追悼 “Dr.Jazz” 内田修「プーさんなりの謝意の表し方」
内田先生、大変ご無沙汰しております。10数年前のラブリーでお会いしたのが最後だったでしょうか? いつもニコニコしてお席にいらしたことを覚えています。あちらでプーさんとはもう会われましたか? ご存知のようにプーさんは寂しがりやで、NYでは何度も先生の話を聞かされました。これからまたご面倒をおかけすることになると思いますが、よろしくお願いします...。
私の手元には、プーさんの未発表音源が何本かある。どうにかして世に送り出したいと所縁の人たちと相談していたものだが、その内の一つにOn The Move(菊地雅章ピアノ、杉本智和ベース、本田珠也ドラムス)による2002年ラブリーのライブがある。そのセカンドセットは内田先生からのリクエストで「ウンポコロコ」や「クレオパトラの夢」など、すべてバド・パウェルの楽曲で構成されている。思えば1960年代前半に銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」でジャズアカデミー(高柳昌之、金井英人、富樫雅彦、菊地雅章)によって毎週金曜午後に行われていた実験的なセッションの会場に内田先生が名古屋からテープレコーダーを持ち込んでいた時代、プーさんのプレイスタイルはまさしく和製バド・パウェル(唸り声も含めて)だったと聞く。それ以来、東京で、名古屋で、そしてNYで、プーさんは内田先生から精神的にも金銭的にも様々なサポートを受け続けてきた。NYのロフトに鎮座していたNYスタインウェイも、内田先生からの支援が無ければとっくの昔に人手に渡っていたとプーさん本人から何回か聞かされている。いくら感謝をしてもし切れないほどの恩義に対するプーさんなりの謝意の表し方だったのだろうか? そのサウンドはいつもよりメロディアスで、心なしか唸り声も少ないような気がする。いつの日からか二人の間には距離ができていってしまったが、晩年のプーさんは、NYのロフトの暗がりの中で内田先生と過ごした時間を愛おしそうに語ることがあった。
もしあのラブリーの音源が世に出せるようなことがあったら、内田先生に一言書き添えてもらわないとね。皆がそう思っていたのに、叶わぬ夢になってしまいました。プーさんのエピソードをもっともっと伺いたかったです。そちらではプーさんや富樫さん、高柳さんらが待ち構えていたのでしょうね。録音機材はお持ちになりましたか? いつの日かそちらに渡った時、また秘蔵のセッション・テープを聴かしてください。
内田先生、ありがとうございました。(上原基章)
参考資料:ドクター・ジャズ 内田修 「幻の銀巴里セッション」を語る