでは40席あるうちの30席埋められれば大したもんだった。ホテル代は向こうが払ってくれたし、時々パエリアやガスパチョを食べた。…それから後は、長い間演奏しなかったんだ。1人で弾いている方が自由に弾けたからかもしれない。それが67年のことで、その後は音楽院が僕の人生のすべてになった。(注:ブレイクはニューイングランド音楽院で30年以上教鞭をとっている。)

R: サン・ラが一度僕に警告したんだ。「バートン・グリーンには気をつけろよ」ってね。それから何年も経った後に、偶然アテネでサン・ラと顔を合わせた。パスポートを失くして「土星」出身だと言ってる人がいるからロビーに来てくれと頼まれて、僕はロビーに下りていったんだ。最初に僕の口から出た言葉はこれだ。「ああ、ミスター・ラ!」他にもバイロン・アレンを始めとして沢山の人が来ていたよ。次の日の朝、サンラが僕のテーブルに来て話しかけてくれた。あの小さな帽子をかぶっていて、とても紳士的な人だった。60年代の話だ。プレスティッジ、ブルーノート、アトランティック、リバーサイド…Battle Records。レーベルの数はそう多くはなかった。
(中略)

Paul Blay & Ran Blake
photo: ©Roberto Masotti

B: ポール・ブレイのレーベルでのリリースはどんな経緯で決まりましたか?
(注:リー・コニッツ、サム・リヴァース、サン・ラなどのアルバムをプロデュースしたポール・ブレイ主宰のレーベル「Improvising Artist」のこと。)

R: ポールとは知り合いだったんだ。もともとは僕がポールの大ファンで、バード大学まで来て演奏してもらった。カーラのことも知ってたよ。当時のパートナーのキャロル・ゴスが、レーベルから出たアルバムのカバーデザインを手がけていた。ある時、スタジオ費用は全部レーベル側が払うからレーベルからアルバムを出さないかっていうオファーをくれたんだ。ブリュッセルからオスロに飛ばなきゃいけなかったけどね。あのアルバム(注:『Breakthru』のこと)はオスロで録音したものだ。
(中略)

B: 1967年に再びジーン・リーとヨーロッパツアーをして、その後にギリシャに渡ったんですね?

R: そうだよ。(中略)バスも公衆電話もなければ、英語なんて全く聞こえてこない様な場所だったからとても緊張していた。僕があまりにも不安そうにしていたから、ローマでは10代の若者が僕を家に泊めてくれようとしたこともあった。(中略)プロテスト・コンサートをして、オスロに飛び、それから独立記念日にアメリカに戻ってきたんだ。ニューヨークに帰った時は無一文だった。父親に最後通告をされた時、ガンサー(注:ガンサー・シュラー)が音楽院での仕事をまわしてくれたんだ。この仕事を期に、マサチューセッツ州に戻ってきた。ニューヨークでの生活はまだましだったけど、音楽院では下っ端の仕事から始めなきゃいけなかった。ピアノを運んだり、手紙を色んなオフィスに配達する仕事だよ。じきに音楽院での仕事にも慣れてきて、一年後にはジャズ科を創設できた。今度の10月が創設記念になるんだ。

B: ジャズ学科が出来てすぐに教鞭をとったんですか?

R: 教職についたのは68年か69年だったかな。その頃、主に従事していたのは社会福祉のプログラムで、ウォルサムやフラミンガム、ウォルポール(注:マサチューセッツ州の都市)にある刑務所に音楽を提供するという内容だった。社会更生にも関わっていて、学生に公で演奏する機会を与えたり、イタリア系、ラテン系、それから特に黒人のコミュニティの生徒が音楽院で授業を取れるようにサポートをした。(中略)後になって、音楽院の生徒よりもコミュニティの学生の相手ばかりをしていると批判されてしまった。音楽院としては初めてのジャズ学科、初めての社会福祉プログラムを取り入れた学校だったんだ。刑務所の囚人や年配の人々が対象だった。ビリヤード場に生徒候補を探しに行ったりしたよ。その当時は一学期25ドルで音楽院に入学出来たんだ。

R: サード・ストリーム学科が出来たのは1972年だった。(注:「サード・ストリーム・ミュージック(第三の流れ)はガンサー・シュラーが提唱した音楽理論。) サード・ストリームの定義を広くする必要があった。最初の年に、エチオピア出身の生徒が居たからだ。人がどうやって音楽を記憶し、保持するかというところに興味が湧いたんだ。これについて本も書いたよ。4、5年かけて、聴覚的サブリミナル効果についての研究をサポートしてくれる弟子が欲しいと今は思っている。今ニューイングランド音楽院のサードストリーム学科を統括しているハンクス・メツキーはクレズマーの研究をしている素晴らしい教育者だよ。

僕にとっては、音楽を一緒に演奏する相手とプライベートな時間を共にすることが重要なんだ。ブラクストン(注:アンソニー・ブラクストンのこと。『A Memory of Vienna』(hatOLOGY, 2009)でラン・ブレイクとデュオ録音している。)と僕はリハーサルをせずに、イタリア北部のうまいワインを一緒に飲んだ。実際に共演する何年も前から僕達はお互いのことを知っていたけど、特に親しくはなかった。彼のパートナーのニコルも素敵な人だった。(中略)

B: 女性ボーカリストと演奏するのが好きなんですね。

R: そうだね。だけど、もしチャンスがあればアル・グリーンとは一度一緒に演奏してみたいな。人間の声の質感が好きなんだ。一番好きな楽器は何かと言われたらボイスとオーケストラと答えるね。

B: 様々なミュージシャンとあなたが共演した音楽を聴いてきましたが、共演相手に対して遠慮しているのかも、と感じる時があります。例えばスティーヴ・レイシーとの演奏では、彼が弾き始めるとあなたは一歩下がっている様な印象がある。

R: リハーサルを好まないミュージシャンも多くいるんだ。スティーヴは才能も人気もあるサックス奏者だったから、もちろん彼に対して深い尊敬の念は抱いていた。だけど、僕はソロで演奏する時でもスペースを活用する。それでも一緒に演奏するまではどうなるかわからないから、演奏する相手と一緒に酒でも飲んで、音楽的シナリオについて考えるのが好きなんだ。(中略)

B: ソロでの演奏をしすぎたということでしょうか。

R: そうとも言えるかもしれないね。ミュージシャンの知り合いは沢山いるけど、基本的に僕は孤独な人間だ。サフィールドでは、寝泊まりもできるレコーディング・ルームがあった。一応自分のホームページなんかを持ってはいるけど、大抵夜の10時以降は想像の中でフィルム・ノワールを再生して孤独に浸っているよ。
(中略)

B: 僕の友人は無声映画に合わせて演奏したりしています。

R: 『Spiral Staircase(邦題:らせん階段)』(注:1946年のミステリー映画)の音声を消して、映像に合わせて演奏するのを僕もやってみたことがあるんだけれど、どうしても上手くいかない部分が出てくる。例えばチャップリンがバナナで滑る場面にはどんな伴奏をつければいいんだ?エドガー・アラン・ポーの悪夢の様なストーリーに合わせて演奏するのもいいかもしれない。だけど、伴奏をつけにくい場面というのがどうしても出てくるんだよ。それっぽくすることは出来るけどね。

B: あなたが貢献した映画音楽は映画そのものと同じくらいに記憶が重要な要素となっているように思えます。

Saint Catherine’s Church, Vilnius, Lithuania
December 10, 2010
photo: ©Danas Mikailionis

R: それが僕の教え方の1つの側面でもある。フラッシュバックだ。僕の記憶の中では、直線的な時間軸の記憶ではなくて、特別な出来事の数々が大きな意味を持っている。そのせいでハンディを負っているように感じることもあるんだ。リズムセクションと一緒に演奏するのが僕にとってハードルが高いのはそういうことだ。映画に合わせる場合は、少なくとも映画がどこに向かっているのかを理解することが出来る。いつかやってみても良いかなとは思うけど、自分の中の記憶という存在が大きすぎるんだよ。映画だけじゃない。メアリー・ルー・ウィリアムスからカトリシズムをテーマに3時間のレッスンを受けた時のこととかね。ロザリオの祈りをやって、ピアノに向かい、僕のビートが外れる度にメアリー・ルーは僕の左手をパシっと叩いた。その後にまたロザリオに戻ったかと思うと、今度はいきなり最高に美味しいフライドチキンとスコッチを持って現れるんだ。そしてまたロザリオをやってピアノに戻る、そんな調子だった。その後で僕の曲「Vanguard」か何かを弾いてくれた。最高の気分だったよ。今でも僕は彼女の神父であり続けているよ(注:象徴的な意味合いで)。そんなフラッシュバックばかりなんだ。だから、出来事の詳細を知りたがる人をイライラさせてしまう。

5年程前までは週に5日程度コンサートを見に出かけていたんだけど、最近は新しい情報を頭に入れるのが億劫になってしまってね。若い人はあっという間に情報を頭の中で処理できるみたいですごくうらやましいよ。僕はテンポが遅いんだ。(中略)

クリス・コナーの「青い」アルバムの内容をきちんと理解すること、アル・グリーンの『Let’s Stay Together』(High Records, 1972)のB面に「Judy」が選曲されている意味、スティーヴィー・ワンダーの『Innervisions』(Motown, 1973)…。 素晴らしい音楽がたくさんありすぎて、新しい音楽や音楽体験に割く時間がないんだよ。記憶の中に音楽が溢れている。メアリー・ルーからは5回か6回レッスンを受けた。(中略)

僕はインテレクチュアルなミュージシャンじゃないんだ。僕の音楽は夢から飛び出てきたような類のものだ。ビッグ・ママ・ソーントンやブラームス、オデッタ、それからミリアム・マケバを是非みんなに聴いてほしいと思ってる。素晴らしい音楽がたくさんあるんだ。ライターという存在のおかげで、僕達はあらゆる音楽に目を向けることが出来ているとも思う。教育者としてはこの部分はとても大きな壁だと感じるよ。時間はかかるかもしれないけど、歴史と一体になることが重要だと思うんだ。

B: 60年代始めにJazz Galleryでウェイターとして働いていたと聞きました。

R: そうだよ。僕のお気に入りの客はパノニカ・ロスチャイルドと彼女の娘だった。ジャッキー・モンク(セロニアス・モンクの妻ネリーの親戚)とパノニカがニューワークにあるアレックス・ブラッドフォード(注:ボブ・マーリーやレイ・チャールズに影響を与えたと言われる著名なゴスペルミュージシャン)の教会に出かけていったのを覚えてる。

R: それからシドニー・ポワチェ(注:映画俳優、監督。黒人俳優としての先駆者)とジェームス・ボールドウィンも来たことがあった。僕は興奮して彼らの前にひれ伏したよ。(中略)そんな調子だったから、結局ウェイターじゃなくてシェフとして裏で働く様に言われてしまったんだ。結果として、セロニアス・モンクに出すフライド・ライスの作り方を学んだ。それから12時頃にニカがベントレーで乗り付けてくると、またウェイターに戻ることを許された。最高の仕事場だったよ。ギル・エヴァンスやデイヴ・ブルーベック、スライド・ハンプトン、ホレス・シルヴァー、アビー・リンカーンにマックス・ローチ…こんな面々の演奏を聞きながらウェイターの仕事をするのは、稀有な体験だったね。マックス・ローチの『Freedom Now Suite』やランディ・ウェストンの『African Lady』の中の8曲も聞いたよ。ジュリアン・プリースターの5拍子の名曲もね。マル・ウォルドロンともそこで出会ったから、レッスンをしてもらえないか頼んだ。2番街と3番街の辺りのSt.Marks Place通りだ。エッグ・クリームが美味しかった。夜中の帰り道には変な出来事がよく起きたよ。地下鉄に乗って家に帰ると、大屋の89歳の女主人に「うるさいよ、静かにしてくれ。」と言われたものだった。

このインタビューは「WIRE」誌に掲載された記事をもとに、許可を得て翻訳され転載されたものである。

(全文訳:蓮見令麻)

This transcript was originally published in English at https://www.thewire.co.uk/in-writing/interviews/ran-blake-interview-transcript.

蓮見令麻

蓮見令麻(はすみれま) 福岡県久留米市出身、ニューヨーク在住のピアニスト、ボーカリスト、即興演奏家。http://www.remahasumi.com/japanese/

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