追悼特集 ジョン・アバークロンビー RIP John Abercrombie
▪️Profile
▪️RIP John Abercrombie ECM
▪️RIP John Abercrombie 「My friend and colleague」 Steve Khan
▪️RIP John Abercrombie 「Yo, Johnny!」 Richie Beirach
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「アーケード・セッションから」 悠 雅彦
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「Give me Tokyo gig!」 稲岡邦彌
▪️RIP John Abercrombie 「My tribute to Dear John」 Roberto Masotti
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「アバークロンビー再評価」 近藤秀秋
▪️RIP John Abercrombie 「My Dear Friend」Adam Nussbaum
▪️楽曲解説 #22 ジョン・アバークロンビー <3 East> ヒロ・ホンシュク
ジョン・アバクロンビー guitar/composer
1944年、NYポート・チェスターの生まれ。コネチカット州グリニッチで育ち、14歳でギターを手にする。チャック・ベリーの手癖を真似していたがバーニー・ケッセルのブルージーな演奏を聴いてジャズに惹かれる。ボストンのバークリー音楽院に入学、学生仲間とバンドを組んでクラブやバーで演奏。卒業後NYに移住まもなく人気セッション・プレイヤーのひとりとなり、ギル・エヴァンス、ガトー・バルビエリ、バリー・マイルスなどのレコーディングに参加。
70年代初期、マンフレート・アイヒャーと出会い、ECMへのレコーディングに誘われる。ヤン・ハマー、ジャック・ディジョネットとのトリオによる『タイムレス』でECMデビュー。1975年、ディジョネット、デイヴ・ホランドとのトリオ『ゲイトウェイ』を録音。
70年代末期、リッチー・バイラーク(p)、ジョージ・ムラーツ(b)、ピーター・ドナルド(ds)と最初のカルテットを結成、3枚のアルバム、『アーケード』、『アバークロンビー・カルテット』、『M』を録音(2015年、3CDセット『ファースト・カルテット』として初CD 化)。このカルテットこそ、ギタリストが主導権を握りジャズ・ロックを脱しスペースを生かした印象派的でオリジナルな演奏を実現した初めてのグループだった。
マーク・ジョンソン(b)、ピーター・アースキン(ds)とのトリオではギター・シンセに挑戦、アバークロンビーによれば、“音量が大きく、さらにオープンな音楽”を演奏した。
1995年には「ゲイトウェイ」トリオを再編、『ホームカミング』を録音。 新たな試みとしてギタリスト/ピアニスト/コンポーザーのラルフ・タウナーとデュオの活動を開始した。
2013年、マーク・コープランド (p)、ドゥリュウ・グレス(b)、ジョーイ・バロン(ds)のカルテットで『39ステップス』を録音。ジャズ・バラードとリリシズムを特徴とするこのアルバムについて、ロンドン・ジャズ・ニュースは“アルバム全体から醸し出される質の高い優美さ、確かさ。4人の匠による完璧なレコーディング”と評した。
▪️RIP John Abercrombie ECM
最高のインプロヴァイザーのひとり、ジョン・アバークロンビーが長い闘病生活を経て8月22日死去。彼の繊細な音楽性、付合いの良さ、セッションを盛り上げるとぼけたユーモアなどは語り草になるだろう。彼のディスコグラフィーは膨大なものでジャズ・ギターを演奏する者にとっては良き手本になるはずだ。
ECMのデビュー・アルバムは1974年の夏、ドラムスに終生の友となったジャック・ディジョネット、オルガンにヤン・ハマーを得て制作された、その名も『タイムレス』。以来、40年間にわたって活発なリーダーとして、双頭リーダーとして、また、サイドマンとしてさまざまなECMのアルバムで活躍してきた。
ジャズ・チューンの優れた書き手でもあったジョンは、スタンダードの演奏と同じくらい自由に演奏することも好きだった。彼の多くのアルバムで聴かれるように、彼はこれらの要素を巧みに組み合わせ、流麗かついぶし銀のようなトーンでインプロヴィゼーションを展開した。彼がよく口にしたのは、根源的な影響を受けたギタリストとしてジム・ホールとウェス・モンゴメリー、伝統からの解放の例としてオーネット・コールマンとジミ・ヘンドリックスに対する変わらぬ敬慕の念。加えて、ビル・エヴァンスのリリシズムの感覚もまた彼にとってはきわめて重要だった。
ジョン・アバークロンビーは多くの素晴らしいバンドを率いていたが、なかでもマーク・コープランド (p) 、ドゥリュウ・グレス (b)、ジョーイ・バロン(ds) からなるカルテットを誇りに思っていた。このカルテットでは『39ステップス』と『アップ・アンド・カミング』という2枚のアルバムをリリースしたが、後者は今年 (2017年) の1月にリリースされたものである。
彼のレコーディング・キャリアのなかのハイライトはたくさんあるが、デイヴ・ホランドとジャック・ディジョネットのトリオによる『ゲイトウェイ』、ラルフ・タウナーとのデュオ・アルバム、ニュー・ディレクションズ(ディジョネット、レスター・ボウイー、エディ・ゴメス)、ヤン・ガルバレクの『イーヴンティール(冒険)』、チャールス・ロイドの『ウォーター・イズ・ワイド(広い河の岸辺)』、コリン・ウォルコットの『グレイジング・ドリーム(儚き夢)』(ドン・チェリーと共演)、エンリコ・ラヴァの『ピルグリム・アンド・スターズ(旅人と星空)』、ケニー・ウィーラーの『ディア・ワン』などなど数え上げたらきりがない。
▪️RIP John Abercrombie 「My friend and colleague, John Abercrombie」 Steve Khan
偉大なアーティストであり偉大なギタリストであったジョン・アバークロンビーが長く困難な闘病生活の果てにこの世を去ったことを知った時ほど深い悲しみに襲われたことはない。70年代の初め頃、ジョンと僕は揃ってNYに移住してきた。幸いなことにジョン、ラルフ・タウナー、僕の3人は良き友達となり、友情は現在まで続いてきた。毎年、クリスマスが近づくと、正確にはジョンの誕生日である12月16日に僕はジョンにバースデイeメールを送ることにしていた。ジョンの返礼は決まって電話。ふたりで何時間も話が続く。人生について、極く私的なこと、音楽的冒険についての哲学的な議論、音楽状況、音楽ビジネス全般などについて。僕は毎年ジョンとのこの会話を心待ちにしていた。
信じてもらえないかもしれないが僕が初めてジョン・アバークロンビーの演奏を耳にしたのは、ジョニー“ハモンド”スミスの1968年のアルバム『ナスティ!』だった。共演は、ヒューストン・パーソンとグラディ・テイト、僕の当時のヒーローたちだ!ジョンの演奏は素晴らしく、洗練されていて、すでに完成の域に達していた。“このギターは一体誰だ?!?!?!?!”僕は思わず言葉に発したことを覚えている。
人はどうしたら己の作品群について高い高いレヴェルに達することができるのか。彼は音楽の可能性について恐れを知らぬ探求家であった。そしてつねに素晴らしい志向と構想でそれを実現していた。1975年に『タイムレス』でデビュー以来、ジョンとECMの関係は42年以上も続いている。ジャズの世界で、ひとりのアーティストが特定のレーベルを創造の場としてそれほど長く維持できているという事実を考えたことがあるだろうか? この事実を僕がどれほど羨ましく思っているか何度ジョンに語ったことだろうか。仮にマンフレート・アイヒャーとの共同作業が厳しいものであったとしても、レーベルを探して奔走するよりひとつの場所に居続けられることの方がずっといいに決まっている。ECMにあってジョンの作品群はいつも手に入れることができる、そのことがミュージシャンのキャリアにとってどれほど重要なことか強調してもし過ぎることはない、と僕はジョンに語りさとしたものだ.
近作の中では、ジョンが大好きな60年代のジム・ホールとアート・ファーマーのアルバムに拠った『ウィズイン・ア・ソング』、なかでもタイトル・ソングの<ウィズイン・ア・ソング>が大好きだ。素晴らしい共演者は、ジョー・ロヴァーノ(ts)、ドゥリュウ・グレス(b)、ジョーイ・バロン(ds)。この1曲に耳を傾ければ、これ以上ジョン・アバークロンビーについて知る必要はないと思われるほどの出来だ。そこには我が愛するジャズ、仲間と音楽を創造する技法のすべてが存在している。ブラヴォー、ジョン!!!
ジョンは、また音楽、芸術としての音楽について語る素晴らしい術を心得ていた。最後に、ジュリー・コリエルとローラ・フリードマン共著の『ジャズ=ロック・フュージョン:人と音楽』(1978) から、ジョン・アバークロンビーの初期のインスピレーションについて素晴らしいコメントを引用しておこう;
その頃、僕はレコードとライヴを通して多くのミュージシャンの演奏を聴いていました。当時の僕に最大の衝撃を与えたミュージシャンは、ビル・エヴァンス、ジム・ホール、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンでした。彼らは、楽器それ自体を演奏する物理的部分を超えてそれ以上の知性と感情をも満足させる領域にまで達する質の高さを表現していましたし、今なおそれを維持しています。
ジョン・アバークロンビーは生涯を通じてこの高みに存在し続けた。そして僕にとってそれはひとつのインスピレーションでありスタンダードでもあった。親愛なるジョンよ、安らかに眠れ。君を知り、君の友人であり、同志でもあり続けたことは誇りであり、特権でもあった。(ギタリスト)
スティーヴ・カーン Steve Khan guitarist/composer
1947年4月 LA生まれ。アメリカ最高の作詞家のひとりサミー・カーンを父に持つ。UCLA卒業後NYに移住、たちまちセッション・ギタリストとしてファースト・コールのひとりとなり、スティーリー・ダン、ビリー・ジョエル、マイケル・フランクスなどのアルバム制作に参加。ブレッカー・ブラザーズなどを経て、1981年、自身の「アイウィットネス」結成。長らくJ.M.フォロンのイラストをアートワークのシンボルとする。最新作は、ランディ・ブレッカーらをゲストに迎えた『バックログ』(55 Records)。
▪️RIP John Abercrombie 「Yo, Johnny!」Richie Beirach
ジョンとは最近はセッションをする機会はなかったけど、70年代以来の大親友だった。いつも、「よう、ジョニー、元気かい?」という感じの間柄だった。彼が重篤な状態にあることを知って病床に電話をかけたのが先週のこと、記憶に残る会話を交わすことができた。僕の声をすぐ聞き分けて、意識もはっきりしていたので、昔のおかしなジョンとのセッションになった。脳卒中をやったので呂律がちょっと怪しかったが、紛れもないジョンがそこにいた。彼は倒れてから約8ヶ月間、リハビリの難行苦行を耐え抜き、生きることへの鉄のような意志を実証して見せたのだ。ジョンはシャイで優しい男だったがユーモアのセンスは図抜けていた。いつもは謙遜しているくせに、皮肉をかませるときは遠慮がなかった。ECMに残した3作のオリジナル・ジョン・アバークロンビー・カルテット(ジョン、リッチー、ジョージ・ムラーツ、ピーター・ドナルド)では僕らは思う存分楽しむことができた。長いツアーにもよく出かけたし、道中の暇つぶしも含めて70年代、80年代の大事なキャリアの一部となっている。ニューヨークはもちろん、全米、ヨーロッパ、カナダ、それから日本..。何度も出かけた。ジョンのギター・パーソナリティは一風変わっていたと思う。ウェス(モンゴモメリー)やジョン・マクラフリンというよりはジム・ホール的だった。彼のディープでオリジナルなハーモニック・センスはすべてのレコーディングに共通しているが、僕が思うには、彼のトレードマークは飛び抜けてリリカルで驚くほど表現力に飛んだリニアなソロにあった。しかもそれは上質で優しく、しかし強固な音楽論理に裏打ちされていたのだ。ところで彼は優しいだけではなく、最上のソロを取りながら燃えることだってできたんだ。『アバークロンビー・カルテット』というタイトルの2作目を聴いてみたまえ。鋭く切り込み、熱く燃え、そして柔らかなタッチのオリジナル・バラード<Paramour (foolish door)> を弾き継ぐ。これには誰もが心を震わせられるんだ。もちろん、僕もだけど。
ジョンは天使になった。想いは募るばかりだ。
リッチー・バイラーク Richie Beirach
pianist composer
1947年、NYC生まれ。バークリー音楽院を経てマンハッタン音学院卒。スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーらとの共演を経て、デイヴ・リーブマンと「ルックアウトファーム」結成。ソロでも地位を確立。和声の鬼才として知られる。武満徹の知遇を得て八ヶ岳高原音楽祭に2度出演。武満から「ビル・エヴェンス以上」の評価を得る。代表作はECMの「ヒューブリス」他。
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「アーケード・セッションから」 悠 雅彦
photo by Roberto Masotti
アバークロンビーは私の最も親しいミュージシャンの対極にいるギタリストでした。しかし、間違いなく敬愛すべき真摯なミュージシャンでした。
今改めて40年ほど前を思い起こし、彼の冥福を祈らずにはいられません。
当時オスロで体験したジョン・アバークロンビー・カルテットのレコーディングの模様を中心に綴ったアルバム『アーケード』のライナーノートから一部を抜粋し、追悼のメッセージとさせていただきます。
「たとえば、ジョン・アバークロンビーはとても神経の繊細なミュ-ジシャンだ。もし電話や人の出入りが自由な通常のスタジオでのレコーディングだったら、恐らく気が散ってとても滴足のいく演奏などできなかったに違いない。彼のようなミュージシャンは、レコ-ディング期間中はたとえ夜寝るときでも、また他の仲間がスタジオから解放されワイワイ騒いでいるときでも、絶えず緊張していなけれぱならないのである。この物静かな男は、ぼくがニューヨークで2、3年前に数回会ったときに較べても、いっそう寡黙になったようだ。レコ-ディングの合間のちょっとした歓談のときでも、当事者以外の人間といえぱぽくとECM専属カメラマンのロベルト・マゾッティーの2人しかいないというのに、ジョンだけはありありとした緊張の色を隠さなかった。もちろん彼自身がリーダーであり、まして彼のニュー・グループによる初の吹き込みということもあっただろう。しかし、彼は生来デリケートな質なのであった。アイヒャーがそれを見抜いていたことは疑いない。『タイムレス』以降のアバークロンピーのリ-ダー作を丹念に追ってみると、アイヒャーの目が彼のこうした局面に一心に注がれているということが、そのサウンド゙づくりから分かるからである。繊細なニュアンスが1作ごとに濃厚になってきている。これは、アバークロンビーの音楽家としての資質と方同性がアイヒャー一流の洞察力によって開発され、いっそう高いレヴェルヘと押しあげられたことを物語るものである。いまやアバークロンビーはその方向性を確立し、円熟した境地に差しかかったと見ていいと思う。このアルバムにそれがはっきり示されているという点でも、この吹き込みにおけるアイヒャーとアバークロンビーの相互交流、及び両者のアプローチの仕方が、ぼくには改めて印象的に思い出される。」(本誌主幹)
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「Give me Tokyo gig!」 稲岡邦彌
ジョン・アバークロンビーが亡くなった。脳卒中で倒れ加療中に心臓発作を起こしたらしい。5年ほど前にジャズ・スタンダードを中心にレパートリーを組んだアルバム『ウイズイン・ア・ソング』(ECM2254) をリリースしたのをみて「早過ぎるのでは?」という思いが一瞬頭をよぎった。彼が影響を受けたと公言するマイルス、ビル・エヴァンス、コルトレーンにオーネットまでを加え、キャリアの総まとめのような気がしたからだ。しかし、考えてみれば、こういうレパートリーはある程度体力に自信がある(当然、精神的にも)うちでないとこなせないことに気が付き、60代末期の彼の年齢を考えて納得がいったのだった。
旧トリオレコード在籍時、契約したECMから送られてきた『タイムレス』(ECM1047) を聴いてとても鮮烈な印象を受けた。アバークロンビーのECMデビュー・アルバムだが、ジョン・アバークロンビー、ヤン・ハマー、ジャック・ディジョネットという若鮎たちが元気に跳ね回っていた。アートワークがまた内容を象徴する鮮烈さで、ミュンヘンの本社を訪れるとアイヒャーのオフィスにかなり大きな原画がかけられていた。このアートワークは初期ECMを象徴するヴィジュアルとしていろいろな媒体に露出されていた。
その後、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットとのトリオ『ゲイトウエイ』(ECM1061,1975)、ラルフ・タウナーとのデュオ『サーガッソーの海』(ECM1080,1976)、ソロ『キャラクターズ』(ECM1117,1978) などさまざまなセッティングでリリースされ、どれもその目の覚めるような新鮮さに胸をときめかせたものだが、とどめを刺されたのがカルテットによる『アーケード』(ECM1133,1978) だった。リッチー・バイラーク、ジョージ・ムラーツ、ピーター・ドナルドを擁するこのグループは、ジャズ・フュージョンの世界を脱却し、オープンでスペイシーなサウンドスケープを構築した初めてのギター・カルテットとしてジャズ史上に位置付けられている。この『アーケード』の録音を取材した本誌悠雅彦主幹のライナーノートによると、伝統的な定則ビートに乗ってリハーサルに励んでいた彼らと激論の末プロデューサーのマンフレート・アイヒャーが定則ビートを外させたとある。NYのジャジーなカルテットが北欧オスロのスタジオで手足をもがれて空中に舞い意匠を一変させた瞬間である。その後、このカルテットは『アバークロンビー・カルテット』(ECM1162,1980)、『M』(ECM1191,1981)という傑作をものしていくのだが、どういうわけかE CMがこの3作を『The First Quartet』としてセットでCD化したのは 2015年のことであった。この間、日本のユニバーサルが『アーケード』だけを2001年に単独限定CD化したのだが...。
この“ファースト(オリジナル)・カルテット”は、1979年に日本で開催された「ECMスーパー・ギター・フェスティバル」(別稿参照)に参加のため来日しているだが、正直なところアバークロンビーの記憶はほとんど残っていない。フェスに参加したジスモンチやパット・メセニー・グループとのトラブルに消耗する一方、アバークロンビーのカルテットは大人の振る舞いで手がかからなかったせいもあろう。カルテットの中では、仕事の場を共有することが多かったバイラークやムラーツと接触することが多かったと記憶する。
アバークロンビーが再来日したのは1994年の「ECM25周年アニバーサリー・フェス」の時だった。この時は前年にアルバム『While We Are Young』(ECM1489) をリリースした ダン・ウォール、アダム・ナスバウムを擁したオルガン・トリオで来日した。日本慣れしたアダムはLPを抱えて専門店に出かけるなどとひとり慌ただしく、ひとり残ったジョンを誘ってみた。神戸のホテルのコーヒーラウンジだったが、明るい窓際に席を取ろうとすると「僕は明るいところは苦手なんだ」と日陰のコーナーに席を取る。ジョンがシャイであることは承知していたが、ステージに立つことを生業とするミュージシャンなのに、と驚いたものだ。フェスが終わって別れ際、ジョンから「Give me Tokyo gig!」と声をかけられた。意外な言葉にこれまた驚いた。その期待には応えられなかったが、ジョンは何次目かのカルテットを率いて2014年10月に丸の内コットン・クラブに3夜出演を果たしている。おそらく、これが最後の来日になったのではないだろうか。
正直なところ、一般受けのするギタリストではなかったが、マンフレート・アイヒャーという稀代の名プロデューサーに見初められ、40数年にわたって50作以上のアルバムにその軌跡を残すことになった。シャイなジョンにとっては何よりの果報だったのではないか。(本誌編集長)
▪️RIP John Abercrombie 「My tribute to Dear John」Roberto Masotti
「禁煙」のサインの前でタバコをくゆらす
Tonstudio Bauer, Ludwighsburg 1975
ギル・エヴァンス・オーケストラのメンバーとして (1975)
▪️追悼 ジョン・アバークロンビー「アバークロンビー再評価」 近藤秀秋
ジャズギターというのは、「バンドの中にひとりだけビバップがいる」と揶揄される事すらある楽器と思うのですが、ジャズの歴史の中で、ジャズギターをコンテンポラリーなフィールドに押し上げる重要な役割を果たしたひとりがアバークロンビーさんなのだと私は思っています。ジャズ全体ではなくギターに限定して見れば、果たした仕事の大きさはマクラフリンさん以上ではないでしょうか。アバークロンビーさんというと、どうしてもディジョネットさんらと共演していた『Gateway』や『Timeless』あたりのロック/フュージョン的な時代がクローズアップされがちだと思うのですが、私が尊敬して止まないのは90年代の録音群であって、分けてもギター、オルガン、ドラムのトリオで演奏されたアルバム『Tactics』を聴いた時には、自分が抱いていたアバークロンビー像とのあまりのギャップに驚かされました。ギターサウンドこそECMからアルバムを発表している他のギタリストと似た印象を与えるフュージョン的なサウンドメイクですが、その内容はジャズを基準に見ると、大変に硬派なものであったように感じます。『Tactics』は、凝ったアレンジが施されているわけでも、明確なコンセプトが打ちたてられているわけでも、斬新な和声的な挑戦があるわけでもありませんが、それだけにアバークロンビーさんの音楽的な視点や肉声がストレートに伝わる素晴らしい演奏と録音だと思っています。もし日本でアバークロンビーさんが再評価される事があるとすれば、それは90年代以降の録音群が丁寧に見直された時ではないでしょうか。もしそうなれば、これまでの日本でのアバークロンビー評を大きく上回る評価が与えられる事になるのではないかという気がします。
御逝去から10日近くが経過してしまいましたが、かつての一ファンとして、改めてご冥福をお祈りいたします。(2017年9月1日)
John Abercrombie (g)
Dan Wall (organ)
Adam Nusbaum (ds)
Recorded live at Visionees, NYC
July 13-15, 1996
近藤秀秋 Hideaki Kondo
作曲、ギター/琵琶演奏。越境的なコンテンポラリー作品を中心に手掛ける。他にプロデューサー/ディレクター、録音エンジニア、執筆活動。アーティストとしては自己名義録音 『アジール』(PSF Records)のほか、リーダープロジェクトExperimental improvisers’ association of Japan『avant- garde』などを発表。執筆活動としては、音楽誌などへの原稿提供ほか、書籍『音楽の原理』(アルテスパブリッシング)執筆など。
▪️RIP John Abercrombie 「My Dear Friend」Adam Nussbaum
とても悲しい。
ジョンと共演した日々を思い出している。
ジョンはとても親しい友人で、ミュージシャンとしては真の意味での詩人だった。彼のヴォイスは独特で、音楽のクオリティは極めて高かった。真実、正直、極上の純粋さ。
ジョンとオルガンのダン・ウォールとのトリオは素晴らしいコンビネーションだった。僕らは伝統に敬意を払いつつも、全員がとてもオープンだった。このトリオでのプロジェクトをとても誇りに思っている。なかでも『Tactics』は好きなアルバムだ。
(9月2日。デイヴ・リーブマンsax、ジーン・パーラb、アダム・ニーウッドsaxと楽旅中。エルヴィン・ジョーンズの傑作『ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』[BN]を思い出しながら)
『While We’re Young』 (ECM1489.1992) with Dan Wall and Adam Nussbaum
『Speak of the Devil』 (ECM1511, 1993) with Dan Wall and Adam Nussbaum
『Tactics』 (ECM1623, 1996) with Dan Wall and Adam Nussbaum
『Open Land』 (ECM1683,1998) with Dan Wall, Adam Nussbaum, Kenny Wheeler, Joe Lovano &
Mark Feldman
アダム・ナスバウム Adam Nussbaum ドラマー
1955年11月、コネチカット州ノーウォークの生まれ。ピアノを経て12歳の時にドラムを始める。同時に、ベースやサックスも手がける。1975年シティ・カレッジで学ぶためにNYへ移住。1987年、マイケル・ブレッカー・クインテットに入団『Don’t Try This At Home』でグラミー賞受賞。ギル・エヴァンス・オーケストラ、カーラ・ブレイ・ビッグバンドを経て、アバークロンビーのオルガン・トリオのメンバーとなる。現在は、NY大学、ニュー・スクール、ニューヨーク州立大学などで教鞭も執る。
9月3日、オルガン・トリオとトリオにケニー・ウィーラー、ジョー・ロヴァーノ、マーク・フルドマンが参加したセクステットの4作に参加、オルガン・トリオでは1994年「ECM25周年アニバーサリー・フェスティバル」で来日したドラマーのアダム・ナスバウムから追悼文が到着しましたので追加掲載しました。彼は、現在、デイヴ・リーブマン、ジーン・パーラ、アダム・ニーウッドと『エルヴィン・ジョーンズ/ライヴ・アット・ザ・ライトハウス』(BN) を楽旅中。
9月3日、オリジナル(ファースト)・カルテットのピアニスト、リッチー・バイラークから未発表写真が届きましたので、稲岡の追悼文の中に追加掲載しました。なお、バイラークによると同じくカルテットのベーシスト、ジョージ・ムラーツは現在、病気加療中とのことです。