Interview #201 Jon Christensen ヨン・クリステンセン

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Interviewed by Carl Stormer in Oslo, Spring 1985, originally for Modern Drummer
photo: courtesy of Modern Drummer
Translated by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

 

ヨン・クリステンセンは、おそらく、アメリカで自力で名を上げた数少ないヨーロッパ系ジャズ・ドラマーのひとりだろう。もちろん、ノルウエーでは全世代を通じた“ドラマーの父”ともいうべき存在で、片耳を聴衆の方に向ける独特のポーズで知られる。これは一方の耳が不自由なためである。
オスロで行われたこのインタヴューを通じてヨンは、影響を受けたミュージシャンたち、音楽へのアプローチの仕方、ヤン・ガルバレク、バド・パウエル、キース・ジャレットとの共演経験、ミロスラフ・ヴィトウス、ニルス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン、アリルド・アンデルセン、パレ・ダニエルソンらのベース奏者との関係について語り尽くす。

♬ 譜面は読めず、自己流でやってきた...

Carl Stormer: まずは出自から始めましょうか?

Jon Chrsitensen: OK。1943年、ノルウェー・オスロの生まれ。デビューしたバンドではピアノを弾いていたんだ。このグループには従兄弟も一緒でね。15の時だった。オスロ近辺のダンスホールやダンスクラブが主な仕事場だった。

CS: ドラムに惹かれた理由は?

JC: 多分、Seventeenth of May パレード(ノルウェーの独立記念日を祝うお祭り)を見ていて、ドラムが全体を格好よく引っ張っているのに気がついたからだろうね。ドラムを気に入ったレコードを聴いていたこともあるし、僕より従兄弟の方がピアノがうまかったということもあるだろうね。当時僕らが演奏していたのはブギウギやブルース系だった。つまり、自分らが好きで聴いていた音楽ということになるね。このバンドが良くなるにつれて名の通ったミュージシャンとも出会う機会が増え、もっとマシなバンドで演奏し始めたんだ。じつに楽しかった。日曜日にはビッグバンドでも演奏し始めたけど、ビッグバンドはまったく新しい体験だった。ユニゾンもあれば、仕掛けもあるからね。

CS: 譜面は読めたのですか?

JC: 全然!ほとんど記憶に頼っていた。ほとんどの曲はいつもラジオで聴いていた普通のアレンジだったから、覚えるのはまったく苦ではなかった。このビッグバンドを通じて何人もの同世代のミュージシャンと出会い、バンドを始めようということになった。ちょうどその頃「ノルウェー・ジャズ選手権」というコンテストが始まり、われわれもエントリーしようということになった。ほとんどアート・ブレイキーの曲だったけど練習に練習を重ね、結局、1960年度の「モダン・ジャズ」部門で僕らがチャンピオンになったんだ。僕自身は、バンドと4小節や8小節のチェイスを演って、モダンのソロ部門で準優勝の成績を収めた。

CS: 当時はどんなドラマーを聴いていたのですか?

JC: ベテラン勢が多かったね。バディ・リッチ、ジーン・クルーパ、ジョー・ジョーンズらだ。続いて、当時全盛を極めていたマックス・ローチやアート・ブレイキー。コンテストで優勝した結果、僕らのバンドはオスロの有名なクラブでも演奏できるようになり、人気が出始めたんだ。その頃だね、僕が初めてヤン・ガルバレクと出会ったのは。オスロのイケてるクラブだった。彼は1947年生まれで僕より若かったけど、一緒に手合わせもやり出した。ヤンはたしか1962年のコンテストを制したはずだよ。しばらくしてヤンと一緒にやろうということになった。1963年か64年だったと思う。リハーサルの場所がなくてね、ギグにはほとんどぶっつけの状態で出ざるを得なかった。必然的にスタンダードをやるしかなかった。だけど、だんだんもっとモダンな演奏をやりたくなって、ヤンがオリジナルを書き出したんだ。

CS: フリーランスの仕事も多かったのですか?

JC: そうだね。ドラマーとしての仕事がたくさん入り出した。62年以降、オスロの有力クラブでアメリカのミュージシャンと演奏することが多くなった。当時はアメリカのミュージシャンが単独でやってきてヨーロッパのリズム・セクションと共演することが多かったんだ。その手の仕事で僕が最初に経験したのがバド・パウエルだった。さすがに緊張してね、ギグの前に彼のレコードをいろいろ聴き漁って彼の癖をつかもうとした。そのあと、たとえば、デクスター・ゴードン、ドン・エリス、ベン・ウェブスター、スタン・ゲッツ、ケニー・ドーハム...。僕にとってはとても貴重な生きた経験だった。大いなる挑戦でもあったけどね。

CS: 彼らはどんなやり方でしたか?

JC: 彼らとの共演は良い面もあればそうでない面もあった。彼らは僕にどうやって欲しいか伝えた上で、僕が叩き過ぎているか、あるいはもっと叩いて欲しいかアドヴァイスしてくれた。とても良い連中たった。僕らがこの極北の地で経験不足であることも理解してくれていた。
自分のスキル・アップにとってこの経験はかけがえのないものだったと思っている。機会があればできるだけ優れたミュージシャンと共演すべきだと思う。今のようにジャズ教育というシステムが無かった当時、僕の学校だったといえる。

CS: レッスンを受けたり練習を見てもらった経験はありますか?

JC: いや、まったく。練習する場所も無かったし、いつも実戦で演奏していたから。時には数分やってみたこともあるけど、スケジュールを組んで練習に取り組んだことは一度もないよ。教則本やメソッド類に取り組んだこともない。リズムやフィルは面白いから考えたことはあるけど。レッスンに近いという意味では、プロとして15年間ほど経験したあとにジャック・ディジョネットに教えを請うたことがある。僕らは個人的に親しくなって、スティックの握り方の違いなどを見せてくれた。

CS: ジャックに、例えばグリップなど技術的な質問を投げたのですか?

JC: 僕はドラムを叩き始めたときからジャックと同じ握りだったので質問は投げていなかったと思う。自分はいつも最小の労力で上手く叩けるように努力しているからね。本来の意味での練習は一度もしたことがないから自分の持っているテクニックの範囲内で演奏していたということになる。

CS: もっとスキルがあれば良かったと最近思うようになったと聞いたことがあります。

il Bobo Stenson Trio a Bergamo, in Città Alta durante la sesta Rassegna Internazionale del Jazz, marzo 1974. Nella foto da sinistra: Palle Danielsson, Jon Christensen, Bobo Stenson. ©Roberto Masotti/ECM

JC: その通りさ。例えば、ルーディメンツ(ドラムスの基本的な奏法のパターン)などを確認してみようかなと思うこともあったけど、僕は何年にもわたって自己流の奏法を身につけてきたのでいわゆる型通りのパターンを踏襲したいとはまったく思わないんだ。例えばパターン同士のコンビネーションなどについても分かれば面白いだろうとは思うことはあっても、演奏しているときはそういうことはまったく意識していないからね。演奏中に面白いアイディアを思い付いても、すぐには叩けないよね。多分、もっと練習していれば、思い付いた新しいアイディアをすぐに実行できるかもしれない。だけどそんなことは気にしたことがないんだ。いつも気にしているのは新しい流行とかそういう類のものだね。例えばシンバルを極端に高くあるいは低くセットしているドラマーを見たら、家に帰ってトライしてみるだろうね。

CS: 若い頃はアメリカのドラマーをナマでたくさん見たのですか?

JC: いや、まったく。見たのは毎年恒例のフェスくらいだ。のちになってコングスベルクとモルデというノルウェーの2大フェスの仕事が来るようになった。そこで素晴らしい音楽の見聞を広め、ミュージシャンとの交流も広まったんだ。

最初のモルデのときは随分時間がかかったのを覚えている。夜のコンサートのために朝からリハーサルが始まるんだ。1日にデクスター・ゴードンら3、4バンド出演するからね。僕の出番は夜だった。カーテンが降りると次のバンドがステージに上がる。だけど僕は掛け持ちで叩いていたからひとりステージに残ったままさ。演奏したのはブルースから紙を引き裂いたり魚をピアノにぶちこむ前衛までいろいろあった(笑)。当時僕らが新しいことができたのは前衛ジャズのときだったね(64年から65年)。夜も更けて来るとジャム・セッションだ。そして最後はモルデの山中でということになる。というわけで、フェスでは叩きまくっていたね。まだ若くてエネルギーもあったから演奏に疲れるということはなかった。フェスが終わってからは新しいアイディアや記憶が何ヶ月も頭から離れないんだ。

♬ 1969年、マンフレート・アイヒャーと出会いECMに初めてのアルバムを録音した

CS: ジョージ・ラッセルとの出会いについて話してください。

JC: 1965年、自分たちのグループでヤン・ガルバレクと初めてモルデに出演したんだけど、そこにジョージもセクステットで出演していたんだ。フェスのとあるクラブでいつものように頭を垂れて目を閉じながら演奏していたんだ。と、突然、キーボードプレイヤーが変わったのに気が付いた。目を開けるとジョージがピアノの椅子に座っていたんだ。彼が例のリディアンを弾き始めたのには仰天したよ。ギグが終わると、若いミュージシャンが新しいことを演ってるのを聴いて興奮した、って言うんだ。そして、帰り際に、今度必要になったら電話するからって。ヤンも僕もどうせお世辞だろうとタカをくくって何も期待していなかった。ところが、6ヶ月後だった、ストックホルムのジョージから電話があって、ビッグバンドとセクステットを組むから来られるかって。僕はちょうどハイスクールと1年間の兵役を終えたところだったので行くことにした。
残念だったけど、ヤンはまだハイスクールの2年生だったから行けなかった。僕が演奏したビッグバンドの曲はのちに古典になった12フィートの長さのスコアだった(笑)。正直に告白するとキツかった。だって普通のビッグバンドのアレンジじゃないからね。ごまかしがきかなかった。ジョージはクロス・リズムを多用するし、想定外のところでキメがあったりするんだ。

CS: 読譜はどうしたんですか?あまり得意ではなかったですよね。

JC: とくに重要なパッセージは勉強したよ。たいていの曲はレコードになっていたからストックホルムへ発つ前に何度もなんども聴き込んだ。おかげでほとんどのメロディは頭の中で鳴っていたので助かった。当時は目の前の譜面を見ながら叩くというのは地獄だったからね。だから、記憶しているメロディを頼りに譜面はチラ見していた。初めは小節数を数えていたけど、慣れて来ると8小節や、16小節、ついには32小節のフレーズを勘で叩けるようになった。だから今では小節数は数えずにフレーズで覚えるようにしている。

ジョージ・ラッセルの仕事をしばし休んで、67年だったと思うけど、スェーデンに戻って、モニカ・ゼッタールンドのバックを勤め、初めてスティーヴ・キューン、パレ・ダニエルソンと共演することになった。そして、1969年、リードにヤン・ガルバレク、ギターにテリエ・リプダル、ベースにアリルド・アンデルセンに僕、という布陣でカルテットを結成したんだ。音楽はかなりとんがってた。ヨーロッパのフェスをかなり演った。マンフレート・アイヒャーがイタリアのフェスで僕らを聴いて興味を持ってくれたんだ。彼は、ECM、Ensemble of Contemporary Music(注:正確には Edition for Contemporary Music、のちにEdition of Contemporary Music)、という名のレーベルをスタートするところで、才能のある若手バンドを物色していたんだ。1970年、僕らは『Afric Pepperbird』というレコードを初めてECMに録音した。ヤンはコントラバス・サキソフォンまで思いつくリード楽器すべてを演奏し、僕らもあらゆる種類の見慣れない楽器を演奏した。これが僕らのマンフレートとECMとの最初のかかわりだった。それ以降、僕は、ヤンのグループ、テリエのグループ、それからヨーロッパやアメリカのミュージシャンのあらゆる組み合わせで演奏してきた。おそらく、これまでECMに録音してきたLPは25から30作になると思う(注:1985年春現在)。

CS: 1967年に録音されたヤン・ガルバレクとの最初のレコード『Til Vigdis』についてはどう思いますか?

JC: 当時の僕らのサウンドだと思う。当然、今やれば別の音楽になるだろうけど、もはや手遅れさ。でも若さと意欲にあふれた音楽だと思う。ありのままに聴いてもらえばいいさ。

CS: 『Solstice』(ECM) がお気に入りの一枚であることは知っておりますが、他にいちばん出来に満足しているアルバムはどれでしょう。

JC: そう、『Solstice』は出来のいいアルバムの一枚だと思う。キース・ジャレットと共演したアルバムも楽しかったし、内容も素晴らしいと思う。「いちばん」を答えるのは難しいな。どのアルバムにも聴きどころがあるからね。

CS: ガルバレクと演奏するときには何か縛りがあるのですか?

JC: いや、全然。好きなようにできる。どのバンドでもそうだよ。今まであれこれ指示を受けたことは一度もないよ。状況がどうであれ、いつも自分に任されていた。多分、今まで僕が演奏してきたのがすべてクリエイティヴなユニットで、バンドリーダーとメンバーで構成されたバンドではなかったからだと思う。グループで演奏するときのヨーロッパとアメリカのアプローチの違いでもあると思うね。僕らの場合は、リーダーがメンバーを雇ってバンドを作るというのではなく、個々のメンバーが集まってひとつのユニットを作るというアプローチだからね。

CS: ヨーロッパ系のミュージシャンはスイングできない、またECMの多くのアルバムについてスイングやグルーヴの欠如を指摘されています。ミロスラフ・ヴィトウスによれば、あなたはスイングの仕方を心得ている数少ないヨーロッパ系のミュージシャンのひとり、ということになりますが。

Jan Garbarek Quartet, Bergamo Jazz, Bergamo, Teatro Donizetti, 1974
Nella foto: Jon Christensen ©Roberto Masotti/ECM

JC: さあ、どうだろうね。いくぶんは背景にも関係しているのではと思うけど。当初、僕らはアメリカの音楽とアメリカのミュージシャンの影響がとても大きかった。その後、僕らは僕ら自身のアイデンティティを見つけ出して、それが徐々に演奏に反映されるようになった。演奏や表現に自分自身のスタイルを身につけたらアメリカの影響からどんどん抜け出していく。たとえば、“スイング”について語ろうとすると、まずは定義が難しい。マイルス・デイヴィスの『マイルストーン』というレコードを例にとってみると、内容は素晴らしいしとことんスイングしている。曲はどれも4/4で、ベースはほとんどウォーキングだ。このアルバムをもっとコンセプトやフォームのゆるいアルバム、たとえば、ウォーキング・ベース不在の、あるいはベースが全く不在のアルバムと比較すると、後者のアルバムはスイングしていない、あるいは字義通りに解釈した“ジャズ”ではないと決めつけられるだろう。しかし、近年ではじつにさまざまなスタイルの音楽が市場に溢れ、どれがジャズで、どれがジャズではないか区別するのがますます難しくなってきている。音楽にフォークやクラシック、ロックにパンクにレゲエと名付けられる要素が混在して来ているのが現状だ。しかし、要するにすべてが「音楽」だということだよ。

CS: あなたの指摘はファンのレコード・コレクションにも反映されていますよね。どれも多種多様です。

JC: その通り。僕はいつもジャンルにこだわらない聴き方をしているよ。ある意味で、音楽を聴くことが僕の一種の練習と言えるかもしれない。ジャンルにこだわらずに音楽を聴くのは、必ず新しいアイディアに出会えるからなんだ。

CS: ストラヴィンスキーやシェーンベルク、アイブズなど現代音楽にもかなり影響されましたか?

JC: その通り。他にも、ドビュッシー、ラヴェル、バルトークなどもね。

♬  ホーンプレイヤーと同じようにメロディラインを捉える

CS: 音楽にはどのようにアプローチするのですか?

JC: 新しい音楽を聴く場合は、まず全体を通して聴く。しばらくして気に入った部分、たとえば、ヴァイオリンがメロディを弾いているパートなどを自分で演奏する場合を想定して聴き直してみる。いつもそういうやり方だね。仕事をする場合も音楽を何度か聴き直して耳を慣らしておく。

CS: あなたのフレージングはマイルスやコルトレーン、ガルバレクなどのホーン・プレイヤーに影響されていると思いますか?

JC: もちろんだね。いつもホーン・プレイヤーと同じようにメロディ・ラインを捉えるようにしているからね。同時に、ドラマーとしての僕の存在理由、ある種のタイムやパルスをキープすることも念頭に置いている。それがいつも基本的な目標さ。また、他のプレイヤーの演奏に耳を傾け彼らのアイディアを発展させたり、逆に僕からアイディアを提供するようにも努めている。

CS: テリエ・リプダルとヤン・ガルバレク両者のサイドマンとしてレコーディングに参加していますが、ドラマーとしてのあなたの役割はそれぞれのセッティングでは違っていると感じていますか?

JC: テリエの音楽に対するアプローチはよりクラシック寄りだと思う。つまり、作曲よりも即興から出発していて多くの部分を即興に依っている。(注:インタヴュアーの聞き取りの誤りか。)テリエの出発点がクラシック音楽であるため、彼が作曲する際に頭の中で鳴っているのは一大シンフォニーなのでそれを3、4人のミュージシャンで演奏する際、問題が起きることがあるんだ。

CS: ガルバレクはかつて、自分の作曲の仕方はいつもとてもシンプルなんだ。その方がインプロヴァイザーがより自由になれるからと語ったことがあります。

JC: ヤンの楽曲の中には自由なリズムパターンやベースラインの上にパラパラと音符が乗っているだけのようなものがあったね。マイルスやコルトレーンのようなアーチストの演奏を聴く場合、即興でどれだけのことができるのかを認識することだと思う。僕らの音楽はマイルスやアート・アンサンブル・オブ・シカゴにとても大きく影響された時代を通り抜けて来たんだ。

CS: 以前、あなたからアリルド・アンデルセン (b)とボボ・ステンソン(p) とのトリオ・アルバム『Underwear』(ECM) は、チック・コリアのミロスラフ・ヴィトウス(b) とロイ・ヘインズ (ds) とのトリオ・アルバム『Now he Sings, Now He Sobs』に対するあなたがたなりの回答であると伺いましたが。

JC: うん、多分そうだと思うよ。チックのレコードで初めてミロスラフを聴いて心底驚いたんだ。あんなベースの弾き方って初めてだったのでとても新鮮で...少なくともノルウェーの僕らにとっては。あのレコードは彼らの最高のパフォーマンスを伝える内容だったよ。

CS: ガルバレクがコルトレーンから大きな影響を受けたことは知っていますが、あなたにとってのエルヴィンは?

JC: 僕がエルヴィンの代わりになれたかって?(笑)そうだね、僕らはコルトレーンのカルテットを聴きまくったね。僕はとくにエルヴィンを聴いていたけど、彼のドラミングは僕が真似のできるようなものではないことはすぐにわかった。結局、誰かがエルヴィンの真似をしても、どれもひどい演奏だったよ。
僕自身は、僕らが目指している音楽のなかでエルヴィン的な演奏をしても意味がないことが分かったんだよ。ヤンと演る場合は、スイングするために曲頭でフリーにならないように気を付けていた。スイングしないと音量が上がりやすくなってね。何かが起こる、あるいはグルーヴが始まると思わせてしまうんだ。実際はそうではないのにさ。

僕らはソロイストを中心に音楽を組み立て、然るべき時に音量が上がってくるというやり方を模索していたんだ。もちろん、クライマックスに達した時には音量が上がることは多いよね。僕はスティックの握りの方でシンバルのエッジを叩いて音量を上げていた。でも、その演り方はレコードでエルヴィンやトニー(ウィリアムス)を聴いている僕には当たり前のやり方だった。だけど、ナマでエルヴィンを聴くと、思っていたほど音量は大きくないんだ。トレーンの音量も思っていたほどではなかったけど。だから、1965年にコルトレーンのカルテットを初めて聴いた時はちょっとがっかりしたんだ。彼らは全編フル・ヴォリュームでは演らなかった。僕らが予想していたようにはね。エルヴィンなんかブラシで極上の精妙さを聴かせたりね。もちろん、クライマックスに達した時はヴォリュームも上がったけど、それでも期待したほどではなかった。レコードなんかでエルヴィンの写真を見ると、いかにも時速60マイルで突っ走りながらも笑顔を見せて、汗をしたたらせてるという印象だった(笑)。だから、彼はいつも全力で叩きまくっているんだと思い込んでいたってわけだ。だけど、ナマのエルヴィンを見ると、ブラシでバラードを数分叩いただけで、1週間全力で叩きまくったかのように大汗かいているんだ。

CS: トニー・・ウィリアムスを初めて聴いたのはいつでしたか?

JC: マイルス・バンドに参加する前、サム・リヴァースと演っていたレコードだったと思うけど。マイルスのバンドで演奏した最初のレコードまでは全然気にかけていなかった。トニーの演奏はまったく新しく新鮮で僕に強力に訴えるものがあった。トニーのもっともエキサイティングな演奏は、『マイルス・スマイルス』、『ESP』、『マイルス・イン・ザ・スカイ』など、トニーがマイルスやウェイン・ショーターと演ったアルバムだね。トニーの演奏はすばらしくタイトだったけど、頭を外したり、ビートに乗らないスタイルだった。トニーは世界中のリズム・セクションやドラマーに新しい意味での自由を与えてくれたと思う。その後の、自分のバンド“Lifetime”も素晴らしいものだった。ドラムセットの使い方も独特で、ハイ・ハットでシンコペーションを打ち出したり、シンバルをまったく使わなかったり。トニーのドラミングについては本当の意味で考え抜いたね。自分のスタイルを決めようとルーティンを決めたり、キャリアのなかでターニング・ポイントになった時期でもあった。

CS: 初期の頃のあなたをモルデで聴いた知り合いは、ずいぶんフィリー・ジョーの影響があったと言ってました。

JC: たしかに僕の演奏にはフィリー・ジョーの影響が大きかったと思う。今でも抜け切れていないと思う! いまだに彼はヒップで新鮮だと思っている。今でもビバップ系のギグを演るときは、すぐフィリー・ジョーのファイルをひもといて、あの独特のフィールで演奏してみようと思うからね。『マイルストーン』」は今でも聴き続けているその類のレコードの一枚だよ。

CS: ドラマーにとってどういうところが面白いのですか? つまり、何を求めているのですか。

JC: 長い間たくさんのドラマーを見ていて気づくのは、とても正確に叩くドラマーたちがいて、そういうドラマーは学校で教育を受けたドラマーたちだということだね。少なくとも僕の意見では、そういうドラマーは四角四面で、面白いフィールがみられないということだ。僕が影響をうけたドラマーというのはもっとナイーヴで即興を得意とする人たちなんだ。そういう人たちは、正確に叩くドラマーに対してアマチュア的と言えるかもしれない。ジャック・ディジョネットを例にとって見ると、彼は自分のルーディメンツを知り尽くしていて、それらをうまく組み合わせるやり方に通暁している。しかし、彼はそれらのテクニックを見せつけるような叩き方をしないからいつでも新鮮に聴こえる。なかには、練習を繰り返して身に付けた手慣れたテクニックを見せつけるような演奏をするドラマーもいる。スネア・ドラムを使っていろんなルーディメンツを練習するドラマーがいれば、ドラムセットをフルに使って身に付けるドラマーもいる。結果として両者は完全に別のスタイルのドラマーとして聴こえてくる。

♬ ベーシストとの折り合いの付け方...

CS: タイプの違うベーシストとどのような付き合い方をしますか?彼らの気になるポイントはどんなところですか?

JC: アリルド・アンデルセンは僕がいちばん共演機会の多かったベーシストで、いちばん身近に演奏してきたベーシストだと思う。僕らは一緒に成長し、数えきれないほどのバンドで共演を繰り返し、僕らが遭遇したいろんな場面でベースとドラムの関係を語り合ってきた間柄だ。後になって、パレ・ダニエルソンとまったく同じ状況に遭遇し、ふたりで解決策を語り合ったんだ。例えば、ひとつの例として、レンジがぶつかるベース・ドラムとアップライト・ベースの役割の関係について。パレはこの問題にとても敏感で、僕のバスドラのチューニングだとベースの音にかぶってしまう。結果として、バスドラに毛布を詰めてミュートしたり、チューニングを変えたりすることになった。レコードを聴いてみれば、ドラマーがこの問題に敏感かどうかすぐ分かると思う。タムについても同じことが言える。

Jon Christensen, Palle Danielsson, Bergamo Jazz, Bergamo 1977 ©Roberto Masotti/ECM

CS: ヨーロッパ系とアメリカ系のベーシストには大きな違いがありますか?

JC: もちろんさ。概して、アメリカ系の演奏方法はかつての名手の例にみられるようにウォーキングに基本を置くことが多い。だから、ウォーキング系にはアメリカのベーシストに軍配が上がっていた。しかし、近年ではアメリカのジャズ・シーンにヨーロッパ系のベーシストが台頭してきている。たとえば、デイヴ・ホランド、ミロスラフ・ヴィトウス、ニルス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン、ジョージ・ムラーツらがそうだ。

CS: 良いドラマーには良いベーシストが付きものですか?

JC: そう。たとえば、アート・ブレイキーやエルヴィンが新しいバンドを率いてヨーロッパに来演してきたとき、メンバーは若くて未知のミュージシャンが大方。知名度のあるミュージシャンより安いギャラで使えるからだ。だけど、一聴すればバンドがたいしたことがないってすぐ分かる。ベーシストがドラマーよりレヴェルが低いからだ。正直に言うと、最近来欧するアメリカのバンドにはいささか失望することが多い。たとえば、誰々を聴きたくてコンサートに出かけても、サイドメンがしょぼくて新作レコードのレヴェルに達していないんだ。

CS: “トップ・オブ・ザ・ビート”あるいは“ビハインド・ザ・ビート”、あるいはリズミック・イントネーションと言ってもいいかも知れません、についてはどう考えていますか? たとえば、ミロスラフ・ヴィトウスと演奏するときなど、どのようにアプローチしていますか?

JC: ある曲を見てみると、その曲はある種の性格を帯びていることに気がつくはずで、その性格は、たとえば僕とミロスラフが“ビハインド・ザ・ビート”で演奏した場合、曲に荷重がかかり、実際のテンポより遅い印象を与えることによって、より強調されることになるだろう。もし、僕かミロスラフのどちらかがビート通りに演奏することにより重たいという印象を軽減することができる。僕らがビートの前と後に分かれて演奏すると間隔が広がり過ぎて僕らのうちのどちらかがビートを引きずっている、あるいは走っているというような印象を与えることになるんだ。曲の性格にこだわってアプローチする場合、とくに曲のテンポが早い場合は、“オン・ザ・ビート”で演奏し続けることが重要で、クレッシェンドなどの効果はベーシストかドラマーのどちらか一方がよりトップで演奏することにより強調することができるといえる。結果的に突っ込みすぎの印象を与える場合もあるけど、クレッシェンドにプラスの効果をもたらすものといえると思う。しかし、これらのテクニックはベーシストと事前に打ち合わせておくことがとても重要で、両者の合意なしに使うものではないんだ。ベースとドラムの息が合っていないと悲惨な結果を招くからね。

CS: ベーシストと息が合っていない場合、どのように対処していますか?

JC: ギグの場合、ステージの上で打ち合わせるのはかなり厳しいだろから、一定の条件下で演るべきだろうね。僕の方がベーシストより経験が上の場合は、ベーシストが僕のビートに合わせてくれることを期待するより、僕の方がベーシストのビートに合わせるようにするだろうね。

♬ 新しい音楽を聴いてスランプを脱する...

CS: あなたはプレイヤーとしていまだに進化し続けていると思いますか?

JC: そう思いたいね(笑)。さもないとやる気を失ってしまうよ!正直なところ、どんなミュージシャンでもインスピレーションや創造性が湧いて来ない場合もあるさ。でも誰と演奏していようとオーディエンスを満足させるレヴェルは保っていたいよね。僕は自分がスランプに陥った時の解消法は、できるだけ新しい音楽を聴いて新しい衝動やアイディアを見つけるように努力している。すぐには役には立たないアイディアも、いつかは役に立つことがあるものなんだ。新しいミュージシャンとの出会いも僕にとってはたくさんの刺激を与えてくれるインスピレーションの源泉なんだ。

CS: 新しいミュージシャンといえば、最近、スコットランドで何かBBC用のレコーディングをされたようですね。内容を聞かせていただけますか?

JC: BBCがニルス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンに委嘱したプロジェクトで、フィリップ・カテリーン (g)、ゴードン・ベック(p)にドラムが僕というリズム・セクションに6人のアーチストをそれぞれ立てるというプログラムなんだ。6人のソロイストは、ラリー・コリエル、トゥーツ・シールマンス、フィル・ウッズ、フレディ・ハバード、アーチー・シェップ、マイケル・ブレッカー。1日に2件ずつこなしていくんだけど、リハーサル、録音、ランチ、リハーサル、録音、というローテーションで1日に2番組ずつ録っていく。

CS: ずいぶんスイタルやセッティングの違う仕事のようですが、どのようにして自分自身のスタイルを維持しているのですか?

JC: 今回のようなプロジェクトではいろいろ調整が必要だね。いつも通りの演奏で対応できる馴染みのバンドのようにはいかない。たとえば、トゥーツと演る場合、ドラマーは口数をへらさないといけない。配慮が必要だ。以前、同じようなタイプのミュージシャンと演奏した経験がいくつかあり、そういう経験が役に立ってくる。さらにいえば、彼らのアルバムを以前から何度も聴いているので彼らの動きもわかっているし、自分がやるべきことも了解している。実際、楽しんだよ。ミロスラフを除けば、ニルス=ヘニングは当代最高のベーシストのひとりだろう。彼は僕が最近あまり演奏していないスタイルを選択して来たんだけど、彼くらいのインスピレーションや発想、技術を持っているミュージシャンと演る場合はスタイルなんかは関係なくなってくるんだ。彼はディキーランドだってできただろう、だけど僕はスタイルは関係ないんだ。それほど彼が素晴らしいミュージシャンであるということさ。

Jan Garbarek Quartet, Bergamo Jazz, Bergamo, Teatro Donizetti, 1974
Nella foto: Jon Christensen, Jan Garbarek

CS: あなたのレコードを聴くと、ライヴで聴いたような熱っぽさやグルーヴが感じられないんですが、スタジオで演る場合はライヴとは違ったアプローチをしているのですか?

JC: その通り、と言っておこうか。まず、スタジオでは手数は少なく、よりシンプルにソフトに演奏している。スタジオでは1曲の演奏時間が短くなる、それに、少なくとも僕の場合、ヘッドフォンから聴こえてくる音がすべて音楽から何かを取り去ったクリスタルでクリアな音なんだ。僕らはスタジオでもあのライヴの雰囲気を再現しようと努力するんだけど、うまく行ったためしがない。
あとで聴いてみると、ある意図が反映された創られた音になっていることが多いんだ。僕が参加している多くのレコードの場合、音楽に意図的に浮遊感を持たせ、動きの少ないものなっている。普通のレコードの場合、求められるすべてはパルスだといえる。自分が参加したECMのレコードを何枚か聴いてみると、自分ではこうは演らなかっただろうと思える演奏が収められている。しかし、忘れてはいけないのは、それらのレコードで演奏しているのは、その特定のセッションのために集まったミュージシャンたちで、バンドとして演奏するのはレコーディングが終わってからなんだ。スタジオで演るのはどの曲も新曲で、僕には新曲をうまく料理できる手腕もなく、レコードがリリースされてからのツアーで何度かやるうちに曲を手なずけられるという感じだね。

 

♬  キースとの『ビロンギング』は3時間で仕上げた...

CS: キース・ジャレットと『ビロンギング』を録音したときは、事前にどれくらい曲に馴染んでいたのですか?

JC: どの曲もまったく知らなかった。1度、通しでさらってみて、赤いランプが点いたら音楽を始めて、ランプが消えたら終わり、という感じだ!ほとんどの曲はファースト・テイクで、レコード一枚分の録音を3時間で仕上げた。僕らにとって素晴らしい1日だった。1年もツアーに出ているうちに、音楽はまったく別物になっている、というわけだ。

CS: 『ヌーダンス (Nude Ants)』は、また別のストーリーですね。

JC: その通り。あれは僕らがある期間一緒に演奏してからの録音で、楽曲もいくつものコンサートをこなした中から出てきたもんだよ。NYのヴィレッジ・ヴァンガードで1週間の公演があったときのものだ。だから、僕らは音楽的にベストのテイク、スタジオ録音とはまったく別物を自分らで選択できるチャンスがあった。特定の楽曲を繰り返すのも捨てるのも自由、同じ楽曲でもテイクによって千差万別、ある曲の一部から新しい曲ができたり。2回目のテイクや10回目のテイクの完成度が極めて高いこともあったけど、僕の耳には最初のテイクがいちばん新鮮で自由度が高いと聴こえた例が多かった。別の話だけど、後でオーバーダブが予定されていることを予備知識として持っていると、シンプルな演奏にとどめておくべきだという考えも出てくるのさ。

CS: 『ヌーダンス』ができたキース・ジャレットとのツアーはどれくらいの期間続いたのですか?

JC: 全部で9週間だった。まず、日本で6週間、毎晩大ホールで演奏して、キースの希望でアメリカでやろうということになって3週間、こっちはほとんどクラブだったけど、クラブ・ギグはキースが長らくご無沙汰してたんだ。

CS: 演奏の構成はどうなっていたのですか?毎夜違ってましたか?

JC: ツアーの最初の頃はステージに上がる前にセットリストが決まっていた。そのうち慣れてくるといきなりステージに上がって、誰か口火を切りたい者が演奏を始めるというやり方に変わった。夜の公演では、ヤンかキースが2、3音口火を切るか、僕がグルーヴを設定して、それがきっかけになって曲が始まるというのもあった。合図もなしに演奏が始まって方向性が決まっていくというケースもあった。インターミッションなしで1コンサートぶっ通しというのが多かったね。

CS: 個別の曲と同時に全体の演奏をひとつのくくりとして捉えていたこともありましたか?

JC: そうだと思う。好むと好まざるとに拘らずある程度演奏していると全体としての形ができてくるのだと思う。誰かがあるリズミック・パターンを打ち出して、別のミュージシャンがその上で別のパターンを演奏した場合は、ひとつのフォームが形成されたとみなし、自分のやるべきことはそのフォームに則って演奏しなければならないということだ。

CS: 毎晩新しい何かを考え出さなければならないというプレッシャにはどのように対応しましたか?

JC: そうだね、優秀なミュージシャンと演奏しているときは音楽は良くて当然、さらにそれ以上になる場合もある。日によって出来不出来はあったとしてもね。
だけど、プレッシャが僕らの音楽の場合はさらにエキサイティングなものにするひとつの要因にはなり得ると思う。つまり、自分がいままでに演奏したことのない何かを生み出すチャンスだね。すべての楽曲がリハーサルしたもので、セットリストも事前に知らされるというようなバンドで演奏する場合、毎晩次に何が起こるか多少は予測がつくだろうね。しかし、どのミュージシャンもクリエイティヴなインプットを持っているような場合は、全く新しいことが起こる可能性がある。それぞれのアイディアに良し悪しはあったとしてもね。アイディアが良くないと思った場合は、さっさと次のアイディアに行けばいい。オーディエンスには分からなくても、演奏者は何もハプニングしないことは予測できるもんだよ。

♬ 自分で選んだ道を後悔したことは一度もない...

CS: 現在のプロジェクについて教えてください。

JC: およそ20年間で初めてのことなんだけど、ロードに出る時間が少なくて家族と過ごす時間が長く取れているんだ。今の自分のバンドは、盟友のアリルド・アンデルセン(b)の他は、トーレ・ブルンボルグ(reeds)、ニルス・ペッター・モルヴェル(tp)、ヨン・バルケ (p) というノルウェーの若手の精鋭たちで組んでいる。町で友人たちとパーカッションを演奏したり、オスロの国立劇場でドラマーとして6ヶ月出演したり、初めて作曲家としても活動を始めるんだ。ノルウェー政府から助成金が出て経済的にもかなり自立できるようになった。

CS: あなたから、自分はオスロであらゆるスタジオ・ワークを経験したことがあり、その気になればファースト・コールになっていい金が稼げるんだと聞いたことがあります。

JC: そうだね。1965年にビートルズが出てきた直後、ジャズの仕事がほとんどなくなった時期が2回あったんだ。ジャズ・ミュージシャンは本当に窮地に陥って、職を変えた連中も多かった。そんな中で、僕はスタジオ・シーンに飛び込んだんだ。オスロのテレビ局の周りに集中していたけど。つまらん歌手のバックで叩いたり、ポルカやフォクストロットなんてものを終日演奏してた。たまに素晴らしいアーチストに出会う以外は得るべきものは何もなかったね。生活のためにやってただけだ。ジャズ熱が再燃しだして僕にも仕事が入り出した。僕らのツアーを組んでくれたECMのお陰もあった。商業ベースのスタジオ・ワークを止めて、自分のやりたい音楽を演奏して金を稼げるようになった。

CS: 自分が信じる音楽を演奏するために金儲けを犠牲にしたということですね。

JC: その通りだよ。現在でも厳しいことに変わりはないけどね。ツアーは金がかかるんだ。それでもツアーをやるのは、ファンに忘れないでいてもらうこと、レコードを買ってもらうためだよ。スタジオの仕事をやってる連中はいい金を稼いでいるさ、だけどどちらを選ぶかは自分が決めることでね、僕は自分が選んだ道を後悔したことは一度ないよ。

Ritratto di gruppo in esterno, Oslo, 1978, in occasione della registrazione di “Photo With Blue Sky, White Cloud, Wires, Windows And A Red Roof, del Jan Garbarek Group
Nella foto da sinistra: Jon Christensen, Bill Connors, John Taylor, Eberhard Weber, Jan Garbarek ©Roberto Masotti/ECM

Carl Størmer カール・ストーマー
1957年、オスロ生まれのジャズ・ドラマー。JazzCode主宰。
1971~1976年にかけヨン・クリステンセンの教えを受けたのち渡米、NEC(1983)、MSM(1985)、コロンビア大学(1987) でそれぞれ学位を取得した後、拠点をオスロに移しミュージシャン、エデュケイターとして活動を展開。

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