Interview #227 外山喜雄・惠子(デキシーセインツ)

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外山喜雄・惠子(とやまよしお・けいこ)
喜雄・トランペット&ボーカル(日本のサッチモと呼ばれる)、惠子・ピアノ&バンジョー。早稲田大学ニューオーリンズ・ジャズ・クラブで出会い、1966年、喜雄・経済学部、惠子・文学部をそれぞれ卒業後結婚。1967年から5年間ニューオリンズで武者修行。帰国後、1975年、「外山喜雄とデキシーセインツ」を結成、内外で活躍。1983年、東京ディズニーランド開業以来2つのバンドで2006年まで出演、人気を博す。1994年、ニューオリンズとの国際親善を目指し、ルイ・アームストロング・ファウンデーション日本支部設立(1998年、日本ルイ・アームストロング協会に改組、喜雄、会長に就任)、「銃に変えて楽器を」を掲げてニューオリンズの子供達に楽器を贈る運動に取り組み、2005年「外務大臣表彰」を受ける。2005年、ハリケーン・カトリーナの被災支援に取り組み、ニューオリンズ名誉市民を授与。2012年、「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」にジャズ音楽家として夫婦で選ばれ、国家戦略大臣表彰。2017年10月日本ジャズ大賞、2018年1月文部科学大臣表彰。2018年、「スピリット・オブ・サッチモ・アワード 生涯功労賞」、2019年、第31回(2018年度)ミュージック・ペンクラブ音楽賞ポピュラー部門特別賞をそれぞれ授与される。喜雄は、随筆、ジャズ評論の執筆活動の分野でも活躍し、また、ジャズ演奏を納めた16mmフィルムやジャズ創世期の貴重な資料のコレクターとしても知られる。
「ルイ・アームトスロング生誕120年 没50年」の今年、夫婦での共著3冊目となる「ルイ・アームストロング  生誕120年 没50年に捧ぐ」(冬青社)、CD「デキシー・マジック・ビビディ・バブディ・ブー Again」(Nola Music) を刊行。
*口絵写真:浦安に住みたい web 編集室 提供
https://sumitai.ne.jp/urayasu/

Interviewed by Kenny Inaoka via e-mails, July 2021
Photos:Courtesy of Yoshio Toyama

新刊はルイ・アームストロングの音楽の楽しい解説書

PART 1:
JazzTokyo:新著と新作CDの刊行重ねておめでとうございます。

外山:ありがとうございます。私達外山喜雄、恵子共著の本で、『夫婦でサッチモ50余年!(笑)』の総まとめの本となりました。今年はサッチモと並んで、ウォルト・ディズニーも生誕120年。東京ディズニーランドで開園から23年間演奏してきた私達は、サッチモに50年、ディズニーにその半分と、アメリカの二人の巨人に仕える幸せも体験しました。私達のちょっとした自慢なんです!!

JT:今年はルイ・アームストロングの生誕120年 没50年のアニバーサリー・イヤーということでお喜びも格別だと思います。

外山:サッチモは『この素晴らしき世界』を録音した翌1968年、ディズニーアルバム『ディズニーソングス・ザ・サッチモウェイ』をリリースしています。そこで、本と合わせて、このサッチモのディズニー・アルバムへのトリビュートCDもリリースします。

JT:新著の『ルイ・アームストロング  生誕120年 没50年に捧ぐ』(冬青社)の内容についてご紹介願えますか?

外山:ルイ・アームストロングの音楽の楽しい解説書と言ったらよいでしょうか...日本初のサッチモの本格的専門書です。ぜひ宜しくお願いいたします!!!

内容は、総論としての『ルイ・アームストロングの素晴らしき世界』、『ルイ・アームストロング・ストーリー』、『ルイ・アームストロング秘話―サッチモちょっといい話 50』、『ルイ・アームストロングの名曲50』(ともに没50年にかけて)、『ルイ・アームストロングの映像』、そして外山恵子が担当した『ルイ・アームストロングの夢をつないで(サッチモがくれたネバーエンディング・ストーリー)』。

この章では、1994年に発足した『日本ルイ・アームストロング協会』の活動、スラムに暮らすサッチモの孫たち...ニューオリンズの子供達に『銃に代えて楽器を』の合言葉で850点を超える楽器を贈った活動と、その後ハリケーン・カトリーナ、東日本大震災を通じて実現した、日本とニューオリンズの子供達のジャズ交流を外山恵子が書きました。ふりかえってみると『サッチモのスピリットの実践』の27年間だったと思います。この章が入ったおかげで、読者の皆様には、より身近な形で「サッチモのハート」を感じていただける本になったと思っています。外山恵子に感謝です!

JT:これは3冊目のご夫妻の共著ということですが、1冊目の『ニューオリンズ行進曲』(2002) はどのような内容ですか?

外山:1960年代、私と家内が早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブの部員だったころ、超有名なジャズメンの来日ラッシュがありました!1963年ニューオリンズの伝説的クラリネット奏者ジョージ・ルイス楽団が夢の初来日‼ サッチモが1953年に続く二度目の来日。カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン初来日、翌64年デューク・エリントン、エディー・コンドン初来日、その他にも、エラとロイ・エルドリッジ、ハリー・ジェイムスとバディー・リッチ...凄かったです!しかもその数年前、高校生時代には、アート・ブレイキーが映画をきっかけに大ヒット、来日、朝、八百屋さんも店先でブルース・マーチをかけて野菜売ってました!! 本当に嬉しい時代に育ちました。しかも、ジャズ映画、『ベニー・グッドマン物語』、『グレンミラー物語』、『五つの銅貨』、『真夏の夜のジャズ』、サッチモが世界を廻ったドキュメンタリー『サッチモは世界を廻る』...みな、「スターウォーズ」や「タイタニック』のような超大ヒットでした。

そんな中で、サッチモとジャズを生んだ故郷『ニューオリンズ』への憧れが本当にどんどん膨らんで...一度、卒業後損保に就職したのですが、2年弱で退社、当時まだ就航していたブラジル移民船『ぶらじる丸』に乗って、夫婦でニューオリンズジャズ武者修行に飛び出しました。1968年1月のことです。そして5年間のニューオリンズ・ジャズ武者修行!!帰国後当時スイング・ジャーナル編集長だった故児山紀芳さんに勧められて『ニューオリンズ裏話』等、数々の連載を誌上でさせて頂き、『ニューオリンズ行進曲』(2002年)は、そうした文章などをまとめたエッセー集です。

JT:2冊目の『聖地ニューオリンズ 聖者ルイ・アームストング』(2008) は写真集ですね。

外山:1968年大晦日に、クラリネット奏者のジョージ・ルイスが亡くなりました。とても悲しくて、ジョージの葬儀に参列、ジャズ葬式でも演奏した様子を、初めての経験でしたが、記事に書いてSJ誌児山編集長にお送りしましたら、締め切りを過ぎていたのに掲載してくれました。その時写真が欲しい、と言われて写真をほとんど撮っていなかったことに気が付きました。それから、一生懸命写真をやって、お金がないので、写真の現像..フィルム現像、引き延ばし..等々全部覚えて、暗室もないので寝室で真夜中に現像!!! 一時、ニューオリンズのアパートは停止薬の酢酸と現像液のにおいがプンプンしていました!(笑)

写真は、素人ですが、何しろジャズとサッチモに憧れる『気』が入っている...自分で言うのもなんですが、凄いジャズとサッチモの故郷のドキュメントとなりました。今回の出版を含めて3冊とも『冬青社』さん。前社長の高橋国博さんが、前の出版社ご勤務時代『タイトルマン』の異名をとるほどで、『ニューオリンズ行進曲』、2冊目『聖地ニューオリンズ聖者ルイ・アームストロング』、そして今回『ルイ・アームストロング…生誕120年没50年に捧ぐ』の名タイトルを頂きました。3冊とも、外山喜雄、恵子共著です!現在も私が在庫を持っています!

JT:CDは、『デキシー・マジック・ビビディ・バビディ・ブー、Again』と Againがついていますが。

外山:2000年、当時東京ディズニーランドに出演中でしたが、キングレコードから『デキシ―マジック・ビビディ・バビディ・ブー』のデキシーランド・ジャズのディズニー集をリリース、人気アルバムとなりました。今回は、是非、『アナと雪の女王』、『トイ・ストーリ―』、『美女と野獣』、『リトル・マーメイド』等も含めて、AGAIN版を作ろうと思ったのです。コロナの始まる前、2019年に《サッチモとニューオリンズへのトリビュート》を70曲くらいまとめて吹き込みました。一昨年、昨年と2枚のCD『サッチモとデキシ―セインツの楽しい仲間達』、『今晩はエブリバディー』をリリース。今年ディズニー曲をまとめて、この《サッチモとディズニーへのトリビュート》『デキシ―マジック・ビビディ・バビディ・ブー  AGAIN』の発売となりました!!

JT:演奏しているデキシーセインツはご夫妻のバンドですね? 結成の経緯とメンバーをご紹介いただけますか?

外山: 私達が、1973年、5年間のニューオリンズでのジャズ武者修行を終えて帰国後結成したバンドです。最初は、ニューオリンズへの愛着から《ニューオリンズ・セインツ》という名前でしたが、アメリカン・フットボールの有名チームと同名なので、《デキシーランド・セインツ》、後に《デキシ―セインツ》となりました。余談ですが、ニューオリンズ滞在中、イギリスのトラッド・ジャズのバンドが通りかかり、丁度トランペッターがやめるところで、私達二人バンドにさそわれました。ドラマーのバリー・マーチンが率いるグループ。彼は当時ロンドンに住み、ジョージ・ルイス等本場アメリカの有名プレイヤーを呼んで一緒にツアーをしたり活躍していました。彼のバンドと丸一年。最初半年はロンドンに住み全ヨーロッパを、小型マイクロバスにバンド7人とゲストが乗って、冬の全ヨーロッパを廻りました。アルプスの山中で、雪に囲まれて、道がなくなったりとか..笑。後半の半年は、これまたオンボロノのフォードのワゴンに7人ぎゅうぎゅう詰め、ベースと大太鼓を屋根の上に縛り付け、NYから中西部を抜けて、サンフラン、ロス、南ルートでダラス、ニューオリンズ、そしてジョージアを抜けてNY、ボストン...若かったからできた経験でした。

その時、アメリカのゲストプレイヤーを招聘する...これを覚えて、日本に帰ってから自分で実践しました。皆さん名前はあまりご存じないかも知れませんが、アルトン・パーネル(ピアノ)、ドン・ユール(ピアノ)、ワイルド・ビル・デビソン(コルネット)、ラルフ・サットン(ピアノ)、僕のバンマスだったバリー・マーチン(ドラムス)、フレディー・ロンゾ(トロンボーン)、ブッチ・トンプソン(ピアノ)多くの素晴らしいジャズメンと必ずレコーディングも残しました。日本とアメリカで発売、今では、その多くを、ミュージック・ストリーミングyoshio toyamaで聴けます。

その他、日本在住だったり、日本を訪れたジャズメンとの共演も多かったです。特に、ジャズの創始者と呼ばれるジェリーロール・モートン・スタイルのピアニスト、ボブ・グリーンとは1963年以来の友人。1971年、彼に頼まれてジェリーロールの20年代の録音を譜面に書き起こし、彼はその編曲を使いミルト・ヒントン他とジェリーの再現バンドを発足し大ヒット、カーネギーホールでコンサートを開きました。一昨年、このカーネギーで使われた編曲を2000年に私達が再現した録音《バディー・ボールデンズ・ブルース》…をリリーズ、大変好評です。また、日本に永年住んでいらっしゃったジャズ界の伝説、ビーバップ最後の生き残りと言われた名ピアニスト『サー・チャールス・トンプソン』さん。彼とは、貴重なレコーディングを残すなど親友となりました。サー・チャールスは、チャーリー・パーカーや、当時まだ駆け出しだったマイルス・デイビスを雇ってたような人。奥様の牧子さんの話ですが、アメリカに住んでいた頃マイルスにばったり会ったそうです。そしたら、マイルスがサー・チャールスにぺこぺこして、『イヤー、サー・チャールス、お元気ですか...私なんか、インチキばっかりやってますよ...』なんて!!(笑)

JT:このバンドは、東京ディズニーランドでも大人気だったそうですが。

外山:1983年、日本にディズニーの夢の世界がオープン、開演と同時にレギュラーバンドとして、週6日の演奏を始めました。8時間拘束、一日7セット!!!(笑) 翌年から週5日出演になりましたが、本場アメリカの、しかもディズニーの世界…大変勉強になりました。最初は、映画メリーポピンズに登場するアニメのコミカルなバンド、『パ―リーバンド』を担当、おとぎの国のストリートやステージに登場しました。極寒の冬、酷暑の夏、全て屋外、園内を一周するパレードにも出ていたことがあります...お陰様で身体も元気になったのではと思います。1998年からは、なんとTDLのニューオリンズ広場、カリブの海賊前の野外レストランでジャズのバンドを思いきりできることになりました!!バンド名は、『ロイヤル・ストリート・シックス』でした!ドラムに本場アメリカの人を!…と日本に住んでいた名ドラマー、ジミー・スミスさん(エラ、エロル・ガーナ―、レイ・チャールス、ハンプトン他で活躍)に声をかけてみたら、『Oh 、I love Disneyland』! ジミーさんと、フルート奏者小宅珠美さんのご主人、マイク・レズニコフさん、サバオ渡辺さん、バイソン片山さんもドラマーで入って8年間!夢のような毎日でした!ほかのメンバーは、粉川忠範. (tb)、鈴木孝二 (cl)..お二人は原信夫さんのシャープス&フラッツのメンバーでした! 、古里純一、後に藤崎羊一(ベース)。私と外山恵子のピアノとバンジョー。朝、楽器倉庫からドラムセット、小型のピアノ、PA装置を洒落た台車に載せて、TDLのニューオリンズのクレープ屋さん、『カフェ・オーリンズ』の庭先に運んでセットして...週5日タップリ演奏、楽しい毎日でした。お客様は小さな子供さんからお年寄りまで...皆さんを笑顔にしました!

毎年夏、ニューオリンズで開催されるサッチ・サマーフェストにも一緒に出掛けて出演しました!ジャズのお客様もお誘いして団体旅行、ニューヨークも廻って帰ってくるのです。NYでは、サッチモの家博物館を訪ねて、サッチモのお墓参りもしてくるのが、夏の恒例行事でした!!

東京ディズニーランドには23年間、週5のペースで出演。一回のショーで2~300人が至近距離でご覧になって7回ショー、一年250日、23年間...30000人を超える皆さんを、至近距離でエンターテイン、楽しんで頂いたことになります!!

サッチモとディズニーという、アメリカ文化を代表する二人の巨人に夫婦で仕えてきた...これは私達のちょっとした自慢なんです!!(笑)

今年サッチモもディズニーも生誕120年。そこで、本と並んで、サッチモとディズニーに捧げる CDアルバム『デキシ―マジック・ビビディ・バビディ・ブー AGAIN』も同時リリースすることにしたのです。

JT:サッチモとディズニーの大きなアニバーサリー・イヤーでありながら、コロナ禍のためコンサートやイベントなどにいろいろご苦労があると思われますが。

外山:一年半前、ある日突然この事態が始まりました。夢にも思わなかった状況で...最初はお客様も、バンドメンバーも恐怖に支配されて、2020年の3月初めは、ライブのお客様が2名という事も...3月末は少々自粛疲れで混みあって大騒ぎの盛り上がり...今度は、お客様もバンドメンバーも怖くなったり..。

特に私達のグループは、バンドと客席が一体になってジャズを楽しむショーなので、もう自分の存在を否定された、『ノー・サッチモ!!』(怒) みたいな状況で...(笑)さすがにチョットうつになりかけましたね。

でも、100年前、1918年、スペイン風邪が世界を恐怖に陥れた時...その時期はルイ・アームストロングがニューオリンズで活躍を始めた時期でもあるのです。やはりルイもこの困難な時代を乗り切って...パンデミックが明けた1920年代は、サッチモのスウィング感、新音楽ジャズが大爆発。ジャズの時代『ジャズエイジ』と呼ばれる狂乱の20年代になるのです。 だから頑張ろう‼と。

不思議ですね...ジャズはもともと、ニューオリンズで行われる黒人達の風習『ジャズ葬式』から始まりました。お墓まで、悲しさいっぱいの葬送行進曲や讃美歌を、すすり泣くように演奏して向かいます。遺体が埋められてしまうと、大太鼓がドーン・ドーンと合図、リズムはスウィングするジャズに。集まったやじ馬たちは、バンドと一緒に葬式の始まった角まで踊り狂いながら帰ってくるのです。

人間生きているときは苦しみが多い...黒人たちは特に差別や貧困、多くの苦難に囲まれている。だから天に召されることは悲しむことではなく、祝福すべきこと!そんな黒人の人々の気持ちが、ジャズのスウィングにはあるのです。

考えてみると、1930年代の大恐慌の時代はスウィングジャズが大ブーム、戦後荒廃した日本に流れ人々の心をいやしたのも、進駐軍が持ってきたジャズでした。

そんなことを考えている時、2021年に生誕120年没50年を迎えるルイ・アームストロングの本をまとめる話を『冬青社』さんから頂き、コロナで真っ白になったスケジュールの時間を、かえって活用することができたのです。

JT:サッチモが大きくフィーチャーされている映画『真夏の夜のジャズ』のDVDも4K+5.1chとバージョン・アップされてリリースされますね。

外山:私達が高校生の頃、先にも触れたようにジャズ映画が数々大ヒット。2020年は、名作『真夏の夜のジャズ』が日本公開60年、KADOKAWAさんがこれを記念して4k版で再公開しました。ご存じの通り、この映画の最後を飾るのは、我が『サッチモ』のジャズと、マハリア・ジャクソンのゴスペル!!このお二人は、ともにニューオリンズ出身なんですよ!マハリアは、シカゴに移る1927年、15、6才までニューオリンズで育ちました。彼女の歌った教会は今も残っています!

今年、2021年、ルイ・アームストロング生誕120年没50年に合わせて、『真夏の夜のジャズ』は、4k版でDVD発売されることになったんです!!

Oh、 Yes,,,というサッチモとマハリアの叫び声が、天国から聞こえてきそうですね!!!

王様”サッチモ”のトランペットを吹いた!

PART 2:

JT:ところで、ルイ・アームストロングに初めてお会いになったのはいつですか?

外山:高校時代に、ブラスバンドの先輩にジャズの好きな方がいらっしゃって、その方を通してサッチモがいかに偉大だったかを知りました。油井正一さんの実に楽しいジャズの歴史書『ジャズの歴史』(東京創元社1957年)にはまり、ジャズとサッチモの生まれた街ニューオリンズへの大きな興味が。そして、当時のジャズ映画ブーム、偉大なジャズメンの来日ラッシュ...。もう熱病のようなものでした。特に海外の情報がほとんどなかった当時、幻のジャズの故郷ニューオリンズからやってきた、ジョージ・ルイス(cl)楽団。3か月間労音公演で日本に滞在したため、親しくなりました。楽屋に入れてもらったりしているうちに、『楽屋口』からおはようございます...とタダで潜り込む術も覚えたり...(笑)。そんな時、サッチモが1963年、64年と二年続けて来日。64年はハロー・ドーリーの世界的ヒットを受けての来日でした。京都で学生バンドのツアーの途中、コンサートを見る機会があり、楽屋に潜り込んだんです。ドアをノックすると、中から例の声で『カムイン』...ドアを開けると『王様』がそこにいました。ハロー..というと、また例の声で...そんなことをやっている内に、横のテーブルの上にフタの空いたケース、そして王様の金色に輝くトランペットが目に入りました。『メイ・アイ・シー?』と聞いたら、また例の声で『イエス』。手に取って見ている内に、吹いて見たくなって、彼の顔を見たらにこにこ笑っている...そこで、王様のラッパを吹いてしまったのです!!

失礼な話ですよね...僕としては、当時得意にしていた、ルイの若き日の名演、『バーベキュー料理で踊ろうよ』を聴いてもらいたくって...でもルイのラッパの歌口(マウスピース)は、僕のよりだいぶ大きくて、フガフガしてしまいました..(笑)。でも、ちょっと吹かせてくれました。

なんでこんな失礼なことに怒らなかったのか...今考えるとルイも少年時代、こうやって憧れの人の楽器を吹かせてもらって、気持ちがわかったんだろうな...と思います。

その時だけが私とルイの『個人的接触』でした。私達がニューオリンズ修行中だった1971年、ルイはNYの自宅で亡くなりました。丁度50年前です。

ニューオリンズの若者達が立ち上がって、地元の英雄のためのパレード、ジャズ葬式がとり行われ、私達も参加しました。タフな一筋縄ではいかないような連中も入った黒人の若者達...彼らが掲げていた横断幕に、『サッチモの精神は永遠に‼』(Satchmo’s Spirit Lives on Forever) とあったのを一生忘れることができません。

JT:外山ご夫妻のニューオリンズとの本格的な付き合いは、1967年12月30日のぶらじる丸でのニューオリンズ渡航に始まるわけですが、これはどういう決断でしたか?

外山:サッチモやジョージ・ルイスとの出会いで、ジャズの故郷への憧れが、もう熱病のようになった結果ですね。卒業後、大学のジャズ研『ニューオリンズ・ジャズクラブ』の仲間だった外山恵子と結婚、損保に就職、会社人間としての生活を大変まじめに始めました。でも、またニューオリンズからバンドが来日、ついて歩いている内に、やはりサッチモの故郷で暮らしてみたい...そんな夢を、家内も反対するどころか逆に背中を押してくれて、日本を飛び出しました。

1966年、67年当時としては、一度就職した会社を辞めるなど、狂気の沙汰。でも、若さですね...全く、怖さを感じなかった...。恋は盲目、ってやつ...ジャズの故郷とルイ・アームストロングに恋したんです。

当時、一番費用の安かった、ブラジル移民船『ぶらじる丸』に乗って1967年12月30日、横浜山下埠頭を出港しました。

JT:渡航前に現地での計画や見込みはあったのですか?

外山:当時、1ドル360円、海外旅行者は年間30万人、といった時代。アメリカへ行った、というと、ワーッとおどろかれる時代。羽田空港には見送り、出迎えの人が詰めかける...時々○○君、海外渡航バンザイ‼なんて、そんな時代です。もちろん、アメリカやニューオリンズがどんなのかなんて、わからず、笑い話ですが大きなトランクに、鍋、釜、お米まで詰めて出発しました。

幸い大阪のアマチュア・ジャズバンド、現在も80才を過ぎて活躍していらっしゃる『ニューオリンズ・ラスカルズ』の皆さんが、1966年になんと、アメリカ演奏旅行の快挙をやっていらして、その方々からアメリカのジャズ人脈を教えていただきました。

また、ジョージ・ルイス楽団来日(1963年)の際、付き添っていたマネージャーが、ニューオリンズ一番のライブハウス、『プリザベーション・ホール』の創設者夫妻で、彼らからニューオリンズに来たら色々世話してあげる...と言われていたのです。

聖地ニューオリンズで5年間武者修行

JT:5年間滞在されていたようですが、現地ではどのような生活を?技術的には優れたご夫妻が地元の音楽シーンにはすぐに受け入れてもらえましたか?

外山:マネージャーは、アラン・ジャッフェさんとおっしゃるのですが、僕らが街に到着すると旅行中で、世話してくれておいたアパートが、ひどい部屋で...窓は破れていて雨が降りこみ、ベッドは湿っていて、明かりもない。バスタブは、10年掃除していないほど垢がこびりついて...。家内は、めそめそ泣きだしました。でも、そこは、僕らの憧れていたジャズの聖地『プリザベーション・ホール』の真裏のアパートだったんです。ホールには、ジャズを生んだ世代のジャズ・パイオニア達が演奏していました。サッチモより年上、1800年代生まれのプレイヤーも、沢山出ていました!!!僕たちの部屋からも、破れた窓から音が聞こえて、今日は誰が出ているかわかりました!

プリザベーション・ホール、フリーパスで、昼間も鍵をくれて、ジャズ・パイオニア達に来てもらってジャムセッション!毎晩、ホールで『門前の小僧』をつづけたんです。音楽学校でもジャズ学校でもない、譜面もない...聞き覚え...。よく、卵からかえったひよこは、最初に見たものを親と思う...と言いますが、私達のジャズ感覚はそれです。おぎゃあと生まれて、最初に聞いたのがサッチモとニューオリンズ、と言った状況なんです。もう50数年前ですが、昨日のことのようにくっきりとホールの音が聞こえてきます。

街は、音楽でいっぱい...お葬式にジャズを演奏する...ジャズ・フューネラルも数えきれないほど経験しました。黒人の人たちの家の裏庭パーティもジャズでいっぱい。サッチモの生まれた、音楽に満ちあふれたスラム街、サッチモの隣人達のブルースの哀愁、そしてジャズのスウィング感の原点を学んだ5年間、貴重な体験でした。

JT:現存するミュージシャンにはどのような方が?

外山:もう現在存命の方は、一人もいらっしゃいません。なんといっても、皆さん1900年初め頃の生まれとかでした。一番年長のベース奏者は、1884年生れだったんです!!明治17年ですよ!

帰国を決めた1973年、現地のジャズ・パイオニアの皆さんと、レコーディングを残しました。トロボーンのジム・ロビンソン(1893年生れ)他のメンバーで、帰国後テイチクから発売、その後アメリカのGHB社でCDになりました。GHBとJazzology社からはその他、いろいろ昔の録音をCD化していただいています。

JT:帰国後、デキシーセインツを結成されるわけですね?

外山:1973年に帰国後、1975年にデキシ―セインツを結成しました。すぐにアメリカのジャズマンを招聘、アルトン・パーネル、ドン・ユール、ワイルド・ビル・デビソン他とコンサートを開催、レコーディングも残しました。Amazon等、ミュージック・ストリーミングで今も聞けます。

サッチモが71年に他界して10年後の1981年に、東京駅大丸の屋上ビヤガーデンで、ニューオリンズを愛する関東地区のバンド約10バンドと私達セインツで、サッチモに捧げるジャズ祭を始めました。1981年から10年ほど大丸屋上、その後日本橋東急の屋上、そして2000年からはサッポロビール恵比寿麦酒記念館に場所を移して、2014年まで34回この『サッチモ祭』は続きました!ニューオリンズがハリケーン・カトリーナで壊滅的な被害を受けた2005年には、10月に『緊急サッチモ祭』を開催、日本で最初のニューオリンズ支援コンサートとなり大きな話題となってNHKのニュースなどで取り上げられました。その後、全国のアマチュア・バンドの皆さんから、ニューオリンズを助けてほしいと、私達日本ルイ・アームストロング協会に多くの寄付が送られ、最終的に1300万円を超える義援金をニューオリンズのミュージシャンに、直接届けることができました。

東京ディズニーランドの人気バンドとして23年間出演!

JT:東京ディズニーランドで人気バンドになられました。

外山:1983年、TDLの開園と同時にレギュラーバンドとなり、23年間人気バンドとして出演しました!1985年は、ロスのディズニーランド開園30年に当たり、私達のバンドも日本のディズニーランド代表で派遣され、ロスのランドで夢の出演をしたんです!!!

TDLではウォールト・ディズニーから直接教えを受けたアメリカ人部長がいたりして、大変勉強になりました。彼の教えてくれたことで『All Theatre Begins with Acting』(すべての劇場は演技から始まる)』という言葉がありました。劇場でやること全てには、演技があるんだ...音楽もジャズも、そうだという事に気づかされました。音楽の表現も演技なのです...サッチモも演じている、ディジーもエラも演じている。マイルスもモンクもあの客に媚びない姿勢と音楽を演じている...という事です。今度の本『ルイ・アームストロング…生誕120年没50年に捧ぐ』には、そんな私達ならではの視点からの記載が一杯つまっています。

<銃に代えて楽器を持とう>でニューオリンズの子供達を支援

JT:ニューオリンズの子供たちに楽器を送る運動が大きく報道されたましたね。

外山:1994年、日本ルイ・アームストロング協会を始めた時、珍しいレコードやルイゆかりの品を持ち寄るような会ではなく、サッチモの世界に見合った象徴的な活動はないか、と考えました。サッチモは少年時代、銃を発砲、少年院に入れられ、そこでコルネットと出会い世界的トランぺッターとしての道を歩みました。銃や麻薬に囲まれて暮らすニューオリンズのサッチモの孫、のような少年たち。才能があるのに、楽器も買えない...私達がお世話になったニューオリンズとアメリカへの恩返しとして、『銃に代えて楽器を持とう!』、『銃を発砲し、楽器と出会い偉大な一生を送ったサッチモの人生を想い出そう』と呼びかけたかったのです。幸い多くの新聞がこのことを取り上げてくれて、使われなくなってタンスの上で眠っていた楽器が、沢山送られてきました。

ジャズが好きだったご主人が使っていたトロンボーン...退職したら一度ニューオリンズへ行こう...そんな思いが果たせなかった代わりに、楽器だけでも子供たちに吹いてもらいたい! そんな多くの楽器が送られてきて、27年間で850点の楽器を『サッチモの孫たち』に贈ることができました。日本通運が長年輸送を担当して下さり、楽器代理店『(株)グローバル』の元社長福田忠道さんも、送られてきた楽器の無償修理や楽器代金の大幅割引など、言葉に尽くせないご協力を頂きました!

JT:2005年のハリケーン・カトリーナでニューオリンズが大きな被害を受けた時にも支援活動を展開されましたね。

外山:2005年8月末、ニューオリンズを突然襲ったハリケーン・カトリーナ。ニューオリンズの8割が水没、大変なショックを受けました。私達が学校に送っていた楽器も、多くが水没してしまいました。ニューオリンズ支援緊急サッチモ祭が、メディアで大きく取り上げられ、最終的に1300万円を超える義援金と楽器を贈りました。全国から私達のような小さな団体を信用して義援金を贈ってくださったのは、『銃に代えて楽器を』を続けてきた私達なら、ニューオリンズの困っているミュージシャンに直接渡してくれると思ってくださったのです。

JT:2011年の東日本大震災の時にはニューオリンズで返礼の支援活動が起きたのですか?

外山:こうしたニューオリンズ支援活動は、それまで『銃に代えて楽器を』を続けてきた事と相まって、ニューオリンズの皆さんに大変感謝されました。

そして起きたのが、思いもしもしなかった日本の大震災でした。テレビに映し出される大津波の凄惨な光景。震災後すぐ、ニューオリンズの友人たちから安否の問い合わせが入り始め、テレビでも『今度は日本がしてくれていたことに、恩返しをする番』とアナウンサーが語ってくれていました。

ニューオリンズの人々が立ち上がってくれ、『津波で楽器をなくした子供たちがいたら、楽器を贈りたい』と、申し出がありました。食料や水、ガソリン、全て不測の非常時に楽器を贈ってもらっても?と思いましたが、丁度震災の翌月、4月24日に定禅寺ジャズ・フェスティバルが被災者を励ますコンサートを、避難所となっている体育館の広場で開催、気仙沼の小学校5年から中学生からなるジャズバンド『スウィング・ドルフィンズ』が演奏したいが、楽器も譜面も譜面台もない、とわかったのです。

それからのリレーは早かったです...皆、善意でつながり3.11の震災から一か月後の4月12日には、子供たちのところに楽器が届きました!!そして4月24日、子供たちの可愛らしいスウィングが復活、悲惨なニュースの中の暖かい話題として大きく報道されました。

そして、その時、楽器を手にした子供たちの笑顔と輝いた眼。なんとか、楽器を贈ってくれた街の『サッチモの孫たち』と、楽器を贈られて復活した被災地の子供たちを、会わせてあげたい!そんな夢が心に浮かんだのです。

まるで天国でサッチモが悪戯をしてくれたように、2012年秋、ニューオリンズのスラムの高校生たちのジャズバンドが、東北の被災地を訪問。2013年には、ニューオリンズからの楽器で復活した『スウィング・ドルフィンズ』がニューオリンズを訪問、本場のサッチモジャズ祭『サッチモ・サマーフェスト2013』に出演、テレビスタジオでも演奏しジャズの故郷の大喝さいを浴びました。

国際交流基金、アメリカ大使館TOMODACHI、日本ルイ・アームストロング協会、ニューオリンズのティピティナス財団、宮城音楽支援ネットワークの夢のような共同作業でした!

日本ルイ・アームストロング協会を通してジャズ資料の保存・維持活動も

JT:日本ルイ・アームストロング協会を設立されジャズ資料の保存、維持活動も継続されていますね。

外山:ニューオリンズのジャズ祭で、市議会議長さんからこのような言葉を頂きました。『ルイ・アームストロングは音楽大使として世界を旅し《サッチモ大使》と呼ばれました。ミスター&ミセス・トヤマ、あなた達は《サッチモ“の”大使》です』

そして、2018年、15年間続けてゲスト出演させて頂いた《サッチモ・サマーフェスト2018》のステージで、大変名誉な章《スピリット・オブ・サッチモ生涯功労賞》。APのニュースで発信され、日本人初の受賞として全国ニュースとなりました。

1974年から、サッチモ他ジャズの黄金時代の16㎜フィルムを収集してきました。ビデオも普及していない時代で、20キロ近い超重い映写機を担いで色々なところで上映しました。30時間130巻ほどのコレクション。デジタルの時代となり、今回KADOKAWAのところざわサクラタウンにできた《KADOKAWA武蔵野ミュージアム》でデジタル化していただき、16mmフィルムとデータも、ニューオリンズ・ジャズ博物館に寄贈しました。サッチモ生誕120年没50年の年、ニューオリンズへの感謝のプレゼントです。日本通運さんが、また輸送に協力してくださいました!!

私達はミュージシャンですが、同時にサッチモとジャズの黄金時代に憧れジャズの故郷を体験した、ある意味生き証人、だと思います。

サッチモの伝道師として、皆様にルイ・アームストロングと偉大なジャズの魅力を、これからも訴え続けて行ければと思っています。

JT:最後に、ルイ・アームストロングの人間性、音楽性にはどのような魅力を感じられていますか?

外山:ルイ・アームストロングは、ジャズ語というのがあったとしたら、そのABCを作った人です。また、1923年から1971年まで、常にレコードを残し、ラジオ、テレビに出演し、数々の大ヒットも残しました。映画スターでもあります。とらえどころがないほど、一言では言い表せない《20世紀を代表する人格》だと思います。それなのに ルイは常にストリート目線、庶民の人でもありました! スラムに生まれ人種差別や貧困をモノともせず、ジャズの王様と呼ばれるまでになりました。ルイの代表曲『聖者の行進』、『この素晴らしき世界』は、きっと今から100年後、ひょっとすると500年後も人々に楽しまれているかもしれません! サッチモはそんな人なのです。

JT:サッチモの生誕日が途中で変わったようですが、その辺の事情をご説明願えますか?

外山:ルイ・アームストロングがニューオリンズの貧民街で生まれたのは 1900 年 7 月4 日、アメリカの独立記念日..と信じられていました。しかし、1980 年代になってナントその日付が間違っていたことが分かったのです。ニューオリンズで初めてジャズを演奏し始めたと言われている、コルネット奏者バディー・ボールデン。この伝説のジャズ王のリサーチをしていた研究者、故タッド・ジョーンズ氏が、偶然ある教会の洗礼記録の中にルイ・アームストロングの名前を見つけたのです。新発見によると、ルイの誕生日は、今まで信じられてきた日付の約 1年後の 1901 年 8 月 4 日、本人もこの世を去るまで知らなかった新事実でした。

JT:「サッチモ」というニックネームはがま口、とかカバンとか特徴のある大きな口から来ているようですが、本人に対して「サッチモ」というのは失礼に当たりませんか?

外山:本人はサッチモ...とても気にいっていたんです。でも、私の本も『サッチモ』にしようかと思いましたが、やはり偉大なジャズマンへの尊敬をこめるべきという、冬青社の元社長さんのお言葉で『ルイ・アームストロング…生誕120年没50年に捧ぐ』というタイトルにしました!

彼は子供時代から色々なあだ名で呼ばれていました。“リトル(ちびの)・ルイ”、 “ディッパー(ひしゃく)・マウス”、“ゲイト(門)・マウス”、“サッチェル・マウス”。サッチェルとは、バスの車掌さんや、電車の車掌さんが昔良く持っていた大き ながま口、首からかけておなかの前でパッチンと大きな口が 開くヤツです。サッチモ、と初めて呼ばれたのは 1932 年、初めて英国の港に着いた時のこと。ジャズファンだった英国の音楽誌『メロディー・メイカー』の記者、パーシー・ ブルックスが迎えに来て、大声で、「ハッ ロー・サッチモ!!!」と言ったのです。

なんで“サッチモ”と呼んだのか???私の説はこうです。記者は、ルイが吹き込んだレコードの中で、自分のことを“サッチェル・マウス”と呼んでいたことを知っていて、ハロー“サッチェ ル・マウス”と言ったのです。でも‘英国なまり’だったので英国風の気取った発音“サッチョウ・マオ”となったのです。これを、コリャイイや、とばかりに新しいニックネームにした、サッチモと仲間のミュージシャンも、なかなか立派だと思います!! このあだ名 がすっかり気に入ったサッチモ、以後亡くなるまでこのニックネームで世界中に親しまれたのです
(続く)

 

 

 

稲岡邦彌

稲岡邦弥 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。音楽プロデューサー。著書に『改訂増補版 ECMの真実』編著に『ECM catalog』(以上、河出書房新社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。Jazz Tokyo編集長。 https://www.facebook.com/kenny.inaoka?fref=ts

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