ランディ・ウェストン追悼
text by Shuhei Hosokawa 細川周平
photo by Wataru Nakamura 中村亘, Michiyo Chaki 茶木三千代( Lush Life 提供)
ジャズ・ピアニスト、ランディ・ウェストンが92歳で亡くなった。2メートル10センチで亡くなった。奇をてらって言っているのではない。その巨躯は真似のできない演奏の基本条件で、間違いなくジャズ史上の巨人だった。孤高の存在だったが、ニューオーリンズの黎明期にさかのぼるスタイルを守り、ジャズ・ピアノ史で特別な位置を占めた。トリオ、セクステット、ビックバンドでは子どもか孫のような演奏者を集め、アイデアを展開した。春に2枚組のモントルー・ライブをリリースし、7月に最後の出演となるニース・ジャズ・フェスティバル公演を済ませたばかり、さらに次のツアーの話を進めていて、最後まで気力が衰えることがなかった。観光も含め7度の来日を果たしたが、東京では1998年と2005年にあまり知られずに弾いただけ(後者は神田明神で)、他は主に京都と静岡でライブを行なった。通常の興行網から外れていたらしい。追悼する場所として、京都のジャズ喫茶Lush Lifeほどふさわしい場所はない。マスターの哲ちゃんご夫妻は4度の招聘の中心にあったからだ。店でランディのLPを向こうの通夜の日取りでかけてもらいながら訊いた話をまじえ、三人分の弔意を送りたい。
ランディ・ウェストン(1926年~2018年)は2001年、2005年、2008年(アレックス・ブレイのベースと)、2012年(ビリー・ハーパーのテナー・サックスと)の4回、上賀茂神社宝殿で演奏した。21世紀になるかならないかの頃、哲ちゃんは神社が場所柄にふさわしい公開イベントを探していると聞き、業界人を介して当人に打診したところ興味を誘い、契約書なしの二つ返事で2001年10月の公演企画が進められた。ランディはお抱えの日本人女性マッサージ師の手帳にサインをして契約書の保証人となれ、と語って旅立ったそうだ。ちょうど9.11テロの直後で日本側はキャンセルを危惧したが、杞憂に終わった。日本側はベーゼンドルファーの特別仕様のフル・コンサートで迎え、演奏前に神主が現われ、当人とピアノをお祓いした。ジャズ・ジャイアントは神聖な場所での演奏に瞳孔が開くほど興奮し、上賀茂神社を人生最高の演奏場所と讃えて喜んだ。場を仕切る聖なるものに対する感度が人一倍鋭いに違いない。同じ年の焼津・成道寺では、読経に続けてソロが始められた。本堂の空気を切り替えてからの演奏に、マスター夫妻は放心した。初対面の際、店で本人の1964年の限定私家盤(後に『アフリカン・クックブック』として再発)を見せ驚かれた。マスターの敬意が並ではないと知り、厚い信頼が心の保証書となった。
2005年のソロ、最初の一音を私は忘れられない。一瞬にして別の境地に持っていかれた。演奏を客に聴かせるというより包み込んで、聖なるたたずまいに向けて祈る音に聴こえたからだ。倍音が場を満たしている、ピアノと一緒に空間が性能を最大限発揮していると直感した。そう言いたいほど響きの近くにいて、一体感を覚えた。即興演奏は楽譜音楽以上に、今ここでのその場性(ライブ性)を基本とする。叩くというより、撫でるように鍵盤上を歩き走る巨大な両手をほんの数メートル先に見るのは圧巻で、響きに包まれるのを実感した。「力演」とは正反対のからだ使いから生まれてくる音は、強くとも堅くなく、向こうからこちらに呼びかけてくるようだ。後はピアノの導くまま、私たちは別の世界を詣でるだけだ。2012年にはハーパーの太いサックスを引き立たせる最良の音質・音量で添うのに魅了された。76歳のサックス奏者でさえ、私が覚えている20代の頃のような雰囲気に若返り、共演役をつとめていた。共演者のほかに楽器と空間の音響特性を受けての音を繰り出してくると思えた。
哲ちゃんは惜しむ。ランディの死でファッツ・ワーラー、デューク・エリントン、セロニアス・モンクと継承されたストライド・ピアノの正統が途絶えた、と。ストライド・ピアノは19世紀後半、解放奴隷がニューオーリンズでこの楽器に向かったときの精髄と考えられ、ヨーロッパ由来のマーチと違い、2拍に不均衡に力がかかり、その美を磨くのがジャズ史の一つの系譜だった。40年代のビバップ運動は流麗な横ノリを発明し、ストライドの縦ノリのリズム感は敬意を受けつつ遠ざけられる特異点に置かれた。最も有名なモンクでさえ、死後の評価は高いが生前は孤立し、カヴァー演奏は膨大だが、その骨組やリズム感を譲り受けたピアニストはまずいない。ランディは90年代よりジャズ協会、黒人文化運動協会、学界で多くの名誉を受けているが、若いピアニストを刺激することはあまりない。ストライドの系譜は一般に創造性の足場というより、歴史的遺物としてしか受け取られていない。
ランディは1944年に黒人部隊に召集され、戦後沖縄に数年駐留経験を持つ。除隊後、50年代にはビバップ・ピアニストとしてプロ活動を始め、ケニー・ドーハムやコールマン・ホーキンズと共演のほか、ビリー・ホリデイの伴奏を務めたこともあった。ピアニストとしてはカウント・ベイシー、ナット・キング・コール、アート・テイタムらが好みだったが、モンク、エリントンへの傾倒をしだいに深めた。エリントン家に出入りし、モンクに会いに行った。モンクは彼の熱い話をむっつり聞くだけだったが、別れ際には「またおいで」と言われた。こうした親しい交流は録音のコピーとは別の次元で、先達の系譜を継承・発展する志を支えた。二人のスタイルの吸収は、マーカス・ガーヴェイ思想の共鳴者であった父親より伝えられた60年代以来のアフリカ文化への尊敬と同時進行し、ピアニストはその深奥をジャズのかたちで伝えるのを使命とした。60年代末から5年間モロッコに滞在し、ずいぶん後に同国の伝統音楽集団と共演アルバムを発表した。
モンク曲に挑むソロ・ピアニストは今では非常に多い。そのなかで彼の演奏は特別で、有名曲の断片を滑らかに挿入し、思いのまま幻想曲風に混ぜ込み敬意を伝える。二人がアフロ・アメリカ音楽の同じ系譜にあることを、強く弾き伝える。演奏の自由もまたモンクの精神で、解放奴隷を経由してアフリカに遡りうると彼は考えているだろう。アフリカ意識の強い世界観をからだで翻訳し、文字通り最大のヨーロッパ楽器に祭礼具のように響かせる。自己の半身とするようなピアノを通して、指先のプレイに終わらない沈潜が、晩年になるほど深まっていった。上賀茂神社では彼の最も有名なオリジナル「ハイ・フライ」が、特徴的なリズムの出だしの口ずさみやすいフレーズをまず出し、後はひねりいじくりその次、その次、変形、更新、圧縮しながら、しだいに通常の作品の形を取っていく戯れの現場に遭遇した。それは曲の演奏を聴くというより、彼の音楽脳で起きているプロセスを同時体験しているかのような気にさせられた。あるパターンはそれを伝承・変形してきた数世紀の交渉・沈殿・蓄積を体現するという哲学が、こちらの耳から頭へピアノを響かせて伝えられたようだった。こういう理屈はどこかで読めても、心をやすめ、耳を清めその場を鎮めるような演奏はめったにない。
私は神社の帰り、感激したという以上に、世の聴こえ方が変わったような気に襲われた。今も忘れない。生理学には錯覚だろうが(「気になる」だけだ)、生きられた世界観・聴はそこに留まらない。共鳴箱にいるような二時間によって、ジャズの定義は微妙に変わった。ピアノの定義も変わった。ある来日の時、ソロのライブでは聴衆はオーケストラのようなもので、素晴らしい反応ならば私自身が気づかない信じられないプレイを引き出してくれると語っている。その言葉はファン向けのお世辞ではないと今思う。私たちは「共演」したのだ。その幸福感が大往生の報に触れてよみがえった。合掌。
2012年上賀茂神社宝殿でのコンサート 中村亘撮影
2008年上賀茂神社 茶木三千代撮影