Interview #229 ノエル・アクショテ Noël Akchoté

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photo above:© Julie Winterbert

Interviewed by Maki NAKANO 仲野麻紀
2021年10月4日
Saint-Gildas-de-Rhuys(仏)

©Maki NAKANO
-チューニング、音楽その人生-

すでに450タイトルを超える作品その数にまず慄くしかない。
しかしその数字はノエル・アクショテ本人にとって関心の域ではない。
パリ左岸サンジェルマン・デ・プレのジャズクラブにどっぷりと浸った10代。ジャズミュージシャンとの邂逅、彼らと共に過ごした時間、演奏、経験、人生における活動拠点となる様々な場所、エモーション、持続性…etc。90年代早々にレーベルを立ち上げ、時代が文化そのものだったフランスの文化国家予算旺盛時期を突き抜け、ジャズの変遷その真っ只中にいて、個体的存在の際立ち。
「音楽家である前に人間であること。」彼は言い切った。結論から言おう。彼自身がジャズなのだ。

遠隔録音による海外ミュージシャンとのクリエイト、その真正たる音楽で話題をさらい続ける同じくギター奏者の笹久保伸とのDUO『Auto & Bauto』https://noelakchote.bandcamp.com/album/auto-bauto
を9月末に出したノエルにそのすばらしさを伝えるべく連絡をしたところ、なんと今はパリを離れフランス西の果て、ブルターニュ半島で作品を作り続けているという。日本への出発前に、直接インタビューをする運びとなった。

仲野(以下 N):ブルターニュにいらっしゃったとは存じ上げませんでした。

アクショテ(以下 A):生粋のパリジャンだったからね。目をつむってもパリの路地を案内できますよ。クラクフ、ウィーン、NY….ブルターニュに住むことになるとはね。ここ(モルビアン県 )湾の内海、反対側は大西洋、毎日海と家を行き来しています。

N: 何から伺いましょうね。次から次へと発表される作品を我々は追いつくことさえもできないのですが、やはり笹久保伸さんとの演奏の話からはじめましょうか。

A: 彼からコンタクトがあったのです。元来わたしはギター奏者とのDUOの演奏がとても好きです。
彼のアイデアにわたしが応答し、且つわたしからもアイデアを提案する。そのようにして音の交通が始まりました。
遠隔によるレコーディングはとてもエキサイトしました。一般的には同じ時空間で音を奏で録音する形態が常ですが、今回の場合、個々人の時間軸がレスペクトされる、という経験を得ました。
もしスタジオに一緒に入り演奏していたら、おそらく高揚さがゆえに、生まれるべき音は逆に生まれなかったかもしれません。
Shinのやり方にとても敬意をはらいます。私からの提案に対しての彼のリアクション、その真摯な応答は、彼の音が物語っています。<Don’t blame me> というジャズのスタンダードをやろうと提案した時、彼は「わたしはジャズの語法を知らない」と言っていました。それでいいのです。

N :二人が奏でるあの曲は、一瞬どちらがどちらの演奏かわからなくなる瞬間がありましたね。一体化、というのでしょうか。しかし決定的な異なる二人という存在も聞き取れます。

A : 対話なんですよ。そうそう、わたしは14歳の時にデレク・ベイリーに手紙を書いたことがありましたね。

N: お二人の作品はできてすぐにBandcampで配信が始まりました。

A: デジタルで配信するのは、その音楽が生まれたその瞬間に発表することができる、という利点です。
レーベルの判断、プレスにかかる時間、そういった手順からの解放です。わたしはこの解放がアーティスティックには必要であるとさえ考えています。Shinとの録音は後日EPを出す計画もあります。

レーベルを立ち上げる

N: 90年代に立ち上げた伝説のレーベル、Rectangle レクタングル(長方形という意味)の経緯はどういったものだったのでしょうか?

A: きっかけになったのは、やはりLes Instants Chavirés レザンスタンシャヴィエ の存在ですね。今でこそモントルイユ市(*1)はBOBO (*2) やアーティストが多く住んでいますが、当時はまだマグレブの移民、特に知識層のアルジェリア人、そしてマリの外国労働者が住むフォワイエ(*3)、そして町工場の地域でした。この街の一角に、コレクティブな形でライブのできる場が生まれたのです。すでに私が立ち上げたl’Astrolabという音楽ラボに、この会場は何をしてもいいですよ、と解放してくれました。当時はポストロック、シャンソン、ミュージック・コンクレート等の音楽が互いに交わることは稀でした。フランスのジャズも然りです。しかしレザンスタンシャヴィエには様々なミュージシャンが出入りしていました。最初私は知りませんでしたが、リュック・フェラーリもよく来ていたのです。私個人は当時のフランスのジャズシーンに興味がなくなり始めていて、ジョン・ビノー(映像監督)との仕事をしていました。彼はなんでもやらせてくれましたね。デレク・ベイリー、ミシェル・ポルタル、ルイ・スクラヴィスなどを呼んでライブを企画し、そこから派生する実験的な試みが行われているのですから当然彼らの演奏を録音しよう、となりますよね。皆言葉ではやろう、と言うのですが、本当に立ち上がったのは、わたしとサックス奏者のカンタン・ロレ Quentin Rollet(父はALFI *4の創設者でありドラマー)だけでした。
ですからカンタンと二人三脚でとにかく作り始めたです。
その当時LPからCDに移行していた時期でした。しかしわたしたちはロシア、チェコなどで使われなくなった、それはまるで1000年経っても使えるような頑丈なレコードプレス機で、作ることができたのです。
工場に発注する場合、当時はまだ1万枚単位でしたが、おかげで100枚、300枚単位でプレスができたのです。

10代、パリとジャズ

N: ステレオタイプな質問ですが、あなたとジャズの出会いは?

A: 同級生の父親が、サン=ジェルマン・デ・プレにあるジャズクラブ、ビルボケ(*4)の店長をしていたのです。ですから毎晩潜りこんで聞いていました。本来15歳の少年はクラブに入れないですからね。
15日間連夜ジョニー・グリフィンのサックスのベルの横で過ごしたこともありますよ。
ギターの演奏と並行して、わたしにとって音楽の学びの場はジャズクラブだったのです。
今では音楽学校として成立するジャズメソッドというものがありますが、当時は毎晩繰り広げられるジャズクラブそれ自体が学校でしたね。今では激減してしまいましたが、パリのホテルではラウンジでジャズミュージシャンが演奏をする慣わしになっていました。
また海外のミュージシャンがパリに住んでいたり、演奏に来たり。そうそう、デイブ・リーブマンはレイシーの家に毎日通っていましたよ。そんな中自然と彼らと過ごす時間がわたしにとっての生活だったのです。
パリで録音されたレコードもたくさんありますよね。意外とリバーサイドのLPはディジョンで録音されていたりするんですよ。またBlack & Bleu というレーベルがありました、――swing midnight bleus、いいですよね。トランペットのジョー・ニューマンもフランスで演奏していました。フランスには70~80年代でもブルースが根強く現場で演奏されていました。

父はわたしが13歳の時に亡くなったのですが、彼もジャズをよく聞いていました。
そしてわたしの名付け親はケニー・クラークと演奏をしていたギター奏者ジミー・ガーリーの友人でした。
彼らはコンサートの際、いつも笑っていましたね。その態度にわたしはとても印象を受けました。

N: バルネ・ウィランとは?

A: バルネは人間的にもとても興味深い人です。彼はどうやって暮らしていたのだろうな。10年ごとに音楽の方向性を変えていましたね。マイルス、民族音楽、アフリカ…彼の興味の対象たるや。彼がいるニースに行くとね、よくカフェに入って、何か奥の方でパトロンとやりとりしていたな。もしかしたらマフィアとのやりとりだったのかもしれないね。
わたしは金や成功には興味なく、どんな人間との出会いがあるか、の方が大切なのです。
ジャズミュージシャンに限らずすばらしい音楽家とは、まず偉大なる人間であるということです。
そして偉大なる、という形容詞にジェンダーはありません。

音楽と料理

N: 活動の拠点を移しながら、新たな出会いがあり、本当に様々な音楽的な経験をされていますね。何か特異的なシーンはありましたか?

A: 面白いというか、貴重であり愉快な体験としてあるのは、レストランでの演奏かな。
それはリヨンにあるLa Tour Roseという星付きレストラン・ホテルで、客は一泊食事付きで2000ユーロ(約20万強)払う人々なのです。そこのシェフPhirippe Chavant フィリップ・シャヴォンがある時期わたしたちミュージシャンに、「わたしが作る料理を食べた後にそこからインスピレーションを受けた音楽を奏でてください」という企画を提案したのです。もちろん食べるだけでなく、調理場に行き、調理工程も体験しました。ALFI のメンバーは料理をしている最中に演奏をするということもしていましたね。
カンタン・ロレの家族は料理人ですし。これらの録音はBandcampで聞くことができます。

45分は45年

A: ひとつの皿の上に料理が盛られ、食べる。この瞬間がおとずれるまでにどれだけの時間が必要でしょうか。
それに至る食材それぞれの時間も考えてみましょう。ジャガイモが実るまでにな何ヶ月かかる?イクラが鮭になる時間、土が経る時間…。演奏を、例えば45分ワンセットとして捉えるとします。しかし、この45分は45年という演奏者が経る時間でもあるのです。
料理というキーワードで語るならば、モントルイユ市のレザンサンシャヴィエ、あの空間はあの街で生まれた音、それは音でできたブイヨンといえるかもしれないね。ミクスチャーという語彙より、ブイヨンになるまでの時間を含んだ意味です。

ジャズ~インプロヴィゼーション~グレゴリオ聖歌

N: その後どのように音楽人生を?

A: 前述の通りパリでの活動、制作、出会いによって様々な演奏の機会が増えました。
80年代後半の、文化大臣 Jack Lang ジャック・ラングによる豊潤な国家文化予算は今では考えられません。各地域に国立舞台場ができ、そこではレジデンス、公演、文化交流と様々な事業が盛んに行われました。わたしたちの世代はこの恩恵の下、文字通り青春を謳歌したといえるでしょう。
実験的な音楽を試す場も多々ありました。
私たち若手を、アルド・ロマーノやアンリ・テキシエ etcといった…先輩筋が取り合うのですね。そのまま商業的路線を進む演奏家もいますが、わたしやGullaume Orti ギヨーム・オルティ(sax)は自分の探求する音楽、その道を進んでいます。
インプロヴィゼーションと呼ばれる音楽を意識するに面白い話があるのですが、ジョン・ゾーンがある分析をしたそうですよ。1000枚近い録音を聴き、一曲の平均的尺といいますか、それは約11分27だそうです。
静かなイントロから始まり、ラベル・ドビュッシー的なハーモニー、その後に最大音量の鳴らし合戦となり、終焉を迎える。一般的なインプロヴィゼーションはこの定型であると、社会学的に分析した、という逸話があります。もちろんそれ自体に対してのアイロニー、そして諧謔の意を込めてですが。
デレク・ベイリーの音の脱構築、それは、一度でも構成されているものでなければ破壊できない、という例えです。
チャーリー・ミンガスがやっていることは外側は違って見えますが、4世紀前と同じとも言えます。
これは批判ではないのです。飛躍した言い方になりますが、ルネッサンス、バロック音楽とジャズの共通性をみるのは面白いですよ。
ルネッサンス、バロック音楽ー彼らが奏でた音はコードの中で行われています。チャーリー・パーカーのビ・バップでも同様のことが行われていますよね。
パーカー自身がメロディーを書いているわけではありません。後に採譜され、モチーフ的なものがメロディーなります。それらは毎回変化して固定したメロディーというものではない。コードといわれる範疇で、たとえばコール・ポーターの曲のコード進行の中でインプロが行われている。
デレク・ベイリーが諧謔的に言っていたけれど、「最初の演奏者とは作曲家が曲を作るのを待っていない。まず自分自身で演奏したんだ」と。
蓋を開ければ楽曲その中で展開する音世界は同じともいえます。
違いがあるとすれば、個人として異なるということだけだ。これが重要なのです。
また、何をもってジャズと呼ぶかは置いておき、人類の歴史において、ジャズは楽器の前進に少なからず貢献しています。

ベイリーはこうも言っていました。
「ノスタルジーはない。経験に興味がある。そして時間だ。」
ー音楽をする意図と動作、態度。あるサックス奏者はサックスという楽器を奏でます。しかしベイリーはギターを奏でる以前に音楽を奏でているのです。
内面へ向かう即興としての方法、通奏低音の中でimprovisationをするバロック音楽にすでに聞き取れます。グレゴリア聖歌は伝統的には歌詞を口承で伝えるといいます。ある僧侶が弟子たちに歌詞を伝える際「音楽的ではない語彙は存在しない」という言ったそうです。
フランス語でmot (言葉・語彙)はラテン語でいmotus =動くという意味です。
mot = 言葉・語彙はすでに抑揚=動であり、それ自体が音楽なのです。

16世紀イタリアルネッサンスの作曲家 Carlo Gesualdo カルロ・ジェズアルド

N: どのようなきっかけでジェズアルドを演奏するようになったのですか?

A: はじめは、そうですね、長い話になりますが…2009-2010年でしょうか。ウィーンからフランスに戻った時期です。何か人生を失ったような時期で、とにかくたくさんギターを弾いていました。練習をクラッシクギターで行っていたのです。Carulli カルッリ、Pujol プジョルといった偉大なる作曲家たちの作品です。しかしながらクラッシックギターに親近感をもつことはなかったですね。もっと深い何かを、世界感のようなものを探していました。そしてある時、カルロ・ジェズアルドをわたくし自身のために録音したのです。それぞれ約15曲からなる6冊の楽譜本です。 それはまるで無限の宇宙に入るようなものでした。ルネッサンスの各作品は非常に強度をもっており、3声、4、5声、わたしにとっては絶対的に完璧な手順なのです。
最高のライバルは、私より練習をするわたくし自身。
教則本を買い、その本を最後までやることが目的ではないのです。

127曲からなるこのシリーズはBandCampのサイトから試聴できる。
https://noelakchote.bandcamp.com/album/carlo-gesualdo-madrigals-for-5-voices-integral-libro-1-6-original-edition-2011

チューニング、音楽その人生

ビル・フリーゼル、メアリー・ハルヴァーソンをフューチャリングし、ノエル・アクショテが音楽を担当した来年発売される、作家パトリシア・ハイスミスを追ったドキュメンタリー映画の音楽その音源を聞いた。
ギターの一音、チューニングから始まるその音がすでに音楽であること知る。
「チューニングは人類の歴史です」とノエルは言った。
音を出すための営み、その時間は一瞬の中にある、という事実。
演奏者がリアリティーに対し真摯であればあるほど、そしてそのリアリティーを感じ、聴き取ろうとする者ほど、彼ら演奏者が放つ音の鋭利の虜になり、また俯瞰しようとしていたはずの”音楽”というものが躊躇なしに入り込んでくる。そんな体験をするだろう。
ノエル・アクショテと笹久保伸のDUO作品から聞きとることができる疑いのない音の対話は、わたしたちに真の「一瞬」を与えてくれる。

愛猫がいるスタジオで練習し、共演者たちと音楽を奏でる姿。と同時に、音楽と一体化しつつ、ノエル・アクショテは今日も一人独走中。

*1 モントルイユ市 : パリ東に位置する郊外。
*2 BOBO : ブルジョワ・ボヘミアンの略。所謂中産階級より上だが敢えてボヘミアン的な気質を持ったブルジョワのこと。
*3 パリ6区にある老舗ジャズクラブ。パリのジャズを支えたクラブサンジェルマン(ヴィアン、ラインハルト、マイルス、パウエル etc…が演奏)と同地にあった。
*4 リヨンを拠点に活動する音楽家集団”ARFI” (Association à la Recherche d’un Folklore Imaginaire:想像的民族音楽探究協会)


仲野麻紀 Maki Nakano (alto-sax, metal-clarinet, voice)
2002年渡仏。2009年から音楽レーベル、コンサートの企画・招聘を行うopenmusicを主宰。フランスにてアソシエーションArt et Cultures Symbiose(芸術・文化の共生)を設立、日本文化紹介の講演・ワークショップをプロデュース。著書に『旅する音楽』(せりか書房 2016年)。最新CDに『openradio』(openmusic/Nadja21)。
インターネットラジオ openradio: https://www.mixcloud.com/makinakano/

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