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InterviewsNo. 289

Interview #245 ヒロ 川島 Hiro Kawashima (tp&vo)

photo above by Mitsuhiro Sugawara @ 北原ミュージアム 河口湖  2022年3月21日
Interviewed by Kenny Inaoka via Google Document, April 2022

PART 1:

CD3部作を制作してチェット・ベイカーの音楽の奥深さを再認識

JazzTokyo:チェット・ベイカーに捧げるCD3部作の完成おめでとうございます。

ヒロ川島:ありがとうございます。

JT:延べで何年かかりましたか?

ヒロ: 都合3年になりました。

JT:当初から3部作の予定で?

ヒロ:いえ、3枚のアルバムが完成した段階で、それらが自然に私の中で一つのストーリーになっていたので結果的に3部作というカタチにまとめたのです。

JT:リリースは完成のたびに単独で?

ヒロ:はい、そうです。

JT:そもそもどのような思いで録音を決心されたのですか?

ヒロ:3年前の2019年5月13日が30回目のチェット・メモリアル Live だったのですが、そのステージ上でチェットのレパートリーを30曲レコーディングしようと思いつき、構想を始めました。

JT:1作ごとに『モノクロームの肖像』、『ブロークン・ウイング』、『ディープ・イン・ナ・ドリーム・オブ・ユー』とタイトルが付けられていますが。

ヒロ:これらは私がこれまで書き下ろしたチェットにまつわるショート・エッセイのタイトルで、CDにブックレットで同封しています。そしてそれぞれのエッセイが各アルバムの選曲やコンセプトになっています。

JT:全曲、ピアニストの遠藤征志さんとのデュオですか?

ヒロ:基本、遠藤さんとのDuoが中心ですが、各アルバムに数曲のBsとDsが加わったLive 演奏も収録されています。

JT:アレンジはどのように?

ヒロ:特にCD録音用にアレンジを用意したわけではなく、遠藤さんと通常のライブで演っている事を自然に収録した感じです。

JT:制作を通じていちばん難しかった点は?

ヒロ:難しいと感じたことは特にありませんでしたが、録音できる曲数には限りがあるので最終的な選曲に悩んだことは確かですね。

JT:3部作を仕上げてチェットへの思いは果たせたと思いますか?​

ヒロ:いえ、この3枚のCDは今の私のスライス・オブ・ライフ的なアルバムであって、チェットへの思いを演奏で表現してゆく事は一生の課題です。

JT:3部作完成後、自身の演奏に変化が出たと思われますか?

ヒロ:チェットの音楽の奥深さを再認識した感じでしょうか…

PART 2:

死の80日前の誕生日にチェットからトランペットが届いた

JT:チェットに初めて出会ったのは、いつ、どのようなきっかけでしたか?

ヒロ:実際に会ったのは1986年の初来日の時に、たまたま知り合いの記者がチェットの取材をするというので後について行ったのです。で、対応してきたマネジャーが「チェットは出掛けたので取材はキャンセルだ」と言い始めて…記者は諦めて帰ったのですが、私はそのマネジャーが居留守を使っているような気がしたので…ま、その日の事は2枚目のCD『ブロークン・ウイング』の付録エッセイに詳しく書いているので是非お読みください…と、そんなきっかけです。(笑)

JT:内外でどのような交流がありましたか?

ヒロ:初めて会った時になぜか好印象を持たれた様で、その後、当時のパートナーだったダイアンという女性も紹介してくれて、ライブやコンサートはフリーパスで入れる様にしてくれました。なので僕も日本にいる時はなるべく時間を作って2人を連れて東京の街をドライブしたりして一緒に時間を過ごしました。その後彼らがヨーロッパに帰った後も国際電話で時々連絡を取り合ったりしましたね。

JT:36年前の2ショットの写真がありますが、撮られたシチュエーションは?

ヒロ:これは86年の初来日の最終日に当時原宿にあった「クラブD」でライブをやった時に楽屋で彼のトランペットを初めて触らせて貰った時ですね。取材に来ていた月刊プレイボーイ(日本版)の記者が撮ってくれたものと記憶してます。

JT:ついには、​​チェットの伝記:Deep In A Dream/終りなき闇(James Gavin 著)にもヒロさんとの交流が記述されたそうですね。

ヒロ:この本が出版されたのは随分あとの事で、たぶん2003年位だったかと思うのですが、たまたまハワイのアラモアナのアーケードにあった本屋の音楽のコーナーでチェットの写真が表紙になった分厚い本が出ているのに気がついて、パラパラとめくったらいきなりプロローグの部分に私の名前があって…ビックリしたものです。英語の本なのにそこに自分の名前が書かれていると不思議に浮き出して見えるのですね。ただ、僕はこの作者から直接インタビューなど受けてないし、ここに書かれているような「私にとってチェットはブッダだった」などと言うのは全くの作り話です。

JT:チェットの死はいつどのような形で知りましたか?

ヒロ:亡くなってすぐにジャズ誌の編集部から連絡を貰いました。

JT:そのときの感慨は?

ヒロ:1988年の5月13日の金曜日に亡くなったのですが、その80日前の私の誕生日にチェットが自分のトランペットをパリから私宛に贈ってくれたので、その喜びも束の間、この様な事になってしまって本当にショックでした。

JT:事故死であるという確信はどのような経緯で?

ヒロ:当時チェットの訃報を知らせて来たロード・マネジャーと電話で話したり、その後にLAでピアニストのフランク・ストラゼッリと話したりして、状況を知らされました。より詳しい事は最近になってアムステルダムの知り合いが紹介してくれた人が実際にチェットが亡くなった現場の地域の担当の警察官の話を教えてくれました。

JT:チェットが英WIRE誌で語っているブッシャーの「アリストクラート」がヒロさんの元に送られてくるわけですね?

ヒロ:1988年の2月、彼の死の80日前に私の誕生日の当日に日本に着くように6日位前にパリの国際クーリエにて発送してくれたようです。

JT:しかも、事前に予告があったそうで...。

ヒロ:チェットの2回目の来日の最後の日、実はそれまでチェットからちゃんとした「サイン色紙」を貰っていなかった事に気がついたので、クルマで別れ際に僕が気に入っていたジャケ写のLPを後部座席に座っていたチェットに渡したら、何やら時間をかけてペンで書いてくれている様子でしたが、ホテルに着きトランクの荷物を下ろしたり…と、忙しなく2人に別れの挨拶をしてクルマに戻り「そうだ…サイン。」と思って見てみるとそのジャケットにはこう書いてあったのです。「HIRO, you will soon have the horn in this picture. Treat it tenderly …All the best, Chet  ヒロ、君はもうすぐこの写真のホーン(ブッシャーのトランペット) を手にする事になる。こいつをよろしく頼むぜ。チェット」

JT:しかし、その楽器はなかなか演奏する気になれなかったそうですが?

ヒロ:というより、例えば友人の愛犬を散歩させて思い通りに歩いてくれないのと同じようなもので、長年使って来た主人以外の人間が吹いてもなかなかうまく鳴ってくれないのがトランペットという楽器なのですね。心を開いてくれるまでにはずいぶん時間がかかりました。

Buescher Aristocrat

JT:チェットのアルバムでいちばん好きなアルバムは?

ヒロ:チェットはいわゆるメジャーなレコード会社がプロデューサーを立てて企画したスタジオ録音のアルバム以外に、世界各地でライブが録音されて数限りないアルバムが存在しています。そしてどのアルバムも、現在でさえ常に聴くたびにチェットのソロのどこかに新しい発見があったりして、特定するのは困難ですね。

JT:楽曲はどうですか?

ヒロ:楽曲も上と同じ事なのですが、あえて一曲という事ならば、1983年3月14日にオランダのミュンスターでピアノのカーク・ライトシーのトリオと録った<Everything Happens To Me> でしょうか。スタジオ録音のスローバラッドなのですが、Vo.x1-Pf.x1-Tp.x1-Vo.x1/2という計3.5コーラスの11分近い演奏で、いわゆる晩年のチェットの記録の中でも最も落ち着いたサウンドが聴ける時期とも言えると思います。さらに、この80年から86年までの間は、チェットが私に譲ってくれたトランペットを吹いている時期という事もあって、僕にとっては特別な一曲と言えるかも知れません

JT:数年前、「My Foolish Heart」という映画が公開されましたが、ご感想は?

ヒロ:この映画がフォーカスしている時期が、ちょうど私がチェットから楽器を贈られた前後で、チェットとは時々国際電話で連絡をとっていました。それまではいつも電話の最後にダイアン(映画ではサラ)に替わって、一言二言挨拶を交わしてから電話を切るのが常だったのが、ある時期からダイアンが電話口に出て来なくなったので、そんな事を思い出しながら試写会を拝見していました。チェット役のスティーブ・ウォールが70年代のチェットによく似ている事と、トランペットはWDRのルード・ブレールスがチェット役の吹き替えをしていて、それなりにチェットの特徴を捉えた、いい感じのサウンドだったとは思いますが、基本的にチェットの死に方を検証する野次馬的な視点から製作された映画の一つという以上に特に新しい発見や感動は無かったように思います。

PART 3:

チェットのレパートリーを演奏して「楽しみながら発見して自分も進化する…」

JT:お生まれは?

ヒロ:渋谷は道玄坂です。

JT:音楽的な環境に恵まれたご家庭でしたか?

ヒロ:父親が洋楽好きで、家にはいつも音楽が流れていました。当時流行り始めていたジャズにものめり込んで、家の廊下には畳一畳くらいの巨大なアート・ブレイキーのサイン入りモノクロ顔写真のパネルが置いてあり、夜はその前を通るのが怖くてトイレに行けなかった事を覚えています。後になって父に聞いたら、1961年のアートブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの初来日の時にサンケイホールの楽屋にこのパネルを自分で運んで行って本人からサインを貰ったのだ、と言っていました。

JT:初めて手にした楽器は何でしたか?

ヒロ:管楽器は中学の時、同級生が音楽部でトランペットからクラリネットに持ち替えたのでトランペットが不要になり、僕が譲り受けて吹き始めました。たぶん当時東ドイツ製のヒュッテルというメーカーだったかと思います。

JT:ジャズに興味を持ったきっかけは?

ヒロ:やはり父親の影響でしたね。サンジェルマンのJMやクリフォード・ブラウン& マックス・ローチとか、トランペットの曲が結構流れていて、自然に親しんで行ったのだと思います。

JT:プロ・デビューはいつ頃でしたか?

ヒロ:大学のジャズ研の頃から時々アルバイトであちこちのクラブで吹いていましたが、レコーディングという事であれば、この後に出てくる「Love Notes」というバンドで1995年にビクターのAjaレーベルからアルバム『Photograph』を出したのがデビューになります。

JT:ヒロさんのバンド「Love Notes」結成に至る経緯と活動について教えてください。

ヒロ:チェットは1987年の2回目の来日の時、別れ際に「来年は「Love Notes」(=愛の音符たち)という自分のバンドで日本に帰って来たい」と語って帰国しましたが、翌年1988年5月13日にチェットはアムステルダムでこの世を去り、「Love Notes」での再来日は実現しませんでした。そこで、私は当時よく一緒に演奏をしていた気の合う仲間たちとチェットの音楽精神を引き継ぐバンドを作ろうと提案して、それに「Love Notes」という名前を付けました。そしてその事をチェットの身元引き受け人でもあったオランダ人のロードマネジャーに話すと「それはグッド・アイデアだ!チェットも君が引き継いでくれるのなら嬉しいと思うよ」と言ってくれたのです。そして、私はこのバンドで音楽活動を本格的に始め、同時にジャズのテレビ番組を企画し、スポンサーをつけて『Jazz-LoveNotes』というモノクロの15分の短編Jazz番組を1999年にテレ東の地上波の深夜枠でスタートし、2クールの放映後、bs日テレで『Jazz-LoveNotes ”Pacific”』という30分の続編をLAロケで制作し、2007年までリピートを合わせれば都合8年間にわたって全国オンエアされました。

また、この番組は後に2枚のDVDとCDに収められて発売されました。

その後、LoveNotes 名義では、チェットの専属ピアニストだったハロルド・ダンコと、ウェザーリポートで有名なピーター・アースキン(Ds)をゲストに迎えたLA録音のアルバム、『Love Notes Special Unit / Love & Light』 を2013年にリリースし、このアルバムは様々な部門で上位を独占し、各方面で大好評を頂きました。

JT:チェットに演奏を聴いてもらったことはありますか?

ヒロ:初来日したチェット達と初めて私のクルマでドライブした時に私のライブを録音したカセットをかけていたら、チェットがパートナーのダイアンに「これっていつのライブだっけ?」と聞いたところ、「たぶんオスロの時じゃない?」と返したので僕がすかさず「東京のイケブクロですよ」と笑って答えると、ダイアンが目を丸くして、「え?これ、もしかしてあなた?と…」。一瞬の静寂の後に大笑いになりました。そしてその翌年、2回目の来日の最終日に我々は一緒に新宿のジャズクラブ『J』に行き、そして私はそこで実際にチェットと並んでトランペットを吹く事になったのです。

JT:「Hiro Sings and Plays Quartet 」は、チェットの音楽を追求するためのバンドでしょうか?

ヒロ:チェットはマイルスとは違い、自分のオリジナル曲をほとんど作りませんでした。コンサートやライブでチェットが歌う曲はその大半が自分が多感な時期に憧れたフランク・シナトラやビリー・ホリデイがかつて歌ったレパートリー。そして演奏する曲はマイルス、ウエイン・ショーター、ハービー・ハンコック、トム・ジョビン、リッチー・バイラークetc…のインスト曲です。チェットはそれらを自らの心のフィルターを通して選曲し自分のスタイルで演奏しているのです。以前、僕が彼にレパートリーの曲数を聞くと「演奏できる曲は200曲じゃ効かないだろうね、でも実際演るのは100曲くらい。で、ステージで本当に演って楽しいのはその半分の50曲くらいかな」と言ってました。結局、チェットのレパートリーには1920年代から1980年代までのジャズの黄金期の名曲が揃っているわけです。なので僕もそんな宝箱の様なチェットの愛した曲やその他のレパートリーを自分のフィルターにかけて、その日のライブで選曲して演奏しています。なので自分のバンドはチェットの音楽を「追求する」というよりむしろ「楽しみながら発見して自分も進化する…」という表現があっているかもしれません。

JT:夢を語ってください。

ヒロ:夢って2つありますよね。「寝てて見る夢」と「心に育つ夢」と。昨日見た夢はもう忘れてしまったので、今日みる夢に期待しましょう。
心に育つ方の夢は…叶うまでもう少し自分の心に留めておく事にします…。

今回はインタビューの機会をいただきありがとうございました。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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