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Interviews~No. 201

Extra デレク・ベイリー〜古い思い出と新しい音

■古い思い出と新しい音~日本のデレク・ベイリー

インタヴュワー ステファン・ジャヴォルチン(1996年ロンドンにて)

ステファン・ジャヴォルチン(以下SJ): 日本で演奏するようになった経緯(いきさつ)は?日本の関係者と連携できた方法は?

デレク・ベイリー(以下DB): たった一人の男、間章(あいだ・あきら)との出会いがすべてだ。1977年のある日のこと、彼がロンドンに現れた。彼については名前も聞いたことがなかったんだが、あれこれ情報を仕入れることができた。ひとかどの人物だということが分った。おしゃべりに応じたところ、僕に日本に来なさいというんだ。その頃、日本に行くなんてことは僕には考えられなかった。というか、行動範囲を広げること自体に気が乗らなかった。「ずいぶん遠いね」と答えたところ、「手筈は整えるから」という。帰国してから手紙のやりとりがあって、1、2度辞退を申し入れたこともあったんだが、とうとう1978年に日本の土を踏むことになった。僕は幸運だったんだ。4~5月の日本は素晴らしい季節だったから。アイダがセットアップしたこのツアーで、僕は日本の全国各地を回れたと思っている。旅は6~7週間つづき、ほとんど毎晩演奏した。予定より長い滞在になったがツアーは全国をカヴァーするものではなかったんだ。たとえば、沖縄には行かなかった。70年代には日本人でさえ沖縄の渡航にはパスポートが必要だったんだ。だけど、沖縄以外はほとんど回ったと思う。僕のような田舎者にとって日本ツアーは驚きの連続でショックからなかなか回復できなかった。(日本では、何年も前に引退したと思われていたミュージシャンの公演ポスターが掲示されていて、実際彼らは毎年訪日してコンサートを打っていることを知った。とくに懐かしのジャズ・ミュージシャンが多かったが、20年位前に亡くなったと思い込んでいた昔のフラメンコ・ギター奏者もいた。このプレイヤーのポスターは京都で目撃したんだけど、彼は永遠に日本ツアーをやっているようだった。日本では音楽というと基本的にナマの演奏を意味しているようだった。日本以外ではおそらくニューヨークを除いて何処でも、まず録音物が先に来ると思うんだが)

アイダはいわゆるスヴェンガリ・タイプの人物だった。つまり、日本のフリー・ミュージック・シーンでは誰もが彼を通して仕事をもらっているように見えた。彼が仕事を造り出し、何人かのミュージシャンは彼の家に寄宿し、必要なものは彼がすべて提供していたんだと思う。僕が共演した相手もアイダのグループだったと思う。CNAとかCMMとかいう名前が付いていた。60年代や70年代は皆アルファベットでできた名前を付けていたが、そんな感じだった。まず近藤(等則、トランペット/ホーン奏者)、それからパーカッショニストの土取利行、ベース奏者の吉沢(元治)、テナー奏者の高木(元輝)、アルト奏者の阿部(薫)など。ツアーも彼らと一緒だった。まず僕がソロで演奏して、次に彼らと演奏した。僕のソロ、彼らとのデュオ、そして最後に全員で合奏、というのがアイダのアイディアだった。僕は否応なく彼の案を受け入れざるを得なかったよ!僕は当時から何やらガタが来ていたんだがショーはうまく行ったよ。ミュージシャンに加えてアイダ、そして彼の随行団が同行した。随行団というのは、レコーディング・エンジニア、カメラマン、ドライバー、そして6~7人の、う~ん何ていうか、取巻きというか、友人というか、つまりアイダの信奉者たちだ。どこへ出かけるのもこの一行だった。僕は彼らよりも1フィート以上背が高かった。当時、彼らはほとんど英語を話さず、僕の知っている日本語の単語はふたつだけだったからボディ・ランゲージ以上のたいした会話がなかった。一行はいつも12人以上で、アイダがホテルをブッキングする時は、僕にシングルを1部屋、あとはスイート1部屋だけだった。たまたまスイートに出かけた時に目にした光景は驚きだった。部屋中に人間が横たわっている感じだった。和風の宿屋に泊まることも多かったんだが(当然だけど)、アイダは僕には何とか洋式の部屋をあてがおうとした。結果として、ホテルのブライダル・スイートに泊められたことが一度ならずあった。

(ツアーで)僕が荷物を持つことはなかった。当時でも、僕は自分のギター・アンプを階段を使って持ち上げて3人の客を前に演奏するということには慣れていたのだが。(日本では)自分でギター・ケースを開けさせてもらうことすら容易ではなく、観客は600から700人はいた。それはそれは貴重な体験をした。

SJ: 思うに実入りはかなり良かったのでは?

DB: そうだね。帰国してから自分の車を買ったからね。そう、たしかに実入りは良かった。だけど、あの国が本来負担すべき内容からいうとそれほどでもなかったと思う。初めて訪日したとき以来いくつかの変化が見られるが、なかには注目すべきものもある。初めの頃は、東京を出ると日本語以外で書かれたものを見ることはまるでなかった。汽車で旅に出るとする。幸い、僕ひとりで出かけることはなかったけど、自分が何処にいるのかまったく分からないんだ。目印が何もない。すべて素晴しいのだが何も情報がない。80年代初期からいろいろ変化が見られるようになった。アメリカのミュージシャンが大挙して来襲するようになったことも含めてね。彼らは皆<シャクハチ>を学んで帰るんだ。その後はドイツのミュージシャンだ。あらゆる名目を駆使してゲーテ協会の助成金を得てね。なかには現地妻を調達した輩(やから)もいた。もっともドイツのミュージシャンは皆それをねらっていたようだけど。

アイダはギグ(編集部註:クラブの仕事)を取る名人だったね。彼は、ブッキングするミュージシャンの音楽はおろか、どんな音楽にも関心がなく、一度もコンサートを開いた経験のない相手にさえ公演を買取らせることができたんだ。そのひとつが日本の最北の島、北海道の小さな漁村だった。まったく異様な場所でね。(会場は)絶壁に近いところに建てられていた。その村は山の中程から海に向かって傾斜していき港がある、という地形だった。道を駆け下りるか息をついて登って行くしかない。マーケットが一軒あったが、売り場の大部分はタコに占領されていた。傾斜地だからマーケットは急勾配の階段の上にあって、ステップごとに売り場がある。階段を下りて行くにしたがってタコがだんだん大きくなるんだ。肩で息をしながら道を上ったり下りたりして行くとやっと日本ではありふれた現場に出会うことになる。通り過ぎる店々から大音響で音楽が流れてくる。しかもそれぞれの店が違う音楽をかけているんだ。スピーカーを店の外に吊るしてね。店が小さいから、道を小走りで下りて行くと3歩か4歩ごとに音楽が変わっていく。まったく音の渾沌の中に放り込まれたようだった。僕の経験の数々は、ある意味で、僕が知り得た人たち、つまり、ミュージシャンか音楽関係者に限られていると思う。だから、僕の経験したことがどれほど普遍的であるかは分からない。しかし、僕が日本人について気付いたことのひとつは、僕が<ギグル・ファクター>(忍び笑いの癖)と名付けたものである。表情には出難いところでいつも忍び笑いがある。とくに音楽の場合、真剣さにとってこれが致命的な欠陥となる。もちろん、自分達の音楽については真剣である。しかし、彼らは同時に「大仰であること」も必要条件であることを理解していない。ヨーロッパのミュージシャンと違って、日本人がシリアスな音楽を演奏する場合、持って回ったやり方で鎧(よろい)を付ける必要があるということだ。これは乗じるということではないんだが。

SJ: クスクス忍び笑いをしているドイツ人のインプロヴァイザーというのは想像だにできない...

DB: ドイツという国には「忍び笑い」というのはあり得ない。しかし、日本人はある種の「軽やかさ」というものを身に付けており、だからこそ彼らは不運から身を守る大事なことを紹介できるともいえる。そのことは同時に彼らがメロドラマの分野では行くところまで行ってしまい、おかしなことになってしまう要因にもなっている。

アイダはジャーナリストでもあったんだ。彼はペンネームを3つ持っていたのだが、当初僕はそれを知らなかった。彼が全体の8割も書いている音楽雑誌もあるんだ。彼の気に召さない場合、それはかなり不幸な結末を迎えることになる。彼は君のような批評家になるんだ。しかも凶暴な犬のようなね。だが、その点、僕の場合は幸運だった。彼は僕の音楽が気に入っていたから、僕の音楽についてはいつもとても好意的だった。彼は翌年32才で逝ってしまった。死因は脳腫瘍だったか。羽目をはずす男ではなかったんだが。タバコは1日に60本は吸ってたね。彼と一緒に仕事をしていた連中は掛け替えのない男を失ってしまったことになる。

80年代のあるとき、僕は彼の故郷で演奏していた。彼の母親が洒落た喫茶店を営んでいてね。いつもBGMにクラシック音楽が流れていた。ひとしきり流れていたバロック音楽が終わるとお決まりのモーツァルト、というわけだ。音楽は、コーヒーとケーキの良きお伴、という感じだな。僕らは皆でアイダの墓に詣で、タバコに火を点け、墓石の上に置いた。12本の、いや、もっとあったかな、タバコが蝋燭(ろうそく)のように燃えていき...幻想的な光景だった。アイダも喜んでいたと思うよ。

SJ: LP『Duo and Trio Improvisation』 はアイダが録音したものですか?

DB: アイダには2枚のレコードを録音した。1枚はDIW(編集部註:ユニバーサル・ミュージック)からCDで再発された『Duo and Trio Improvisation』、もう1枚はモルグ・レーベルで発売された2枚組のソロ・アルバム『Old Sights, New Sounds』(編集部註:正しくは『New Sights, Old Sounds』)だ。ダブル・アルバムの1枚はライブ録音で、もう1枚はスタジオ録音だ。このソロ・アルバムは何年も前に廃盤になっていて、日本に出かけるたびにテープを確保しようとしてるんだ。このレコードは問合せが多くてね。アイダの仲間でこれを録音した男がいて、今はレコーディング・スタジオとなっているモルグを継いだ男なんだが、僕が日本に行くと必ずこのレコードを何枚か携えて来るんだ。「このレコードは廃盤になったと思うけど」と言うと、「そうですよ。だけどたまたま見つけたんで」と返答してくる。毎回、同じことの繰り返しなんだ。そこで僕は言ってやった。「いいかい。君からこのテープを買取りたいんだけど」。彼の答えは「OK、分かりました」なんだけど、それから彼は姿を消してしまい、次に日本に来るまで会えないんだ。そして彼はまた何枚かレコードを携えてやって来る、という次第さ。高木とも1枚レコードを作ったけどどういうわけかおクラになったままだ。近藤にも1枚ソロ・アルバムを録音したけどどうなったか分からない。

SJ: ギタリストの高柳昌行とは会いましたか?ニュー・ディレクションズというユニットを持っていましたが。

DB: 彼らのことは良く耳にしたけど、グループの誰にも会ったことはないね。

SJ: 不思議ですね。あなたが日本に行けばあなたに会いたいと手を尽している相手のことを考えると思いますが。

DB: 最近じゃどこへ出かけてもこの手の音楽を長らく手掛けている連中のことを耳にするよ。どれも事実だろう。僕がずっと考えてきたことは、正しい意味でのフリー・インプロヴィゼーションというのは特定の人間が始めたものではないということだ。いつもそこら辺に存在していた。たいていは見えないところで、とくに聴かれることもなく、ね。1952年にグラスゴーでも喋ったかな?

他のギタリストと出会ったり、手合わせを始めたたのは極く最近のことだよ。例えば、前回日本に出かけた時には、3人のギタリストを交えてコンサートをやったが、そのうちのひとりはギターとターンテーブルを担当した。

SJ: 大友良英ですか?

DB: そうだと思う。良いコンサートだったよ。その夜は同じクラブで、田村光男という男が経営する(編集部註:田村光男氏は株式会社ステーションの代表であり、ピットインの経営者は佐藤良武氏である)新宿のピットインだが、大きなグループでも演奏した。ソウルから来た韓国人のパーカッショニストもいたな。彼はある種、驚くべき人物でね。

僕はホールの外、つまり、クラブの裏手の通路に自分のギアを取りに行ったところで黒ずくめのこの男を見たんだ。黒のTシャツ、黒のパンツ、そして黒の中折れ帽をかぶっていた。難しい顏をしていたので、“こりゃ、退散した方がいいな”と思ったんだ(編集部注:韓国の 打楽器奏者、金大換氏と思われる)。ところが、彼は僕のあとを付いて階段を下り、クラブに入って来た。何のことはない、僕も彼と一緒に演奏することになってたというわけさ!彼の楽器はふたつの太鼓だけでスタンドにセットされていた。世界でも最大級の太鼓かな。写真を見せてくれたんだが、太鼓がトラックにセットされていて、片方を彼が演奏し、もう一方を他の男が演奏していた。ふたりの間は30ヤードはあったな!何れにしても、彼はふたつの太鼓を斜めにセットしていた。彼が馬にまたがるような感じだった。そして太鼓から充分距離をとって立ち、乗りかかるようにして太鼓を強打するんだ。つまり、太鼓の打ち方が半端じゃないということだ。そして出てくる音は途方もない大音響だった。
だけど連打するわけじゃない。太鼓に近付き、明らかに煮えたぎる闘志を持ってね、そして数回強打する。雷鳴のような轟き。そして引く。まあ、一種芝居じみているというか。彼の動きには音楽的に理屈に会うような流れがないんだ。タイミングも音楽的な規則に乗ったものではなかったし。僕が演ったことは彼の演奏におカズを添えた程度のものだった。彼と演奏できてとてもリフレッシュできたね。彼の演奏方法はとてもユニークだった。何年も前のことになるが、僕はよくテープを操作していたんだ。テープを作るだろう、それから中を抜いてしまうんだ。ソロを演るときにそのテープを回す。僕はいつテープから音が出るか分からない。ほとんど音が入っていないんだが、どこかで音が出る。だけど、まったく予測は付かないんだ。何回かはそのテープを使って演奏した。彼との演奏でそのテープのことを思い出したよ。

ミツオはいつも僕にとても良くしてくれたけど、まったく理解し難い面もあったね。たとえば、僕のソロで、とてもヒップでファッショナブルな大きなレストランにブックしてくれたりする。かと思えば、小さな仲間内のレストランに入れてみたりというのもあった。彼のギグはどれも実入りは良かった。まあ、楽に金は稼げない、ということだね。

SJ: そういう場所での反応は?

DB: 完全に無視してくれるね。テーブルから10ヤードも離れていないところで演奏してるんだけどね。火災報知器がけたたましく鳴り出してもふたりで笑みを交わし合っておしゃべりを続けているような感じかな。

SJ: 演奏が終わったら拍手はもらえるんですか?

DB: 僕がそこにいたことに初めて気が付いたようにあたりを見回すんだ。他の客が拍手をすれば彼らもするんだ。だけど、レストランでのギグに大きな拍手は意味がないだろう。店が食事以外で大成功しているとは思えなかった。客は食事を終えたらさっさと帰ってしまうからね。何れにしても、ミツオはいろんなギタリストや韓国のパーカッショニストに会わせてくれたし、カンパニー・ウィークに出演していたミュージシャンもピックアップしくれたからね。

SJ: 田中泯(編集部註:舞踏家)ともずいぶん共演しましたね。

DB: 田中泯と初めてあったのは日本だ。彼が僕のコンサートに来てくれた。その頃の彼は英語がまるで駄目だったんだけど、マネジャーの木幡和枝がしゃべれたんだ。彼女も素晴しい人物でね、特別な存在だった。彼女はミンの旅に付合い、しかも精力的なジャーナリストなんだ。ノーマン・メイラーやスーザン・ゾンタークといったレベルの文学者にもインタヴューしてるし、通訳でもある。とにかく、彼ら(ミンとカズエ)は僕にとってとても大切な存在になった。そして関係は今も続いている。
僕が2度目に日本へ出かける前のことだったが、ミンから一緒にニューヨークへ行って欲しいと依頼があった。ところが、僕はニューヨークへも行った経験がなかった。なにしろ遠過ぎると思っていたからね。それに、アメリカにはたくさんのギタリストがいるから僕のような老いぼれギタリストに用はないと思っていたんだ。

SJ: ということは、あなたがミンと最初に演奏したのはニューヨークだったのですね?

DB: その通りさ。それから1981年にツアーを組んでくれた。バンドも組んでくれた。これはバンドといっても良いと思う。バンドの名前はアルファベットの組合せでMMD、つまり、ミン、ミルフォード(グレイブス)、そして僕、デレクのイニシャルだ。それから15~18ヵ月かけてあらゆるところを回った。日本ツアー、アメリカ、全ヨーロッパ。イギリスでもコンサートをやった。ミンの舞踊と僕とミルフォードの演奏。ミルフォードの演奏というのはいろんな要素の総合なんだ。ダンスにしゃべくり、それに彼がやりたいすべて。日本のコンサートはすべて録音された。もっともこのグループを上手く録音するのは不可能だ。ふたりはほとんどステージを動き回っているんだから。

結局僕はツアーが終わったあとも日本に居つづけることになってしまった。他にやりたいこともなかったからね。日本で仕事を続けられることが分った。少なくとも当時はね。今はかなり変わっていると思うが。最高の仕事場だと思った。その気になれば仕事はいつでも何でも取れたからね。たとえば、仕事のできるクラブがいくつかある。そしてもちろん生活水準には大きな隔たりがある。イギリスの場合は、第2と第3世界の間のどこかだと思う。日本の場合はまるでケタ外れだ。(日本の)極く普通のギグで稼げる出演料は、イギリスで稼げる出演料に比べて、かなり魅力的だったといえる。

SJ: あなたが(日本の)“クラブ・ギグ”という場合、おそらくイギリスのクラブ・ギグとは比較にならないレベルのものと思いますが。

DB: そうね、そうかも知れない。僕がアイダやミンとした仕事はコンサートだったからね。ミンとの仕事の場合、コンサートは1時間半の公演で、その多くは舞踊にあてられた。彼は日本に多くのファンがいたが、事実、世界中に多くのファンがいたんだ。観客は増える一方だ。だけど、クラブのなかにはとても小さなものもあった。専門化されたクラブも多かった。ディキシーランドだけを流しているクラブもあれば、ロックンロールやカントリー・ミュージックだけを流しているクラブもある。だけどどのクラブも膨大なレコード・コレクションを持っているんだ。フリー・ミュージックの傾向の見えるクラブに出かけたことがある。僕が演奏しているレコードがかかっていたんだが、おしゃべりを止めるように言われてしまった!とても丁重にだが。郷に入れば郷に従えだ。ここは日本だ。彼らは僕におしゃべりをやめて欲しいということを分からせようとしたんだ。僕は聴いたことのないレコードについて話をしていたんだけどね。何れにしてもクラブはどこもとても小さい。クラブに足を踏み入れて、「はたしてここに僕のギアを持込めるのだろうか」とさえ思うのもあった。結果的には65人の聴衆を前に演奏したんだが。

クラブのひとつに中村邦雄が経営するものがあった。ヨーロッパから来日する多くのミュージシャンの面倒をとてもよくみた人物だ。多くのイギリスのミュージシャンやハン(ベニンク)、ブロッツマンなどのツアーも組織していた人だが今は故人となってしまった。全国ツアーの組織だけでなく、仙台の彼の店でも演奏させてくれた。彼のレコード・ショップは「jazz and NOW」といい、短命に終わったが同名のレーベルも持っていた。地下にあった彼の店に階段を下りていくと(たしかアイダが同行していた)、まず目に飛び込んできたのが壁に掛けられた『HELLO BRENDA』というレコードのジャケットだった。
これはフィル・ヴァクスマンのレコードだということが分ったのだが、このアルバム・タイトルが僕が来日1ヵ月めにして初めて目にした英語だった!部屋に入っていったところ、戸棚と見間違えるような場所だった。ところがそこはれっきとした部屋であるどころか1週間前にはアーチー・シェップ・クァルテットが演奏した場所だというんだ。ピアノをどこに持込んだのか。信じられないようなスペースの活用の仕方だった。僕はこの店で、ドラッグを携行していた理由で路上で現行犯逮捕されたミュージシャンのために慈善演奏をしたことがある。男は韓国人だった。日本で逮捕された被疑者が韓国人となるとやっかいなことになる。日本には詳述をはばかるおかしな法規制がある。実際、充分な弁護士費用を用意できない限り法廷にも立てないんだ。そこで、その狭いクラブで慈善公演をやることになった。信じられない数の聴衆が詰め掛け、何千ドルかの募金が集まった。その募金で彼は法廷に立ち、出所できたんだ。もちろん、彼は必要な募金が集まるまで服役しており、どんな判決にも備えていたのだが!

日本ではコンサートの開演時間がとても早いんだ。仕事場から直接コンサートに出かける習慣があるからね。11時に閉まるナイトクラブさえあるんだ。だからコンサートの終演もとても早い、というわけだ。

SJ: それは素晴しい。騒がしいパブに午前1時まで居座るほど身体に悪いことはありませんからね。

DB: とても良かったよ。仕事を終えて8時半に日本食を食べる。11時ではなくてね。これは素晴しいことだよ。

SJ: 何年間にもわたって日本に出かけているわけですが、基本的には同じミュージシャンと演奏していたのですか?

DB: いや、毎回、新しいプロジェクトで出かけていたからね。前回は、ソロ・ツアーだったし、カンパニー・ウィークがあったり、ミンとのコンサートもあったしね。ミンとの公演はビデオ収録されたものがあって、インカス(Incus)で発売することになっている。14 Downs Rd, London E5 8DS で購入できるけど、これは観る価値があるよ。そうだ、カンパニーのコンサートもビデオ発売されるものがあるよ。これは日本人が収録と編集を担当した。これの編集には仕掛けがあって、1グループの演奏を中断して次のグループにつないでいくから30分しかない。実際は2時間半のコンサ-トだったけどね。バン、バン、バン、ときてハイ、お終いという感じだ。

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SJ: ちょっと奇妙ですね。

DB: 僕は好きだよ。成功してると思う。奇妙でも構わない。これも 14 Downs Road, London E5 8DS で買える。観る価値はある。

SJ: (先行の会話に触れて)ミンの話に戻りますが、あなたが担ぎ屋の世話になったという山上のコンサートがありましたね。

DB: そのコンサートがビデオに収録されているんだ。ミンとカズエが運営したアート・キャンプというプロジェクトのカンパニー・ウィークの中のコンサートだ。次回が10周年になると思う。例年、8週間位つづくんだがミンと学ぶために世界中から参加者が集まる。ミンとの学習というのは一種の奇妙な宗教のようなものでね。まずミンと裏山を7時間かけて歩き、次いで芋掘りがあり、それから舞踊についての講義が始まる。陽気なカリフォルニアンは苦行のすべてをこなすんだ。ミンの講義を受けたいがためにね。素晴しいことだ。場所は日本アルプスと呼ばれる地域の白州にある。
日本アルプスは低い山並みで東京から2~3時間、とても美しい場所だが、市街地ではない。日本でも数少ない人の住まない地域のひとつだと思う。コンサートのためにいくつものステージが設営され、中には、土を盛り上げただけのステージもあった。演奏するには面白いスペースだ。ここで1度コンサートをやったのだが、温度は30度(編集部註:華氏)、夜間で、真っ暗、スポットライトが差していた。僕が演奏しているとき、巨大な昆虫が横切るのが見えた。ハリネズミほどもある昆虫。つまり、とてつもなく巨大な昆虫だ。そいつらが空から急降下してきてあちこち噛むんだ。とにかく、君が知りたいというコンサートの場所は、連峰のひとつの山の上にあった。ある日曜日の朝10時にコンサートをやったんだが、このときも温度は36度前後。しかし良い日和りだった。各地から観客が集まってきた。道筋からステージまでは1マイル程。トラックも使えた。僕はローディを使ったことがあってね、とくに日本では。しかし、この時は担ぎ屋を頼んでギターを運んでもらった。アコースティック・ギターを使ったんだ。朝になってみると、窪地から150フィートほど突き出た木製のステージがあるのが分った。聴衆は山側から見下ろすことになる。ビデオを見れば分かる。ビデオの注文は、14 Down Road London E5 8DS へ。超特価だ。

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SJ: ミンとは最初の訪日以来ずっと共演しているのですか。

DB: そうだ。最初の訪日以外は毎回共演している。日本以外の各国でもね。カズエは東京で PlanB というクラブを経営していてね、そこでも演奏した。
ソロに、ミンとの共演、それから吉沢とも演ったと思う。地下の小さなスペースだ。全部手作りなんだよ。

SJ: イギリスのミュージシャンを連れて行ったことはありませんよね?

DB: そう。(ジョン)ゾーンとは演奏したことがあるけど。ゾーンがどうして日本のジャズシーンに入り込んだか分ったよ。彼は毎年、半年は日本に住んでいるんだ。それにゾーンはギグル・ファクターを身に付けている。ゾーンにとって日本を体験することは故郷に帰ったようなものなんだ。その一部にギグル・ファクターが作用していると思う。ただし、ゾーンの場合は、シリアスかつ熱烈になることができる。しかも、きわめてシリアスかつきわめて熱烈に、ね。どんな時でも、どんなものでも、すべての不合理をたちどころに理解してみせる資質。日本人はこの資質を備えていた。僕は日本で数回ゾーンに会っており、何度か共演もした。最初は87年だと思う。彼は何でもやるんだ。日本のブルースバンドとも演奏していた。見事にホンモノのブルースの音がしていた。彼は何でもこなせるんだ。

SJ: ゾーンはなかなか良いコネを持っているようですね。

DB: 日本で仕事をするのにたいした苦労はなかったようだよ。日本に住んで、作曲の場にも使っていた。いつものようにぶらっと出かけていって演奏する。相手が誰であってもいいんだ。クラブに顔を出して演奏する、僕が知る限りそんな調子の毎日だったよ。70年代後期以降のことだけど。サックスを持って出かけて行っては飛び入りで演奏する、って具合だ。

SJ: 正統な日本のブルースバンドと演奏するように、ですね。

DB: そうさ。ふらりと顔を出しては飛び入りで演奏する。彼の影響力は大きいものがあったと思う。もちろん彼自身も大きな影響を受けていると思うけどね。日本語を使うのが好きでね。彼と一緒にいたときのことだけど、同行の女性に彼が日本語で話しかけて、彼女が英語で答えるんだ。彼女の話は良く理解できなかったけど、興味あるシーンだった。

SJ: ゾーンは日本でルインズとCDを録音したのでしょうか。

DB: いや、ニューヨークだ。僕は当時ニューヨークで仕事をしていて、ルインズもニューヨークに滞在していた。ゾーンが「明日スタジオにおいでよ。びっくりすることがあるよ」と言うんだ。

SJ: 灰野(敬二、ギタリスト)とは仕事をしたことがありますか?

DB: 一度会ったことがある。とても気持ちの良い奴だよ。口数の多い男ではなかったが。ウィル(ゲインズ)とスイスでコンサートに出演していた時、彼が僕らに会いに来たんだ。彼の出番は前の晩だったんだ。その夜はウィルの出来が最高でね。彼と観客の波長が会った時が何回かあった(それが不快なものでなければ)。アート系の観客がエンタテインメントを愛する。ウィルにとっては、メンズ・クラブよりもアート系の観客のために演奏する方がずっと楽なんだ。彼らは味方に付け易いんだ。スイスの観客は驚いただろうけどね。彼はソロで演ったんだが観客の拍手が鳴り止まずセンセーショナルなコンサートになった。灰野が期待した内容ではなかったと思うけど。
確信はないんだけど、僕の印象によると最近の日本の若者は音楽に対する考えがとてもルースですごく魅力的なんだ。それぞれがレギュラー・グループを持っているんだけど、彼らは面を演奏するんだね。彼らがそれに興味があるとすれば、それは(フリー・インプロヴァイズド)ミュージックを演奏するには最適のやり方なんだ。つまり、レギュラー・グループ自体はそれはそれとして素晴しいんだけど、それは流れに付加的なものに過ぎないように思えるんだ。シーンの活力はいろんな事実をミックスしたものから生まれると思うんだ。つまり、皆が皆と演奏するために用意ができているという事実だけでなく、ある者は他の奏者と演奏する用意ができていないという事実、そして人によっては資質が余りにも違うために他人とは共演できない(あるいは少なくとも共演できないと思い込んでいる)という事実だ。日本人のプレイヤーがいつも受け入れていると思うのは、彼らは演奏しているときに誰かに席を譲るということを気にしていない、あるいは、それほど気にしていない、ということ。僕が親しくしている日本人のミュージシャンは皆、面を演奏している。つまり、ソロも演れば、グループも持つだろうし、また相手を選ばず演奏する。

SJ: 近藤のバンドには驚きましたね。

DB: いや、近藤は日本のシーンではもはや中心的な存在ではないんじゃないのかな。男性モデルとしてジャズ・シーンを長らく留守にしているし。
彼と街中に出るとね、皆が寄ってきてサインをねだるんだ。だけど、トランペットの演奏を聴いて来るんじゃなくて、TVコマーシャルを見て知ってるんだよ!カメラを買いに行ったことがあるんだ。僕は日本でカメラを2台買ったんだが、2度とも近藤を連れていった。何故って彼は値切りの名人なんだ。彼の手にかかると値段がどんどん下がるから値札は無いに等しいんだ! その時、彼らは近藤というだけの理由でアクセサリーのセット・バッグを僕らにサービスしてくれたんだ!これは87~88年頃のことだと思う。今は演奏の方にもっと時間を割くようになっていると思うが、いずれにしても彼がメインストリームの活動から目を逸らすことはないはずだ。(訳責:稲岡邦弥)

*原文は英「Resonance Magazine」誌 Volume 4 Number 2/1996/London Musician’s Collective, Ltd. 掲載 [Old Sights, New Sound:Derek Bailey in Japan by Stefan Jaworzyn]。同誌の許諾を得て翻訳・掲載いたしました。
*同誌購読のお申込みはこちらのサイトから;
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初出:2006年9月1日 Jazz Tokyo #43 「RIP デレク・ベイリー」の一部として掲載。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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