#09 バッハ・コレギウム・ジャパン
text by Takashi Tannaka 淡中隆史
J.S.バッハ「マタイ受難曲」
2018年3月31日 所沢市民文化センター ミューズ アークホール
指揮:鈴木雅明
ソプラノ: レイチェル・ニコルズ、澤江衣里
アルト: クリント・ファン・デア・リンデ、藤木大地
エヴァンゲリスト: 櫻田亮
テノール: 中嶋克彦
イエス/バス: シュテファン・フォック
バス:加耒 徹
合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
60年代「カール・リヒター世代」のひとりとして初めて「マタイ」を聴いた。リヒターによるバッハ体験がいかに巨大だったかは後に多くの人が語っているが、子供だった私にはバッハとリヒターとが重なって神のようにみえていた。
50年が経って現在の感覚で「リヒターのマタイ」を聴くと大きな違和感を感じてしまう。オーレル・ニコレのフルートをはじめ演奏されているのはモダン楽器でピッチや奏法も現代のものとほとんど変わらない。当時、古楽の革新はまだ初期の段階で「モダン」と「古楽」の奏法が入り混じった奇妙な構成だった。「ピリオド楽器(作曲されたその時代の楽器)=オリジナル楽器」によるバッハの再現もまだ始まったばかり。「過渡期の産物」はまるで時代考証のおかしな大河ドラマみたいだ。
60年代から現在まで次々と一枚一枚「薄皮をむくように」時を遡ってバッハの時代の様式と精神に迫る活動が続けられてきた。グスタフ・レオンハルトの「男性だけのマタイ」(1990 DHM)やシギスヴァルド・クイケンの「ワンパート一人のマタイ」(2010 Challenge Classics)のような突出した成果が出ては「マタイ」のイメージが一新された。「ECMリアルタイム」と同じようにピリオド楽器演奏の革新、変遷をリアルタイムに経験できたことは幸運な世代に生まれついたものだと思う。
70年代以降の「古楽」には個人プロデューサーによる反骨精神の塊のようなインディーズ・レーベルがヨーロッパに続々と生まれた。それらの「興亡」をみているとなぜかジャズや現代音楽のレーベルとの類似性がみえる。アクサン(ACCENT 1979〜 ベルギー)やセオン(SEON 1969〜83 ドイツ)などのレパートリーは古楽、バロック期の音楽に集中している。そこにはオランダ、ベルギー系のユニークな音楽家たちが結集していた。レオンハルト、ブリュッヘン、ヤーコブス、ビルスマやクイケン・ブラザーズたちの音楽への向かい合い方は斬新、スタイルはまるでヒッピーのようで従来のあり方への「パンク」な全否定と瑞々しい提案に満ちていた。「クイケン・ブラザーズ」と共に鈴木雅明、秀美の「スズキ・ブラザーズ」の大きな貢献があった。
ヨーロッパから日本中心に活動拠点を移した鈴木雅明が 1992年よりオリジナル楽器のスペシャリスト達を集めて結成したオーケストラと合唱団が「バッハ・コレギウム・ジャパン」。オランダやベルギーで経験した新しいムーヴメントを日本に紹介して根付かせ、世界に発信する「同志」のような存在でヨーロッパ以外では極めて珍しい試みだと思う。
定期的な活動を始めて20年余、バッハの音楽の集大成「マタイ受難曲」の演奏は例年春、東京ではオペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアルで行われる。今年は所沢のミューズ アークホールに聴きにいく。「所沢のホールは音響が良い」と聞いたからだ。あらかじめ調べてみるとオペラシティが1632席、アークホールが2002席で音楽の細部を聴き取るのには不利なのかと心配になる。しかしよほど座席の位置が良かったのだろうか、オペラシティと比べても細部のニュアンスに富んだ美しい表情が聴き取れた。
ピリオド楽器の音楽を追求するには「ピリオドな音場」が必要という理屈がある。(たとえば)18世紀のヴィオラ・ダ・ガンバの音は現代チェロよりはるかに「小さい」のだから現在のホールで聴くのにはふさわしくない、と。では「18世紀環境」の宮廷のサロンのようなところで聴けばホールでは判らないことが判るのだろうか。それは「ジャズはヴィレッジ・ヴァンガードくらいの大きさのクラブで聴いて初めて理解できる」といったリクツと似ているようだ。
他方、バッハが演奏したライプチッヒの聖トマス教会だって満堂では1500人程度収容できるはずだ。真のカントルであるバッハは石造りの教会内部の音がわんわん響き渡り1500人の人間に収音された状況も熟知して「聴きとりづらい繊細な音、小さな楽器の音も全体のスパイスとして」周到に配置されたサウンドデザインを考えたのに違いない。所沢のホールの前から15列中央であたりでそんな妄想の中で「マタイ」を聴く。
合唱は各パート3〜4人、左右に配置された第一、第二オーケストラも全部で30人に満たずに18世紀当時の演奏スタイルを現代に美しく再創造する。この編成だと一人一人の意思が全体のポリフォニーの形成に明確に反映して透き通るように聴こえてくる。今まで東京文化会館や東京フォーラムなど大規模の会場で80人以上のオーケストラ、合唱で聴いてきた「マタイ」とは全く異なった感動があった。
イエスの受難と復活を目の当たりにした「群衆」は「合唱」として表現され、我々は群衆に託してマタイを聴くことで受難劇に「参加」できる。群衆と同じ目線でこの「劇的」をはるかに通り越して超現実的な「受難劇」を体験する。合唱の人数が少ないほどそれは切実なものになる。
1999年にレコーディングされたバッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ」のCD(BIS 1999)と比べると現在の演奏には大きな変化がある。鈴木雅明の演奏は端正で清潔な世界から大きく変化してさらに表現的なものになっていた。第二部で「群衆」が処刑の対象をイエスではなく同じく十字架に磔にされたバラバを選んでしまうときの「バーラバ!」の叫び声は年々熱を帯びたものになってきた。
20年を経て同じ年々積み重ねられてきた成果が現在がひとつのピークに達していることは明らかで素晴らしい体験だった。さらに、今後70歳を過ぎての鈴木雅明のバッハには大きな変容が起きる余地があるかも知れないと楽しみになってくる。アーノンクールもクイケンも「マタイ」を演奏するたびに画期的に新しいアイデアを展開してきたのだから。