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ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報Jazz Right NowInterviewsNo. 269

連載第41回 ニューヨーク・シーン最新ライヴ・レポート&リリース情報
アフリカを変えるヒップホップ ― サウンズ・オブ・ザ・サウス/アネーレ・セレークワへのインタビュー

インタビュー: シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley
翻訳: 齊藤聡 Akira Saito

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2020年4月に、南アフリカ共和国・ケープタウン市を拠点とするアナーキスト・ヒップホップの集団サウンズ・オブ・ザ・サウス(Soundz of the South、SoS)の主要人物の1人であるアネーレ・セレークワ Anele Selekwaと話をした。SoSは国際的に活動しているが、アフリカ大陸内での組織化にあたっては、アフリカン・ヒップホップ・キャラバンの原動力としても特に関与してきた。

Soundz Of The South – ZABALAZA – Official Music Video

シスコ・ブラッドリー(以下CB): ケープタウンの状況はどうですか?

アネーレ・セレークワ(以下AS): どうしようもない状況です。ロックダウンがまたさらに2週間延長されました。同時に、ケープタウンの街は攻撃的なレベルにあります。ちょうどまさに昨日のことです。かれらは人びとのコミュニティを封鎖して追い出したのです。一方、ストリートも掃除して、ホームレスの人たちを街から遠くに追いやりました。この2か月間、いわゆる外国人によるある種の抵抗があって、暴力、特にゼノフォビア(外国人恐怖症)から保護してくれるよう、ここの政府に要求しました。主に、より安全な別の国に連れ出してほしいということでした。政府ははじめからこれらのグループを無視する対応をしていて、ときには強制的に排除しようとしました。結果として、これらのグループがケープタウンの広場を占領し、数か月間そこにとどまりました。

それで、ロックダウンに乗じて、兵士たちが合法的に警察と協力して、人びとのグループを都市から遠く離れた場所に移動させました。たぶん25 kmくらい離れたところです。かれらはテントに入ることになりました。もちろん、衛生や安全に関することすべて、それからCOVID-19に関連することは完全に無視されました。ちょうど昨日、それでひとり亡くなりました。国家による暴力ですし、そういったことを押し進めているのです。一方、特に労働者階級のコミュニティでは、人々が苦しんでいるように思えます。かれらは何が起こっているのかはっきりわかっていませんし、どこにも行けません。

コミュニティから離れないと兵士の姿は見えませんが、出口に設置されたボックスでは兵士や警察に出会います。だから、ストリートを歩き回ったり、自分の庭で欲求不満を解消するためにたくさん飲んでいたりする人を見ていると、ことの緊急性を感じないのです。とはいえ、どこにも行く場所がなくて、自分の地域や家にいる必要があります。多くの人びとは、滞在場所からの日帰りの生活をしているか、自営しているかです。この2週間、かれらはその日の仕事をすることもできず、頼りになる貯えもないため、本当にイライラしています。政府の支援にアクセスすることも容易ではありません。人びとは社会運動による連帯ネットワークを通じて生き延びることができたのだと思います。地域のNGOと私たちは小包をいくつか届けることができました。今後、延長された2週間で、状況がどうなるか不確かです。

長い話なのですが、実際に起こっていることなのです。クリエイターや活動家にとっては、人と会うことができないために実際に応答できず、フラストレーションがたまります。私たちはアーティスト、クリエイターとして、集団での文化的労働者として、困難な時期にあります。もちろん、世界の他のところでは、人びとが単に「No」と言うことだったら簡単です。私はInstagramやTwitterでライヴを行うので、みんなそこにたどり着けばよいのです。ここでは、そういった機能を実行できる携帯電話やインターネットへのアクセスも遠いのですよ。だから、ええ、難しい時期ですよね。

Soundz of the South – (F* the) Police/ Antifa Live vol.21

CB:  誰が排除されているのでしょうか?

AS: 私が言っているのは、3つのグループの人たちです。ひとつめは、政治的にどう正しく呼ぶべきかわかりませんが、アフリカ大陸の別の国から来た兄弟姉妹を指します。この12年間、職場で、コミュニティで、学校でさえ、さまざまな状況でゼノフォビアの暴力により攻撃されてきた人たちです。多くはルワンダ、コンゴ、中央アフリカ共和国、アンゴラなどから来ており、ようやくこの6か月で自分たちの組織化をはじめたところです。

最初、かれらは国連人権難民センターを占拠しました。そこを排除されてから、ダウンタウンのグリーンマーケット広場の隣にある教会の外に集まりました。ケープタウンに行ったことはありますか。

CB: ありませんが、配置について少しはわかります。

AS: グリーンマーケット広場はダウンタウンの中心にあるCBD(中心業務地区)のようなものです。また、工芸品やアートのマーケットでもあります。ちょうど反対側に、メソジスト教会がこのコミュニティのために扉を開いていました。ある意味では当局とケープタウン市にとって都合の悪いものでした。そんなわけで、COVID-19は、言ってみれば、かれらに機会を与えたのです。つまり、ケープタウンの人びとの保護、コロナウイルスの蔓延の抑制という名目により、武力を行使する機会を与えたということです。人びとは街から立ち退くことになり、安全だとか何だとか謳った場所を与えてもらうことを約束してもらいました。それで実際に何が起きたかといえば、消毒剤もまともな水もマットレスもなく、人びとはひとつの大きなテントに押し込められたのでした。

2番目のグループは、普段はストリートに滞在しているホームレスの人たちです。やはり似たようにして、強制退去させられ、見えない場所に追いやられました。

もちろん、3番目のグループは住宅運動です。アパルトヘイトは、都市からの強制移住と立ち退き、街の建設で知られています。住宅の活動家は、少なくとも過去3年間、開かれた土地を占拠し、自分たちの家と呼ぶ建物を建てることをやってきました。

ここカエリチャの特定のコミュニティですが、1、2年はあったはずです。誰も土地立ち退きの兵士や警察や当局が来るのを見たことがなかったと思います。多少は猶予期間がありはしましたが、昨日退去になりました。今日もそんな話を聞きました。住宅の活動家やコミュニティやその形が壊され、人びとが土地から追い出されたということです。

CB: 残念なお話です。状況はかなり激しいようですね。来年そこに行ったとして、あなたにも、他の活動家や闘争に関わっている人たちにも、会えれば嬉しいことですが。

いまのあなたの仕事について少しお聞きしたいと思います。SoSは数日前にシングルをリリースしたのですね。それについて何か。

AS: もちろん。うまくいけば、コロナウイルスやロックダウンは世界中でほどなくして解決し、人びとも通常の生活に戻ることができるのでしょうし。
テーマは「Thina」。私たち、あるいは人民、労働者を意味します。「Thina」はコサ語(南アフリカ共和国の公用語のひとつ)で、SoSのほとんどのメンバーが話しています。私たちは、国際労働研究調査情報グループという独立系NGOとの間で、不安定ながらかれらが進めている仕事について話し合いました。対話の中では、文化労働者としてプロジェクトに参加することが重要なのだということで同意しました。それは、どんな場合であれ、私たちの仕事を不安定な仕事としても特徴付けることができるからです。

この曲は、不安定労働者の経験と闘争を位置づけることを目的としています。だから、歌では、労働組合化されていない労働者とトークします。かれらはあらゆる苦労を引き受け、すごく朝早く家を出なければならず、それで子供たちの世話をする人や保護者がいなくなってしまいます。街に出たらとても過酷な条件で仕事をしますし、その内容も日々、場合によっては時々刻々と変わります。また、まったく気にかけようとしない上司のもとで働くという困難な状況にいる警備従事者についてもトークします。同時に、かれらは自分たちが出たコミュニティから敵として見られてしまうのです。

また、スーパーマーケットの従業員についてもトークします。「Pick n Pay」や「Shoprite」などの店で働く従業員は、同じような労働者階級のコミュニティから来ており、もうあらゆる種類の困難を経験しています。仕事では、まるで気にかけない上司のために何百万なんて富を作りだしてあげているのに。それで、昨年の後半からその曲に取り組んでいます。私たちはイラストレーターと協力して、アイデアのいくつかをイラストにまとめました。特に、食品やブドウなどの輸出産業、特に輸出向けワインを作る農業従事者が直面している闘争についてトークしています。もちろん、給料の面だけではありません。立ち退きの面が常に出てきて、多くの不正が農場で発生しています。

私たちが歌でやろうとしていたことは、この種の闘争を位置づけることです。「あきらめないで、組織して、労働者が団結する」というメッセージを出すのです。つまり、一方でかれらが経験している闘争と困難を提起し、他方では労働者が集まって、代替となるシステムを構築する方法を見つけるように促すのです。

SoSのアルバム

SoSのシングル

CB: すばらしいですね。SoSはメンバーを固定していないのだと理解していますが、現在のプロジェクトには誰が関わっているでしょうか?

AT: メンバーは出たり入ったりしていますが、私たちがいまやっているクルーは少なくともこの6年間一緒です。ビートは、さっき話した「Thina」でも、創設メンバーであり以前はプロデューサーでもあったDJインフォ DJ Inffoが担当しています。現在のグループは、主に、この歌に中心的に取り組んでいたシスター・アネラ Sister Anela、3番目のヴァースに出るカール・ミックス Karl Myx、最初のヴァースに出るジャワ Java、最後のヴァースに出るシスター・ツィディ Sister Tsidi、最後から2番目のヴァースに出るミルズ Millz。この歌に参加していないメンバーが1人います。シスター・アトゥーレ Sister Atuleは必ずしもパフォーマーという意味でのアーティストではありませんが、私たちの教育活動に深く関わっています。少し時間をかけて勉強しているアゼラ Azelaは、別の部分を担当しています。

以上が中心メンバーだと思います。他の関連メンバーは自由に参加して貢献もできますが、自分たちが望むなら、他の芸術的な冒険を自由に探索してもよいことになっています。かれらの名前のリストは長いし、いま言わなくてもよいでしょう。ポイントは、現在のメンバーの大部分が主に若い女性だということです。プロジェクトに関わっている男性は3人です。

CB: ケープタウンのヒップホップ・シーンから生まれたのでしょうか?そこで始まったということでしょうか?

AS: オリジナルメンバーの何人かは社会運動の方面から出てきました。もちろん、もう一方はヒップホップ・シーンです。少し詳しく説明しますね。2008年に起こったのは、ゼノフォビアの攻撃であり、5月に全国的に暴力が発生しました。コミュニティの他国出身者の状況について話し合った後に起こったのです。政府、特に内務省と警察に問題がありました。かれらはあらゆる種類の襲撃を行い、人びとを国外追放しました。私たちがその話で忙しくなってきてすぐに、1、2週間後には、暴力が国中に蔓延したと思います。私たちが何をすべきかについて、必ずしも明確ではありませんでした。

その対話に関与したうち何人かがSoSの創設メンバーになりました。ここには、ルムンバ Lumumbaというカメルーンの活動家がいました。あと、ティナシェ Tinasheというジンバブエの活動家、それから他にも活動家が少し。そのとき、ヒップホップ・シーンのトップアーティストの何人かは、実際には何の影響力も持っていませんでした。非政治化された空間になってしまったように感じられました。文化作品を作るヒップホッパーとヒップホップを愛する活動家の間で対話がありましたが、実際に起きている暴力にどう対処するかについては明確になりませんでした。それで、私たちは、おそらく必要があるときに行くべき方向は、ヒップホップで実験することだと思いました。それがSoSの始まりでした。

CB: ということは、グループにはつねに国際的な方向性があり、汎アフリカ的な見通しがあったということでしょうか?というのは、たぶん2011年頃から、あなたがたはアフリカン・ヒップホップ・キャラバンに関わっていたわけですし。

AS: ええ、関わってきました。確かに、私たちはつねに地域だけでなく国際的に影響を与えることについて歌い、世界のさまざまなことから物事を学んだり忘れたりする方法を見つけようとしました。グループ名のサウスという言葉で、まさに、そのメッセージを正確に伝えようとしているのです。世界中の抑圧された人々、特にグローバル・サウスについて話しているのです。

CB: 政治への意識から生まれたということですね。あなたがたは、貧困や、アフリカの他国から来た人びと、あらゆる種類の課題に直面している人びとすべてに焦点を当てています。それが、アフリカン・ヒップホップ・キャラバンで主導的な役割を果たすよう、あなたがたを駆り立てたことなのですか?

AS: その通りです。2008年に対話を行った時点で、幸いにも、すでに地域内のさまざまなネットワークにつながっていました。たとえば、2007年に世界社会フォーラム(※注 ダボス会議等の世界経済フォーラムが新自由主義的であるとして、それに対抗するために作られたサミット)がナイロビに来たとき、私たちは活動家として互いに交流しました。2011年に再び世界社会フォーラムがセネガルのダカールで開催されたとき、汎大陸的なヒップホップ運動についての対話が中心になりました。ある意味で、これらの対話は、アフリカ大陸全域を旅するフェスティヴァル、集団を構築しようとするフェスティヴァル、アーティストのネットワーク的なものを構築しようとするフェスティヴァルだけでなく、政治的に関与するアーティストについても考えるようにさせられるものでした。

同時に、チュニスで何が起こったか、シリアやパレスチナで何年にもわたって政治的なアーティストたちが経験してきたことにも、大きな影響を受けました。かれらはいつも自身を護ったりインスピレーションを得たりするためにヒップホップのほうに来ましたが、それは、自分たちのコミュニティや自分の国で何をするかの代替案を見つけるためでもあったのです。私たちがセネガルや他の都市、場所、地域を献身的に歩いていたとき、そこにはヒップホップが見えましたし、また政治的でもありました。壁には「大統領氏、あなたの時間は終わりました」との落書き。美しかっただけでなく、ローカルで魅力的で直接的、そして現実との関係性がありました。

そんなわけで、ケープタウンに到着する頃には、ああ、ヒップホップのドキュメントをまとめた興味深いグループがいるんだな、と。そのドキュメント『ダカールの民主主義』を見たら、ラップや詩などを作っている私たちのような人たちが出てきて、すでに2007年までにヒップホップを通じて自分たちの政治的な願望を共有していることがわかりました。かれらは当時の大統領に異議申し立てを行い、2011年にも再び行っています。だから、多くの点で私たちの考えに影響を与えたのです。どのようにこういったストーリーを自分たちの場所に引き込むか、また、どのようにメッセージを国から国へとアフリカン・ヒップホップ・キャラバンの形で運ぶか。運動と労働組合がアンゴラで徹底的に敗北したときには、私たちが再び始めていたように、若者のグループが集まり、組織し始めていました。繰り返しますが、かれらはヒップホップを使用していました。広場を占拠し、コンサートに転換し、人びとをコンサートによって政治化するというアイデアも、私たちに影響を与えました。

アンゴラでは、腐敗や独裁について話をしていました。また、アンゴラの新しい政治ポストが一家族や一政党によって支配されることも想定の内でした。かれらは勉強のサークルを作ることができず、それにより深刻な代償を払うことになってしまいました。かれらのうち14人ほどのグループが逮捕され、国家転覆を企てたとして起訴されたため、政治資料を読むこともできませんでした。いずれにせよ、かれらが裁判でたたかい、結局勝利して釈放されたことは、とても刺激的な話になったと思います。私たちは、かれらとつながり、アフリカのヒップホップ・キャラバンでかれらのところに行く方法を見つける必要があるのだと言ってきてもいました。

CB: ダカールで刺激的だという、そのグループは何ですか?また、再選や大統領の次期政権に反対していたグループは?

AS: ダカールでは、そのグループはヨナマール Y’en a Marreとして知られるようになりました。かれらが表に出て有名になる前には、MCのグループ、たとえばアフリカルチャーバン Africulturbanというグループで活動するアマドゥ・ファル・バ Amadou Fall Ba(※文化プロデューサー、ラッパー)がいました。また、スタジオ・サンカラ Studio Sankaraとも一緒に仕事をしました。ディディエ・アワディ Didier Awadi(※ラッパー)による組織です。2011年にダカールにいたとき、誰もが深刻な内容を話し合う委員会にいたのですが、私たちはオープンマイクを持って街中をアーティストと一緒に歩き回っていました。こんなふうにして関係を作ることができました。私たちがアフリカン・ヒップホップ・キャラバンについて話していた頃には、最初のキャラバン実施を2013年に設定していましたが、それもこの実践と関係のもとでやっていたのですよ。

ヨナマール My Song: Y’en a marre fed up with Senegalese society

CB: タンザニアやジンバブエではどんなことをしていましたか?

AS: はい。これまで2013、14、15年に、オレゴン州ポートランド拠点とするアーティストのマイケル・クレンショウ Michael Crenshawと、ジンバブエで開催された他のフェスティヴァルで出会い、つながりました。東アフリカのヒップホップ運動は若者を社会的に団結させる力としてとても強いので、私たちは、かれらとつながる方法を見つけようと思っていました。特に、タンザニアで小さなセンターを持って音楽学校みたいなものを運営しているママC Mama C、ブラザー・ピート Brother Peteとつながりたいと考えていました。その年のキャラバンで私たちが話していたのは、アフリカの人びとの団結、ヒップホップのムーヴメントでの団結の大事さについてでした。同時に、私たちは、大陸全体で深刻に起きている独裁や失業について話す方法を見つけようとしていました。

ほぼ同時期に、特にジンバブエにおいて、国家の暴力によって消えた政治活動家がいました。私たちが見たところ、タンザニアがいくつかの点で独裁政権の道を進んでいる兆しを示していました。当時選出されたばかりの大統領は面白いことをしていて、それに私たちもみんなも好感を持っていましたが、権力が強すぎるようにも見えました。私たちは、ジンバブエでひとりの力が大きすぎる事例を見てきたのです。ジンバブエのアーティストや若者たちがヒップホップによってタンザニアのアーティストと対話できるよう、また、タンザニアやアルーシャに農場を作った2人の元パンサーの経験から学ぶことができるよう、その方法を模索していたのです。

キャラバンは、タンザニアのアルーシャにおいてキャラバンを統合することで成功したと思います。少なくともジンバブエとタンザニアのアーティストの対話が始まったと思います。正直なところ、この過程がどこまで進んでいるかわかりません。ある意味では、マイケル・クレンショウとママCとの間にはネットワークを構築することができて、それ以来かれらは多くの興味深い仕事をしてきました。特にマイケル・クレンショウは、米国において警察が若者、とくに子供を殺すという暴力がのさばっている中で組織化を進めていて、だからかれらはよくわかりあえたのですよ。また、マイケル・クレンショウは反レイシズムの経験を持っていました。もちろん、ママCとブラザー・ピートは、それがどのように見えるか、どのような感じなのかを知っています。

マイケル・クレンショウ Mic Crenshaw performing during Afrikan Hip Hop Caravan Nov 2014

ママC Mama C – Trailer

アフリカについて話すとき、それが何の話なのか整理しないと対話はできませんでした。地理的空間について話しているのか、全世界に影響を与えてきて、世界中に存在し、現在抑圧されている人びとの歴史について話しているのか。だから、私たちが作り上げたいキャラバンでやり取りするのは興味深いことでした。今年の初めには、ジンバブエだけでなく、アルーシャ(タンザニア)とザンジバルにも向かう大きなアフリカン・ヒップホップ・キャラバン2020について話し合いました。ザンジバルには、対話をはじめ、構築を続けるために重要な体験やムーヴメントがたくさんあることに気づかされました。

私が2年前にザンジバルにいたとき、独立50周年のお祝いがありました。お祝いのこともありますが、ザンジバルの人びとが置かれている絶望的な状況は看過できないものでした。ほとんどの人は観光というものに慣らされています。ザンジバルと聞くと、普通は素敵で美しい場所だと思うでしょうけれど、地元の人たちが同じような経験をしているとは思えないのですよ。飛行機で行ける場所ならほとんどどこでも、人びとは生き延びるための方法を見つけています。生き延びるとは、ヨーロッパの観光客が島を収用し、搾取し、利用しつくすための場所を作ることを意味します。ヒップホップではそんなことについても表現をもっと出す必要があると思いました。

CB: では、ザンジバルで仕事を続けたり、他のヒップホップの人たちや活動家と一緒にやったりしたいことはあるでしょうか?

AS: あります。アフリカン・ヒップホップ・キャラバンを使いたいと考えています。

CB:  すごい。すべて素晴らしい仕事のようですね。あなたがたはアフリカ大陸のさまざまなところで、場所に固有の作業や連帯のムーヴメントを行いました。特定の場所でのイヴェントの後、そういったつながりは続くのでしょうか?大陸全体での連合やある種の連帯を作り上げるプロセスだということでしょうか?

AS: はい。とにかくヒップホップ運動を作り上げ、もちろん国から国へ、人びとから人びとへ、コミュニティからコミュニティへの連帯のチャネルを開く方向性なのだと思っています。私たちが再確認したポイントは、第一に、ここケープタウンにいる若者や他のアーティストとの間で、かれら自身の機能や組織としてやろうとしていることについてたくさんやり取りしなければならないということでした。つまり、政治的な音楽をやることやそれを政治化することのポイントは何なのか、ということ。自分の役割ややることを自問自答している人は多いと思います。自国の他の問題に取り組んでいる政治的アーティストと時々同じ部屋にいるだけで、ある意味では安心し、ある意味で孤独を感じないでいられます。

このような組織化やムーヴメントを行うことが代替案だとして、それを支持することが最も重要なことのひとつだと思うのです。私たちが何をしているのかと疑問を持ち続けている人たちは、ある意味では市場にも政府にも納得しているのでしょう。かれらは、これ以上の良い社会について考えたり夢を見たりすることにしくじった人たちだと思えてならないのです。かれらがしていることのほとんどは、調整し、生き延び、秩序をそのまま維持しようとすることです。

CB: その通りですね。連帯は、資本主義や、どこにでもある権力の上部構造に抗する主たる防御線です。特定の局面において、本当に対抗できるものは連帯のみだと感じます。多くの場合、権力を持っている人は実際には少数であり、お金はないかもしれないが数は多い人たちによる大きなムーヴメントによって抵抗されるのです。イヴェントでは、あなたたちはパフォーマンスも一種の公開討論もやるのだと理解しています。どのように考えればよいでしょうか?

AS: 私たちにとって重要なのは対話です。音楽が対話を始めることができたなら、私たちはともかくも進んでいるということなのですよ。私たちがとても体系的に試みてきたことは、特にアフリカン・ヒップホップ・キャラバンのスケジュールを立てることです。始めたころは、アフリカン・ヒップホップ・カンファレンスまたはシンポジウムと呼んでいました。アーティストや活動家だけでなく、知見を持つ学者や人びとが集まり、ヒップホップについて重要な対話をするというアイデアです。それから、人びとが知っていることと知らないことについて互いにぶつけあうためのスペースを開くこと。

一般論にしてはいけませんが、その経験から言えば、人や仕事について物語が書かれることはアーティストにとっては挑戦的なものである一方、人びと自身は必ずしも物語が書かれた資料を読むわけではないのです。私たちがやろうとしていたのは、アーティストが人についての物語を書くことです。時には自分自身についての物語でもあります。それで人びとはそれに自分を関連付けたりアイデンティティを認めたりする。同様に、学者たちも人びとについての研究論文や本を書く。人びとがお互いに認め合う空間やメカニズムがあるかどうか、確信はありませんでした。

私たちは、人びとみんなが何かを書いて作品を作るのか、集団として考えるのか、自分たちが何をしようとしているのかを集団的に反映できるスペースがあるのか​​どうか、確信が持てませんでした。キャラバンで私たちがやろうとしていたことは、少なくともそれが起きるよう貢献することですけれど、それだけでなく、かれらが問題について書くことを反映することでもあったでしょうか。影響力があったかどうか?、どの程度? 私たちにとって重要なのは変革ですし、それは人びとが主導する変革なのです。人びとの下からの対話のアイデアと、同意して実行できるプログラムの両方です。私たちがやろうとしていたことはそれです。重要なことだと思っています。

一般論でいえば音楽や芸術は素晴らしいものですし、持っていることも良いことですけれど、チェックして、説明責任をアーティストに持たせるものでなければ、ある意味では、おしゃぶりとして遊ぶだけのものです。人前で演奏できるのはその力です。ときどきラジオやテレビで見聞きするとき、人びとは、その力を単に浪費するだけで、社会を変えるような方法で使わずともよしとするのです。

CB: どんな抵抗に遭いましたか? いろいろな場所でのパフォーマンスやこの種のイヴェントの開催を妨害するために、設備なんかで何かが?

AS: 私たちが2008年以来試みてきたのは、公共の公園、広場、コミュニティのその手のものを芸術的な空間や芸術的な教室に変えることです。そこでは対話の類のために音楽が使えますし、それで人びとは楽しんだりお祝いをしたり。こういったプラットフォームや教室は、かつては違う名前で呼ばれていました。詩であったり、抗議であったり。あるとき、私たちはジェイムス・マシューズ James Matthewsやデニス・ブルータス Dennis Brutusのような詩人を称えていました。その後、それをトイトイ・ライヴ Toyitoyi Liveと呼びましたし、レーベル・シスター・サイファー Rebel Sistar Cypherと呼んでいる別のスペースもあります。

いずれにせよ、私たちは、特にその種の仕事に関しては、必ずしも暴力や権力に直面した経験をしたわけではありません。私たちが経験したのは、地元のエリートや政治家が自分たちの力を使って私たちを封じ込めるというやり方です。 2009年にコミュニティでこういったイヴェントを開始したとき、地元のエリートからの最初の反応はというと・・・。ここカエリチャでは、ときに、地元のエリートは地元の政治家を意味します。かれらはビジネスも政治もやる人たちです。かれらがやったことは、その場所にチャンスを見出すことでした。かれらは私たちが使っていたスペースでビール店を始めました、かれらにとってはビジネスチャンスだったわけです。私たちはかれらに依頼しようと試みています。そこは真面目な空間であり、娯楽空間ではありません。ビール店ならどこでも開けるでしょうけど、それはここではない。

そのとき私たちがやろうとして作り出したものはカウンターパワーのためのカウンターカルチャーだったので、厳格にいきました。カウンターのいくつかはビール文化とアルコール乱用でした。私たちが行っていたすべてのイヴェントやモノはアルコールフリーだと主張するわけです。これは私たちの空間に対する直接的な暴力でした。私たちが使用していたルックアウトヒルは、ケープタウン市によって建てられた建物です。観光センター、工芸品・芸術のセンターにする企画でしたが、とにかく、実際にはうまくいっていませんでした。誰も使っていない界隈の建物でした。私たちが使い始めたとき、3、400人の若者が、これらのイヴェントで金曜日を過ごすために集まってきました。ここは地元ですから、人びとはビジネスチャンスを見出しました。

私たちがこの問題をとても迅速に提起したとき、スペースに関して、ビアホールで過ごす人たちのことを考えなければなりませんでした。最初は、大丈夫、大丈夫、ビールを買うなら、その人たちはビアホールの敷地や席を離れず、私たちのスペースには来ないよ、という合意がありました。それで警察にとってはとても難しくなった。かれらは次に私たちを打ち負かそうと決めました。有名人のパフォーマーを連れてくると同時にスペースを使用するため、その日はスペースを使用できなくなります。その後になって、私たちは追い出されていることに気付きました。経験のひとつです。

ふたつめの経験はコミュニティパークを占拠することでした。公園は宝だという真の意味が争点です。かれらは私たちに対して、「あなたたちは自分が知らないことについて話している」などと提起してきたので、私たちは苛立ちました。政治的すぎるからうまくいかないのですよ、本当に才能があるのになぜ政治を使うのですか、政治に関与してはいけません、というわけです。それを断って話は終わりだと思っていたのですが、その後、トップマネージャーから私たちが草を傷めているとのクレームを受けました。なにしろ、私たちはかれのオフィスから電気を引いていたのです。そんなわけで、公園で食べたりしてはいけない。つまり、今度はすごく強力な延長ケーブルを手に入れる必要があるのでした。

それはうまくいきましたが、かれらが何か言ってくるのはそれが最後ではありませんでした。その後、かれらはケープタウン市のレクリエーションおよびイヴェント部門に関与したいと考えたのです。私たちは毎週日曜日に千人ほど集めていたのですが、それはかれらが想定するような小さな機能ではなく、フェスティヴァルだということになります。だから、私たちは、イヴェントを主催するため、毎週イヴェント関係の人たちと会議をしなければなりません。イヴェントが安全であること、人びとが水にアクセスできること、公衆衛生にアクセスできること、警察がいること、交通手段があること、救急隊員がいることを証明する必要があります。フェスティヴァルとしての遵守をしなければならず、これらについて毎週交渉し、毎週準備する必要があります。私たちはそれに備えました。1年間交渉して実行しようとしたのですが、かれらはそれを拒否しました。

そんなわけで、私たちを書類作業の枠内に押し込みたいのだなと理解しました。いいですか、私たち全員が自発的にこういうことをやっているのですよ。誰もこの作業でオカネなんかもらっていません。実際、私たちは自分たちのポケットマネーでこの種の作業をしなければなりませんし、それでなお生活していくためにあちこちで仕事を見つける必要があります。だから難しくなったのです。私が言いたいのは、こんなふうにして、私たちをそのような仕事から排除したということです。結果的には、ケープタウン市との間でコミュニティホールのリース契約を締結して、私たちのスペースにすることを決めました。若者が集まるスペースにもなりますし。今はかれらがその特定の契約に行き詰っていて、まだ通っていません。担当者から担当者へ、ポストからポストへとたらい回しされてきましたが、通っていないのです。それがかれらの決めた対応方法です。

かつて、私たちは選挙に飛び込みたかったのです。2011年と14年のことです。とにかく地方選挙で、組織あるいは集団として考えた私たちのスタンスでした。まあ、選挙がどんなものかを見ましたし、単にX氏に集まる票を減らしたということですよ。それは政治的関与ではありません。政治的な表現ではなく、単なる選択です。その後、私たちは、投票するかわりに自分たちを組織化することを歌うよう、人びとに求めるイヴェントを行うことを決めました。そうしたら直接の脅しが来ました。

私たちは両方の政党に不満を抱いていたため、人種的に分割された都市では投票しないように黒人に働きかけたのです。それで、白人至上主義者の政党に票をもたらしたとして非難されました。私たちが働いているのは、ANCに投票する貧しい黒人コミュニティです。私たちが仕事をしていないのは郊外の白人コミュニティですが、そこは都市を運営している白人至上主義者の右翼政党の本拠地です。そんなわけで私たちはコーナーに追い込まれましたが、私たちが言っていたのは、2つのうちのいずれも選択していないということでした。人びとは選挙を超えて考える必要があり、政治的に持っている力について考える必要があります。

私たちが立ち上がってその種の議論でも勝っていると、やろうとしていることを持続できないほどあらゆる種類の脅しがやって来ました。関わってはならない危険なゲームに入っているということですよ。私にも他のメンバーにも言われました。あるときラジオでインタビューを受けて、このキャンペーンとその内容について話しました。もちろん、ラジオの主催者にとっても、独立選挙管理委員会から選挙のディベートを行うよう多くのオカネを受け取っていたこともあり、興味深いものだったようです。それと同時に、かれらは私たちと議論できると感じたのです。人びとの犠牲の上にある投票です。だからかれらはラジオの視聴者を敏感にしようとしていました。ですが、電話を架けてきた人は、地元のエリートになにか操られていたと思うのですが、直接、脅迫的な言葉をぶつけてきました。

CB: 殺すぞという脅し?

AS: はい。私たちはそれを本当の脅迫だと捉えました。私たちは2014年から選挙参加できる集団ではなくなったからです。別のやり方を取る必要があると考えました。ブリーフィングの場での議論によって、この国では政治的な理由で生命が脅威にさらされることが現実のものとなっています。1994年以降に250人の抗議者が殺害されたことを示す統計があります。私たちが交流しているさまざまな社会運動のさまざまなメンバーが殺されていることも知っています。2011年に、私たちは「支配階級によって殺害された」という歌を作りました。その年の4月13日に警察に殺された抗議者、アンドリース・タタン Andries Tataneに捧げるものとして。

また、私たちの地域では、つい最近、抗議者がふたり殺されました。生きるための小屋を建てるために土地の一部を占拠したのですが、それだけのために殺されたのですよ。だから、脅しが出てきたときには軽く見ることはしませんでした。もちろん、キャンペーンは終えましたが、メッセージを共有したいときには別の方法を見つける必要があるかもしれません。

CB: あなたがたは本当に第一線で素晴らしい仕事をしているのですね。

話題を、コロンビアでの計画に変えてもよいでしょうか。以前に南米で仕事をしたことがあるでしょうか?

AS: SoSとして南米に行ったことはありませんが、いつも地域の動きや人びとのスタイルに触発されてきました。そもそもパーティーのスタイルを勉強するのにかなりの時間を費やしました。私たちはかれらが真剣に取り組んだ方法、代替案のアイデア、さまざまな種類の民主主義の実験に触発されています。私たちは幸運でした。住宅問題の活動家がコロンビアの活動家たちとフォーラムに参加していたのです。かれらは土地と持続可能性の問題をめぐってたたかっていましたが、同時にヒップホップ運動にも関わっていました。そこから活動家グループのハガ・ケ・パセ Haga Que Paseについて知る必要がありました。それまではSkypeを使い、隔週で、連帯を築くこと、お互いに学ぶこと、一緒に創造することを考えるために対話をしていました。

ハガ・ケ・パセ Haga que Pase – HQP

かれらがケープタウンに来るまで2年かかりました。昨年の4月にここに来て、2週間過ごしました。滞在中のやり取りで明らかになったことは、かれらも同様の経験を持っていて、コラボレーションや協働について話し合うことが正しかったのだということです。私たちがケープタウンやカエリチャで経験する暴力は、国家という形だけでなく、しばしば政府との間で戦っているゲリラグループという形で顕れます。何が起きるかというと、若者がその戦いに巻き込まれるということなのです。同時に、かれらは国内でも植民地時代の遺物の支配を経験しています。私たちと同じように、労働者階級のコミュニティは単なる潜在的な顧客に過ぎないとでもいわんばかりの新自由主義の形で、無視されています。

だから私たちがやろうとしていることは、昨年のアーティスト滞在中に私たちとの間で経験したことに基づいて、構築することなのです。そしてそれは、カエリチャから若者のグループを連れ出して人生を経験させることでもあります。かれらは豪華なホテルどころかどのホテルにも泊まりませんでした。私たちの家に一緒にいて、私たちが食べたものを食べ、同じ場所で寝ました。本当の意味での経験をして、コミュニティワークを構築して実行する。それは基本的に私たちが若者を派遣することでやろうとしていることでもあります。つまり、かれらは自分自身のために体験し、見て、感じるわけです。

重要なのは、そのプロセスに何百万人もの人たちをどのように関与させるかということです。ここで音楽が重要になります。私たちはこれらの経験と感情を音楽に取り込み、コロンビアと南アフリカの両方の集団が音楽を実践します。かれらはここで驚きました。ケープタウンとは何か、ケープタウンはどのように見えるかについて説明しました。しかし、かれらの滞在中に、セシル・ローズ像(※注 植民地時代の英国の政治家)や、残っている他のすべての文化的・建築的遺産を見せたところ、かれらは、いろいろなことや、自分自身の家で無視していたり忘れたりしていた経験を指摘することができました。大事なことだと思います。

ときに、この作家は誰だっけ?強力な人だけど名前を忘れてしまった、なんてことがありました。人々が快適になり、動かないとき、抑圧されていることに慣れてしまって、鎖につながれていることに気づかなくなることがあるのです。これは私たち自身だけでなく、私たちと一緒に働く若者たちも含めて、人びとの心を開放しようとする試みのひとつです。コロンビアと南アフリカの交流というアイデアでもあり、SoSだけでなく他のアーティストも参加して私たちと同じ体験をすることを目的としています。

多くの奴隷を救うことができたはずだと言ったのはハリエット・タブマン Harriet Tubmanだったと思います。かれらの多くは、自分が奴隷であるとは思っていませんでした。実際、奴隷たち本人は代替案を知りませんでした。奴隷の畑や奴隷の宿舎から逃げるポイントを見ていませんでした。まさに、私たちが言いたいことは、ケープタウンが畑であり、カエリチャという場所が強制収容所であり、人々がその現実に目覚めてそう認識する必要があるということです。それを出発点として、人びとはおそらく自分が何をする必要があるか明らかにするでしょう。

CB: コロンビアでの協力者は誰ですか?

AS: コロンビアで最初につながった集団は、ハガ・ケ・パセという素晴らしいグループです。かれらは実際にはフルバンドです。ブロンクスの古いラップの感覚で、本質的にビートとDJでライヴを行います。進化していて、技術は別のレベルに上がっています。それで私たちも、ある意味で、政治的にだけでなく、芸術的にどこに行きたいかを考えるよう迫られました。ドラマーとキーボード、何本かのホーン、ベースなどがいます。リードヴォーカリストのラッパーは、ヒップホップを通じての若者の仕事を長年行ってきた人物です。過去2年間、彼は隠れていました。そして再び、コミュニティへの資金提供の問題で、かれは追い立てられ、隠れざるを得ない状況です。

かれは16歳くらいのときゲリラにひどい目に遭わされました。最近、かれが逃げる前に自分の都市から詩人として受賞されることが発表されましたが、そのことを言って拒否しました。かれは、人びとを貧しくした敵のような人たちから賞を受けるつもりはないでしょう。その結果、かれは逃げなければならなかった。かれとその集団を通じて、私たちは別のグループと連絡を取りました。ゾナ・マージナル Zona Marginalという、コロンビアまたはカリのヒップホップのグループの創始者だと思います。この人たちは主に教育者であり、学校で若い人たちと一緒に仕事を続けていながらも、ヒップホップでつながりを保つことが重要だと考えているのです。

ゾナ・マージナル Zona Marginal – Às Margens (VideoClipe Oficial)

ハガ・ケ・パセをはじめとして、ほとんどのグループは、かれらの教えと教育活動を通じて出てきています。私たちが連絡している3番目のグループはヒップホップ・ペニャ Hip Hop Peñaという名前です。ペニャの意味はわかりません。ですから、連絡を取り合ったのは、3つの大きなグループ・集団です。ほとんどはゾナ・マージナル以外の若者です。若く、植民地時代の慣習から脱しています。私たちはかれらの血統をたどっており、かれらは大陸とその人々・文化を真剣に理解しようとしていますし、大陸全体を越境して運動を構築することにもまた真剣でした。

ヒップホップ・ペニャ Fundación Hip Hop Peña – Apoyando En Tiempos de Pandemia

CB: 幅広い議論と、手掛けているすべての仕事についての詳細にご教示に感謝します。これが今後の対話のはじまりになることを願っています。あなたとの対話に加え、他のSoSの面々とも対話をしたい。それから、あなたが話し合っている他の人たち、あなたが協力してきた人たちと対話をしたい。ここニューヨークや他の場所では、実に多くのタイプのヒップホップ、他の音楽、抵抗のためのアートが立ち上がっているわけです。サポートすることで何ができるか、あなたがたがやっていることから多くのことを学ぶことができると思います。

AS: もちろんです。関心がありますし、間違いなくそれをやることができます。対話に感謝します。もちろん、つねに私たちは、人びととつながって構築し、他のグループから学ぶことにも熱心でいます。私たちは国際主義の考えを信じていますし、私たち全員にできることがたくさんあると信じています。その始まりは連帯だと確信しています。

CB: ありがとう、アネレ。幸運を祈ります。気を付けて、安全でいてください。

【翻訳】齊藤聡(Akira Saito)

環境・エネルギー問題と海外事業のコンサルタント。著書に『新しい排出権』など。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

シスコ・ブラッドリー Cisco Bradley

ブルックリンのプラット・インスティテュートで教鞭(文化史)をとる傍ら、2013年にウェブサイト「Jazz Right Now」を立ち上げた。同サイトには、現在までに30以上のアーティストのバイオグラフィー、ディスコグラフィー、200以上のバンドのプロフィール、500以上のライヴのデータベースを備える。ブルックリン・シーンの興隆についての書籍を執筆中。http://jazzrightnow.com/

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