RIP ルディ・ヴァン・ゲルダー
Rudy Van Gelder
1924年11月2日〜2016年8月25日
(ジャズ)レコーディング・エンジニア
本名は、ルドルフ・ヴァン・ゲルダー、“ルディ”はニックネーム。
1924年11月2日、ニュージャージー州ジャージーシティ生まれ。
両親は婦人服専門店を経営、アマチュア・ラジオに興味を示す少年時代を過ごし、音楽との関わりはジャズ・ドラマーだった叔父の影響でトランペットのレッスンを受けた程度。自宅のリヴィングでローカル・ミュージシャンの録音に奉仕していたが、生業のためにフィラデルフィアの検眼師の専門校に進む。
一方で、自宅の再生装置の音質に不満を持ち、スピーカーやターンテーブル、アンプなどに改良に加えることを趣味にしていた。
運命の扉が開いたのは1953年、友人のバリサックス奏者ギル・メレがブルーノート・レコードのプロデューサー、アルフレッド・ライオンに紹介してくれたことからすべてが始まった。ヴァン・ゲルダー20代最後の年だった。最初のチャンスは翌1954年3月の『マイルス・デイヴィス Vol.2』(BLP1502)。ライオンの厳しい要求に応えるために日夜切磋琢磨、持ち前の研究熱心、生真面目な性格も幸いし、数年のうちにライオンの要求に応えられるように成長した上、プレスティッジやサヴォイの録音も手がけるほどの評価を得るようになる。ライオンとのコラボレーションで作り上げた音がいわゆる“ブルーノート・サウンド”あるいは広く“ジャズ・サウンド”の典型として後々までエンジニアのリファレンスとなった。様々なジャズのスタイルが混在する現在から振り返ると、“ハードバップ・ジャズのサウンド”と限定する方がより正確かも知れないが。50年代にブルーノートで手がけたミュージシャンはマイルスの他に、ホレス・シルヴァー、ケニー・バレル、ケニー・ドーハム、ハンク・モブレー、ジョニー・グリフィン、ソニー・クラーク、ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーン、リー・モーガン、バド・パウエル、ドナルド・バード、カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイ(『サムシン・エルス』)などなどハード・バップの雄がキラ星のごとく並ぶ。50年代のプレスティッジでは、MJQ、セロニアス・モンク、レッド・ガーランド、ロリンズ(『サキソフォン・コロッサス』)、マイルス、コルトレーンなどなど。
50年代は他に、ミルト・ジャクソンの『オパス・デ・ジャズ』やカーテシス・フラーの『ブルースエット』が人気のサヴォイ、モンクやランディ・ウェストンのリバーサイドなどでも仕事をしている。
1959年、ハッケンサックの実家を出て(セロニアス・モンクの楽曲<ハッケンサック>はヴァン・ゲルダーに献呈された作品)、イングルウッドに専用のスタジオを建設。設計は、フランク・ロイド・ライトを経由して八角形の法隆寺・夢殿にヒントを得たともいわれている。インパルスのプロデューサー、クリード・テイラーとのコラボレーションも始まり、プロデューサーはボブ・シールに代わったが1964年のジョン・コルトレーン『至上の愛』がこのスタジオから生まれ、他にもコルトレーンの名作がずらり。他に、アーチー・シェップなども。
1967年にライオンがリタイヤするとブルーノートやプレスティッジとの縁も薄れ、この時期はもっぱらウェス・モンゴメリー、ヒューバート・ローズやジェリー・マリガン、フレディ・ハバードなどクリード・テイラーのCTIの録音に精を出す。クリード・テイラーとの仕事ではスタン・ゲッツ、ジミー・スミスなどヴァーヴにも足跡を残している。
その後、映画のサントラの仕事にも携わっていたが、1999年以降はブルーノートやプレスティッジのアナログ録音を24bitのデジタルへのリマスタリング従事、RVG Edition Series として改めて評価を得た。
生涯に録音したアルバムは2000作を超えるという。その足跡を辿ることはモダンジャズの歴史を紐解くことになろう。
2016年8月25日、スタジオの自室で眠りについたまま老衰のため息を引き取る。亡くなる前の週まで仕事に励んでいたという。享年91。