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R.I.P. ペーター・ブロッツマンInterviewsNo. 308

Interview #276 ペーター・ブロッツマン 2008

text & photo by Kazue Yokoi 横井一江
interview: 2008年5月17日 新宿にて

 

今年(2023年)6月22日、ペーター・ブロッツマンが亡くなった。

噂が広がるのは早い。SNSのタイムラインに彼の名前が連なっているのを見て、もしやと思ったところ、訃報が入ってきた。そして、彼の音楽と生きた時代について思いを巡らせていた時に、2008年に行ったインタビューをラフにテープ起こしした原稿が出てきた。後に出した拙著『アヴァンギャルド・ジャズ  ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷、2011年)に彼の言葉も少し入れているが、インタビューとしては出していない。限られた時間だったので聞き足りないことも多々あるが、彼の率直な語りをここに残しておきたいと思い立ち、本稿を起こすことにした。

Peter Brötzmann @Shinjuku PitーInn

まずはペーター・ブロッツマンが音楽の道に入った頃のことから。

長い話でね。若い頃、セミプロのスウィング・バンドでクラリネットとサックスを吹いていたんだ。当時、自分がなりたいと思っていたのは画家で、音楽はその次。しかし、長い間にそれは変わってしまった。

その頃の私にとって重要なミュージシャンは、アメリカのドン・チェリーやスティーヴ・レイシー。彼らの演奏を聴いて自分もやろうという気になった。60年代半ばに自分のバンドを持った。トリオだ。当時はアート・ブレイキーに代表されるようなハードバップの時代で、ヨーロッパでもアート・ブレイキーの音楽が有名だった。彼らの音楽は素晴らしいけれど、自分は他のことをやりたかった。チャールス・ミンガス、オーネット・コールマン、初期のジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスなどを聴いていたよ。

美術関係のつながりでナム・ジュン・パイクと知りあい、彼を通して、ジョン・ケージや若き日のシュトックハウゼン、マウリシオ・カーゲルを知る。音楽の別の可能性についての視野が広がった。パイクはフルクサスのメンバーではないが、フルクサスと繋がっていた美術家。パイクと数ヶ月一緒に仕事が出来たことは嬉しい。ケージやデイヴィッド・チュードア、ヨーゼフ・ボイスなどと知り合えたんだ。ヴッパータールには進歩的なギャラリーがあって、前衛芸術家の展示会をやっていた。ヨーロッパで最初にパイクの大きな展示会を開催したのもそこ。いろいろな刺激を受けることが出来た。

それから、スティーヴ・レイシー、ドン・チェリー、カーラ・ブレイなどの音楽が自分を勇気づけてくれた。レイシーを通じてカーラ・ブレイを知った。60年代半ばのこと。彼女のバンドのヨーロッパ・ツアーにも参加したことがある。その時、ベースのペーター・コヴァルトも一緒だったけれども、コヴァルトと私はワイルドすぎて、ツアーが終わったらオシマイ。でも、沢山学んだと思う。今でも彼女の音楽は好きだよ。彼女の作品もね。いい時代だった。ドン・チェリーやレイシーは、私自身の道を見つけるのを大きく助けてくれたんだ。

フリー・ジャズを始めたのは1963年頃だろうか。徐々に前進していった。転機が60年代半ばだったことは間違いない。パリにいたドン・チェリーがバンドに呼んでくれた。ガトー・バルビエリやカール・ベルガー、それからジャン・フランソワ・ジェニー・クラーク、アルド・ロマーノがいたね。画家であることより音楽が中心になっていた。でも、描くことは今も続けているよ。歳を取ってきたので、絵を描くことにもっと時間を割きたいと思っている。

フリー・ジャズの草創期、60年代は政治的な時代だった。60年代はベトナム反戦運動、学生運動と大衆もデモなどの直接的な行為に参加した時代である。そのような空気とは別に、ドイツには敗戦国ならではの国情もあった。

60年代は社会的なものと政治的なものが結びついた時代だった。我々の世代に対して、父親の世代はすべて終わった、罪悪感や恥じることはないと言っていた。そこで質問をしても答えがないんだよ。我々は自分で答えをみつけなければいけなかった(*1)。

戦争について考えた時に、第二次世界大戦は最後の戦争でもう二度と戦争は起こってはいけないと思った。ところが朝鮮戦争が始まった。ドイツ軍がふたたびつくられた。ベトナム戦争が始まり、キューバ危機、ひとつが終われば、また違う何かが始まる。それは我々にとっては災厄なんだ。ドイツやヨーロッパの学生、芸術家はフランスの運動に繋がっていった。戦争へのパワーはもっとよいことに使われるべきだと考えたんだ。若かったし、愚かで、それは幻想にすぎなかったけれども、それを表出したんだ。アメリカでは黒人運動が起こり、ワシントン大行進(*2)があり、マーチン・ルーサー・キング、ブラック・パンサー党、アンジェラ・デイヴィスが出てきた。とにかく変わらなければいけない。ドイツでは当時アデナウアー(*3)に反対しないといけない思った。だからコヴァルトにしろみんな強くてワイルドな音になったのだ。座ってキレイなメロディを聴いている場合ではなかったんだ。

(後に出てきた)70年代のパンク・ロックはカウンター・カルチャーの装いをまといつつ、ポピュラー音楽市場の中でそのセールスを維持するために暴力的なイメージやラディカルな言葉を用いていたにすぎない。

今、グローバリゼーションは金持ちを金持ちにし、貧しい人はそのまま。あちこち旅するが、どの国でも同じだ。中流は減ってきている。中流は大切なのに。貧しい人の状況はますます悪くなっている。特にアメリカではそれが顕著だ。それが10年後の自分達を取り巻く状況なんだ。

今でこそ、ミュージシャン自身がCDを制作・リリースし、また情報を発信することはごく当たり前に行われている。しかし、ミュージシャン自身がレコード流通に関わるようになったのは1960年代、フリー・ジャズを演奏するミュージシャンだった。ヨーロッパで誰よりも早くそれを始めたのがペーター・ブロッツマンである。

1967年に最初のレコードを出した。ペーター・コヴァルトとスヴェン・オキ・ヨハンソンとのトリオだ(*4)。小さなビジネスだったが、損はしなかったよ。それは大事なことでね。次のも出すこともできたし(*5)、ラージ・アンサンブルでフランクフルトのジャズ祭で演奏することに繋がった。エヴァン・パーカー、ヴィレム・ブレゥカー、ゲルト・デュディックを入れた4人のサックス、ハン・ベニンクとヨハンソンのドラム、ブッシ・ニーベルガルとコヴァルトのベース、普通ではない編成のバンドだった。

少し後にICP、その後インカス INCUS が出来た。このような音楽はメジャー・レーベルが望むところではないから。(レーベルをスタートさせた根底には)コミュニスト的な考え方、なぜ自分達ですべてコントロールできないのかということがあった。制作面だけではなく、販売面でも成功したと思う。ミュージシャンが集まってミーティング(TMM)をやった時はラジオ局からサポートを得られた。イギリス、オランダ、スイス、スカンジナビアなどから人を集めてね。FMP (Free Music Production)の始まりだ(*6)。60年代から80年代まではいろいろリリースしたよ。

コヴァルトと少し後にアレックス(フォン・シュリッペンバッハ)が加わった。彼が加わったことで成功したね。ヨスト・ゲーバースはベーシストだったけれども、ベースを弾くことにさっさと見切りをつけてレコード制作、オーガナイザーとしての仕事に専念した。彼はそれにふさわしい人物だったと思う(*7)。

ワークショップ(Workshop Freie Music)、ベルリンでフェスティヴァル(トータル・ミュージック・ミーティング TMM)を始めたんだ。アカデミー・オブ・アーツとよい関係が得られて、TMMをベルリンジャズ祭のパラレルとしてずっとやってきた。アーチスト・イン・レジデンスで滞在していたセシル・テイラー、またスティーヴ・レイシーやジョン・チカイともいろいろな企画をやることが出来たね。今振り返るといつも困難はあったけれどもよい結果が得られたと思う。

アカデミー・オブ・アーツだけではなくベルリン市からも経済的なサポートを得られていたが、それも80年代まで。東西ドイツが統合されて、すべてが終わった。今のベルリン市の芸術担当は勘違いしている。ヨストは健康上の理由で辞めて、ヘルマ・シュライフに一部を委譲したのだが上手くいっていない(*8)。ヨストはアーカイブを持っていて、シカゴのアタヴィスティック・レーベル(Atavistic)から少しづつ昔の音源を再発している。特に重要なLPを中心にね。

ここで補足しておきたい。前段でブロッツマン が言っているFMP (Free Music Production) の始まりとは、レーベルではなく、ミュージシャンによる自主組織としてのFMPのことだ。第1回トータル・ミュージック・ミーティング Total Music Meeting は1968年11月7日〜10日、第1回ワークショップ・フライエ・ムジーク Workshop Freie Musik は1969年4月4日〜6日に開催、続いて同年6月にFMP Recordsの第1作目『マンフレッド・ショーフ・オーケストラ/ヨーロピアン・エコーズ』がブレーメンで録音されている。

FMPを立ち上げた頃とは音楽を取り巻く状況も録音物の流通も大きく変わった。そこのところをブロッツマン はどう見ていたのだろうか。

CDのリリースは注意深くやらないといけないんだ。未発表録音もあるが、現在はCDマーケットが良くない。とてもデリケートなことだね。将来的にはダウンロード配信という可能性もあるけど、今は過渡期で混乱している。ロックなどのメジャーはパワーもあるからいいけど、小さいレーベルは大変だ。今はCD制作が簡単に出来るから、沢山リリースされているが…。

(私の場合は)若い共演者が出そうと言うんだ。若い連中は技術的なことも知っているし、よいマイクがあればなんでも出来てしまう。2000ドル程度のお金とコンピュータがあればいい。けれども、良い考えだとは思わないね。このような音楽を聴く人はさほど増えてはない。老人が死んで、若いのが増える。望むと望まざるに拘らず特別な音楽なんだ。ローリング・ストーンズとは違う。マーケットが小さいのにリリースが多すぎる。若い連中は「素晴らしい、作ろう」って言うけれども出しすぎはよくない。

数年前から始めた方法がある。ハン・ベニンクとアメリカ・ツアーをした時に始めたのだが、ツアー用にCD をリリースする。ツアー中に売れるだけ、300枚から400枚だけプレスしてオシマイ。八木美知依とポール・ニルセン・ラヴとのトリオも同じ。ツアー中に売って、100枚から200枚残しておく。それは特別なお客のためにメールオーダーで販売する。売り切れたらそれで終わり。安く作って、安く売る。今、若い連中はダウンロードで安く手に入れているしね。

ブロッツマンは、若い世代を含めてその共演者の幅が広い。聴き手もまた同世代、日本でいえば団塊の世代だけではなく、若い世代もライヴ会場で見かけた。

若い人がコンサートに後にやってきて、声をかけてくれる。日本でもアメリカでも若い人で興味を持ってくれる人がいる。それは嬉しいね。

(なぜだと思うかって)ミドル・ジェネレーションは大したことをしていないからさ。シカゴ・テンテットには40歳から50歳のメンバーもいるが、一般的にドイツとかニューヨークではその世代は大したことをしていないよ。

詳しくチェックしているわけではないけれども、ドイツの若手でこれはというミュージシャンはそんなに思いつかないね。数人はいるかな。ケルンに若いトランペッターがいてね、14歳のときにワークショップに来ていて知り合った。10年後に彼に会った。ビッグバンドで演奏したり、ビバップをやったり、フリーをやったりしていたよ。音楽大学や学校はあるけれども、そこで学んだ後はいったいどうしているのだろう。消えてしまっている。楽器演奏は教えることが出来る。だが、音楽を創造するということは違う。旅をして、しょうもない(ビッグシットな)クラブで演奏して、そこから学ぶんだ。若い連中は家にいて、電話を待っている。電話は鳴らないよ。コンピュータの前に座っていてもコミュニケーションは学べない。可能な限り演奏しないと。コヴァルトとは騒々しいクラブで随分と演ったね。今ではそんなことはしない。家に居て、自分のキャリアやお金について考えてる。それじゃあね…。日本でも同じだろう。近藤等則とはもう30年もやっているよ。進歩していくのはとてもハードでタフで、音楽で生き残っていくのはすごく大変だ。アメリカの友人はもっとだろう。ほんの数パーセントはジャズ・ミュージシャンとしてやっていけるが、99パーセントは辛酸を舐めている。

とはいえ、若い世代で即興音楽をやっているミュージシャンは少なくない。しかし、その多くはフリー・ジャズ、そしてフリー・ミュージックの影響を受けている者もいれば、そうでない者もいる。2000年代初頭には同時発生的に、音響的な即興と評された音数の少ない演奏をするミュージシャン達が出てきた。ベルリン・リダクショニストとかロンドン・ニュー・サイレンス、オンキョーなどと言われてきた彼らの即興演奏についてはどう見ていたのだろうか。

アクセル・ドゥナーというトランペッターがいる。彼は全然音を出さないよね。人間もいいし、トランペッターとしても優れている。なのに、ぜんぜん演奏しないんだ。ケルンのフェスティヴァルで3人のペットが演奏していた。ところが全然音が聞こえてこない。ケージの影響なのか。でも、勘違いしているぜ。

若い連中はコンピュータの前に座っているだろう。オレにはコミュニケートしようとしていないとしか思えないんだ。演奏はいい、だけど皆んなで何かを創ろうとしない。音楽にもコンピュータの弊害が出ている。

シカゴのアートスクールで音楽と美術の両方の生徒が来るクラスで講義をしたことがある。コンピュータで音楽を創っている彼らに昔のブルースを聴かせるんだ。音楽はテクニックでもないし、複雑なことでもない。人生のようなものなんだ。人生を語るものだ。どのように感じたか。何が出来るか。演奏する時に悲しい気持ちならば、そう伝わる。歴史は語ることが出来る。困難なのは確かだが、生き残っていくことを知るべきだ。若いのは毎日の生活で何かを失っていると思う。

話題を変えて、最後に近年の活動について聞いた。TMMで近藤等則、ハミッド・ドレイク、ウイリアム・パーカーとの「ダイ・ライク・ア・ドッグ」を観ていたこともあり、その当時個人的にフェヴァリットなバンドだったのでまずそれについて尋ねてみた。

「ダイ・ライク・ア・ドッグ」は7年くらい続けたかな。でも、近藤は新しいエレクトリック・バンドの仕事をスタートさせたし、ハミッドやウイリアムは他の仕事で忙しくて、今はもうやっていない。最後は惨めだったな。近藤とは違うカルテットを始めた。ポール・ニルセン・ラヴとイタリア人のエレクトリック・ベース、マッシモとのズー・バンドだけど。近藤は大好きだよ。

(ポール・ニルセン・ラヴと八木美知依とのトリオについて)ポールは若いけど、とても強いマインドを持っている。もちろん良いドラマーで、何ををやりたいかよく認識している。美知依は強い女だ。彼女のエネルギーやプレイが好きだ。自分で箏を運んで、何でもやる。素晴らしい。このトリオは続けたいと思っている。

シカゴにはこの20年間ずっと行っているよ。バーへ行けばミュージシャンがいて、一緒にやろうということになる。(シカゴ・テンテットは)最初は8人のバンドだった。ジョー・マクフィーがやってきて、ハミッド・ドレイクも入り、今は11人のバンド。ヨハネス・バウアーがセカンド・トロンボーン。10年以上やるなんて思ってはいなかったよ。来年はヨーロッパ、リスボンのジャズ祭でもやる。予算があれば、ゲストも呼ぶ。近藤を何回か呼んだし、エヴァン・パーカーやヴィレム・ブレゥカーも。私にとってベストな人達とやりたい。テンテットは続けたいね。社会的な理由からだ。ジャズは社会的なものだから、単なる音楽だけではない。10人ものミュージシャンが一緒にやるということは凄いことなんだ。若くてストレートなケン・ヴァンダーマークも素晴らしい。

ブロッツマンが来日した時に詩人の白石かずこと何度か共演していた。音楽と詩(言葉)のコラボレーションについてはどう捉えていたのだろうか。

白石さんはスペシャルで古い友人だ。私にとって良かったのは日本語がわからないこと。彼女が詩を読んでいる時は、サウンド、ボイスとして聴いて、反応しているんだ。彼女が英語を挟むとフォローする。ボイスと共演しているんだよ。彼女が詩を読んでいる時は歌っているみたいだ。ドイツ人とやると言葉や意味が邪魔をする。彼女とはパーフェクトな関係で上手くいっている。そんなに多く話はしていないけど、いい友人だと思うし、彼女もそう思っていると願いたい。

このインタビューの前日は、新宿ピットインで佐藤允彦と森山威男を迎えた合計年齢200歳超のトリオによるHeavyweights!と題したライヴがあった。これまで日欧で様々なブロッツマンのステージを観てきたが、ピアニストが参加した編成のライヴを観たのはこの時が初めてだった。

最初のフレッド・ヴァン・ホーフとハン・ベニンクとのトリオでは10年以上やっているよ。その後、一緒に演ったのはニューヨークのボラ・バーグマン。とても素晴らしいピアニストだけど、気むずかしいところがあってね…。偉大なピアニストだったけど、数年前に演奏したのが最後かな。佐藤さんには可能性を感じたよ。森山さんもファンタスティック、偉大なドラマーだね。3人とも歳をとっているけども、音楽はフレッシュだったね。

2011年のオーストリア、ヴェルスのフェスティヴァル「ミュージック・アンリミテッド」は、ブロッツマンが70歳を迎えたことを記念して特別プログラムで開催された。このトリオもそこで演奏、他に日本から近藤等則、豊住芳三郎、坂田明、大友良英、八木美知依、本田珠也、灰野敬二が出演した。

Heavyweights! [Peter Brötzmann, Masahiko Satoh, Takeo Moriyama], May 16, 2008

ブロッツマンの言葉の端々から、彼の人となりが、その生き様が言葉の端々に感じられた、そんな時間だった。彼が生きていたら10月以降悪化するばかりの世界情勢について果たして何を言っただろう。

あらためてご冥福をお祈りします。


1 この発言には補足が必要だろう。現在はユダヤ人迫害を含めるナチスの犯罪は歴史教育で十分行われているが、ブロッツマンが教育を受けた頃はナチ時代についての教育は不十分だった。下記論文参照。
川喜田敦子、2005、「ドイツにおける現代史教育 ナチの過去に関する歴史教育の変遷と展望 」『ヨーロッパ研究 』第4号、85-103頁
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_4_Kawakita.pdf
論文で川喜田は「1958 年から 1962 年にかけて西ドイツで行な われた調査では、ナチ時代について歴史の授業で扱うことに対して教員よりもむしろ生徒の方が関 心をもっていたことを示す結果が出ており、ナチの過去について教えることに対して教員が積極的 でなかった状況を浮かび上がらせている」と記しており、ブロッツマンの言葉と整合性が取れる。

2  ワシントン大行進は、1963年8月28日に、公民権運動家で牧師のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアらによって、人種差別撤廃運動として行われ、20万人以上が参加した。

3  西ドイツの初代首相コンラート・アデナウアー、在任期間は1949年から1963年。

4『フォー・アドルフ・サックス(For Adolphe Sax)』FMPからLPで再発され、現在はAtavisticからCDとしてリリースされている。

5『マシンガン Machine Gun』FMPからLPで再発され、現在はAtavisticからCDとしてリリースされている。このアルバムが発売されてから50年後の2018年に「50 Jahre Brötzmann Machine Gun」というイベントがブレーメンで行われている。
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/post-29068/

6  FMP (Free Music Production) はNPOである。レコードも沢山リリースしたが、最初に行ったのはTMMの開催。継続的に行われたTMMやWorkshop Freie Musikの他に東独のミュージシャンとの交流、セシル・テイラーを迎えての企画などを行っている。

7  マーカス・ミューラー著『Free Music Production FMP: The Living Music』(Wolke Velag, 2022)には、1966年〜1972年にブロッツマンとヨスト・ゲーバースがFMPの土台を築き、1972年〜1976年は4名のミュージシャン(ブロッツマン、コヴァルト、シュリッペンバッハ、デトレフ・シェーネンベルク)とゲーバースによる協同組合、1976年〜2010年までゲーバースがFMPを運営ということが書かれている。

8  TMMの運営とFMPのデストリビューションをヘルマ・シュライフに移譲したのだが、その内容の解釈に齟齬があり、裁判沙汰になった。結果的にFMPのディストリビューションについての移譲は白紙となった。TMMについては、ヘルマ・シュライフのほうで運営してきたが、2009年にベルリン市からの援助が全く得られなかったために遂に中止に追い込まれた。


【関連記事】

Reflection of Music Vol. 12 ペーター・ブロッツマン
http://www.archive.jazztokyo.org/column/reflection/v12_index.html

#07 『マシンガン』から50年
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/post-29068/

#40 故人を偲ぶ:
ペーター・ブロッツマン 、エルンスト・ルードヴィッヒ・ペトロフスキー、ヨスト・ゲーバースとFMP
https://jazztokyo.org/monthly-editorial/post-94649/

 

横井一江

横井一江 Kazue Yokoi 北海道帯広市生まれ。音楽専門誌等に執筆、 雑誌・CD等に写真を提供。ドイツ年協賛企画『伯林大都会-交響楽 都市は漂う~東京-ベルリン2005』、横浜開港150周年企画『横浜発-鏡像』(2009年)、A.v.シュリッペンバッハ・トリオ2018年日本ツアー招聘などにも携わる。フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年~2004年)。著書に『アヴァンギャルド・ジャズ―ヨーロッパ・フリーの軌跡』(未知谷)、共著に『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング)他。メールス ・フェスティヴァル第50回記。本『(Re) Visiting Moers Festival』(Moers Kultur GmbH, 2021)にも寄稿。The Jazz Journalist Association会員。趣味は料理。当誌「副編集長」。 http://kazueyokoi.exblog.jp/

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