Interview #199 ヴォーカリスト「海原純子」

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海原純子 Junko Umihara
横浜生まれ。心療内科医。医学博士。産業医。エッセイスト。歌手。
東京慈恵会医科大学卒。日本医科大学特任教授、昭和女子大学特命教授。1999年、歌手活動を再開し、2019年ジャズ・アルバム『RONDO』リリース。著書に『こころの深呼吸』(2019 婦人之友社) 他多数。http://www.umiharajunko.com/

photo:渡部麻里子(プロフィールを除く)

『海原純子 / RONDO』
VOIX-D’OR JXCP-1119 ¥3000+tax

海原純子 (vo) 若井優也 (p) 安ヵ川大樹 (b on 1,2,3,4,7&8) 海野俊輔(ds on 1,2,3,4,5,6,8&9) 伊地知大輔(b on 5&6) スティーヴ・サックス(fl,as on 5,6&9)
1.Everything Happens To Me / 2.Give Me The Simple Life / 3.Embraceable You / 4.Then And Now* / 5.O Conto das Nuvens(雲の物語)* /5. I Got Rhythm / 7.The Boy Next Door / 8.Moonray /9. It Might As Well Be Spring /10. Ordinary Fool (*印は海原純子作詞によるオリジナル曲)

録音評:https://jazztokyo.org/reviews/kimio-oikawa-reviews/post-46709/

♫ アルバムの背景には常に、喪失とリジリエンスを

Part 1:

JazzTokyo:「海原純子」は “シャンソンも歌う心療内科医” という遠い記憶があるのですが、ジャズ・アルバムを発表するに至った経緯を教えていただけますか。

海原:ジャズのアルバムを作るということはライヴのようにトークを含めたエンターテイメントと異なり、音楽だけでものを伝えること、ととらえているのでそんな自信は全くありませんでした。自分はネイティブな日本人で、特別な音楽教育を受けたことがなく、ジャズを歌うのは敷居が高くて。だからジャズはあきらめて日本語でオリジナルを作ったりシャンソンを歌ったりしていました。ジャズは8年前くらいからまたやろうと思い立ちましたが、ライヴが中心の活動でした。
ただ今回は自分の詩を英語やポルトガル語に私の意図を正確に訳詞してくれたスティーブ・サックスさんと、言葉のリズムをとらえ曲を作ってくれた若井優也さんとのコラボがありオリジナルの作品を作ろうということでアルバム制作に踏み切りました。スタンダード曲は偉大な先人の作品を聴いていますから自分が歌うとどうしても偉大な歌手の旋律を思い浮かべてしまうのですがオリジナルは自分しか歌っていないのでどこか自由な感じがするんですね。どう歌おうと自分のもの、という。

JT:アルバム・タイトルの『Rondo』に込められた意味は?

海原:「Rondo」は音楽の形式の一つですが同じテーマを何度か繰り返して演奏するスタイル。何度もジャズは無理、とおもいながらやめられないいつもジャズに帰ってきてしまう自分の思いと重なるものがありました。また人の思いはその人が死んでも後の人に引き継がれ失われることなくまた次につながっていくという命の循環と重なる意味もありこう名付けました。アルバムの中に「Rondo」の物語というアンデルセンの童話を基に私が作ったオリジナル寓話をいれて読んでいただくという新しい試みもしています。

JT:選曲はどのようにして?

海原:オリジナルの2曲のほかに自分の好きな曲を選んだらバラードが多くなり、アルバムのディレクターをしてくれた若井さんが、リズムの変化があったほうがいい、という意見でこんな風になりました。アルバムの背景には常に、喪失とリジリエンス(注:回復力)を感じられるようにということを考えました。

JT:オリジナルの2曲というのは、英語の〈Then and Now〉とポルトガル語の〈O Conto das Nuvens (雲の物語)〉ですね。

海原:2曲ともに時の流れと変化をうたっています。〈Then and Now〉はかつてはかわいい美しいわがままな小娘だった女性が、年をとり美しさはなくなったが、つらいことや困難な時代を生きぬいてえたものについて語る男性の独り言です。若井さんと「これはトニーベネットに歌ってほしいよね」と言いながら作りました。〈O conto das nuvens〉は、雲はふわふわ空を旅して、ある日雨になって消えてしまうが、また川になり海に注ぎ、温かい夜に空に登りまた雲になるという命の再生と循環を歌うボサノヴァです。歌詞はただ雲の物語を語っているだけですが聴いてくださる方が、それぞれ何かを思い浮かべてくださればそれでいいかなとおもいながら作りました。

JT:共演のミュージーシャンの選定はどのようにして?

海原:この1年ライヴを一緒にしていてお互いを理解しているメンバーです。スティーブさんとは訳詞をしてもらうことで知り合いご一緒していただきました。

JT:レコーディング・セッションは楽しめましたか?

海原:いえ、それが自分のだめな部分がはっきり見えて、あ、ピッチがへんとか、気になり。レコーディングが楽しいまで行ければ最高ですが。以前日本語でアルバムを作った時とはかなり違いました。

JT:リスナーにいちばんアピールしたいところはどこでしょう?

海原:オリジナルを楽しんでいただきたいです。それからこのアルバムにはオリジナル寓話「Rondo」の物語がライナーの代わりに入っています。私が撮影した写真と一緒に音楽とお話を同時にお楽しみいただければと思います。〈Then and Now〉はとても素敵な英語詩になっています。アレンジャーのミシェル・ウェイアーが「この詩は素敵ねえ」といってくれました。詩もぜひお楽しみください。

JT:ライヴ活動はどれくらいの頻度でなさっていますか?

海原:2か月に一度くらいです。この秋はCD発売ライヴがあり11月は月に2回、来年1月まで月1回ほどのペースです。

JT:医療活動との両立は可能ですか?

海原:すべての時間を音楽に使うことが出来ないですが..。物理的な時間は少ないですが両方ができるように時間の質を高めることを考えてやってます。医師であることは周りに知られているからこれが結構ハンデになります。ライブのときに「先生!」といわれると調子が狂うんです。ライブでは医師ではないので。 突然ステージの合間に、医療相談などしてくる人もいたりして音楽のモードから突然引きずりだされる気分(笑)

JT:海原さんにとって歌うことの意味は?

海原;一言でいうと「やめられないこと」。歌うことをはじめてしまったらもうここから抜け出すことや、やめることはできない世界なんでしょうね。やり続けるしかない世界。こんな歌じゃだめだとおもっても、「そんなことしないで医者やってたら」といわれてもやめられないですね。

JT:今後のCDリリース記念のライヴの具体的な予定はありますか?

海原:11月は北九州でライヴをしていました。今後は12月10日銀座ZERO,来年1月26日銀座スイングで予定しています。3月10日は神保町アディロンダック・カフェです。

♫ いくらバッシングされようとまた音楽をスタートさせようとした

Part 2:

JazzTokyo:音楽一家のお生まれですか?

海原:全然そうではないです。父は原爆投下後の広島でボランティア活動をした後、2次被ばくしてその後免疫不全で結核になり「親はいつまでも生きていられないから自分で食べていけるように」と言ってました。能の鼓をたたいて能を舞っていたような人でしたから音楽といってもまるきり違いますね。笑

JT:音楽に興味を持ち出したのはいつ頃、どんな音楽ですか?

海原:音楽に興味をもったのは大学に入ってからです。

JT:ジャズに興味を持ったのはいつ頃、どんなきっかけでしたか?

海原:大学に入り周りでジャズを聴いている人が多くていいなあと思いました。サラ・ヴォーンの深い声が好きで毎日夜聴いて寝るという生活でした。

JT:プロとしてのデビューはいつ、どのような形で?

海原:父親の病気で大学生活の生活費に支障があり19歳から新宿のクラブで専属歌手をしました。そのころ新宿の音楽教室でピアノのコードを習い始めていてオーディションがあると聞いて受けたのです。ジャズやラテンやシャンソンなどを歌っていました。結構ギャラがよくて生活費がでて、これを25歳まで続けました。25歳の時クラブにきていたテレビ局の音楽出版の担当者からフジテレビのお昼のドラマの主題歌を歌わないかといわれてフォノグラムから1枚シングル盤をリリースしました。

JT:一度音楽活動を中断されたようですが。

海原:レコードを出したのが医学部を卒業して研修医になった時でしたからタイミングが悪く、音楽を続けるのはとても無理な環境でした。今はそんなことは少なくなりましたが当時は医者が音楽の仕事などしているのはバッシングの対象でした。「そんなことをする時間があれば研究しろ、診療をしろ」という時代でしたし、女性の医師は少なく、女の医者なんてだめという風潮、信用できない、という時代でした。男性が100仕事をするなら120位やって初めて少しは対等な感じで受け入れてもらえるという空気の中で音楽などとんでもないという感じでしたから。音楽はあきらめよう、と思いました。なんといっても、自分の実力はよくわかっていたし、大した歌は歌えないし、かといって趣味で歌うのは嫌でした。中途半端なことはしたくない、突っぱっていましたから。

JT:復活のきっかけは?

海原:医師として20年以上働いてきたころ阪神淡路の震災が起こりました。夫の実家が被災し、手伝いに行こうとしたところ、私も忙しさで顔面神経麻痺になり数年間苦しみました。医師の仕事は休めないんです。仕事を代わってくれる人がいない。またどこか具合が悪くてもいつも元気なふりをして冷静でいなければならないと思い自分の感情を常に抑える生活でしたから。その感情の抑圧で体調を崩しました。顔面神経麻痺を起こし自分がこれまでずいぶん感情をおさえ我慢をしてきたことに気がつきそれを開放する必要があると思いました。しかしその解放の手段は単に愚痴を言うことではなくなにかもっと別の方法で表現することができないだろうかと考えたときやはりそれは音楽しかないと思いました。いくらバッシングされようとまた音楽をスタートさせようとしたのがきっかけといえばきっかけです。

JT:愛聴している歌手とアルバムを教えていただけますか?

海原:ビリー・ホリデイの『Lady in Satin』、シェリル・ベンティーンの『Talk of the Town』、ルネ・マリーの『Vertigo』、シーネ・エイの『シングス・スタンダード』。トニー・ベネットとビル・エヴァンスの1975年のコラボアルバム。アンリ・サルバドールの『 J’aivu』

JT:歌い手としての夢を教えてください。

海原:オリジナル曲をトニー・ベネットとduetする。それまで元気でいてください!トニー・ベネット。

♫ 被災地の方との交流は今も続いていて私の宝物です

 

Part3:

JazzTokyo:医大を卒業されていますが、専攻は?

海原:心療内科です。特にストレスとリジリエンス。

JT:当初から開業医として活動を始められたのですか?

海原:研修医を終わり母校の東京慈恵医科大学内科に勤務。そのあと病理学で学位をとり講師になりましたが大学の組織で暮らすのは自分に合わないなと思い女性がなんでも相談できるような場を作ろうとして女性対象のクリニックを立ち上げました。女性に正確な医療健康情報を普及したいというのがその目的でした。それを12年続けたところで阪神淡路の震災がありクリニックを休診にしました。そのご体調を崩して回復した後文科系の大学の教授になり学生に健康の知識や心理的な知識を教える講座を立ち上げました。2008年から2010年までボストンに行きハーバード大学大学院のヘルスコミュニケーション講座の客員研究員になり研究活動をして帰国後、日本医科大学の教授になりストレス健診などを行ってきました。

JT:TVを始めマスコミに露出の多い時期がありましたが。

海原:女性クリニックで診療していた当時はテレビ出演が多かったです。でも大学勤務をはじめてすべてやめました。テレビ、若いころは楽しかったけれどだんだん興味がなくなってきて。もともと一人で原稿書いたりする方が好きなたちなので。

JT:復興庁の仕事も担当されていたようですが、被災地を巡回されていちばん強く感じたことは何ですか?

海原:東日本大震災の後2013年に行われた復興庁の心のケアサポート事業の 統括責任者で沿岸部をまわる活動などを行いました。この活動は私の人生の中でとても大きな意味を持ちました。陸前高田で当時副市長だった久保田崇さんから「朝目が覚めたとき窓を開けて外を見てください」といわれました。朝、外に出てみると目の前から海まで何もないんです。ひび割れた地面だけが目の前に広がっていました。この土地にあった家や田んぼやここに住んでいた人たちが目に浮かびました。自然に涙が出て止まらなくなりました。言葉を失うようなこうした状況から人はそれでも生きていきます。たくさんの方の物語を聞きました。人を助けようとして命を落とした人の話を聞くたびそうした方はきっと人を救う愛が恐怖を上回っていたのだろうと感じました。被災地の方との交流は今も続いていて私の宝物です。

JT:後進の指導にもあたられているのですか?

海原:大学では医学生にコミュニケーションの講義などをしてきました。今は社会人の方のためのアサーティブ講座を昭和女子大で行って大学生のメンター育成などもしています。

JT:医者としての夢を聞かせてください。

海原:私は心療内科ですのでストレスで体調を崩す方とかかわってきました。ストレスで体調を崩す方は自分の本当の気持ちを抑圧して表現しないことに大きな要因があります。いかに自分の本当の感情をきちんと表現しかつ相手も尊重できるコミュニケーションをとれるかが大事なのでそうした方法をお教えする講座を広めていきたいのです。日本は文化的に言葉でものを伝えず言葉以外でものを伝えるコミュニケーション方式です。また自分の気持ちを我慢することが美徳という文化がありそれが感情抑圧の要因になります。自分の感情をぐちではなくおさえるのでもなく何かに変容させるのが年をとることの意味だと考えています。そうした大人を育てることが医療の意味でもあるように考えています。

稲岡邦彌

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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