Interview #242 土取利行 多楽器奏者
Toshi Tsuchitori multi-instrumentalist
Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌 via Google Document, March 2022
Part 1:
桃山晴衣を通じて銅鐸、サヌカイトと出会う
JazzTokyo:昨年の近藤等則とのデュオ・ライヴCDに続いて今年2月には『サヌカイト・ライヴ』のCDが復刻されました。近藤とのアルバムは未発表録音で追悼の意味もあったと思いますが、いずれもパンデミック下で活動が制限される中、アーカイヴを検証する作業を通してのリリースでしたか?
土取利行:今、ウクライナ問題がパンデミックの話題以上にニュースに取り上げられていますが、中国でコロナが発生したと言われたのが2019年の末で、日本がパンデミック騒動になったのが翌年三月頃からでしたね。実は2015年の春頃から私はパリでピーター・ブルックの新作「バトルフィールド」のリハーサルと公演に時間を費やしていました。この作品は1985年にアヴィニヨンで初演した九時間に及ぶブルックの超大作「マハーバーラタ」の戦争についての物語を取り上げたもので、日本を含め公演は欧米、アジア各地に及びました。当時、香港、モスクワでの公演も無事やることができましたが、今では絶対に無理でしょう。中国とロシアはこの間、一気に専制国家へと猛進し、「バトルフィールド」の話が現実味をおびています。
この世界公演に終止符を打ったのが2016年の10月末でした。やっと日本に帰ることができたのですが、今度はブルックの長女で演出家のイリナ・ブルックから次作の演劇への参加依頼がありました。彼女は長いキャリアを持つ演出家で、世界に共通する現代的な社会問題を取り上げた作品を作りたいということで、二度ほど来日して作品作りの骨格も出来始めていたのですが、コロナが世界中に広がり一旦中断せざるをえなくなりました。そしてこの間に、近藤等則が亡くなり、続いて信じられないミルフォード・グレイヴスの逝去が知らされました。そしてブルック劇団で一緒に仕事をしてきた脚本家のジャン=クロード・カリエールも亡くなるなど、次々と知友が逝ってしまい一気に脱力感に襲われました。コロナ状況の中、東京にも出られず結局近藤くんの葬儀にも行けず、その追悼の意味で一本だけ残っていたカセットテープに録音されていた73年のピットイン・ティールームでの二人のライヴ演奏をCDとしてリリースしたのです。ミルフォードは、亡くなる五、六年前にデュオコンサートのため京都まで来てくれ、その時には足を悪くしていたものの元気だったので彼の死は未だ信じ難いのです。1976年以来の彼との出会いや音楽についてはいずれどこかで触れることがあると思いますが、やはりコロナ禍でニューヨークに飛んでゆけず、NYアートギャラリーで二カ月にわたって開かれたミルフォードの展覧会での追悼会に演奏を含めたヴィデオメッセージだけは届けました。
https://artistsspace.org/programs/milford-graves-memorial
「サヌカイト・ライヴ」のCD復刻については,ずっと取り組んできた添田唖蝉坊の晩年の遍路行を調べるため、何度か故郷香川に戻るうちに地元の仲間たちからサヌカイトの演奏をもう一度という声が聞こえ出し、長く廃盤になっていた「サヌカイト・ライヴ」の復刻を実現させ、今年5月には讃岐の浜辺でのサヌカイト・ミュージックヴィデオ制作と、その後何箇所かでライブコンサートを行う予定にしています。パンデミックで行動がかなり制限される中でも、いろいろなことが進展しています。
JT:近藤との活動もサヌカイトとの取り組みも土取さんのキャリアにとっては原点とも言えるものだと思いますが。
土取:音楽ということでいえばどちらも原点というか、私が求めてやまない原初への道の一つの入口です。
JT:近藤については後段に譲りますが、サヌカイトとの出会いは讃岐のお土産店で売られていた“カンカン石”ということですが。
土取:出会いというのは、私の音楽人生で最も大切なものだと思っています。ある人と出会い、その出会いがまた次の人の出会いへと導いてゆく。サヌカイトとの出会いは、1982年の暮れ、パリでの桃山晴衣との出会い無くしては起こらなかったことです。
彼女はパリに滞在していろんな場所で演奏していて、帰国前の最後のコンサートをマンダパという小さなホールでやりました。このコンサート間近に「マハーバーラタ」の音楽調査で滞在していたインドから帰ってきた私は、ちょうどパリに来ていた音楽評論家の竹田賢一氏の勧めもあって、マンダパに出掛けました。インドではフォークロリックな音楽だけでなく、古典音楽にも数多く触れ、素晴らしい音楽家から直接楽器を習ってもいたので、まだインド音楽の余韻が残っていた状態でしたが、桃山の三味線の音を聞いた時は、インドで初めて聞いた巨匠のサロードを聞いた時のような深みを感じました。この時、彼女が古曲宮薗節の名手だったことは全く知らず、演奏や歌もオリジナルの歌がほとんどだったのですが、開放されうた声と洗練された三味線の技で、これまでの三味線音楽のイメージは消されてしまいました。演奏後楽屋を訪ねてさらに驚かされたのは、パリ滞在中に友人宅に来ていた吉沢元治氏や小杉武久氏とも会っていたし、日本では高木元輝氏、さらにはデレク・ベイリーと手合わせもしてきて、私のパリ帰りを待っていたということでした。帰国直前になってパリの我が家を訪ねてきた桃山は竹田賢一氏と話し合い、来年一時帰国する私とのコンサートを計画してくれました。
随分前置きが長くなりましたが、1983年の一時帰国の際、私と桃山の即興を交えた初のコンサートが東京、名古屋、大阪で開催され、大阪では桃山のファンでもあった某テレビ局のディレクターが、私と二人で朝のワイド番組に出てくれないかと交渉にきましたが、私は興味がないので頑なに断り続けたのですが、三度目には東京まで見えて、これならどうでしょうと何やら摩訶不思議なものを持参してきたのです。私のテレビ出演を承諾させたこの不思議なものが、その後の古代音楽探求への道を開いた弥生時代の銅鐸だったのです。実際、この銅鐸は橿原考古学研究所の久野邦雄氏が音響効果を確かめるために各地の銅鐸の成分比を調べて復元したもので、博物館にあるような緑青をふいて傷ついたものでなく、金色に輝き鋭い音のするものでした。この銅鐸を演奏できるならテレビ出演は拒まない。こう決めてリハもなしで朝一番、ワイド番組での一声が即興演奏の銅鐸演奏で始まったのですから、すごい反響でした。この時は5個の銅鐸を用意してくれた久野先生もこの演奏に目を丸くして驚くばかりでした。そして研究所には二十数個の復元銅鐸があるのでこれを用いて本格的な演奏を、ということになり畝傍山頂での演奏になったのですが、この時は銅鐸についても弥生時代についても浅い知識しかなかったので、とりあえず素晴らしい銅鐸が多く出土している讃岐や徳島などから調査を始め、二十数年ぶりに帰った故郷で私のファンだという人たちから、サヌカイトのことを聞いて翌年彼らがチームを組んでコンサートを行ったのがCD「サヌカイト・ライヴ」として遺ったのです。
土産物屋でのカンカン石はその時に出会ったもので、その後彼らを通じてサヌカイト保持者の宮脇磬子さんと会ってこの自然石の魅力に取り憑かれ、さらにこれが旧石器時代の利器として使われていたということで、古代音楽の一環として演奏に臨むようになったのです。
JT:サヌカイト(讃岐の岩)の起源が前期旧石器時代ということは3万年前以上にまで遡るのですね。
土取:サヌカイトというのはドイツの地質学者ヴァインシェンクが命名したもので、日本の地質学的名称は古銅輝石安山岩と言われ、讃岐特有の地質から誕生したものです。非常に大雑把にいうとまだ瀬戸内海が存在していなかっただけでなく日本列島も存在していなかった中生代後期(白亜紀13600万年から6500万年前)に地下の深い所でマグマが固まってできた花崗岩が新生代後期の地殻変動で地表に顔を出した。この西南日本で最大規模の花崗岩域が、新生代後期はじめ、中新世頃(2600万年〜700万年前)さらなる火山噴火によって溶岩を噴出させ、この火山岩が凝灰岩と讃岐岩つまり安山岩を作り出したのです。そして氷河期が訪れると、まだ瀬戸内海が湖だった時期に、ナウマンゾウやヘラジカなど大型獣を捉えるための利器として讃岐の山々にあった安山岩が利用されたのです。安山岩は黒曜石と並んで、鏃や尖頭器を作るのに加工しやすく、切れ味がよいため3万年前頃の旧石器時代から、縄文、弥生時代の頃までずっと石器として重宝がられてきたのです。
JT:この石を楽器に見立てて音楽を演奏しようと思い立ったのは土取さんが始めてでしょうか?
土取:私が演奏で用いているサヌカイトは故宮脇磬子さんが所有していたもので、磬子さんの父、長尾猛氏が仏教音楽の磬石として私財を注ぎ込んで国分台のサヌカイト原石を採集し、60年近くにわたって親子二代で取り組んでこられたものです。サヌカイトは1964年の東京オリンピックの食堂で、憩いの音として流すように作曲家の秋山邦晴氏が原音ではなくテープに録音した音をミュージックコンクレートのように変調させて流したと聞いています。この石が宮脇さんのサヌカイトだったかどうかはわかりませんが、宮脇さんのサヌカイトを原石のみ用いて並べたり吊るしたりして即興で大々的な<演奏>をしたのは、CDの「サヌカイトライヴ」となっている1984年に私が行った高松でのコンサートが初めてだと思います。
JT:音階に合った音を得るために、石の形を整えるなどの作業があるのですか?
土取:宮脇さんのお宅に伺った時、何千もの石片が庭に積まれていて、この中から自由に選んでくださいというので幾つかの石を叩きながら直感的に選びました。すると私の石の選択眼に驚いたのか、宮脇さんは家の中に置いていたもっと響の良い石を提供すると言い出し、それを少し叩いていると、さらに自分の寝床の畳の下に隠してあった最も大事な石を使ってくださいという結果になりました。この石は何でも天皇陛下にも聞いていただいたという大切な石だったようですが、確かに非常に響きの素晴らしいサヌカイトでした。
「サヌカイト・ライブ」ではこの石も用いています。私の場合、音階に合わせるために石を削ったり加工したりということは全くせず、音階というのも石を選んでゆく中で自然ときまってゆきます。演奏に際して最も重要視しているのはこの自然のままの形をした石の声です。そしてこれを自然律と呼んでいます。
サヌカイトを産出する山は香川県にはいくつかあります。例えば金山のサヌカイトは形状や石質が異なり、自然石のままでは楽器として用いるのに適さないため、人工的に加工して音程を整えたり、拡声装置をつけたりしています。ですから平均律化したこちらのサヌカイトは西洋音楽を基盤とした演奏家や作曲家によって多く用いられるようになっています。
JT:いちばん響く音を得るためにハンマー(マレット)にも工夫があったと思われますが。
土取:撥にはさまざまな木製のものを主として用いますが、石やCDの最後の曲、「石壺」のように素手で叩く場合もあります。
JT:美しく響く音を得るためには石をバーから吊るす必要があると思いますが、このライヴ・パフォーマンスが行われたコンサートでは何枚のサヌカイトが使われましたか?
土取:私がサヌカイトを吊るして演奏するのは、演奏曲の一つに<ゆらき>と名付けているように、打った時に石の揺らぎで音を浮遊させるためです。いくつかの石を次々に叩くと、それらの倍音が交差してとても神秘的な音が生まれます。この波動は直接演奏者の体の動きに作用するだけでなく、内奥のエネルギーにも深く影響を及ぼしてきます。パーフォーマンスで用いた石の数は覚えていませんが、これらの石が先に言ったような効果を出せるように数や配置が自ずと決まってゆくのです。
JT:サヌカイトを使った演奏でいちばん難しいポイントはどこでしょうか?
土取:どんな楽器の演奏でも同じだと思いますが、楽器と体を同調させるということでしょうか。
JT:聴衆全員の耳に届けるためにPA(拡声装置)が必要だったのでしょうか?
土取:最初のコンサート「サヌカイト・ライヴ」では会場もさほど広くなく録音用マイクの他にP Aは用いてなかったと思います。この演奏は観客が非常に聴き入ってくれ、その沈黙の度合いが演奏の集中度を高めてくれましたし、石の声を鮮明に聞こえるようにしてくれたと思います。つまりPAは観客の沈黙とも言えます。二回目のサヌカイト演奏は、無観客の青ノ山山頂で行いました。これはCFも兼ねての演奏だったのですが、録音も撮影も数十メートルの距離をとって作業をしてもらいました。これは人の気配を遠ざけ、光や風に包まれた自然界のエネルギーを演奏に取り入れるためでもあります。
JT:サヌカイトは土取さんが1980年代から継続して来られた日本音楽の古層調査の一環のひとつだと思われますが、CDや著作として発表された成果には他にどのようなものがありますか?
土取:私が古代音楽三部作と呼んでいるのは当時ビクターの民族音楽部門などのディレクターを務めていた藤本草さんが中心になって実現したJVCの『銅鐸』『サヌカイト』『縄文鼓』といった弥生時代、旧石器時代、縄文時代の楽器を演奏したアルカイックサウンドシリーズです。これは「マハーバーラタ」の音楽制作期間から公演期間にかけて実現してきたもので、藤本さんともビクター時代から知り合っていた桃山晴衣がプロデュース役を引き受けてくれて実現したものです。
また縄文鼓の演奏実現までには縄文学の泰斗、小林達雄先生はじめ考古学者や陶芸家など多くの人との長い共同作業があり、その成果は著書『縄文の音』(青土社)で発表し、サヌカイトと関連した旧石器時代の音楽を調べるのにフランスの音響考古学者や考古学者の教えを受けてピレネー山麓に点在する壁画洞窟を訪ね演奏した経験から著書『壁画洞窟の音』(青土社)を出版しました。
JT:アルバムの<石占>という曲は、第62回グラミー賞の最優秀ヒストリカル・アルバム賞部門でノミネートされた『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』の一曲として取り上げられましたね。この<石占>とはどういう意味ですか?
土取:石と占は合わせると砧(きぬた)という字になりますね。砧は(衣板:きぬいた)という言葉の転じたもので、麻などの植物繊維で織った布を槌で打って柔らかくするのに用いる木や石の台のことで、それを打つ行為や打つ音を意味しています。この作業はカラムシなどの植物繊維があった縄文時代もあったと思われますが、それ以前の寒冷期、旧石器時代では動物の毛皮をなめす作業でも共通しているはずです。つまり打つことによって対象物をしなやかにする。植物繊維や動物の皮膜の質的変化をもたらせる。このことはサヌカイト石を叩いて音を紡ぎ出す時の重要な視点でもあります。またこの石を叩くという行為が一種のマジカルな行為であり、占いにも通じるものとして石占という曲名にしたのです。
Part 2
間章、ピーター・ブルック、ミルフォード・グレイブス、添田唖蝉坊...
JazzTokyo:土取さんの音楽家としてのキャリアは1970年代早々の京都での近藤等則(tp)との出会いから始まりますか?
土取:フリージャズドラマーとしてのキャリアは彼と一緒に演奏を始めた1970年早々の頃からです。近藤くんは当時京都大学の工学部というエリート学部の生徒でしたが、同時に軽音楽部で高校の時から吹いていたトランペットでジャズにのめり込んでもいました。クリフォード・ブラウンやブッカー・リトルを仰ぎ、在学中にプロへの志を深めていったようです。私の音楽家としてのキャリアで言えば、十代の高校生の時、同級生の友達が68年に来日したビートルズの影響で作ったロックバンドでドラムを叩いてくれないかということで参加したのがきっかけで、当時グループサウンズの期待の新星として大阪のゴーゴークラブでレギュラー出演するようになると東京からわたしたちを某プロデューサーが引き抜きにきました。しかし高校の卒業と同時に仲間は東京行きを断念し、プロミュージシャンとしての覚悟を決めていた私は取り残され先行き真っ暗と成りました。この時、クラブの照明係の人がプロのドラマーになるならと連れていってくれたのがジャズスポットの「ハチ」です。そこで聞いたのが大音響でスピーカーから流れてくるコルトレーンの演奏、そしてエルビン・ジョーンズのうねるようなドラムのリズムでした。ロックドラムをやっていたので大きな音には驚かないのですが、ジャズのシンコペーション、オフビート、さらにそれらが入り混じったダイナミックで個性的なドラム演奏に衝撃を受け、時間があれば「ハチ」に通うようになっていました。この時期にベーシストの西山満さんと出会い、彼は大阪のドラマーを紹介してくれ、関西のジャズミュージシャンが演奏する北や南のクラブやバーなどでドラムを演奏するようにしてくれました。そして1970年に西山さんが谷町9丁目の地下鉄入口に、いつでもライブ演奏ができるようにとジャズスポット「サブ」を開店し、私はクラブでの演奏をやめ、そこで寝泊まりしながら昼はジャズ喫茶のカウンターで仕事をしながら、夜は地下鉄のシャッターが降りて誰もいなくなるため、店のレコードを次々にかけながらドラムセットでの練習を朝までやっていました。週末には関西のジャズミュージシャンが西山さんとジャムに来てジャズ演奏をしていたのですが、ある日、当時まだ京大生だった近藤くんがこのジャムセッションにみえ、それが彼との最初の出会いとなりました。何度か彼が来るうちに意気投合した私は、京都に来ないかという誘いで「サブ」を離れることになりました。大阪は万博で賑わい、京大は学生運動で揺れていた頃です。
JT:その後、近藤と上京し、東京を中心に活動が始まりますが、プロデューサーの間章との出会いがステップ・アップのひとつの要因になりましたか?
土取:出会いが私の音楽を形成する上で大切だということは先ほど言いましたが、間章氏との出会いもそうです。私は東京という街を知りませんでした。高校の修学旅行でバスに乗って1日素通りした程度で、なんの身寄りもない異国の地でした。近藤くんが京大卒業を前にジャズトランペッターとしてプロになると決意し、彼の卒業後、すぐに私たちは上京しました。近藤くんは友人の紹介で幼稚園の部屋付き守衛という仕事があったのですが、私は全く頼る人もなく、着いてすぐに仕事を探し、部屋もないので両方兼ね備えた新聞配達の仕事につきました。三、四人が同居する新聞配達員の部屋は狭く、ドラムセットも置けないくらいで、ましてや練習もできません。ドラムセットは近藤くんの幼稚園に置かせてもらい、新聞配達のない日曜の午後からが幼稚園で練習のできる日でしたが、当時は新聞配達の荷台に練習台を取り付け、配達の終わった時には公園に出掛けて練習に励んでいました。
やがて近藤くんは鶴川の方に引っ越し、代々木で弁当配達のアルバイトを始め、その店が朝の飯炊きを要していたので、私もここでアルバイトをするようになり、平日は昼から、土、日は全日休みが取れるようになりました。近藤くんは近くの和光大学の音楽部の部屋を借りて練習を始め、私もそこにドラムを運んで土、日とフルで練習に明け暮れることができました。この頃、新宿のピットインの裏にティールームがあり、フリージャズを志す音楽家の登竜門となっていました。早速ここに二人でオーディションにゆき、すぐに出演が決まりました。当時は細胞分裂を名乗る坂田明、阿部薫、沖至、高木元輝なども出演しており、客こそいなかったものの活気ある空間でした。近藤くんと二人で演奏していて間も無く、私は高木元輝氏から一緒にやりたいという知らせがあり、当時高木さんと一緒に演奏していたベーシストの徳広崇くんが私たちのグループにも参加するようになり、またこの頃、国立音大生だった梅津和時くんも74年の渡米まで、一時参加していました。
こうした流れの中で、近藤くんとアケタの店というライヴハウスで演奏していた時、高木さんと一緒に間章氏がみえて、演奏後に彼の思いを私たちに語りました。そして後日、渋谷の彼の家やランブルという喫茶店で何度も会い、E.E.Uの構想なども聞かされました。
JT:E.E.Uとはどんなグループでしたか?
土取:E.E.UというのはEvolusion Ensemble Unityの略称で、間氏の命名によるものです。74年に間氏は春から半夏舎を設立し、E.E.Uの構想を打ち立てていました。このグループは、彼の言葉を借りて言えば「単なるコンサート制作、プロモートでは決してない関わりと相互学習・共同の運動を個と個の開かれた関係へ向けて内的、外的に深化し、主体的、自覚的な自主組織、個人との連帯・共闘をよりきたえてゆき、共に真の運動を展開するために結成された即興演奏グループ」ということでした。最初は高木元輝、近藤等則、徳広崇、豊住芳三郎、そして土取利行のメンバーで、1975年8月13日に青山タワーホールで結成記念・ファースト・コンサートが開かれました。このコンサートにはゲストとして吉沢元治、小杉武久の参加もありましたが、急遽この年に私にニューヨーク行きの話が舞い込んできて、結成したばかりのE.E.Uから離れなければならなくなり、その後E.E.Uはドラムレスで活動しましたが、間氏の急逝後はメンバー個々の道を歩んでゆくようになりました。
JT:EEUはヨーロッパ・ツアーも敢行しましたね。
土取:E.E.Uのヨーロッパツアーは私がすでにピーター・ブルック劇団に入団していた1977年の6月に高木元輝、近藤等則、吉田盛男のベースでイタリア、フランスを舞踏家の公演で一緒に回ったもので、その公演が終わった後、6月1日にパリのテアトロ・パラスで間氏の呼びかけでデレク・ベイリー、スティーヴ・レイシー・クインテット(スティーヴ・ポッツ、イレーヌ・アエビ、ケント・カーター、オリバー・ジョンソン)そしてパリに滞在していた吉沢元治と土取利行が参加しての “インプロヴィゼーションの革命” と題する自主コンサートが開かれたのです。そしてこの後、私はすでに親交を深めていたミルフォード・グレイヴスを間章氏と招聘するため帰国することになりました。間氏は76年に私の呼びかけでニューヨークに来てミルフォードに会い、翌年彼の初来日を実現させたのですが、その翌年にはデレク・ベイリーの初来日を実現させ、両者とも阿部薫を含むE.E.Uのメンバーだった私たちとの共演で全国ツアー、レコーディングも行いました。その後もハン・ベニンクとぺーター・ブロッツマンを招聘するので帰ってきてほしいと彼から手紙が来ていたのですが、それを実現できないまま夭逝してしまいました。
JT:1976年のピーター・ブルックとはどのような出会いがあったのでしょうか?
土取:私は1975年秋に初めて渡米しましたが、これも偶然というか人の繋がりの妙でした。おそらく1974年に近藤くんと読売ランドで演奏していた時ですが、竹田賢一氏が訪ねてきて、ブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』の日本語ヴァージョンによるコンサートを計画しているので出演してほしいという依頼を受けました。このフォンテーヌの『ラジオのように』の輸入版LP解説は間章氏が書いており、この頃竹田氏との付き合いも始まっていたのかと思います。近藤くんは参加しなかったのですが、私はこの演奏を引き受けました。私の記憶では、なんとタイトルは「ヨーグルトはいかが」、歌手は竹田氏がなじみだった新宿歌舞伎町のバーのSさん、そして竹田氏と活動を共にしていた当時芸大生の坂本龍一氏がピアノで参加、劇場に渋谷の天井桟敷が使われました。こうして間章と竹田賢一両氏との繋がりを持つようになりました。またこの時期、梅津和時くんと練習していた時に知り合ったARMレコードの小島氏も彼らと繋がるようになり、私の高木元輝とのファースト・アルバム「オリジネーション」、続いて坂本龍一との「ディスアポイントメント・ハテルマ」がARMからの自主レーベルでリリースされたのです。
こうした目まぐるしい時に、竹田氏か坂本氏かのどちらかから、ニューヨークに行ける仕事があるが参加する気はあるかという知らせが来ました。これはピーター・ブルック劇団のヨシ笈田氏からの依頼でした。彼はブルックがパリのブッフ・ドュ・ノール劇場を拠点にして作品作りを始めた合間を縫って、自分の演劇作品を欧米で公演するために一時的に日本に戻って準備を進めていたのです。私はピーター・ブルックのこともヨシさんのことも全く知りませんでした。ヨシさんは「チベット死者の書」をもとにした「般若心経」という実験劇を構想していました。メンバーは僧侶、神官、武道家、能楽師、そしてヨシさんともう一人の俳優からなる日本の声と動きによって死後の魂の行方を描く実験劇で、音楽家を探すために彼の知人の劇作家から当時某出版社の編集長だった坂本氏の父を紹介され、龍一氏に音楽依頼をしたそうですが、彼は乗り気でなかったらしく私にその依頼が回ってきたというわけです。私はE.E.U結成後のまもない時期でもあり躊躇し、間氏や近藤くんにも相談しましたが、心配せずに行ってこいと、間氏はすでに出来上がっていたE.E.Uのポスターに「土取利行渡米記念」とわざわざ印刷を加えてくれ、出発に際して近藤くんと一緒に空港まで見送ってくれました。
この「般若心経」はパリの秋の演劇祭参加作品としてブルックの拠点ブッフ・ドュ・ノール劇場で上演され、終演後ピーター・ブルックと挨拶を交わしたのが彼との初めての出会いでした。
翌年からはニューヨークのイーストヴィレッジに住んで、ミルフォード・グレイヴスとの親交をはじめ、ウィリアム・パーカーなどと毎日のようにジャムを続けていましたが、ヴィザも金もなくなる頃、救いの手紙がブルックからきました。イタリアのヴィエンナーレで即興劇を行うため音楽家を必要とするため劇団に参加してほしいという知らせでした。それ以来、欧米を往復しながらのブルックとの仕事は40年以上にわたります。
JT:ピーター・ブルックとの仕事の内容について説明していただけますか?
土取:40年間の彼との仕事ですので、簡単には話せませんが、彼がパリのブッフ・ドュ・ノール劇場を拠点にして始めた世界各国から集まった俳優による演劇活動は非常にユニークなものです。最初の仕事は76年のヴェニスでのヴィエンナーレで、国籍を異にする六人の俳優と音楽家の私で街のあらゆるところにカーペットを広げて、集まった人たちに即興劇を繰り広げるものでした。この時はまだフリージャズが身体中に染み渡っていた時で、フェスティヴァル主催者に許可をもらってサンマルコ広場でドラムソロをやらせてもらったりもしました。これはその後の私のドラムソロ活動へのきっかけになった記念碑的演奏でした。そして78年にアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』を劇場演劇として上演した時から、『鳥たちの会議』『マハーバーラタ』『ハムレットの悲劇』『テンペスト』『ティエルノ・ボカール』『11&12』『驚愕の谷』『バトルフィールド』などで音楽監督、演奏者として世界各地での公演を続けてきました。
とりわけ1985年にアヴィニオン演劇祭で石切場を舞台に初上演した『マハーバーラタ』はピーターと脚本家のジャン=クロード・カリエールが十年の歳月をかけて完成させた九時間にわたるインド大叙事詩劇で、演劇史に残るブルックの金字塔とも言われる超大作でした。この作品で音楽監督に任命された私はインドに何度も通い、アジア各地でも実際にさまざまな音楽家に会って自らも様々な楽器の奏法を習ってきました。とりわけインドでの体験はアジア音楽への理解をより深め、その後の音楽活動にも大きな力となりました。ピーターとの仕事についてはあまりにも多くの体験があるので、またの機会にお伝えできればと思います。
JT:ピーター・ブルックの劇団を退団した後、1980年代に桃山晴衣さんとの出会いがあり、郡上八幡に拠点を作りました。土取さんにとって桃山さんはどのような存在でしたか?
土取:退団というのではなく、ピーター・ブルックの作品に関わるときには作品ごとの自由契約ですので、ずっとフランスと日本を絶えず行ったり来たりしていました。桃山と郡上八幡に立光学舎を設立したのは1987年。これは1988年に長かった「マハーバーラタ」の世界公演が日本の東京、セゾン劇場で終わることになり、このとき役者や音楽家が三ヶ月も東京に滞在するため、ピーターや彼らに違った日本を見てもらいたかったのですが、招待できる我が家もなかったため、桃山は自分が住んでいた岐阜の鵜沼の家を売って、私と一緒に前々から通っていた郡上八幡に芸能堂「立光学舎」を建てることにしたのです。ピーターはもちろんここに祝いに来てくれましたし、役者や音楽家たちも駆けつけてくれました。
私は『マハーバーラタ』でインドに滞在し、インド音楽の真髄に触れることができましたが、この時、アジアの音楽、とりわけ自分が日本音楽について実際に何も伝えられておらず無知であることを痛感していました。パリで桃山晴衣の歌と三味線に触れて以来、彼女から実際に古曲宮薗節や数々の江戸の音曲、そして明治の民衆歌、添田唖蝉坊・知道の演歌などを学んだことは、音楽の捉え方にも大きな影響を与えられました。
彼女は二十代でなった桃山流の家元をやめ、古曲宮薗節の人間国宝四世宮薗千寿の元でただ一人の内弟子として修行を積み、五世宮薗節の後継者としての名前ももらっていたのですが、この邦楽界の家元にとどまることに疑問を持ち、後ろ髪を引かれる思いで師匠の元を離れました。
また彼女は「於晴会」というグループを作って、高度成長期から歪になってきた日本音楽のありようを考えてきました。そのご意見番として桃山を囲んでいたのは明治人の徳川義親、円城寺清臣 、英十三、岡本文弥、秋山清、添田知道など錚々たるメンバーです。また私がフリージャズに明け暮れていた頃には渋谷ジャンジャンで「古典と継承」と題して伝統音楽と並行して自らの作詞作曲を発表していた。彼女の名を一躍有名にした「梁塵秘抄」の作曲演奏活動もここから始まっています。彼女の活動については再版を願ってやまない「恋ひ恋ひて・うた・三絃」(筑摩書房)や「梁塵秘抄・うたの旅」(青土社)「にんげん・いっぱい・うた・いっぱい」(工作舎)に詳しいので特に女性には是非読んでみてほしいと思います。
JT:桃山さんとの共同作業でのいちばんの成果は何でしょうか?
土取:先にも言いましたが、桃山は私の古代三部作「銅鐸」「縄文鼓」「サヌカイト」のプロデュース役で邁進してくれましたし、郡上八幡に移ってからの十年は「伝でん奥美濃ばなし」と題し、200年続いてきた地元の地歌舞伎の人たちと子供も交えて、この地に伝えられてきた話を古老から聞いて桃山が脚本を書き、二人の音楽で地元の歌舞伎役者たちと三本の大芝居を作ってきました。この「伝でん奥美濃ばなし」を始める前にこれからの立光学舎の活動の目標にもすべく、郡上八幡の有志と郡上八幡88フェスを開催しました。これは私がインドのシャンティニケタンに滞在して出会った詩聖タゴールの業績を後世に伝えるべく活動する人たちを日本に招聘し、郡上の人たちと文化交流をさせたかったからです。この企画は88年に「マハーバーラタ」の最終公演を実現した堤清二氏やセゾングループの人たちに、世界をめぐって開催されていたインド祭の日本開催の依頼がインド政府からあったことに始まります。ちょうど「マハーバーラタ」公演の打ち合わせをしていたとき、西武美術館からこのインド祭の企画の相談があり、私が提案したのがタゴール展でした。タゴールを総合テーマにすれば、日本では初となる彼の絵画展、そして2000曲に及ぶタゴールソングのコンサート、サタジット・レイなどによるタゴール関係の映画、そして日本のタゴール研究者などとのシンポジウムと、タゴールを通してインド文化を紹介できるのではないかと企画提案しました。そしてこの提案が実現され、タゴールソングの名手シャンティデヴ・ゴーシュ、シャルミラ・ロイ、子供の時にタゴールの創作舞踊を詩聖の振り付けで踊ったダルパナ芸術院主宰者で国宝級のダンサー、ムリナリニ・サラバイの舞踊団たちが来日、シャルミラとムリナリニ一行は郡上八幡にもみえ、立光学舎で私たちとの公演を実現してくれました。
私と桃山は、これを機に日本では全くレコードもなかったタゴール・ソングのCDを作るべく立光学舎レーベルを立ち上げ、ARMレコードの協力を得て、シャルミラ・ロイの「タゴール・ソング」をファーストアルバムにしました。シャルミラはブルックの映画「マハーバーラタ」でもタゴールソングを歌っていますし、私のタゴールソングの先生でもありました。アルバムではトルコ、イランの音楽家と私の伴奏で録音がおこなわれました。この立光学舎レーベルの発行にあたり、私と桃山は以下のようなメッセージを伝え残しました。
◉個としての必然、その深さが普遍性をもつこと。
◉足元をしっかりと踏まえた創造。その充足が、隣人を受け入れる柔らかさをもつこと。
JT:他に、添田唖蝉坊演歌の研究と継承があるわけですが、添田唖蝉坊の魅力と継承の意義について教えてください。
土取:添田唖蝉坊の演歌研究と継承は、実際に桃山晴衣が最後の弟子として演歌二代といわれる息子の添田知道氏のもとで演歌を習っていたことによりますが、彼女の亡くなった後、誰もこの作業を継承するものがなく私が奮起することになったのです。彼女は古曲宮薗節を納めた後、日本の民衆の歌の在りようを見つめ直し、ご意見番だった添田知道氏が演歌の祖と言われる添田啞蟬坊の息子で、唄の継承者としてだけでなく、明治の壮士から始まる啞蟬坊の演歌の流れを記録してきた人でもあり、実際に近代流行歌の本流を築いてきた人がいるのだから直接学びたいということで、知道氏に入門して歌のうまれた背景や啞蟬坊について、また歌の本来の節については直接歌いながら覚えた他に、テープにも録音して綿密な学び方をしてきています。
彼女はこの時期、添田知道氏と啞蟬坊の友人であった堺利彦の娘の真柄さんと一緒に、まだ現存していた荒畑寒村の会で演歌を唄い、明治人の演歌との接し方に感動したと言っていました。知道氏が亡くなってからは流行歌の矛先を平安時代の今様歌「梁塵秘抄」に移し、その作曲と歌や演奏に力を入れるようになり、演歌とは離れていました。桃山晴衣の逝去後、彼女の荷物を整理していたら段ボールの中に知道さんと録音したテープや演歌についての貴重な資料がたくさん遺されていて、これらの資料の重さを実感した私は、彼女が知道氏から教えてもらった演歌を研究し、桃山の三味線を手に200曲近い添田唖蝉坊、知道演歌を歌い継ぐことができ、立光学舎レーベルから「添田唖蝉坊・知道を演歌する」として二枚組三セットのCDをリリースしました。
近年、啞蟬坊の演歌はフォークやロックのミュージシャンがプロテストソングとして歌っていますが、これらの歌は啞蟬坊が堺利彦と出会って社会主義者となってからの一年間に作った歌がほとんどです。啞蟬坊や知道氏の歌には時代と共に変遷する流行歌の流れが読み取れ、戦中を生き抜いた民衆の悲喜こもごもを歌いあげています。また啞蟬坊は関東大震災の数年後に演歌活動を全くやめて、仙人行に励んだ後、八年近くにわたって四国遍路の旅を二度ほど続けて生涯を終えます。私にとっては、演歌そのものだけでなく、彼の歩んできた精神的人生もまた非常に興味深いのです。
JT:桃山さんを離れて、さらに、フランスの洞窟壁画の音楽調査と演奏がありますが、これは壁画から音楽を判読し、演奏するのでしょうか?
土取:サヌカイトの演奏を始めた時、この石が旧石器時代に利器として用いられていたことを知り、旧石器時代の人類の営みとりわけ音楽についても研究しようと思って調べてみましたが、日本ではヨーロッパのようなアルカリ土壌と違い酸性土壌が多いため、壁画だけでなくヨーロッパで残っている骨製や木製などの有機的遺物がほとんど消えて見つからないため、精神的な営みの考証ができにくい状態です。これも偶然ですが、パリのシャトレ劇場で縄文鼓のコンサートを行った時、レセプションで学者に会い、彼からフランス南部のピレネー山麓には壁画洞窟が点在し、古代音楽に関しても多くの遺物があるので、是非行くべきだという話をしてくれました。その一年後、ブルックの「ハムレットの悲劇」の仕事でパリを訪れ、休暇が取れた時、知人でパリに住むキューレイターの白羽明美さんが近代美術館館長を務めていたジャルマン・ヴィエット氏に連絡をとってくれ、さらにジャルマン氏が壁画洞窟の研究者に繋いでくれ、念願の洞窟探訪が実現できたのです。私が興味を持っていたのはトロア・フレール洞窟で、ここは未だ発掘が続いており観光客は一切入れないばかりか、関係者も年に二、三回調査に入れるだけの狭き門でした。なぜここに行きたかったかというと、この洞窟に残っている半獣半人の先刻画にひかれていたからです。この絵は野牛のマスクをつけたシャーマンが鼻笛か楽弓を奏でているとされ、最古の音楽に関するイコンです。この洞窟での体験は私の『壁画洞窟の音』(青土社)に書いていますし、その後NHKの番組にもなったクーニャク洞窟での鍾乳石の演奏は『壁画洞窟の音』としてJVCからCD化されています。私が演奏するに至った鍾乳石も楽器として演奏されていたという音響考古学の報告がありました。
JT:パンデミックが終息しないまでも収束を迎えることを想定した今年の下半期の活動予定を教えてください。
土取:今年の大きなプロジェクトは、「サヌカイト・ライヴ」を開催して38年ぶりのサヌカイト演奏を、5月に故郷讃岐の浜辺で行い、それを映像化してブルーレイでリリースするため、有志たちが実行委員会を立ち上げ、クラウドファンドでその制作を実現できるよう動いてくれていますので、皆様の支援をよろしくお願いいたします。
◆クラウドファウンディング支援ページ
https://motion-gallery.net/projects/sanukaito22toshi
また近藤等則の死後、コロナ禍で彼の追悼もできないままでしたので、今年の彼の命日には追悼コンサートを公に持つ予定ですので、後日 JAZZ TOKYO でもお知らせいただけることと思います。
Part 3
旅を通して根源とは何かを探し求める
JazzTokyo:音楽環境に恵まれた家系のお生まれですか?
土取利行:いいえ全く違います。ただ自然に恵まれた環境だったことが大きかったと思います。
JT:初めて音楽に興味を持ったのはいつどんな音楽でしたか?
土取:小学生になった時、教室にオルガンがあり、女の先生がそれを弾いて生徒は唱歌などを歌わされていました。この音楽授業が皆好きだったのですが、それは音楽というよりも先生の優しさに惹かれていたのかもしれません。
JT:初めて楽器を手にしたのはいつ頃ですか?
土取:はっきり覚えていないのですが、幼稚園で子供たちが打楽器だけで演奏している写真があります。ほとんどの生徒はカスタネットを叩かされていますが、私は真ん中で大太鼓を叩いています。なぜかわかりませんが、この頃から太鼓を叩く才があったのでしょうか。なんとも運命を感じるような写真です。その後小学生になってからは獅子舞の太鼓を叩くようにもなりましたので、やはり太鼓とは縁があったのでしょうね。
JT:ジャズ、即興音楽に興味を持ったのはいつどんなきっかけでしょう?
土取:これは十代でロックをやめて、ジャズを始めた時からで、その後即興にも色々な形があることは、世界中を回って各国の音楽に触れるたびに学んでゆきました。
JT:楽器の手ほどきを受けたミュージシャン、先生はいますか?
土取:身体が楽器であるということを学んだのはミルフォード・グレイブスとヤラという武術を通してです。
私が現在のような多楽器奏者となっていったのはピーター・ブルック劇団でいくつもの楽器を演奏することが要求されたからで、特にインドではパカワジという太鼓の名手プルショット・ラムダス、古典唱法ドゥルパドの名手ダガール・ブラザース、南インドではガタム奏者ヴィナヤッカラム、タゴール学園ではエスラジをトゥクダから習っています。またナイジェリアではトーキングドラムをアイアンソラーから習いました。この他にも他国の音楽家や舞踏家たちから直接学んだものは多くあります。ブルックとの仕事がなければ、こんなにも多様な演奏を展開することはできなかったでしょう。
JT:聴き込んだミュージシャンやアルバムはありますか?
土取:ライブでもレコードでも、その時々で聞き込むアルバムやミュージシャンは変わってゆきますので、一概には言えませんね。例えばインドから戻ってきたときは、ほとんどインド音楽のアルバムばかり聴いていましたし、異国を訪問して帰ってきた時にはその国の音楽ばかりをしばらく聴いていたりします。逆に古代音楽の調査や研究に入っていた時には一切ジャズなども聞かないで集中していました。ただジャズをやり始めた当初はたくさんのドラマーのレコードを何度も聞いてコピーはしていました。
JT:影響を受けたミュージシャンやアルバムはありますか?
土取:フリージャズのドラミングでは直接の交流が長くあったミルフォード・グレイブスの奏法や音楽の考え方、そして当時は聞けるジャズ喫茶もほとんどなかった彼の二枚の「ノンモ」というアルバムには大いに影響されました。
JT:さまざまな活動を展開されていますが、駆り立てるいちばん大きなモチヴェーションは何でしょう?
土取:生きることでも、音楽においてでも、根源とは何かということを常に探し求めることです。探究心がなくなれば全てが停止してしまいます。そのためにはやはり旅が必要になってきます。
JT:近藤等則、間章、スティーヴ・レイシー、デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴス、ピーター・ブルック、桃山晴衣について一言で寸評をお願いできますか?
土取:私の音楽巡礼の途、私を鼓舞し教えてくれた素晴らしい人たち、彼らとの出会い無くしては今の自分の音はないということです。この出会いには縁というものを考えざるを得ません。
JT:菜食主義者とお聞きしましたが、いつ頃からどのような目的で始められたのですか?
土取:菜食というよりはマクロビオティックですので穀菜食といった方がいいでしょう。以前JAZZ TOKYOでも書きましたが、大阪のサブで私が働いていた頃、ベーシストの西山満氏が、京都に住んでマクロビオティックを実践していたゲイリー・ピーコックさんの生活費を支えることも兼ねて大阪でゲイリーさんの音楽教室などを開いていました。それでサブにもゲイリーさんが見え、マクロビオティックという食養の道があることを知りました。東京に住んでからは早速ゲイリーさんを教えていた小川みち先生に会って、新聞配達が終わると自転車で天味というマクロビオティックの食堂に通って食事をし、料理教室にも顔を出して玄米菜食を実践していました。この店は渋谷駅の近くにあり当時出演していたメアリージェーンというジャズ喫茶も近かったので、小川先生が玄米弁当を持って聞きにきてくれたりもしました。マクロビオティック、食養では小魚も食します。以前はこの小魚も食べない完全菜食だったのですが、ヨーロッパが長くなるとサラダばかりで体が冷えるため、魚を食べるようにもなってきました。しかし動物の肉だけは今も食べていません。
JT:最後に夢を語ってください。
土取: 夢ですか。これは私が語るよりスティーヴ・レイシーに語ってもらった方が良いのではないかと、彼から頂いた一枚のレコードを紹介します。タイトルがまさに『Dreams』で、1975年私が渡米渡仏した時の録音、SARABAHからリリースされています。デレク・ベイリーも参加していて、歌をイレーヌ・アエビが歌っています。歌詞はレイシーと親しかったブライオン・ガイシンの詩で、レイシーが作曲しています。ガイシンはパリにいた時、レイシーの家でも彼の自宅でも会いました。とても静かな人で彼がローリングストーンズに紹介したモロッコのジョジュカのテープなども聞かせてもらいました。
ということで、皆さん良い夢を見てください。
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桃山晴衣 著 『梁塵秘抄 うたの旅』(桃山晴衣)
http://musicircus.on.coocan.jp/saijiki/033.htm
ゲイリー・ピーコックの写真の記憶(土取利行)
https://jazztokyo.org/issue-number/no-270/post-56792/