音楽の実験性を肯定すること——ポストパンデミック時代を生きる集団即興あるいはメディア・アートについて

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text by Narushi Hosoda   細田成嗣

アートは無意味なことのためのPRではない。美は事物が存在していることの理由である。美は真実の響きである。美は真実らしさである。美はまた、ちょっとした死の感触でもある。

——ティモシー・モートン「ウイルスよ、ありがとう、わたしたちと共生してくれて」

あらゆる音楽がメディア・アートとしての性質を帯びはじめている。むろんすべてではない。いまもなお小さな場所で奏でられているささやかな響きは無数にあることだろう。家族の前で少年少女が披露するピアノの旋律や、年頃の男女が恋人に捧げて口ずさむ鼻歌を想起してみればいい。防音壁の内側で黙々と器楽演奏の修練を積むミュージシャンも大勢いるはずだ。メディア・テクノロジーを介することのない音の愉しみは続いており、情況がどのように変化しようとも人間がよりよく生きている限りおそらく途絶えることはない。だが一方でライヴハウスやコンサートホールをはじめとした建造物の内部に多数の観客を呼び入れて開催する音楽イベントは軒並み中止となっている。代わりにテクノロジーを駆使した音楽の配信が各方面で盛んにおこなわれている。それらはパフォーマンスをカメラに収めてそのまま配信する「無観客ライヴ」から電話回線を通じた音声の展示まで、さまざまな度合いでメディア・テクノロジーとの関わりを持っている。言い換えるならば音楽として提示される際にメディア・テクノロジーをその成立条件として内包した実践が方々でおこなわれているのであり、それらはポスト・インターネット時代に特有のメディア・アートに類する作品として個々別々のインターフェイスの前に佇む聴衆のもとへと届けられている。

思えばニーゼロ年代の幕開けは穏やかならぬ空気とともにはじまった。いまや遠い過去の出来事のように感じられるものの、アメリカがイラク・バグダッドへの空爆をおこないイランの国民的英雄カセム・ソレイマニ司令官を殺害したというニュースは、年明けからただならぬ緊張感をもたらした。その非常事態に第三次世界大戦の予兆を嗅ぎ取った人々も少なくなかった。果たしてそのとき誰が戦争ではなくパンデミックが世界を覆い尽くすと予想し得ただろうか。たしかに中国・武漢市の医師をはじめ早い段階から未知のウイルスの存在に気づき警鐘を鳴らしていた人物もいる。しかしながら極東の小国で暮らす人々の多くは感染症をあくまでも他人事として捉え、社会が混乱状態に陥るまで東京オリンピックの開催さえ推し進めていた。そうした能天気さを余所目に、SARS-CoV-2と名づけられたウイルスは不条理にも列島にやすやすと侵入し瞬く間に感染を広めていった。罹患することで命を落とした人物は数多く、当面の間は決定的な治療法も見出されそうにない。だがこうしたウイルスの感染拡大にも増して人々を不安に陥れているのが、ほとんど対応する術を持たない行政の無能さと社会の混乱、そして経済の困窮である。もはや人間が閉ざされた空間で集会し身体を寄せ合うことは疫学的のみならず社会的な意味でも禁忌となってしまった。生活様式の変更を迫られるとともに、収入源を失い生活が立ち行かなくなる人々からは毎日のように助けを求める声があがっている。いまやいかにして生き延びるかが最優先事項として絶対的な正義の名のもとに掲げられている。

たしかに生き延びなければならない。この苦難とともに生きていかなければならない。しかしそのために有用でないものを捨て去ることの是非については、一度立ち止まって考えてみる必要がある。音楽業界を経済的な頼みの綱とする人々にとって、パンデミック下で音楽活動を継続することは日々を生きるための生活費を稼ぐことであり、生き延びるための戦略だ。ならば利潤追求を必ずしも目的としないアンダーグラウンドな音楽は真っ先に切り捨てられてしかるべきなのだろうか。そうではないはずだ。むしろ資本の論理に従って生き延びることだけが正義とされる状況であればこそ、よりよく生きることを持続するための道を模索し、アンダーグラウンドな音楽活動を継続していくことを積極的に肯定する必要がある。よりよく生きることを捨てて生物としての生存のみを社会的に選択してしまうことは、自由をはじめとした諸々の文化的なものを犠牲にすることへと向かうだろう。たとえばイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはCOVID-19のエピデミックを受けて実施された都市封鎖に関して次のような批判を投げかけている。

人間たちは、永続する危機状況、永続する緊急事態において生きることにこれほどにも慣れてしまった。自分の生が純然たる生物学的なありかたへと縮減され、社会的・政治的な次元のみならず、人間的・情愛的な次元のすべてを失った、ということに彼らは気づいていないのではないかと思えるほどである。永続する緊急事態において生きる社会は、自由な社会ではありえない。私たちが生きているのは事実上、「セキュリティ上の理由」と言われているもののために自由を犠牲にした社会、それゆえ、永続する恐怖状態・セキュリティ不全状態において生きるよう自らを断罪した社会である。

(ジョルジョ・アガンベン「説明」『現代思想 緊急特集=感染/パンデミック』)

生き延びることだけを社会が選択し、それ以外の生の形式を取り去ってしまうことは、ほとんど生物学的な在り方へと生命が縮減されてしまうことを意味している。アガンベンはこうした端的に生存すること、すなわち剥き出しの生に囚われた社会は「人間たちの目を見えなくさせ、彼らを互いに分離する」とも批判している。同様の問題意識はイギリス出身の人文学的環境学者ティモシー・モートンも「ウイルスよ、ありがとう、わたしたちと共生してくれて」という挑発的なタイトルを冠したエッセイのなかで述べている。モートンによれば生命には「生き延びること」だけでなく「生きていること」が含まれている。「生きていること」にはつねに死の危険が隣り合っている——「歓待性」が好ましい友人を迎えるだけでなく「ドアを殺し屋に向けて開けておくこと」をも意味するように。こうした生命の曖昧さ/両義性に対してわたしたちは配慮しなければならない。曖昧さを失い生命が「生き延びること」へと固定化されてしまうとき、人間は生物学的な意味でしか生きられなくなり、自由を犠牲にした恐怖状態が続くことになる。むろん医療従事者をはじめ否応なく感染リスクに晒され続けている人々や、収入源を断たれて明日をも知れぬ日々を送る人々の存在を忘れるべきではない。そのように生活の危機に直面している個々の人間にとって、生き延びることは最重要課題としてあるに違いない。しかしそれを社会的な正義と取り違えるとき、「生き延びること」は暴力的な強制へと変化する——わたしたちはすでに無数の「自粛警察」などと呼ばれる暴力を目にしてきたはずだ。

アンダーグラウンドな音楽は目に見えるかたちで生活の糧になったり、感染拡大を阻止したりすることはできないかもしれない。その意味ではただただ無力に音が響くだけだ。しかし既存の価値観を脱臼し、新たな評価軸を生産し続ける音楽の実験性には、「生き延びること」へと固定化された狭隘な思考を解きほぐしてみせる作用がある。いまや一致団結して感染拡大を防ぎ、経済的にも身体的にも生き延びなければならないという絶対的な正しさが社会を覆い尽くしているのである。それはウイルスと同等かそれ以上に強い感染力をともなって伝播している。だが固定化された思考はゆくゆくは全体主義を呼び込み、正義という名の同調圧力から逸れたもの、たとえば社会の片隅で蠢くノイズを皆殺しにすることだろう。そうではなくむしろこのノイズにあふれた曖昧性に配慮し、社会に響く声を複数化していかなければならないのだ。そのためにいま、アンダーグラウンドな音楽の実験性を全力で肯定しなければならない。

パンデミック下では多くの音楽がメディア・アートと化したものの、むろんテレコミュニケーションをおこなうためのテクノロジーはいまになって完成したわけではないうえに、メディアを介した音楽的実践にはすでに長い歴史が積み上げられてきている。ドイツのメディア論研究者フリードリヒ・キットラーを引くまでもなく、フィルムとグラモフォンの誕生は眼と耳をそれぞれ自立させることに貢献した。複製技術を前提とした芸術作品の制作がおこなわれはじめてからすでに百年以上の歳月が流れてきている。だが興味深いことに即興音楽の世界では、録音物というメディアを介した実践こそあるものの、遠隔地を接続してセッションをおこなう試みはこれまでメイン・ストリームを形成することがなく、多くの演奏家にとって手つかずの領域として残されてきた。そのため配信テクノロジーが音楽のプラットフォームと化したいま、ウェブ空間と接点を持つ機会がなかったさまざまな演奏家たちがメディア・アートの世界へと参入することになった。即興音楽の世界においてフィジカルな共同空間が前提となっていたことにはそれ相応の理由もあるだろう。たとえば同一のものの再現ではなく〈いま・ここ〉で生成し変化する音響をアンサンブルとして編み上げていくためには、即時的に反応し合うことが潜在的に可能な現場を共有する必要がある。そこでは互いの演奏を注意深く聴き合い、あるいは挙動を観察し合うことによって不可逆的かつ一回的な音楽が生み出されていた。

ただし互いを精緻に知覚し合うことはあらかじめ結果がプログラムされているような反応の応酬を誘発してしまうこともある。こうした予定調和を避けるためのさまざまな戦略も実践されてきている。ときにはあえて耳を閉ざして無反応を装い、あるいは耳に集中して反応をコントロールするために視界を閉ざすこともあるかもしれない。ならばこの視聴覚をいちどデジタルな水準で徹底的に切り離し、そしてふたたび視覚と聴覚を擬似的に統合した状態で織り成される演奏へと向かうとき、そこにはどのような音楽の領野が開かれることになるのだろうか——映像と音響という別々の素材をそれぞれ自立したメディアとして配信するリモート・コンサートの特性をアンサンブルのなかに取り入れ、集団即興における視聴覚の分断と再統合をおこなうことは、フィジカルな空間でのセッションとは大きく異なる共同性に根差した音楽の在り方を指し示している。むろんこうした想像力それ自体は新しくないばかりか、いずれ色褪せて面白味のない凡庸なものへと行き着くのかもしれない。だが少なくとも個別具体的な実践の次元においてはいまだに尽きない可能性を秘めている。参入したばかりの人々にとって、不安定で足元のおぼつかないウェブ空間は、想像力を掻き立てる得体の知れない場所として、あるいはオルタナティヴな可能性に満ちた音の実験場として存在している。そこで繰り広げられる演奏はリアルタイムのパフォーマンスであるとともに、視聴覚のテクノロジカルな側面を成立条件として含んだメディア・アートの一種である映像音響作品へと不可避的に結実することだろう。そしてそのあらたな可能性と価値観は、「生き延びること」へと固定化されつつある生命をふたたび揺り動かすことによって、死の感触と切り離すことのできない「生きていること」の両義性を寿ぐことになるに違いない。(ライター/音楽批評)

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細田成嗣

細田成嗣 Narushi Hosoda 1989年生まれ。ライター。佐々木敦が主宰する批評家養成ギブス修了後、2013年より執筆活動を開始。『ele-king』『JazzTokyo』『Jazz The New Chapter』『ユリイカ』などに寄稿。主にアヴァンギャルド/エクスペリメンタルと形容される音楽を紹介するほか、日本の同時代的なノイズ/インプロ・シーンを追跡中。

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