連載第33回 ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
ジェシカ・アッカリー・インタビュー
Interviewed by Cisco Bradley シスコ・ブラッドリー
Translated by Akira Saito 齊藤聡
ジェシカ・アッカリー Jessica Ackerleyは、現代ブルックリンにおける同世代のインプロヴァイザー・エキスぺリメンタリストの中でも傑出したギタリストである。カナダ・アルバータ州出身であり、グラント・マキュアン大学とラトガース大学で学んだのち、2013年にニューヨークに出てきてからは多くのミュージシャンと共演してきた。初リーダー作『Coalesce』は2017年のアンダーグラウンドにおける驚きのひとつだった。
アッカリーは、この9月から10月の初旬にかけて、多くのエキサイティングな公演を行っている。
Ganglion: Jessica Ackerley (guitar), Nick Dunston (bass), Stephen Boegehold (drums/compositions)/Bar Next Door/2018年9月11日
Ganglion: Michael Attias (saxophone), Jessica Ackerley (guitar), Florian Herzog (bass), Stephen Boegehold (drums/compositions)/Spectrum/2018年9月17日
Jessica Ackerley Solo/Main Drag Music/2018年9月20日
Jessica Ackerley Quartet featuring Sarah Manning (saxophone), Jessica Ackerley – guitar/compositions, Mat Muntz (bass), Stephen Boegehold (drums)/Wonders of Nature/2018年10月8日
インタビュー
シスコ・ブラッドリー(以下CB): 幼少期からの音楽的な体験はどんなものだったでしょうか。
ジェシカ・アッカリー(以下JA): アルバータ州の本当に小さな町で育ちました。1万2千人くらいでした。だから音楽シーンとかライヴ音楽なんてものはありませんでした。本当に音楽の演奏を始めたのは、十代になってからです。
家から通りを挟んだ向こう側には、エモとスラッシュメタルのバンドのドラマーとギタリストがいました。それでリハーサルを行うのを聴いていました。ある夏の日、彼らがガレージを開放して演奏しました。近所の子どもたちはみんな見に来ましたし、私も、現実のミュージシャンが音楽を演奏するのを見るだけで魅せられてしまいました。そんなことは初めてでしたから。
父親は音楽をたくさん聴く人でした。70年代に育ったものだから、私もその手の音楽に接していました。それから、ラジオに本当にハマりました。その時はインターネットもなかったし、ラジオの外では音楽を見つけることができなかったのです。
そのうち、十代になる前に、オンラインのストリーミングが出てきました。ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendricks、レッド・ツェッペリン Led Zeppelin、それからギター雑誌。レス・ポール Les Paulやウェス・モンゴメリー Wes Montgomeryといったギタリストを発見していきました。ある年のクリスマスに小さいポケットラジオをもらって、夜聴いていました。10時ころから深夜までのCBCラジオ2を聴き始めたのですが、それが本当に面白くなり始めていました。
CB: どのように面白かったのでしょうか?
JA: ジャズの番組では、よりストレートアヘッドなものが流されました。ドラムスを違ったふうに聴きはじめたりもしました。たぶんその時はスイングということを考えたのでしょう、確かではないけれど。その時点では私にとっては漠然としたエネルギーといったくらいで、それはたぶん、何が起きているのか、どのような言語が使われているのか、理解できなかったからでしょう。しかし惹き込まれたことを覚えています。また、大学のラジオ局ではそこのロックバンドやインディーなものを流していて、それも聴いていました。
CB: 「面白い」ものの魅力は何でしたか?
JA: ええ、この新しいブツには、それまでメインストリームのラジオで聴いていたようなストレートなビートもパルスもなくて、それが面白かったのです。アルバータ州ではメインストリームのたくさんの音楽に囲まれていましたが、その外側のものに惹かれ、メインストリームとは言えないラジオ番組や深夜番組を聴くようになりました。
CB: 演奏しはじめたのは何歳のときでしたか?
JA: 15歳か16歳ころになって、やっとギターを弾きはじめました。高校のバンドではフルートも演奏しましたし、そこで譜面の読み方を学びました。
CB: なぜフルートを続けなかったのでしょう?電気が入っていなくてつまらなかったから?
JA: 小さな町で育つことは十代には不安で退屈だったのですよ。高校のバンドで演奏しているのでは得られない、ナマの表現の吐き出し先が必要でした。13歳のとき実際にジャズピアニストからピアノのレッスンを受けたこともあったのだから、奇妙なことです。彼女からは何度かのレッスンを受けましたが、そのあと引っ越してしまいました。もし彼女に付いて勉強していたらジャズピアノを追求できたはずだと考えたのでした。
15歳のとき、ヘンドリックスに本当に心を奪われました。彼の即興と作曲のやり方にです。即興し、拡張し、向こう側に到達するなんて素晴らしいと思いました。でも、私はいつも家に帰って安易に聴くばかりでした。
CB: 作曲作品を通じて即興を行うやり方とはどんなものでしょうか?
JA: 父親が、クリスマスにヘンドリックスのライヴDVDを買ってくれました。それで、彼がマシンガンのように曲を演奏する映像を観ました。
しかし、彼のギター演奏でもっと面白いことは、さらに深さと次元があることです。音符だけではなく、ニュアンスやフィードバックがありました。彼は単なるロックミュージシャンではなく、楽器で音響的に他の次元をまるごと作ったのです。
CB: それがあったから、ギターを勉強したということでしょうか。
JA: 高校にはギターの先生がいませんでした。雑誌やインターネットを通じて演奏方法を学んだのです。18歳になるまでに、両親からは、「学位は取らなきゃダメだ、選択の余地なし」と言われていました。つまり「OK、大学に行けば音楽をやってもいいんだ」という状態でした。
エドモントン(※アルバータ州)には本当に良い地方大学があって、家から3時間の距離でした。いつも100人ほどのギタリストが受験して、そのうち10人が合格して初年度に入る仕組みでした。たった2年間のプログラムでしたけれど。
私はこのプログラムに入ることができて幸運でした。普通、多くのギタリストは、そこに入るために少なくとも先生に3、4年付いて練習するのです。私は独学でコードや理論を理解しました。
CB: 学校の名前は何でしょうか?
JA: グラント・マキュアン大学です(当時はカレッジで、いまはユニバーシティ)。ボビー・ケアンズ Bobby Cairns、ジェイミー・フィリップ Jamie Philp、ジム・ヘッド Jim Headに師事しました。そこでストレートアヘッド・ジャズに取り掛かりはじめたようなものです。
最初の年に、ウェス・モンゴメリーの『Smokin’ at The Half Note』を入手しました。このアルバムを、2年間毎日取りつかれたように聴きました。私にとって、真の即興や何かに行きつくための跳躍点でした。
4年目の終わりころには行き詰ってしまい、また、社会的な接点でも失望してしまいました。ジャズプログラムの若い女子学生のギタリストというだけで、同じプログラムに居る少年や男性とうまくやっていくのが大変なのです。学生も教員も。
CB: もう少し聴かせてもらっても?
JA: ときに凄く疎外感がありました。たくさんのセクシャルハラスメントがあって、たくさんの勘違いがあって。
何人かの良い友人(いまもまだ音楽を一緒にやっている)が味方になってくれて、幸運でした。しかし、毎日、「これをいかにやり過ごして脱出するか」という戦場みたいなところに突入するのですよ。
不安はいまだにあります。そのせいで演奏時のプレッシャーがありますし、いまも付き合わなければならないのです。ジャズスクールで男性たちの中で演奏した経験があるだけなのに、ときに演奏することが難しくなります。ベストの演奏にならない感覚があると、ギタリストとして受け容れられなくなります。
そんなわけで、追求せざるを得ないし、信じざるを得なくなるのです。これが私のやりたいこと、やる必要があることです。
CB: この年の終わりまでにストレートアヘッド・ジャズのシーンの類に幻滅したのだとおっしゃいましたね。エキスぺリメンタルなシーンではそれほど問題ではないということでしょうか?
JA: はい、良くなっています。いまだに問題はありますけれど、ストレートアヘッド・ジャズのシーンよりはましです。
CB: いまだに何があるのでしょう?他の女性ギタリストと話したことはありますか?
JA: 社会でのやり取りには微妙なものがあります。たとえば、男性の仲間は結びついていて、それは音楽だけのことではなく、お互いに快適だからでもあります。「たまり場」だったりもします。関係が親密で、そのために、私などは疎外感を覚えます。純粋なやり方で近い関係を作るだけでは、なにか感情が傷つけられるようなことでもあれば、そのグループから誤解され追放される可能性があるのです。同時に、一緒に仕事をしている女性の仲間たちとの姉妹関係もあります。男性ならば同じように感じたりもするのだろうかと、ときどき感じます。芸術やキャリア、個人的な関係が含まれている場合に、純粋に仕事上の関係を作ったり、性欲やそのような感情を誰かに抱いたりすることだって、トリッキーなものになりえます。こういったことが、私が男性のグループと一緒にいるときに感じる方向のトリッキーなところです。彼らは本当に強いつながりを持っており、私はその周囲でこそこそしているしかありません。
そんなことがあって、自分ひとりの場合よりも男性のグループにいるほうが孤立してしまいました。アウトサイダーだと感じることがあっても、自分たちをつなげてくれる唯一の糸は音楽です。それで、性別によらず、常に人びととつながるようにしました。
CB: 学校を終えて、幻滅もして、音楽の次の段階にどのように進んだのでしょうか?
JA: 私にとって、ノバスコシア州アンティゴニッシュ出身(フランシスコ・ザビエル大学)のクラスメイト・アルト吹きのアンドリュー・マッケルビー Andrew MacKelvieが居てくれて幸いでした。私が3年生のとき、彼はジェリー・グラネリ Jerry Granelliと一緒に創造的音楽のワークショップをやっていました。『チャーリー・ブラウンのクリスマス』のサントラではドラマーでしたが、エキスぺリメンタルな音楽もまた手掛けているのです。この本当に素晴らしいワークショップ(The Creative Music Workshop)は、ハリファクス郊外(※ノバスコシア州)で、自由即興と作曲に焦点を当てて運営されていました。アンドリュー・マッケルビーにはたくさんの友人がいました。
課外活動として、アンドリューと私は毎月1回ギャラリーでのギグをやり、フリージャズを演奏しました。それで、学校から出るころには、その後も続く数少ないパートナーシップと関係のひとつを得たのです。アンドリューと一緒に仕事をして外に出始めることは、私にとって、本当に創造的に充実したものでした。
その年にトロント(※オンタリオ州)に引っ越し、多くの変化がありました。自由即興や実験音楽に入り込んでいる多くのミュージシャンと出会い始めました。人生の最初の22年間はカナダの小さな町にいたわけなので、私には本当にポケットがなかった。
CB: 次のステップでは何を見たのでしょうか?
JA: トロントではすべてが激変しました。トロント大学やハンバーカレッジに通った多くのミュージシャンたちと活動しはじめたのですから。彼らも私と同様に音楽の学位を取ったばかりで、私たちは、多くのセッションや投げ銭のギグを始めました。トロントのミュージシャンたちは自分自身のものを創りバンドをやっていて面白かった。それまでエドモントンやノバスコシアではみんなそんなことはしていなかったのです。そんな種まきがあったから、スタンダードを演奏したりせず、いまも自由即興や作曲を行っているのです。
CB: 最初のころの作曲はどのようなものでしたか?
JA: 粗いものでしたよ。それまで経験のない別種の創造の出口でした。これは自分のものだと感じました。アンドリューと即興することも、スタンダードを演奏することもできましたが、作曲は、創造との個人的なつながりを感じる初めての体験でした。
そんなにいいものでないことは解ってはいましたが、実際に何かを創り、提示し、仲間向けに演奏することができるんだという誇りを感じていました。
CB: そこでの経験のあと、ニューヨークに出てきたのでしょうか?
JA: ニュージャージーに行きました。よちよち歩きですよ。
卒業前の最終年に、ヴィック・ジュリス Vic Jurisに会いました。彼はワークショップで教えるために来て、私も彼からレッスンを受けました。そして、彼から、ラトガース大学(※ニュージャージー)を受験しないかと誘いがあったのです。
振り返ってみれば、どんな学校が良いのかもっと調べるべきでした。ラトガース大学は本当にストレートアヘッド・ジャズの学校でしたから。それで、音楽的には周縁のサウンドに没入し、多くの気付きを得るようになっていたのですが、ストレートアヘッド・ジャズのシーンに戻っていきました。
本当に幻滅してはいましたが、それでも、私はヴィックのもとで学びたかったのです。彼は私のギター演奏を本当に励ましてくれましたから、それが良い経験になることもわかっていました。
また、ヴィクター・ルイス Victor Lewisというドラマーにも会いました。彼には、ジャコ・パストリアス Jaco Pastoriousやその他のジャズの大物との共演歴があります。彼は面白い人で、ストレートアヘッドなプレイヤーなのですが、私にはいつも自分自身の音楽を書くよう励まし、他の教授が学生にしているように特定のスタイルで書くことを強いませんでした。彼が教えるプログラムでは、「これらの曲を書き続けること。これらを発展させ続けること」と言っていました。オリジナル曲をリハーサルに持ち込み続けるのです。ある日、ニューヨークに向かう際のニュージャージーでのトランジットで彼と話し、そのことがあったから、私はニューヨークに移ることを最終決定したのです。
ラトガース大学では、自分のファーストアルバムの種撒きをしました。私のトリオ作品の多くは、ラトガース大学の2年間であたためたものです。
ピアニストのアレックス・ペリー Alex Perryにも出会いました。アレックスがしてくれた最も大きなことのひとつは、メアリー・ハルヴァーソン Mary Halvorsonのアルバム『Dragon’s Head』を教えてくれたことです。いままでこんなものを聴いたことがなくて、私にとっても多くのことが変わってしまいました。
CB: このレコードについて何か。
JA: それは好きですよ。好き過ぎてもうメアリーは聴けません。彼女のスタイルや演奏方法をそれはもう吸収しましたから。
これは私にとって本当に重要なポイントでした。ここまで自分に強い影響を与えるギター演奏をする女性には出会ったことがありませんでしたから。また、自分でも実際にこれができるんだと気づかせてくれました。ニューヨークに出て、それまで周りにいた多くの男性の仲間のギターサウンドとは違う演奏はできました。ですが、彼女はただただ全く異なっていたのです。
一旦彼女の世界に入ってから、ネルス・クライン Nels Clineやマーク・リボー Marc Ribotも知りました。ニューヨークに移るということは、それまでいつも探し求めてきた水脈以上のものなのだということに気付かされました。
CB: あなたが挙げた他の人はみんな男性の指導者ですね。役割のモデルという点で、女性の指導者の場合と違う点はあるでしょうか?
JA: ジョニ・ミッチェル Joni Mitchellについての本当に凄い記事を読みました。彼女は私のようにカナダの小さな町で育ったとあって、親近感を抱きました。また、「真のフェミニスト」ではないという理由で多く批判されました。彼女の役割の多くは男性のものであり、彼女はいつも理想化された男性であったからです。私の指導者のほとんどは男性でしたが、マーガレット・アトウッド Margaret Atwoodのような作家やエミリー・カー Emily Carrのような画家など別の領域の人、それから母親と祖母からも、インスピレーションや役割のモデルを見出してきました。
メアリーにインタビューを行う機会があって、女性ジャズギタリストについての学位論文を書きました。彼女に関係づけて、彼女に関することで時間を割き、話もして、私は大きく救われたような気がしました。彼女は、私がどのようにやり過ごしてきたかを理解していたからです。
彼女のレッスンも受けました。彼女の教えることを十分にこなせたとは言えませんが、それ以上に、話さなくても理解することがありました。男性なら必要ないのに、女性だからやらなければならないことについてです。彼女と同じ部屋にいるだけで、話さなくても理解が得られるということは、私にはかなり大きなものでした。
メアリーと一緒にいると、彼女が本
当に優しい人だとわかります。ライヴで会うといつもハグしてくれて、いつも私がどうしているか聞いてくれます。このことは、何度か会って話もしたスーザン・アルコーン Susan Alcornについても同じです。あたたかさのようなものを感じるのです。母性ということではなく慰撫するような性質。彼女は先駆者ですが、後から来る女性たちが道を歩くことができるように望んでもいるのです。
CB: あなたの最初のリーダー作『Coalesce』が昨年(2017年)の2月に出ましたね。どんなふうに作ったのか、教えてもらえますか?
JA: 種をラトガース大学で得て、それから2013年にニューヨークに移りました。そこで本当にこのレコードのための曲を書き始めました。
ちょうどNYに越してきたばかりでしたし、初めてNYに来たら他の人も体験するように、自我を整えて、自分への多くの懐疑と付き合ったりするのに時間がかかりましたから、暗いレコードになると感じていました。NYに移ってきたときには6人のルームメイトがいました。部屋は文字通りクローゼットで、床にマットレスがありました。エアコンがないのに7月(たぶん室内は40度を超えていた)。窓は開きませんでした。赤ちゃんネズミが天井の板を齧り、私のベッドに落下してきました。家でも街の中でも身体をゆったりさせられる場所がありませんでした。息が詰まりました。惨めで仕事がなくて、作曲する時間だけはありました。文字通り曲を1日中書いていましたが、それは、作曲が、自由に動けて自分の芸術に自信が持てる唯一の場だったからです。
それから、できたものを外で演奏することと、自分自身のライヴのブッキングを始めました。トリオかカルテットでした。「Freddy’s Backroom Bar」で演奏し、料金も取りました。そこで演奏するのは好きでした。試行錯誤と発展でした。
CB: バンドはどのように結成したのでしょう?誰と?
JA: マット・ムンツ Mat Muntzがアルバムでもギグでもベース。アレックス・ペリー Alex Perryのカルテットだとか、アンドリュー・ディアンジェロ Andrew D’Angeloのダグラス通りでのライヴだとか。マットはそこでもベースを弾いていて、初めて一緒に演奏しました。その後いまに至るまで7年くらい共演を続けています。
それから、友人のアンジェラ・モリス Angela Morrisを介してニック・フレイザー Nick Fraserとつながりました。彼女は、私が夏休みにトロントに戻っているときに、「Tranzac」でも雇ってくれました。ニックはカレン・グ Karen Ngやアリソン・オー Allison Auと一緒のバンドにいました。ふたりとも本当に凄いアルト吹きです。ニックはジャズシーンでもとても活動的で、トニー・マラビー Tony Malabyやクリス・デイヴィス Kris Davisや私の好きなミュージシャンとも共演しています。彼はおそらく私の知る限り最も音楽的なインプロヴァイザーです。彼の頭脳はとても速く動いていて、ほとんどの時間は私の頭上を飛んでいますから、一瞬でもつかまえられて幸運です。
CB: レコードの受け止められ方には満足だったでしょうか?
JA: 出したときは何も想定していませんでした。単に、人びとがそれを聴いていると知って嬉しい驚きだっただけ。
私はジャズシーンでは本当に活動的でないので、自力で探す人びとには驚きました。彼らが実に楽しんでいるのを見て嬉しかったのです。
CB: このバンドでの次の計画は?あなたの次のプロジェクトは何でしょうか?
JA: 別のトリオのレコードを出すかどうかはわかりません。いまはふたつのことに取り組んでいます。
つまり、ジャズや即興の外にあることをたくさんやるのです。ノイズやエキスぺリメンタルロックの世界に本当に入っています。
CB: もっと教えてください。
JA: ソロギターのカセットテープに取り掛かっています。もう片面にはケイト・モハンティ Kate Mohantyがアルトを吹き込んでいます。Solid Meltsというテープのレーベルから、秋にリリースされる予定です。ノイズロックのデュオESSiはこの夏にスタジオで録音し、フルアルバムとして出します。このバンドでは、私は歌とギターをやっています。人間の声と音楽を通じて物語ることがまったく新しい道で、私はそれを探索してきました。
CB: ノイズとおっしゃいましたね。どのようにシーンにつながったのかお教えいただけますか?
JA: 面白いんですよ。私がジャズと即興音楽を演奏するときは、音量を大きくしたくなるのです。高校のときにはパンクロックをたくさん聴きましたし、自分のジャズでパンクの方向に入っていくという夢はいつも持っています。実験音楽でデカい音、パンクになりたいという子どもの頃の夢を追いかけたいこと、そんなものが積み重なっているのでしょう。
このシーンに入り始めて、ドラマーのリック・ダニエル Rick Danielに出会いました。彼はYvetteというドラムスとギターのデュオをやっていたのです。彼とESSiを始めました。私たちの曲はすべて即興構造に基づいていますので、基本的には私たちは座って1時間か2時間ほど即興をやります。それで戻ってきて、ふるいにかけて気に入るものを見出し、より合わせます。
私たちにとって本当に重要なことは、聴き手の手が届き近づくことができる曲の構造を持たせることで、それで、聴き手にとっての手がかりとなるよう、旋律のセンスやフックか何かが意味をもつのです。外側に出て、ひどい側面やサウンドまで行ってみたりして、それはときに即興のように聴こえるかもしれないけれど、実際にはそれはある種の構造を通じてつなぎあわされているのです。
CB: ロックバンドでも演奏するのですか?
JA: はい。Irreveryという名前のバンドで、そこかしこでやります。ある種のカントリー・パンクミュージックで、超楽しいです。私はデカい音のギターで加わります。それから、Gold Dimeという本当に凄いバンドで、アンドリア・アンブロ Andrya Ambroと一緒に1年ほど演奏しています。彼女はTalk Normalというバンドでやっていましたが、ここのシーンでは2000年代初頭に大きな存在でした。彼女のバンドは面白くて、すべてのギターのチューニングを別々にして、そうするとすべての曲で違ったチューニングをしなければならず、フレットボード上で何が何やらわからなくなるのです。
そんなわけで、このシーンに足を突っ込んでミュージシャンと仕事をするのはとても楽しいものでした。知的なものをベースにせず、ステージ上のプレゼンスに焦点を当てることができるので、ストレスは感じませんでした。動き回って、心配せずに楽器をフィジカルに使うということです。わかりますか。
CB: はい、完璧にわかりました。いままで話していない他のプロジェクトはありますか?
JA: Jazz Brasがあります。私がギターで、トロントのローラ・スワンキー Laura Swankeyがヴォーカリスト、ヴァンクーヴァーのエリサ・ソーン Elisa Thornがハーピスト。あまり頻繁には演奏しません。ときおり、トロントかニューヨークでやろうとしています。彼女たちは、この2月の私のレコ発ライヴでも共演してくれました。
私たちはバンフ(※アルバータ州)で出会い、プログラムの何人かの男性たち、そして性的な言動なんかにうんざりしていました。それで、その夜、一緒に自由即興のセッションをやったのです。私たちは、基本的には、プログラムの男性たちのちょっかいにいかに困っているかの不満を単にぶつけあって、共演することを決めました。曲のひとつのタイトルは「それで、あなたは歌手なの?」。それから「何のためにやってるの?」。ローラが付けたタイトルは「胸に肘」ですけど、これは、彼女のバンド仲間の男性が自分の大きさを配慮せず彼女の胸に肘を当てたという経験をもとにしています。ファーストアルバムは、「Banff Creative Workshop」でのライヴ録音でした。2、3回ツアーにも出ています。この2月には、HAVN Records(オンタリオ州ハミルトン)からセカンドアルバム『Witch Tapes』をリリースしました。
CB: それで、あなたはシーンの性差別について言ってきたし、全部いまも起きていることなのですね。現在どんな様子で、変革が必要なことは何でしょうか?
JA: 大事なところまで来ましたね。いまこの機会に跳躍しなければ失われてしまうかもしれないことです。人びとはついに目覚めようとしています。私はこの手の問題の記事に関するコメントをソーシャルメディアでフォローしています。最初に起きた問題は、イーサン・アイヴァーソン Ethan Iversonとロバート・グラスパー Robert Glasperのところで起きました(※)。
(※注)イーサン・アイヴァーソンのブログにおけるロバート・グラスパーに対するインタビュー記事の中に、グラスパーによる女性蔑視発言があり、それへのアイヴァーソンの対応とともに多くの批判の声があがった(2017年)。
もし私たちが戦略的でなければ、振り子は別の方に振れるでしょう。もし私たちがそんなに攻撃的でなければ、自分たちに舞い戻ってきて、何か月もやってきたことが実際に無駄になるでしょう。
CB: どういうことでしょうか?
JA: #MeTooムーヴメント、それから自分をレイプした者をFacebook上で名指しするような非公式な働きかけ、こういったことは火に油を注いで危険なことにもなりえます。しかしまた同時に、性犯罪のように制度上の問題がある犯罪は、犯人にとって責任を逃れるのが容易なものなのです。
私たちは、このようなプレデターをいかに排除するかについて、組織化しなければなりません。音楽コミュニティだけでなく、もっと横断的に。性差別のようなことを無くすには時間がかかるでしょうけれど、私は、遅かれ早かれ、プレデターがさらに害悪を加える前に特定し排除することを望みます。多くのジャズ教育の機関はこういう罪深い男性を、カトリックの司祭のように大学から大学へと入れ替えているだけではないかと感じます。
私たちはまた、教育や指導について本当に先回りして子どもたちに示さなければならない。いまの種蒔きがその世代につながるからです。何が標準的なのか感じるわけですから。男女の闘いをしようというわけではありません。標準化、新しいルールの受容が、女性に向けられた振る舞いに取って変わられなければ。
このような男性たちは罰せられるべきだと感じますが、リハビリの必要もまたあるのです。それがいま欠けているものです。リハビリをせず、何が悪いのか彼らに理解させることなくては、非生産的になってしまいます。
女性が男性の中に共感を求めるのと同じくらいに、女性は自分自身の共感を男性に向けるべきです。なぜ男性がそんな具合なのか、その理由の多くは、彼らが育った社会の条件のせいです。
私にも崇拝する男性の友人が多くいます。ときに、社会からのプレッシャーが彼らをそのように行動させているのを見ます。
多くの男性が心臓病で亡くなったり、長く生きられなかったりします。それはすべてが抑圧されていて、感情を表現できない苛烈なプレッシャーがあるからです。感情表現は少女か女性のものだと見なされていますが、それは男性にとって正しいあり方ではない。男性も公平に自分の感情を表現できる機会を持つべきですし、自分自身を表現できないからといってそれを避けたり小さくなったりするべきではありません。
それで、対話のようなものがなければならないと思うのです。男性は女性に向いて共感し、女性は、男性が社会的な雰囲気のためにもがいている状況なのだと理解するでしょう。
CB: #MeTooムーヴメントに人種差別を見出したことはありますか、音楽シーンで?
JA: はい、私は白人女性としてこれに取り組まなければならない。しかし、有色の女性にとっては状況はもっと悪く、やらなければならないことがあります。フェミニズムの長い歴史は、有色の女性にとってはあまり積極的でも励みになるムーヴメントでもありませんでした。白人女性のフェミニストが、ムーヴメントに有色女性が入ることを拒否し、排除したのです。いまでもなおそのようなことがあります。最初は白人女性のムーヴメントでした。それは白人女性がほとんど会話し、有色女性に十分で公平な機会を与えず、彼女たちの貢献も評価しなかったからです。
私は、自分自身が白人であることでバイアスがかかったレンズを持ち、視えないものがあることと闘います。白人女性のフェミニストとして、私たちがいかに閉鎖的で、他の人種の女性たちを議論に加えない偽善者であったかという歴史を理解しています。また、彼女たちはいまだ悪い体験をしている事実を認めたり聴いたりしています。ジャズスクールで体験してきた悪質なことや、男性との間の出来事について、すべてを話すことができます。しかし、現在でも、女性であるから、有色女性であるからというだけでもっと悪い状況にある女性もいるのです。私はその経験を理解はできませんが、教育を受け、それに共感するようになることはできます。自分自身を認識し、自分自身をその観点からチェックしなければならないのです。
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インタビュアー:シスコ・ブラッドリー(Cisco Bradley)(Jazz Right Now http://jazzrightnow.com/)
編集:ガブリエル・ジャーメイン・ヴァンランディンガム-ダン(Gabriel Vanlandingham-Dunn)
書記:リナミー・タラン(Linamea Taran)
写真:マイク・ボーチャード(Mike Borchardt)
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なお、アッカリーは2019年1月にソロ作品、同年9月にカルテット作品(サラ・マニング (as)、マット・ムンツ (b)、未定 (ds))をリリースする予定。また未確定ながら2020年に日本ツアーを行う計画もあるという。
近作にはソロ作品『Pain』(2016年)や、マット・ムンツ (b)とニック・フレイザー (ds)とのトリオによる本格デビュー作品『Coalesce』(2017年)がある。
【JT関連記事】
CD Review #1552 『Jessica Ackerley Trio / Coalesce』
https://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-31608/
【翻訳】齊藤聡 Akira Saito
環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong