# 132 Karin Krog|カーリン・クログ (ジャズ・シンガー)
ノルウェー、オスロ出身。1964年のアルバム 『By Myself』で国際的デビュー、1969年ダウンビート誌の新人女性歌手批評家投票で第一位に選出される。以来、スタンダードからフリー・インプロヴィゼーションまでをこなす独自のスタイルを持った異色ジャズ・シンガーとして注目を浴びる。70年代以降リリースされた ケニー・ドリュー、デクスター・ゴードン、アーチ―・シェップ、レッド・ミッチェル、ウォーン・マーシュ、スティーヴ・キューン らとの共演作は、当時のジャズ・シーンに驚きを与えヨーロピアン・ジャズの流れに大きな影響を与えた。また、ジョン・サーマン とのコラボレーションによる作品では実験的要素をとり入れた独自の世界を生み出し、ジャズ・シンギングの領域を大きく広げてきた。デビュー以来半世紀経った今も精力的に活動を続け、今なお新作を発表し続けている。最新作は今年1月に国内発売予定のスティーヴ・キューンらとの『ふたりの夜明け』(Enja/Muzak)。
http://www.karinkrog.no/
Interviewed by Atzko Kohashi in Amsterdam ~ Oslo, Norway via emails in December, 2014
Photos: Courtesy of Karin Krog
Portrait photos by Enid Farber
Photos from personal archives: Roberto Masotti, Milano
AK:ジャズを歌い始めたのはいつからですか?
Karin Krog(以下、KK):学生時代からです。先生の勧めで学校のバンドで歌い始め、その後ジャム・セッションやアマチュア・バンドに呼ばれるようになって。最初はドリス・デイやローズマリー・クルーニーのようなポピュラー・シンガーが好きでしたが、エラ・フィッツジェラルドやビリー・ホリデイの歌に出会ってからもっと音楽を真剣に聴くようになり、歌の裏側で何が起きているのか掘り下げて考えるようになりました。
♪ ジャズは聴く人を幸せな気分にする特別なフィーリングとリズムを持っている
AK:ジャズを歌おうと惹きつけられたその魅力は何でしょう?
KK:ジャズが聴く人を幸せな気分にする特別なフィーリングとリズムを持っていると思ったからです。
AK:日本にはあなたの長年のファンが大勢いて、「カーリン・クログは他に類のない特別な歌手だ」と考えています。1964年のデビュー・アルバム『By Myself』は強烈で、ユニークで個性的、他とは全く違うジャズ歌手だという印象を与えました。ジャズ・ミュージシャンは演奏スタイルや節回しを模倣することから始めて、ようやくある程度の個性を発揮するようになるものですが、あなたはどうやってその個性的なスタイルを作り上げたのですか?その秘訣は何でしょう?
KK:歌やジャズ演奏をたくさん聴きました。テーマのメロディーをどう扱うのか、元のメロディーからどうやって新しいメロディーラインを作っていくのか、リズムはどうか、どんなふうに演奏するか?それらを自分なりに取り入れていきました。とにかくたくさん聴いて、レコードを聴きながら一緒に歌った、それが秘訣だったと思います。
AK:批評家や多くのファンから、あなたはスタンダードからアヴァンギャルド、フリーの即興演奏までなんでも歌うことができると言われています。実際、あなたのアルバムから聞こえる音楽は様々なスタイルです。どうしたらフィーリングやイマジネーションを異なったスタイルで表現することができるのでしょうか?楽器ならばいろいろなアプローチができ易いでしょうけれど...。
KK:確かに私は様々なスタイルの音楽が好きで、できる限り挑戦したいと思っています。幸い、歌い始めた頃からいろいろなバンド、違ったスタイルで歌う機会に恵まれ、そのどれもが好きでした。俳優が演技力を磨くために、いろんな舞台で違った役を演じる必要があるのと似ているのかもしれません。それには、もちろんトレーニングを重ねること、そして音楽に対してオープン・マインド――偏見を持たず、いろんなジャンルの音楽に心を開いていくことが大切です。それからフィーリングの赴くままを歌うためのテクニックも。
AK:あなたのヴォーカリゼーションは他の歌手のスキャットとは違い、ずっと器楽的です。他の歌手には聴かれない特別なイメージがあります。どうやってそういう歌い方になったのでしょう?何か特別な影響やモチベーションがあったのですか?
KK:60年代、私はよくある普通のスキャットはもうやめて、何かもっと違ったサウンド――現代音楽にあるような音声や、クラシック音楽にみられる長く伸ばした発声法を使ってみたいと思っていました。そうすれば歌詞にとらわれ縛られることもなく、時にはただ音声として声を出すだけで新しいメロディーラインを生み出せる、と。例えば1968年の<処女航海>です。従来のスキャットは止めて、音声による即興演奏をやりたいと思いました。そこでハービー・ハンコックの曲を使って歌詞のない歌をうたうことにしました。この曲がモード手法で書かれた曲だったのでできたことです。ヤン・ガルバレクやクルト・リングレンとのバンドでやってきたことの上に、さらに実験的に電気音を加えてみました。当時、<処女航海>はほとんどのミュージシャンが知っていたので、レパートリーにはうってつけでした。1970年のヨーロピアン・ジャズ・オール・スターズでの公演やレコーディングにもこの曲をレパートリーに入れました。
♪ 演奏活動はアメリカより ヨーロッパや日本での方がやり易いです
AK:あなたは1967年にドン・エリスに認められて米国に行き彼のオーケストラと共演、そして1969年には米国 ダウンビート誌の新人女性歌手 No.1 に選ばれました。また、1994年にはノルウェー人としては初めて、米国 Verve から歌手生活30周年の記念アルバム 『Jubilee』をリリースしました。こうしてヨーロッパだけではなく米国でも(もちろん日本でも)成功したわけですが、米国での評価やセールスを目指していたのですか?
KK:時々米国に行ったのは楽しい思い出です。ドン・エリスとレコーディングした時は、労働許可証を持ってLos Angelsに一ヵ月滞在していたので、あちこちのクラブで歌ったりレコーディングもしたりしました。でも労働許可の問題は複雑なので米国行きは頻繁というわけにはいきません。演奏活動はヨーロッパや日本での方がやり易いです。
AK:英語が母国語でないことに難しさを感じたことはありますか?言葉の壁をどうやって乗り越えたのでしょう?それとも言葉の問題は特に意識していなかったのですか?
KK:英語が母国語でないことについてはとても意識して、英語の習得にはできるだけ時間をかけました。私の歌の恩師であるアン・ブラウンはガーシュインのオペラ「Porgy & Bess」の初演でBess役を演じた歌手です。最高の先生であり、ステキな女性、そして素晴らしい歌手でした。
AK:デクスター・ゴードン、アーチ―・シェップ、レッド・ミッチェル、ウォーン・マーシュ、ケニー・ドリュー、スティーヴ・キューン...あなたが彼らとレコーディングしたアルバムはどれも素晴らしく、印象が強いものばかりです。共演者は皆、超大物ミュージシャンたちですね。どういう経緯でノルウェーに住むあなたとのレコーディングが実現したのですか?どれもあなたの発案だったのですか?
KK:ノルウェーのジャズ・フェスティバルやクラブ出演にやってきた米国人ジャズ・ミュージシャンたちと知り合えたのは幸運でした。
デクスター・ゴードン との『Some Other Spring』をレコーディングしたのは1970年ですが、きっかけは1963年にBergenのクラブに私が2週間出演することが決まった時です。直前になってクラブのオーナーが その同じ期間にデクスター・ゴードン からの出演依頼を受けたと連絡して来ました。私は最初、これで自分の仕事はフイになったと思ったのですが、オーナーは両方のバンドを使うことを決め、私はデクスターの相方バンドで出演し、お互い知り合いになりました。その後 Molde International Jazz Festivalなどで再会、何度も共演レコーディングの話をしたり、コペンハーゲンのTV番組で共演したりしました。結局私はノルウェーのレコード会社を説得、ケニー・ドリューにベーシストのニールス・ヘニング・オルステッド・ペデルセン、それにノルウェーの若いドラマー エスペン・ラッドを加え、私とデクスター がオスロでレコーディングすることが決まりました。
レッド・ミッチェルとはLAでドン・エリスと仕事していた時に知り会い、後に彼がスウェーデンに移って来てから時々共演しました。ある日彼がウォーン・マーシュを連れてきて、一緒に『I Remember You』を吹き込みました。彼らは本当に素晴らしいミュージシャンです!
アーチ―・シェップとはドラマーのビーバー・ハリスを 通じて知り合い、彼の勧めでレコーディングしました。それが『Hi-Fly』です。
スティーヴ・キューン とは彼がスウェーデンに住んでいた時、友人のモニカ・ゼタールンドを通じて知り合いました。『We Could Be Flying』はスティーヴが自作曲を私に歌って欲しいというので生まれたアルバムです。
AK:録音の時には、選曲やアレンジについて彼らと打ち合わせしたのですか?それとも、録音スタジオでその時に浮かんだアイディアとその場のフィーリングに従って演奏した結果がああいう演奏になったのでしょうか?
KK:録音の前に、そのセッションの共演者に合いそうな曲を私が選び、譜面を用意して簡単にリハーサルしました。後はその場の雰囲気、気分に任せて、といった具合に。
AK:あなたの音楽へのアプローチはとても多様性があると思います。スタンダードからアヴァンギャルド、ノルウェー民謡まで、時にはスキャット(ヴォーカル・インプロヴィゼーション)やセリフのように語っているものまで。そうやっていつも音楽を多面的な視野で捉えながら、レコーディングやコンサートで常に新しいもの、何か違ったものを生み出そうと考えているのですか?
KK:いいえ、それは音楽の素材、何を取り上げるかによって変わりますし、人生のその時々に出会うものによっても変化するものです。常に新しいことをやり続けるのは簡単ではありませんが、それが音楽を生かし続けることになるのだと思います。
AK:あなたの多彩な音楽的アプローチについて語るとき、ジョン・サーマンなしには語れません。『Cloud Line Blue』(P-Vine 1978)、『Such Winters of Memory』(ECM 1982)、『Free Style』 (Odin 1986)、『Nordic Quartet』(ECM 1994)、『Blue Sand』(Seven Seas 1999)、『Song about This and That』(Meantime 2013)などでは、私たちがかつて体験したことのないような全く新しい音が聞こえてきました。単なる歌とサックスの演奏というものを超えた、メロディー、歌詞、言葉、ハーモニー、物語などが一緒になったトータルな音の世界が見えてきます。このような新しい音の世界を見出すに至った経緯は?
KK:ジョンは才能豊かな人で、いろんなスキルを持ったミュージシャンです。シンギング、音声のことをよく分かっているので、とても一緒にやりやすい。(彼は少年合唱団に入っていたことがあるの。)最初は歌とサックスだけで始めましたが、二人とも電気楽器に興味があったのでバックに効果音として入れることにし、それがだんだん発展していきました。ジョンが曲のパターンを決め、どちらかがメロディーラインを奏で、二人でそれをさらに発展させて、ある時は歌詞を入れて...という具合に。
AK:私は歌手ではありませんが、実はあなたの音楽にとても影響を受けました。私には、あなたは歌でセッションしているように聞こえます。お姫様とお付きの者たち、いわゆる歌手とバックバンドというのとは全く違います。ライヴステージでもCDからも、バンドメンバーとイコール・パートナーであるあなたの存在を感じます。こういったケースは歌手では稀だと思いますが、どう感じていますか?
KK:私はいつも共演者と同じレベルで音楽・演奏を共有することを目指しています。バンドの中でミュージシャンは誰もが大切な存在です。ボールゲームと同じように、お互いによく聞き合うのが大事。もちろん、時には誰かがソリストにならないといけないけれど。
♪ いつもスティーヴ・キューンのピアノで歌いたいほどお気に入り
AK:もうじき新作がリリースされると聞いていますが、スティーヴ・キューンとのニューヨークでの録音で、テナーのエリック・アレキサンダー、トランペットのルー・ソロフも参加していますね。スティーヴ・キューンもあなたにとって影響力の大きいミュージシャンではないでしょうか?1974年の『We Could Be Flying』以来4作目の共演アルバムということですが、キューン氏のピアノのどんなところに惹かれますか?
KK:スティーヴ・キューンは私のお気に入りのピアニスト。できることなら、いつも彼のピアノで歌いたいほどです。彼のピアノの魅力は何といっても独特なコードのボイシングにあります。そのコードの鳴らし方、そして歌を引き立てる和音の響かせ方。何と言ったらいいのか感覚的なものですが、彼のピアノで歌うと、いつもとても自由になった気がします。今度の新作『Break of Day』(邦題:ふたりの夜明け)でのスティーヴのピアノもとても素晴らしかった。<Folks Who Live on the Hill>でのイントロも、まるで彼一人がリズム・セクションのよう!
AK:1970年の大阪での万国博覧会の時に、あなたはヨーロピアン・ジャズ・オールスターズのメンバーとしてジョン・サーマン、アルバート・マンゲルスドルフ、ニールス・ヘニング・ オルステッド・ペデルセン、ダニエル・ユメール、エディー・ルイスらと来日していますね。日本の印象はいかがでしたか?
KK:1970年の来日は、何もかも違った未知の世界へやってきたようでした。目新しい電気製品、信じられないほど大勢の万博の入場者、そしてとても静かで礼儀正しい観客、おいしい食事に素晴らしい人たち――。1988年にもケニー・ドリュー トリオと日本に行きました。ベースのニールス・ヘニング・ オルステッド・ペデルセンとドラムのエド・シグペン、彼らと一緒に広島から札幌まで日本中を演奏して回りました。その後も何度か日本に行っていますが、いつも最高に楽しいです。また機会があればぜひ訪れたいですね!
インタビューを終えて: カーリン・クログは私が一番大きな影響を受けたミュージシャンです。私はピアニストですが、ずっと以前からカーリン・クログの大ファンで、歌手である彼女から大きなイマジネーションとモチベーションを与えてもらいました。そして、彼女のミュージシャンシップに感銘を受けました。リスナーに最大限のリスペクトを払いつつ、決して媚びる演奏をしない――自分に正直で、ジャズの本質である「自由」を求め続ける人です。変化を恐れず、いつもチャレンジしていくその姿勢に今も憧れます。私は、レコーディングの前はなるべく人の影響を受けないように他のアーティストのCDを聞かないようにしますが、カーリン・クログの音楽だけは別です。もっと自由にやりなさい!というメッセージが聞こえてくるからです。
編集部註:Karin Krogは国内盤ではカーリン・クローグとカタカナ表記されていますが、実際の発音にならって本稿ではカーリン・クログと表記しました。
関連リンク;
FbF1169 『カーリン・クローグ+スティーヴ・キューン/ふたりの夜明け』
http://harumi.sunnyday.jp/JAZZTOKYO/five/five1169.html
Interview #109(ジョン・サーマン)
http://www.jazztokyo.com/interview/interview109.html
Interview #107(スティーヴ・キューン)
http://www.jazztokyo.com/interview/interview107.html
♫ From Roberto Masotti’s Archives
Karin Krog at Bergamo Jazz Festival, Italy, 1974
She was accompanied by Kenny Drew
初出:JazzTokyo #204 (2015.1.25)