JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 31,256 回

InterviewsNo. 288

Interview #241 ローリー・ヴァホーミン by マーク・マイヤース #5(最終回)

現在、ローリー・ヴァホーミンは、娘のタラ(12歳)とパートナーのブラッドとともに、ブリティッシュ・コロンビア州(カナダ)の小さな海岸沿いの村に住んでいる。また、エヴァン(22歳)とニコ(25歳)というふたりの息子もいる。しかし、1979年から1980年にかけて、ローリーはピアニスト ビル・エヴァンスの愛人だった。18ヶ月という短い付き合いの中で、ローリーは自分自身とジャズ界の厳しい裏側;アーティストたちの音楽への執着、ロングランのツアーのストレス、慢性疲労、夜を待つ毎日、自己陶酔、何度ものクラブ・セット、話しを止めようとしない熱心過ぎるファン、薬物とアルコール依存症をうまく隠しているミュージシャン-を知ることになったのである。[写真上 :モトコの絵の前のローリー・ヴァホーミン、写真下:7月にローリーのテラスから撮影]

1980年9月15日のビル・エヴァンスの死は、彼の音楽を楽しんでいたすべての人にとってそうであったように、私にとっても衝撃的であった。その月の終わりにニューヨークのシティコープセンターの地下にあるセント・ピーターズ教会[写真右]で行われたエヴァンスの追悼式に出席したことを覚えている。一番印象に残っているのは、ビル・ザヴァツキーが「ピアニストのビル・エヴァンスに捧ぐ」という詩を朗読したことだ。その日ラジオで聴いた曲も、追悼式で演奏された曲も、どれもあまりいい音ではなかった。まるで、私のオーディオの味覚が麻痺してしまったかのようだった。

第5回(最終回)となる今回、ローリーはエヴァンスが亡くなった日の出来事について語り、さらに、ピアニストの自己観に光を当てるエピソードを振り返ります。

JazzWax: ビルが亡くなった日に起こったことを話してください。

ローリー・ヴァホーミン:1980年9月15日、月曜日でした。ビルのドラマー、ジョー・ラバーベラはニュージャージー州フォートリーに滞在していました。ジョーはニューヨーク州ウッドストックに住んでいましたが、トリオのライブがあるときはよく泊まっていたのです。午前10時半ごろ、私たちはビルのマルーン色の1976年製4ドア モンテカルロに乗り込みました。ビルは身体が弱って、運転ができなかったのです。ここ数日、ずっとベッドで寝ていました。車に乗り込むためにベッドから起き上がるのもやっとでした。

JW:どこに行くつもりだったんですか?

LV:アッパーイーストサイドにある新しいメタドンクリニックに行く予定でした。私たちが住んでいたフォート・リーは、マンハッタンからジョージ・ワシントン・ブリッジを渡ってすぐのところにあるので、車で20分ほどかかるんです。ビルは42歳のときから、コカインに加えてメタドンを使っていました。

JW:彼のメタドン使用はどのように始まったのですか?

LV:1970年代初頭にニューヨークの空港で逮捕された後、メタドンの治療を開始しました。

JW:(空港で)何があったのですか?

LV: 彼はヘロインを詰めたスーツケースを持って、ロシアへのツアーに出かけようとしていたんです。ケネディ空港のセキュリティ・チェックを通過しようといた時に逮捕されたのです。警察は彼を刑務所に入れたのですが、そこにいたのは一晩だけでした。最初の妻エレーヌもジャンキーでしたが、政治家にコネがあり、彼を釈放させたのです。交換条件として、(警察は)ビルとエレーヌのふたりをメタドン・プログラムに参加させたというわけです。

​​JW:つまり、あなたとジョー・ラバーベラは、彼を新しいクリニックに連れて行っていたのですね。

LV: そうです。前のクリニックは何らかの理由で彼の投与量を減らしていたんです。ジョーが運転して、私が助手席、ビルが後部座席に乗っていました。​​

JW:それからどうなったのですか?

LV: 私たちがセントラルパークの近くに差し掛かったとき、ビルが吐血を始めました。その血の光景は、彼にも私たちにもショックでした。しかし、彼は冷静にジョーに5番街の90年代に建てられたマウントサイナイ病院の緊急治療室への行き方を指示し始めたのです。それはとても不思議なことでした。ビルは吐血しながらも冷静に車の流れを見ながら、ジョーに行き方を指示していました。

JW:病院に着いたとき、エヴァンスはどんな状態だったのですか?

LV: 病院に車を停めたとき、ビルは後部座席でうつ伏せになり、ほとんど横になっていました。私たちは彼を起こし、救急治療室に連れて行きました。彼の状態を見て、奥の病室に入れてくれました。

JW: 彼はあなたに何か言いましたか?

LV: 横になったとき、彼が最後に私に言った言葉は、「溺れそうな気がする」でした。身体の中の静脈が破裂して、肺を血液で満たしつつあったんです。

JW:時間的には昼頃でしたか?

LV:そうです。待合室で座りながら、ビル がまた手品(ロープ・トリック)をやっているのかと思いました。あんなに出血して復活できるのだろうかと。彼が死んでいるのやら生きているのやら、疑問に思いながら30分ほどそこにいました。すると、医者が出てきて、ビルが死んだと告げられました。

 

JW:どんな気持ちでしたか?

LV:やっと彼が解放され、苦しみが終わったと感じました。彼の旅が終わったのです。彼が長い間たどり着こうとしていた場所に、ようやくたどり着いたのです。

JW:あなたにとって惨憺たる1日でしたね。

LV: ビルが去っていくのはとてもショックな体験でした。彼がいなくなって、「今こそ、私はもう一度自分の人生を生き直し、改めて造り直し、この経験を統合し直さなければならない」と認識しました。最大の贈り物は、彼の死に立ち会えたこと、そしてそれを若くして見ることができたことです。精神的な面で、私にとってポジティブな経験でした。

JW:(私には)おぞましい話に思えますが。

LV:現象的に捉えているからでしょうね。精神的に考えれば、それは私が彼と一緒に行くことを選んだ旅の終わりなのです。私たちが出会ったとき、それはあたかも1曲の始まりのようでした。ビルが死んだとき、それはまるでオーケストラの大きなクレッシェンドのようでした。忘れられないのは、あの日の空の雲、彼の血の真っ赤な色、その日1日がまるでミケランジェロの絵のようでした。

JW:それから、どうなったのですか?

LV:ビルの死という現実が迫ってきました。みんなにとって、とてもショッキングなビル+エヴァンスでした。私は音楽でお祝いをしたかったんです。誰もそれを得られませんでした。でも、私ほどその体験に浸っている人はいませんでした。

JW: 振り返ってみて、エヴァンスとの経験はどのように感じられますか?

LV:ビルは毎日私のそばにいます。彼が言ったように、私の著作を完成させるのを助けてくれています。じっくりと時間をかけて、自分のやりたいように作るようにと励ましてくれています。本を書き上げ、彼との対話が終われば、それは私の意識のもうひとつの変化となるでしょう。このプロジェクトが終わったとき、私と彼との関係が変わっているかもしれませんね。

JW: エバンスとの体験の結果、あなたはどのように変わったと思いますか?

LV: 彼は私に彼の哲学と意識を浸透させました。彼は私の人生を変え、私を人間として成長させ、おそらく発見できなかったであろう多くのことを発見させてくれました。

JW:彼はいつも自分の世界に没頭していたのでしょうか、それとも他人を意識していたのでしょうか?

LV: 彼はいつも完全に存在していました。彼はおしゃべりな人ではありませんでした。深い内容の議論も問題ありませんでした。一緒に居る相手に話しかける必要はありませんでした。人が完全に存在するとき、会話は表面的なものになるものです。ビルはとてもプライベートな人でしたが、彼の話に耳を傾けることができる人にはオープンでした。私はそのひとりだったのです。

JW:ビルについて、誤解を解きたいことはありますか?

LV: 人々はいつも、ビルは本当に謙虚な人だと考えています。そして彼はそうでした。しかし、彼は自分がいかに非凡であるかをよく理解していました。

JW:例えば?

LV:あるとき、ニューヨークの14番街でタクシーを待っていたんです。私は3/4丈のプリーツスカートとスーツ・ジャケットを着て、ドレスアップしていました。子供たちが車で通りかかり、縁石の上の私たちに向けて卵を投げつけてきたんです。ハロウィンでもないのに。1970年代後半のニューヨークの話ですよ(笑)。ビルに向けられた卵はそれて道に跳ね返りましたが、私に当たった卵は割れてジャケットに飛び散ったのです。私は呆気にとられましたがビルはその皮肉に気づいて、静かに冗談でこう言ったんです。「この宇宙で私たちの居場所を示そうとしているんだよ 」って。

ローリーの写真(ページ冒頭)とローリーの自宅からの眺め (提供:Laurie Verchomin)

ローリーはビル・エヴァンスとの関係や経験について本を執筆しています。詳しくは、以下のサイトをご覧ください。
*当時。当該本はすでに日本語版も刊行済み。
https://jazztokyo.org/news/post-70363/

エバンスが亡くなった日のローリーによる詳しい説明は、Jan Stevens’ Bill Evans Web Pagesを参照。

JazzWaxのトラック:ローリーの好きなビル・エヴァンスのアルバムは何ですか?

ローリー:『Symbiosis』がとても好きです。選びにくいのですが。『You Must Believe in Spring』は、ビルが亡くなって私が初めてひとりで過ごした冬に発売されました。彼は私が初めてビルをニューヨークに訪ねてから、私が聴くべきアルバムを何枚も私に送ってくれました。どれもラブレターでしたね。

JazzWaxのクリップ。エヴァンスが亡くなる1ヶ月余り前、彼はトリオでノルウェーにいた。この映像はさまざまな意味で注目すべきもの。とくにマーク・ジョンソンのベース・ソロの素晴らしさときたら...。また、エヴァンスの手の肥大化した状態にも要注目。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください