時代を駆け抜けた近藤等則 chap chap Records 末冨健夫

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text by Takeo Suetomi 末冨健夫

手元に、「音楽’74 10月号」(日本現代・ジャズ・音楽研究所)という雑誌がある。

「日本のミュージシャン 今、我々は・・・」というコーナーで、近藤俊則トリオの3人によるインタヴューが載っている。まだ「等則」と名乗る以前の近藤さんの貴重なインタヴューだ。トリオのメンバーだった徳弘崇(b)と土取利行(ds)も一緒だ。上京してまだ2年ほどの時期の、演奏できる場所がまだまだ少なかった頃の彼らの心情、信条が吐露されている。

ニュージャズ・シンジケートへの参加等、70年代半ばの日本のフリージャズ・シーンの様子が窺えるインタヴューだ。ちなみに、この後、このサークルは「ミュージック・リベレーション・センター・イスクラ」と名乗るようになり、私はイスクラになってから参加したのだった。

このトリオの後、近藤さんは高木元輝さんとのEEUを結成。モルグ舎を主宰する。76年、LP『コンクリート・ボイセス』をリリース。78年からNYCに拠点を移し、杉山和紀と共にBellowsを、日本ではIMAという自主レーベルを興した。Bellowsでの無伴奏トランペットのLPは当時買ってよく聴いたものだった。

私自身は近藤等則さんとの直接の面識はとうとう持てずじまいだった。だが、70年代半ばからジャズを聴き始めていた事もあって近藤さんは常に私の視界の真ん中にあった。上京してからは、機会を見付けては彼のライヴを見に行ったものだ。

「Peter Brötzmann&Han Bennink+EEU+1」を中野と市ヶ谷で、「Evan Parker、森山威男&近藤等則トリオ」を青山で、「近藤等則、河野雅彦、Billy Bang、Paul Lovens」を吉祥寺で、「近藤等則、小杉武久、豊住芳三郎、羽野昌二、郷津晴彦」を池袋で見ている。

写真は、青山でのコンサート後に、一緒に行った友人が近藤さんとも知り合いだったので、楽屋裏まで押しかけて行って撮らせていただいたもの。まさか、後年私がEvan Parkerさんのライヴを企画し、CD、LPをプロデュースするなんて夢にも思わなかった頃です。

正当な訓練を受けているとは思えない彼のトランペットのいい意味で自己流の(私の認識違いかもしれないけど)破天荒な演奏は、私には粋でかっこよく感じられた。音だけではなくて、Tokyo MeetingやICP Orchestraの日本公演を実現するなどのヴァイタリティー溢れた行動力に惹かれたものだった。TV-CMに出たり、トレンディードラマに出演したり(これは、私には縁が無かったが)と、世間一般への露出は、アンダーグラウンドの世界を世間につなげる大きな役目を果たしていたと思う。

この辺りから、近藤さんは、日本での顔と海外での顔を使い分けていたようだ。海外では、Peter Brötzmannをはじめとするインプロヴァイザー達と丁々発止と渡り合う姿を、日本ではロックに接近した音楽を見せた。ひとつエピソードがあって、シュリッペンバッハさんが日本に来ることになって、近藤さんに共演を依頼したら断られたそうだ。シュリッペンバッハさんは、日本に来て近藤さんがやっている音楽を聴いて、「これじゃあ、私と日本でやりたがらないはずだ。」と言われたとか。

その後、エレクトリック・トランペットを演奏しTVで特番が放送されたりと、常に変化をし続ける姿は、歳を重ねる毎に益々輝いて見えた。YouTubeへ動画を配信し、元気そうに見えていたのに、突然逝ってしまわれた。ついこないだ沖至さんが逝かれたばかりだったのに、特に近藤さんは今どき71歳で逝くのは早すぎませんか。合掌。

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