Tak. TokiwaのJazz Witness #01 マリア・シュナイダーの思い出

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photo & text by Tak. Tokiwa 常盤武彦


20歳で、初めてアメリカに渡ったとき、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードで、スティーヴ・キューン(p)、ロン・カーター(b)、アル・フォスター(ds)のトリオを聴いた。セット終了後、拙い英語で、ロン・カーターに話しかける。当時、彼は日本ではTVコマーシャルに出演するなど大スターだったのだが、こんなにも距離感が近いのかと驚いた。ロン・カーターとのロング・ストーリーはまた別の機会にふれるが、そのとき私が思ったのは、当時、大学生のバンドでプレイしていたテナー・サックス・プレイヤーとしては、ニューヨークのジャズ・シーンに潜り込むのは不可能だが、フォトグラファーとしてなら、なんとかなるのではという、邪な考えだ。それから2年後、留学を名目にニューヨークに渡り、まんまとニューヨークのジャズ・シーンにまぎれこみ、気がついたら29年の時が過ぎていた。ソニー・ロリンズ(ts)、ジム・ホール(g)や、ルディ・ヴァン・ゲルダーなど、スピーカーやステージの向こう側の存在で、直接言葉をかわすことなど、日本にいたときは想像だにしなかったレジェンドたちと、親交を結ぶことが出来た。そんな中で、自分と世代が近い若いアーティストたちに出逢う愉しみもあった。そして彼らが自らの音楽を確立し、大きく羽ばたいていくのを見守ることになる。私の29年のニューヨーク生活の中で最も印象深いアーティストが、本稿のヒロイン、マリア・シュナイダーである。

マリア・シュナイダーと出逢ったのは1993年だったと思う。ブルーノート・ニューヨークの3軒ほど東、マクデューガル・ストリートとウェスト3rd ストリートの角にあった”ヴィジオーネス”というスペイン料理を出すジャズ・クラブに、毎週月曜日に出演し始めた頃のことと記憶している。当時のニューヨークの月曜の夜は、”ヴィレッジ・ヴァンガード”のヴァンガード・オーケストラ(これは現在も続いている)、”スイート・ベイジル”のマイルス・エヴァンス(tp)が引き継いだギル・エヴァンス・オーケストラ、”インディゴ・ブルー”の秋吉敏子オーケストラと、伝統あるビッグバンドが多く出演していた中でのニュー・フェイスの登場だった。ミュージシャン界隈でも評判になっていたので、早速、チェックに行った。当時は、ビッグバンドにあまり関心のなかった私だが、ヴィジュアルを感じさせる彼女のサウンドに魅了された。マリアは、1980年代にギル・エヴァンスのアシスタントを務めていたので、もしかしたらその頃に顔を合わせていたかもしれないが、言葉を交わしたのは初めてだ。このマンデイ・ナイト・ギグが始まった当時は、ノー・チャージにも関わらず客席はガラガラ、でも聴きに来たミュージシャン仲間は高評価という状況。後にセカンド・アルバムの『Coming About』に収録された、複雑なアレンジが施された”Giant Steps”をプレイして混乱に陥り、最初からやり直しという、リハーサルのような一幕も見られるのどかな時代だった。デビュー・アルバムの『Evanescence』が、グラミー賞のラージ・ジャズ・アンサンブルにノミネートされると、月曜の夜のヴィジオーネスに、多くのオーディエンスが押し寄せるようになり、またマリアにも多くの委託作品の依頼が舞い込むこととなる。ヴィジオーネスでのギグは、同店が閉店する1998年まで続き、私も進化するマリアの音楽を見守っていた。

1990年代のマリアは自らの音楽を着々と構築しながら、師匠のギル・エヴァンスの後継者のポジションにつくことになる。ギル・エヴァンスが晩年に、スティング(vo,el-b)からの熱烈なオファーで共演したときに、アレンジの一部は実は彼女が書いており、ギルの最後の愛弟子であり分身でもあった。1991年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルでのクインシー・ジョーンズ(arr)による、逝去直前のマイルス・デイヴィス(tp)との、かつてのギル・エヴァンスのコラボレーションの再現も、ギル・ゴールドステイン(p,kb)とともに、トランスクライヴで貢献した。マイルスの没後、顧問弁護士に預けられていた書類から、マイルス&ギルのオリジナル・アレンジメント・スコアが発見されたときも、マリアが中心となって解析を進め、2000年のJVCジャズ・フェスティヴァルで再現コンサートを開催した。

1990年代にはパコ・デ・ルシア(g)の音楽に出逢い、フラメンコのリズムの研究もすすめる。しかし1990年代の終り、サード・アルバムの『Allégresse』制作中にマリアは、『もう作曲家として終わったのではないかと』と思うほどの深刻なスランプに陥っていた。そんな中で、2000年にブラジルを初めて訪れ、その自然に触れ、エグベルト・ジスモンチ(g,vo)や、パオロ・モウラ(cl,sax)らと出逢う。ニューヨークのジャズ・シーンの中で、音楽のなかでストレートに美しさや歓びを表現することにためらいを感じ、陰影に満ちた曲を多く制作していたマリアは、豊潤なブラジル音楽に触れて、率直に歓喜と美しさを音楽で表現するようになる。それが結実したのが2004年にクラウド・ファウンディングで制作した『Concert in the Garden』であり、初めてのグラミー賞を受賞する。

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2003年の2月1日、ジャズ・アット・リンカーン・センターで、パーカッションをテーマとした、新旧女性ビッグバンド・リーダーのダブル・ビル・コンサートが開催された。秋吉敏子とマリア・シュナイダーである。マリアは、故郷のミネソタ大学で、現代音楽作曲を専攻していた1970年代後半に、当時人気絶頂だった秋吉敏子が自らのオーケストラを率いて、いつもはクラッシックのオーケストラが演奏する美しいホールで演奏し、18歳でジャズの魅力に取り憑かれたばかりだったマリアはその圧倒的なプレイに触れ、「いつかこの人のようなコンサートを催したい。トシコは18歳の私にヴィジョンを与えてくれました」と、後年語っている。2012年の初来日のときのインタビューで、マリアはこのコンサートを振り返っている。「このとき私は乳がんを宣告され、一刻も早く手術をしなくてはいけなかった。でもやっと巡ってきた憧れのトシコと同じステージをシェアするチャンス。手術を待ってもらって、このコンサートのための作品を制作しました。私は乳がんという現実から逃避するために音楽に没頭し、自分の内面の奥深くに入り込みました。そのとき私は「私にとって、音楽とは何であるか?」を学んだ気がします。私にとってあらゆる意味で音楽は命綱でした。死を恐れなくてすむ唯一の場所に連れて行ってくれるものが音楽だったからです。それは本当に素晴らしい体験だったと言えるでしょう。あのコンサートをやり遂げたことは本当に大きな経験でした」。このとき発表されたペルーの伝統的なリズムを取り入れカホーンを効果的に生かしたプレミア曲「ブレリア・ソレア・イ・ルンバ」は、『Concert in the Garden』に収録されている。マリアは同曲を自らの書いた作品の中で最もストロングな曲と評している。同年末、秋吉敏子は「ピアニストへ回帰する」と語り、ビッグバンドのレギュラー活動を終了した。女性ビッグバンド・リーダーの伝統の松明が、マリア・シュナイダーへと手渡された。

2005年からはアメリカのホリデイ・シーズンの幕開けを告げるサンクス・ギヴィング・ウィーク(11月の第3週)に、ジャズ・クラブ、”ジャズ・スタンダード”で5日間の恒例のギグを行い、今や全セット、ソールド・アウト、全米、世界中から彼女のファンが集まる。このギグには多くの著名人も訪れ、2008年にはソプラノ歌手のドーン・アップショウとのコラボレーションがスタート。チェンバー・オーケストラに、アップショウと、マリアのオーケストラからはフランク・キンボロウ(p)、スコット・ロビンソン(alt cl)、ジェイ・アンダーソン(b)が参加し2013年に完成したのが『Winter Moring Walk』だ。同作はグラミー賞クラッシック部門に輝く。このアルバムのリリースのタイミングでは、マンハッタン音楽院の修士課程を終えたばかりの挾間美帆を伴って、マリアのアパートを訪れ、ストリングス・アレンジについてや、アーティストとしての矜持について興味深い話しを訊く。マリアは、挾間のデビュー作『Journey to Journey』を、高く評価した。この頃からマリアは、従来アルバムごとに制作資金を募集していたクラウド・ファンディングを、曲ごとに拡大しその制作過程を公開、プレミア演奏のあと、長年をかけてそれぞれの曲をライヴで試行錯誤を繰り返し完成度を極限まで研ぎ澄まし、満を持してレコーディングというプロセスをとりはじめる。ジャズ・ビッグバンド作品は2007年の『Sky Blue』以降、リリースが途絶えていたが、新たな曲は徐々に揃い始めていた。2013年にマリアのスマホに、電話がかかってくる。ジャズ・スタンダードのギグを聴いたデヴィッド・ボウイ(vo)から、共演のオファーが届いた。「地下鉄に乗っていたら、デヴィッドからの電話。思わず隣の人に、デヴィッド・ボウイが私に電話してきた!と話しちゃうぐらい驚いた」と語っている。2014年夏に準備を進めていたニュー・アルバムの制作と並行して、ボウイとのコラボレーションも進められた。ボウイはマリアの初期のダークな作品群を好み、恋人を殺してしまう男のストーリー「Sue (Or in A Season of Crime)」を書き下ろす。リズム・セクションと主要なホーン・セクション・メンバーとのリハーサルで、共同作業で作曲をすすめる過程で、歌詞はダークに過激化していったという。「私の曲が、ボウイに大きな影響を与えていたのなら、光栄なことです」と、マリアは語る。デヴィッド・ボウイはマリア・シュナイダー・オーケストラとのフル・アルバムのレコーディングを希望したが、8年ぶりのジャズ・ビッグバンドのニュー・アルバムを制作中のマリアは、ボウイの期待に添えず、自らのグループのドニー・マッキャスリン(ts)を推薦。マッキャスリンのバンドがボウイの遺作『★(Black Star)』の中核を担うこととなる。「Sue (Or in A Season of Crime)」は、グラミー賞のポップス・カテゴリーで、インストゥルメンタル・アンド・ヴォーカル・アレンジメント部門を受賞し、ジャズ、クラッシック、ポップスの3部門で受賞という偉業を成し遂げた。2015年に完成した『The Thompson Fields』は、故郷ミネソタの農園の風景を描いたタイトル曲を中心に、自然や愛してやまない鳥の求愛行動を描いた曲らが並ぶ。どの曲も5年近く時間をかけて最終形に至った作品である。マリア・シュナイダーの歓喜と美しさを描いた音楽のスタイルは、頂点に到達した。

2017年の来日時のインタビューで、マリアはデヴィッド・ボウイとの共演の影響が大きく表れ始めたと語っている。インターネットにおける音楽著作権の保護を強く主張し、ビッグ・データを操るGoogleの脅威、AIが人類を凌駕するシンギュラリティへの恐怖を訴えるマリアは、それらをテーマにした新たな作品を書き始めており、ボウイに評価された初期のダークな色調を持つ楽曲に再び取り組み始めた。2018年には、アメリカ・ジャズ界で最高の栄誉と言われるNEA(国立芸術基金)ジャズ・マスターズを受賞する。秋吉敏子も受賞時に「最も名誉で感激した賞」と語っており、50代の活動の最盛期での受賞は異例の高評価である。筆者は2017年に帰国したため、残念ながらその瞬間を見届けることは叶わなかったが、1993年のヴィジオーネスで出逢ってから、それまでの思い出が鮮やかに思い出される瞬間だった。マリアは、2018年6月に発売した拙著『New York Jazz Update』に、多忙な中、推薦文を寄せてくれた。そして2015年の『The Thompson Field』リリースのときのインタビューで、また7、8年は次のビッグバンド・アルバムは創らないだろうと話していたマリアは、2018年の夏、ニュー・アルバム『Data Lords』の制作を発表し、クラウド・ファンディングをスタートした。テクノロジーの進化と人間の関係に警鐘を鳴らすダーク・サイドと、ナチュラリストの側面を描いたブライト・サイドの2枚組の大作となる。今年の夏、筆者がニューヨークを訪れたときに、マリアは翌週に控えたレコーディング・セッションの最終リハーサルに招待してくれた。張り詰めた空気の中で、近年のギグで聴かせてくれたダークな曲は、さらにおどろおどろしく、ブライトな曲はたおやかに美しく進化を遂げている。来年リリースのニュー・アルバムが待望される。ジャズのカテゴリーを軽々と超え、マリア・シュナイダーの音楽がさらなる高みを目指す瞬間にこれからも立ち会えるのは、同時代に生きる記録者として僥倖であり、変わらぬ友情に感謝したい。

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関連リンク
Maria Schneider  https://www.mariaschneider.com

Data Lords  https://www.artistshare.com/Projects/Experience/1/510/1/Maria-Schneider-Data-Lords?v=2

常盤武彦

常盤武彦

常盤武彦 Takehiko Tokiwa 1965年横浜市出身。慶應義塾大学を経て、1988年渡米。ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・ジ・アート(芸術学部)フォトグラフィ専攻に留学。同校卒業後、ニューヨークを拠点に、音楽を中心とした、撮影、執筆活動を展開し、現在に至る。著書に、『ジャズでめぐるニューヨーク』(角川oneテーマ21、2006)、『ニューヨーク アウトドアコンサートの楽しみ』(産業編集センター、2010)がある。

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