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特集『ECM at 50』No. 260

ECM ジャケットの美学

Text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野ONNYK吉晃

ECM catalog増補改訂版を目の前にしている。
美しい本だ。
私が魅せられたのは260ページを越えるジャケット・コレクションだった。1ページに6枚のアルバムが整然と並んでいる。
私は眼鏡型ルーペをかけ、思い出のあるジャケット、目に留まったジャケットを眺めていく。そして一つ一つにほれぼれとする。
世の中にはジャンルを超えた美的なジャケット・コレクション、あるジャンルに限定したそれなど同様の書籍があり、私も何冊か所有している。やはりジャズのレコード・ジャケットは面白い。写真、イラスト、文字、色合い、全体の構成、また被写体の顔つき、ファッションなども時代を反映し、あるいは主張を感じる。レコードそのものが名作でなくともジャケット自体が有名になった作品もある。馴染みのレコードなら見ているだけで音が聞こえてくる。

告白するが、私はECM50年の歴史すべてにつき合って来たわけではない脱落組だ。本当に私がECMを愛聴していたと言えるのは1971〜78年あたりで、自分の年齢で言えば14〜21歳だ。その後は、ぽつりぽつりと出会った作品しか聴いていなかった時期がある。つまり私の思春期がECMへの傾倒と丁度重なっているのである。
思い起こせば、私は21、2歳頃それまでに収集した本やレコードの一部を処分した記憶がある。何故そうしたのか分からない。ある種の脱皮を図ろうとした、または思春期への決別ということかもしれない。ECM離れもそうしたことと関係している。
しかし当時持っていたECMのレコードは今でも大事に持っているし、たまに引っ張りだして聴いてみる。『Terje Rypdal/Oddeysey』などは2000年あたりに自分のバンドでコピーもした。
いずれ、何か78年あたりで私とECMが離れて行く感性の乖離があったのかもしれない。ひとつは、草創期ECMの持っていた尖った触感、フリーな、無調な即興演奏が次第に減衰して、耽美的な響きが強まって行ったからではないかとも思うのだ。
当時、私は英国のINCUSにも大いに惹かれ、即興演奏の大海に乗り出そうとしていた。次第に調和的な音世界の完成の域に近づくECMのサウンドは、日用品やガラクタから生み出される噪音的演奏を実践しつつあった私には、どんどん遠いものになっていったのである。だからごく初期の『Music Improvisation Company』や『Wolfgang Dauner/Output』のダダイスティックな傾向が消え、ECMと言えばケルンコンサートと言われるような状況に我慢が出来なくなっていたのであろう。
それから40年が過ぎて、私も還暦を超えた。即興演奏はライフワークのつもりでやってきたが、日暮れて道遠しである。今部屋で一人で聴く音楽はクラシックが多い。何百年も前の作曲家の構想したサウンドが今も新鮮に響くのは奇跡ではないかとさえ思う。そんなとき、まだ持っているECMの中から選んでくるのはSteve Reichであり、Thomas Demengaのバッハ作品集であったりする。いわばECMの成熟に私もようやく追いつきつつあるのだろうか。

今、手元のECMカタログ、そのジャケット・アートを眺める気持ちは、別の記憶を呼び覚ます。
私は幼少期、昆虫少年であり、実際に昆虫を捕え、飼っていたこともあるが、読書代わりに昆虫図鑑を飽かず眺めていた。そこに整然と並ぶ虫たちの、様々な意匠、形態に魅せられていた。昆虫図鑑の他にも魚類やプランクトンの図鑑がお気に入りで、それらを自然に記憶してそらで描けるようにまでなっていった。図鑑は私の美術全集だった。
そうした、図鑑を飽かず眺めていたときの感興が、見開き12枚のジャケットの並ぶこのカタログから甦ってくる。それはまだ出会ったことのない昆虫への憧れにも似て、聴いていないはずの音楽が、ジャケット写真に触れただけで聞こえてくるような、想像力を刺激してやまない美を感じる。
『SART』や『CIRCLE/Paris Concert』など文字だけのジャケット、それでさえも比類なきバランスの、独自のロゴ・デザインが決定的な配置で存在している。
正直言ってECMの全レコード、CDの2割も聴いていない。しかしそのジャケット・デザインのセンスは、米国のブラックミュージックの香りのそれとは全く違う、まさにヨーロッパの色彩であり、フォントであり、写真なのだ。
昔、友人と話したことがある。「ECMをかけると部屋の空気が2、3度下がる気がするね」と。あるいはまた「ジャケットから、涼しい風が吹いてくるみたいなんだよ」と。
そうなのだ。そこには風があり、また物語がある。人物が、あるいは何人かの集団が、また群衆が写っている写真はモノクロが多く、古い東欧の映画のワンシーンを想起させる。あるいはタル・ベーラの「ニーチェの馬」や、パトリック・ボカノウスキーの「天使」のような幻想を。我々は聴く前にジャケット写真から既に想像力の翼をはためかすことが出来るのだ。

最後にひとつ書いておきたい。ECMの音楽は、一人で聴くべきだ。この音楽は気持ちを落ち着けてくれる。また落ち着いているときに聴けば、新たな発見がある。 耳から映像が入ってくる。目から音楽が入ってくる。それが私のECMだ。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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