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Jazz and Far Beyond

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Interviews~No. 201

# 090 リューダス・モツクーナス/リード奏者(リトアニア)
Liudas Mockunas (reeds) Lithuania

Questions compiled by Kenny Inaoka/JazzTokyo
Interview via e-mails
Photos:(c) D.Matvejev courtesy of NoBusiness Records, Lithuania

♪ スティングを聴いてジャズに目覚めた

JT:まず、誕生日から。

LM:1976年5月18日。

JT:生まれは。
LM:リトアニアのパネヴェジース(Panevezys)。

JT:家族のバックグラウンドは。
LM:母親はリトアニアの田舎生まれで、父親はリトアニア第5の都市、パネヴェジース出身です。パネヴェジースは工業都市ですが、両親は労働者の家族の出です。

JT:楽器を演奏する家族はいましたか。
LM:父親はサックスとクラリネットを演奏する職業音楽家で、音楽学校で教師もしていました。80年代にはローカルのフュージョン・バンドでしたが、90年代に入ってからは世界中を楽旅するバンドになりました。

JT:音楽に興味を持ったのはいつ頃でしたか。
LM:音楽家の家庭では幼少の頃から良い音楽に触れられる可能性があることはお分かりだと思います。母親もリトアニアのフォーク・ソングを歌うことが好きでした。学校へ入学する前から父親のバンドのローカル・ツアーへ連れていってもらったり、時には旧ソ連へのツアーへも出掛けたことがあります。ミュージシャンと行動を共にすることはとても楽しいことでした。彼らのレパートリーは自らのオリジナルの他に、ブレッカー・ブラザーズ、アルトゥーロ・サンドヴァルのカバー、「メゾ・フォルテ」のポップ・ナンバーなどでした。楽器は、コルグのアナログ・シンセ、フェンダー・ローズ、ローランドなどのキーボードも使っていました。時には誘惑に駆られてキーボードに触ったりもしました。幼稚園が大嫌いでしたので、父親とツアーに出るとほっとしました。

JT:子供の頃はどんな音楽を聴いていましたか。
LM:父親のコレクションのLPやテープから大物ジャズ・ミュージシャンの演奏を耳にしていました。エリントン、パーカー、コルトレーン、ナット・アダレイ、フィル・ウッズ、などなど。しかし、これらのジャズの巨人たちの演奏を楽しんでいたかといわれると決してそうではありません。理解できなかったのですね。父親が好きだったので、生まれたときからジャズを耳にしていたということです。その点、母親の歌は子供にも分かり易く、好きになれました。

JT:その後は?
LM:本当に夢中になった音楽は、ロックやポップ・ミュージックでした。9歳から12歳にかけて、メタリカ、セプルトゥラ、AC/DC。ジミ・ヘンドリックス、ジェネシス、ポリス、など。ポリスが好きだったので、スティングの最初のソロ『Bring on the Night』も聴きました。ブランフォード・マルサリスやケニー・カークランド、ダリル・ジョーンズなどのジャズ・ミュージシャンが参加していました。このアルバムで音楽の嗜好が変わりました。スティングの歌とジャズ・ミュージシャンの即興の両方を楽しんでいました。彼らのソロは僕の嫌いな “スムース・ジャズ” ではなく、ジャズのソロでロックにエネルギーを与えていました。このアルバムを聴いてソプラノ・サックスを本気で練習し始めました。12歳でしたが、すでにクラシックのクラリネットを3年間ウラジミール・チェカシンに就いて、とくにインプロヴィゼーションを学んでいました。

しかし、当時は音楽よりもバスケットボールの方に興味がありましたね。
もちろん、スティングのアルバムは本来のジャズ・アルバムではなく、ジャズへの窓を開いてくれたアルバムでした。それから、パストリアスやショーターのいる「ウェザー・リポート」を聴き始め、ブレッカーやショーターが参加したジョニ・ミッチェルを聴き、マイルス・デイヴィスの『TuTu』や『Aura』などのジャズ・ロックに進みました。そういう “グルーヴ・ミュージック” から徐々にメインストリームへ移行しました。好きになったのはソニー・ロリンズの『ヴィレッジ・ヴァンガード』ボックス、ジョー・ヘンダーソン、チャールス・ロイド時代の初期のキース・ジャレット、デューイ・レッドマンのいたジャレットのアメリカン・カルテット、オムニブックのチャーリー・パーカーのソロなど。12歳からジャズを聴いたり、学んだりしましたが、クラシックのクラリネットの練習も継続していました。

 

♪ 9才でウラジミール・チェカシンの生徒になる

JT:楽器を初めて演奏したのは?
LM:8才のときにまずバロック・フルートを手にしたのですが、半年後にDクラリネットにスイッチしました。Bbより小型のクラリネットです。

JT:初めてジャズを演奏したのは?
LM:8才のときに音楽学校に入学しウラジミール・チェカシンに出会えたのは幸運でした。彼がその学校で教師をしていたのです。1年後に彼の生徒になりました。

彼からは即興とクラシック音楽を学びました。彼はまた “Wunder Kinder” という名の学生のアンサンブルを率いていました。“Wunder Kinder” (Wonder Kids) というのはもちろんジョークで、才能のある生徒などいませんでした。しかし、チェカシンはとても優れた教師で、楽器を持てさえすればステージに上げ、何とか演奏させる術を心得ていました。彼のアンサンブルには4才から18才の生徒がいましたが、時に彼は自分のカルテットのリズム・セクションを一緒に演奏させたりもしましたので、アンサンブルはなかなかの出来でした。彼の作曲にはジャズ・スタンダードやロック、ワールド・ミュージック、自身のオリジナル、フリー・インプロヴィゼーションなどが盛り込まれ一連のショー的スタイルをとっていましたので子供たちにとってそれほど難しいと感じたことはありませんでした。
1986年から1995年の10年間、このバンドは毎年、ドイツ、オーストリア、スイス、モスクワなどを楽旅して廻りました。同時にリトアニア国内の主要なジャズ・フェスにもすべて出演していましたので、子供なりにプロのミュージシャンの仕事の場がどんなものであるかおぼろげながらつかむことができました。
チェカシンは今でも子供にジャズを教えていますよ。

JT:初めて生でジャズを聴いたのはいつでしたか?ミュージシャンは?
LM:1980年のビルストナス(Birstonas)・ジャズ・フェスで、4才のときでした。父親に連れ出されたのですが、誰が演奏していたのか記憶がありません。おそらく、ローカル・ミュージシャンだったと思います。演奏の印象も残ってはいません。残っているのは、コンサートホールで父親の隣に座ってジャズを聴いている自分の写真だけです。

JT:楽器の履歴を教えて下さい。
LM:クラリネットはチェカシンに学びました。クラシックの奏法はアルギルダス・ドヴェイカ(Algirdas Doveika)です。12才になってソプラノを、15才でテナーを始めました。1955年にリトアニア・ミュージカル・アカデミーに進学し、サキソフォンのクラシック奏法をチェカシンから学びました。主にアルト・サックスでしたが、バリトンも始めました。BA(学士)とMA(修士)を取得したのはヴィルニウス・ミュージック・アカデミーです。

JT:音楽を勉強するためにコペンハーゲンに向かいましたね。出国に困難が伴いましたか?
LM:リトアニアは小さな国で、90年代もまだかなり閉鎖的で演奏シーンもたいしたことはありませんでした。海外で音楽を勉強しようと思い立ち、学費の一部を奨学金で賄ってボストンのバークリー大学へ進学する計画を立てましたが、経済的に当時のリトアニアの若者には到底実現できるはずはありませんでした。そこで、計画を変更し、1999年にコペンハーゲンのリズミック・ミュージック音楽院へ進学したのです。

JT:RMC(Rhythmic Music Conservatory) を選んだ理由は?
LM:RMCはデンマークに留まらず、ヨーロッパでもベストの学校のひとつです。スカンジナヴィアを選んだもうひとつの理由は授業料が無料だったことです。

♪ アヴァンガルドは一種の政治活動でもあった

JT:ソヴィエト連邦内の国家からリトアニアという独立国家となって何がいちばん変わりましたか?(註:1990年独立を回復、リトアニア共和国となった)
LM:この質問の回答者として僕は相応しい人間とは思えません。ソヴィエト連邦内で生活するにあたって人々が体験した困難を経験するには僕は幼な過ぎたからです。もちろん占領された国家が体験したことについては知識としては両親や書物、映画、メディアを通じて理解しています。1991年にソヴィエト軍が侵攻してきてタンクやマシンガンで人々を殺戮し、ヴィルニウスのTV局やラジオ局、郵便局を占領していく様は僕自身の目で目撃しています(註:1991年KGBの特殊部隊が首都ヴィルニュスに侵攻、13人の市民が殺された。「血の日曜日」といわれる)。当時、リトアニアはすでに独立国家だったのですが、ソ連軍はバルチック国家にとっていまだ脅威だったのです。これらの記憶は僕にとってきわめて現実的なものですが、自分の国が共産主義の悪夢から脱出できたことをとても幸せに思います。

リトアニアが再び独立を回復できたことは幸せなことです。自らの生き方、生きて行くために何をしたいのか、どこに所属したいのかなどを自らの意思で決定できるのですから。誰からも操作されず、ものの見方、存在の仕方について他人から指示を受けることがないのですから。ソヴィエト連邦は、レイプ、侵攻、洗脳、宣伝に拠って立つ帝国でした。現在のリトアニアとは天地の隔たりがあります。

JT:ジャズを公衆の面前で最初に演奏したのは?
LM:1986年、チェカシンの生徒のバンドでビルストナス・ジャズ・フェス(リトアニア)で演奏したときです。

JT:1990年以前にも自由にジャズを演奏できたのですか?
LM:そうだと思います。子供のアンサンブルでの体験が残っていますから。

JT:1990年以前はアメリカやヨーロッパのジャズをどうやって聴いたのですか?
LM:1990年以前からリトアニアにはジャズ・フェスティバルがふたつありました。1980年に創設されたローカル・ミュージシャン用のビルストナス・ジャズ・フェス、もうひとつが1987 年に創設されたヴィルニゥス・ジャズ・フェスでこちらは海外からバンドを招聘しようとの野心をもっていました。1987 年には政治的にも文化的にも活発な動きになっていましたから。政治的なメッセージを歌うロックバンドも現れました。ジャズとアヴァンガルドも拡張の兆しを見せ始めました。フリー・ジャズのコンサートは人々に人気があったのです。

ソヴィエトのイデオロギーに対するレジスタンスの意味合いもありました。リトアニアの実験的な即興音楽にとって1993年以前はわが世の春を謳歌していたと思います。多くの人々が耳を傾け理解し、エネルギーを感じ、重要性を認識していたからです。アヴァンガルドはまた一種の政治活動でもあったのです。
文化的というよりむしろ政治的なものであり、人々の需要があったのです。
僕が初めて国外のミュージシャンを観たのは1987年のヴィルニュス・ジャズ・フェスでした。26才のコートニー・パインのバンドで、まるでコルトレーン風の演奏をしていました。同じフェスでアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハも演奏していました。当時は何も理解できませんでした。僕はまだ12才で、この種の“哲学”を理解するには若過ぎました。

JT:アメリカのジャズには何か違和感を感じましたか?
LM:アメリカは何年間にもわたってジャズの流れを作ってきましたね。それも当然だと思います。そもそもジャズはアメリカの歴史と文化の一部なのですから。しかし、近年ではジャズは全世界の文化の一翼を担う立場に変わりました。ジャズは “グローバル” になったのです。ですから、最近僕はミュージシャンをアメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人などと区別しなくなりました。国籍ではなく、個々のミュージシャン同士が演奏し、コミュニケーションを図っていると考えています。

JT:歴史上のアメリカのジャズ・ミュージシャンでは誰が好きですか。
LM:レスター・ヤング、ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンス、シドニー・ベシエ、デューク・エリントン、彼のオーケストラ、エロール・ガーナー、チャーリー・パーカー、チャールス・ミンガス、モンク、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、トニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーター、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィー、ジミー・ジュフリー、ポール・ブレイ、ジョージ・ラッセル、ドン・チェリー、ソニー・ロリンズ、シカゴ・アート・アンサンブル、チャーリー・ヘイデン、ビリー・ヒギンス、ウェザー・リポート、アンドリュー・ヒル、アルバート・アイラー、チェット・ベイカー、デューイ・レッドマン、初期のキース・ジャレット、彼のアメリカン・カルテット、ヨーロピアン・カルテット、スタン・ゲッツ、ジェリー・マリガン、ズート・シムス、ラッキー・トンプソン、リー・コニッツ、アート・ペッパー、チャールス・ロイド、サム・リヴァース、ユセフ・ラティーフ、ソニー・シモンズ、マーク・ドレッサー、スティーヴ・レイシー、ジョン・ゾーン、ティム・バーン、ジム・ブラック、エラリー・エスクリン、マイケル・フォーマネック、ジェイソン・モラーン、フレッド・フリス。アンソニー・ブラクストン、ジェリー・ヘミングウェイ、ポール・モチアン、ピーター・エヴァンス、ロスコー・ミッチェルなどなど。

僕の好きな偉大なヨーロッパのミュージシャンも挙げておくべきでしょう:
バリー・ガイ、エヴァン・パーカー、トマシュ・スタンコ、マルク・デュクレ、ジェイコブ・アンデルスコフ、アトミック、マッツ・グスタフソン、ペーター・ブロッマン、ザ・シング、フランク・グラチョフスキ、ジェスパー・ツォイセン、ミッコ・イナネン、ペトラス・ヴィスニアスカス、クレイトン・トーマスなどなど。
ロックとエクスペリメンタルの方では;
レッド・ツェッペリン、ジミー・ヘンドリックス、ポリス、ソニック・ユース、メルツボウ、トム・ウェイツ、ローリー・アンダーソン、ジョニ・ミッチェル、ディアマンダ・ガラス、ジェフ・バックリー、レイディオ・ヘッズ、トム・ヨークなどなど。

JT:コルトレーンについてはどのように感じましたか?
LM:彼は間違いなくジャズの歴史の中でもっとも偉大なミュージシャンのひとりであるだけでなく、20世紀の音楽文化にさまざまな影響を与えた人物であると思います。つまり、ジャズだけでなく、コンテンポラリー・ミュージック、ロック、そしておそらくポップ・ミュージックをも含む音楽文化を指しています。

♪ ウラジミール・タラソフとは現在でも共演する機会が多い

JT:ガネリン・トリオを初めて聴いたのは?どんな印象を持ちましたか?
LM: 僕は、ガネリン・トリオのメンバーのひとりである、ウラジミール・チェカシンの生徒ですが、トリオを生で聴いたことはありません。僕が子供の頃、音楽に興味を持ち始めた時には彼はすでにトリオを解散していました。(ヴャチェスラフ・)ガネリンがイスラエルに移住する前にたまたま彼の最後のソロ・コンサートを聴いたことはあります。今では毎年のように会う機会があります。彼の室内アンサンブルのための作品を演奏したこともあります。しかし、チェカシンを通してGTC (ガネリン・トリオ) の美学を体験していることは事実です。

JT:チェカシンや(ウラジミール・)タラソフとの共演はどうですか?どのような印象をもちましたか?
LM:すでにお話したように、僕はチェカシンの学生バンドで演奏していました。その後、彼のいくつかのプロジェクトにも参加したことがあります。しかし、何れにしてもサイドマン的役割にしか過ぎません。

タラソフとは今でも定期的に演奏する機会があります。コペンハーゲンで2日間予定されている僕の次のコンサートにはタラソフも参加します。このコンサートは間違いなくわれわれふたりにとってとてもクリエイティヴな機会になるはずです。

JT:どういうフォーマットで共演するのですか?
LM:僕とタラソフのデュオ、それからエウゲニュース・カネヴィシャス(Eugenijus Kanevicius)というリトアニアのベーシストとのトリオ、そして、アメリカの詩人ケリー・キーズが加わる場面もあります。アナトリュース・センデロヴァス(Anatolijus Senderovas)がタラソフと僕とシンフォニー・オーケストラのために書き下ろしてくれた楽曲も演奏します。この曲は、クラロヴィ・ラデック・オーケストラと2008年に共演したことがありますが、来年はリトアニア国立オーケストラと共演する予定になっています。

♪ 宝示戸亮二はシュールリアル

JT:宝示戸亮二(ほじと・りょうじ)と共演する前に日本のジャズについて何らかの知識を持っていましたか?
LM:正直なところ、日本の即興音楽やジャズ・シーンについてはほとんど知識がありませんでした。ポール・モチアンとの共演を通じて菊地雅章は知っていました。他には、大友良英、オゼキ・ミキト、梅津和時、サウンド・アーチストのMerzbow、パワー・デュオのルイーンズ...などですね。ヴィルニュス・ジャズ・フェスでは何年かにわたって毎年日本のアヴァンガルド・ミュージックの紹介がありましたが、僕自身、日本の即興演奏についてはもっともっと知りたいと思っています。

JT:宝示戸亮二との出会いは?
LM:2004年にリトアニアで出会いました。ヴィルニュス・ジャズ・フェスで彼を聴く前です。2004年、彼は奥さんのヨシコさんを連れてリトアニアにヴァケーションに来ていたのです。亮二を僕に紹介してくれたのは、ヴィルニュス・ジャズ・フェスのオーガナイザー、アンタナス・グスチス(Antanas Gustys) だったと思います。リトアニアのミュージシャン何人かとコンサートをやり、ふたりだけでもちょっとした演奏の機会を持ちました。

JT:宝示戸を初めて聴いたときの印象は?
LM:とても気に入りました。一種のシュールリアルと思いました。シンプルさとコーニーさの間を漂いながら往き来しつつ、同時に “アウトしたりクレージー” になったりする。彼の演奏の中でいちばん好きな部分なのですが。ピアノにさまざまな楽器で仕掛けをし、演奏するのを観るのも好きですね。楽器というかほとんどは子供のおもちゃで、緊張よりくつろいだ雰囲気を醸し出しています。しかし、彼が彼の “キッチン” で造り出す音楽は、さまざまな感情や気分の移ろいであり、それはとてもヒューマンでナチュラルなものです。

JT:日本の印象はどうですか?
LM:とても気に入ってます。ツアーはとてもタイトなスケジュールでしたので、ほとんど何も見る機会はなかったのですが。なにしろ、7日間で6回のコンサートを日本の各地で演奏したのですから。僕が見たものは列車の駅と空港だけだったというのがお分かりでしょう。

JT:日本食はどうですか?好きな料理は?
LM:大好きです!!!! 間違いなく世界中でいちばん美味しい料理のひとつです!
刺身か揚げた魚がいいですね。素晴らしい!

JT:日本の聴衆はどう感じましたか?
LM:いい意味で独特ですね。とても礼儀正しい。静かに、注意深く耳を傾けている。ステージに上がっているとひしひしと感じます。演奏に専念、集中することができます。聴衆から目一杯守られている気がします。

JT:東京の印象はどうですか?
LM:街を見る時間がなかったので。新宿ピットインの周りを30分ほど歩いただけです。絶対戻ってくる必要がありますね!

JT:神戸へは新幹線で?どうでしたか?
LM:そうです、新幹線でした。とても速かった。しかし、列車の中にいると別の列車に乗っているような錯覚を覚えました。

JT:日本に滞在中に宝示戸以外のジャズ・ミュージシャンの演奏を聴く機会がありましたか?
LM:はい、神戸では僕らの他に地元の2バンドとステージを分けました。

JT:宝示戸以外に一緒に演奏してみたいミュージシャンはいましたか?
LM:日本のミュージシャンについてもっと知りたいと思います。コラボレーションがさらに広がれば、興味のある音楽が生まれ、われわれの関係ももっと豊かなものになると思います。

♪ ジャズとクラシックで並行して活動している

JT:マッツ・グスタフソン(スウェーデン)やマッツ・アイラーチェン(ノルウェー)などのスカンジナヴィアのミュージシャンについて。
LM:ふたりとも親友です。グスタフソンからはある段階で大きなインスピレーションを得ました。それほど古い付き合いではありません。アイラーチェンには7年前にコペンハーゲンで出会った同世代のミュージシャンです。彼は、スカンジナヴィアでもベストのベーシストのひとりだと思います。

JT:「トキシクム(Toxikum)」というグループは?
LM:このグループは2001年に僕とデンマークのドラマー、ステファン・パスボルグ(Stefan Pasborg)とで結成しました。メンバーは順次変わっていますが、スタート時は、ジェイコブ・アンデルスコフ(Jacob Anderskov:ピアノ)、ニルス・デイヴィッドセン(Nils Davidsen:ベース)、ヤーク・ソーア(Jaak Sooar:ギター)、マルク・デユクレ(Marc Ducret:ギター)、ジェイコブ・リース(Jakob Riis:サウンド・エンジニア)、マッヅ・ハイネ(Mads Hyhne:トロンボーン)でした。楽曲はステファン・パスボーグと僕が提供します。内容的には、インプロとロック、ジャズに新しいクラシック的な要素を持たせたものです。2004年にアルバム『Toxikum』がデンマークの音楽賞を受賞しました。2006年には、リューダス・モツクーナス(reeds)とマルク・デュクレ(guitar)、パウル・ブロッソウ(Paul Brosseau:key)、ステファン・パスボーグの4人編成に縮小し、バンド名を「Pasborg- Mockunas Megaphoneに変更しました。

JT:「Red Planet」というグループは?
LM:僕のリードと、ジェイコブ・リースのラップ・トップ、ステファン・パスボーグのドラムスからなるエレクトロアコースティック・トリオです。アコースティック楽器の演奏をジェイコブがリアルタイムでサンプリングしてループさせその上でインプロヴァイズしていきます。

JT:「Baltic Trio」は?
LM:このバンドはすでに解散しています。エストニアのギタリスト、ヤーク・ソーアとリトアニアのドラマー、アルカーデュス・ゴーテスマナス(Arkadijus Gotesmanas)、それに僕のトリオ編成でした。

JT:「Revolver」というグループは?
LM:このユニットは、デンマークのギタリスト、マーク・ソルボーグ(Mark Solborg)とノルウェーのベーシスト、マッツ・アイラーチェン、それとバスクラの僕のトリオです。メンバーの楽曲と即興を演奏しました。

JT:「Copenhagen Art Ensemble」とは?
LM:小型のビッグバンドで、3トランペット、2トロンボーン、4サックスにピアノ、ベース、ドラムスの3リズムです。ダンスやヴィジュアル・アーチストとコラボレーションしながらさまざまな実験的な音楽を演奏しています。

JT:「Odessa 5」というグループは?
LM:デンマークのドラマー、ステファン・パスボーグに4ホーンとドラムスのバンドです。ジャズ、ニューオリンズ、ロック、バルカン、即興を探求しています。

JT:「Gaida」は?
LM:リトアニアのニューミュージック・チェンバー・アンサンブルです。新しいクラシック音楽を模索しています。このユニットはヴィルニュスで開かれたニューミュージック・フェスティバル「Gaida」で演奏するために結成されたものですが、他のフェスティバルを廻ることも予定しています。

JT:どのクラシック・オーケストラで演奏していますか?
LM:時に応じてリトアニア・ナショナル・シンフォニー・オーケストラとリトアニア・ステート・シンフォニー・オーケストラのサキソフォン・パートで演奏しています。

ソリストとしては、リトアニア・ナショナル・シンフォニー、ラデック・クラロヴィ・シンフォニー、ヴィルニュス首都室内オーケストラ「クリストフォラス」、クライペダ室内オーケストラ「カメラータ・クライペダ」などです。

JT:演奏の内容は?
LM:リトアニア・ナショナル・シンフォニーではアルヴィダス・マルチス(Arvydas Malcys)作曲のソプラノ・サックス協奏曲、ラデック・クラロヴィではモツクーナスとウラジミール・タラソフのためにアナトリュース・センデロヴァスが書き下ろした作品を演奏しました。クリストフォラス室内オーケストラとはアナトリュース・センデロヴァス作品、「カメラータ・バルチカ」とはアルヴィダス・マルチス作曲のテナーサックス協奏曲、また2009年にはクライペダ室内オーケストラに僕の交響作品を演奏してもらいました。

JT :オーケストラ作品も作曲しているのですね。
LM:コペンハーゲン・アート・アンサンブルや弦楽室内オーケストラのための作品も書きましたよ。リトアニアの弦楽四重奏団「チョードス(Chordos)」にも作品を提供しましたし、共演もしています。

♪ 夢は息子が真っ当に成長してくれること

JT:NYで演奏したことはありますか。誰と演奏したいと思いますか?
LM:はい、何度もあります。デンマークで勉学中のことですが、2005年に2ヶ月間NYに滞在し何人かの教師から個人レッスンを受けたり、NYやワシントンDCで何度かギグをしたことがあります。その後、何度か渡米し演奏体験を積んできました。昨秋は、シカゴのジャズ・フェスティバルに始まり、ミルウォーキーを経て最後はNYに一週間滞在してさまざまなクラブで多くのギグを体験しました。

JT:1990年以前にもっとも困難なことは何でしたか?楽器の入手は?
LM:楽器の入手は問題ありませんでした。子供の頃は父親が手に入れてくれましたし。今はもちろん自分でできますから。父親が僕にしてくれたことを現在は僕が息子にしています。

1990年以前での問題点は国家の閉鎖性でしょうね。万一あの帝国が現在でも存続していたら、僕がリトアニアの国外で学ぶことは不可能だったでしょうし、国外での演奏活動もずっと困難を伴ったでしょうし、このインタヴューもKGBの許可がないとできなかったと思います。想像する事は難しいですが。

JT:最後に夢を聞かせて下さい。
LM:僕は現在34才ですがここまで地道に努力してきたと自負しています。僕の夢はシンプルです。僕は自分の人生でやりたいことをやっています。それは音楽を演奏することですが、演奏できれば幸せなんです。健康で現状を維持できること、つまり、いい人たちと出会い、いいミュージシャンと出会って経験を共有し合うこと。僕の大事な夢は、僕の息子が善良な人間として成長し、世の中で自分の役割を見つけること、これもシンプルな望みですが親であれば誰もが抱くいちばん大切な夢ではないでしょうか。

* 参考リンク
「リトアニアのジャズについて」
*初出:[Jazz Tokyo] #151 (2010年12月24日)

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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