”稀代の興行師” 鯉沼利成さんの思い出 #1「マル・ウォルドロン」

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text & photos by Mitsuhiro Sugawara 菅原光博

「Left Alone」
「 青年は (ジャズ・カメラマン) の荒野を目指す ! 」

中学生の頃、アメリカのポピュラーやソウルなどのヒット曲の音楽に興味をもちラジオにかじりついて夢中で聴いていた。
高校生の頃は、ビートルズ!
18歳の頃、当時旭川市にあったジャズ喫茶「メキシコ」でジャズに出会いジャズを聴き始めた!
1971年に本場アメリカから来日した「Giants of  Jazz」世界ツアーの札幌公演があり、初めてのジャズのライブを体験した!ディジー・ガレスピー(tp)、ソニー・ステット(as)、カイ・ウィンデング(tb)、セロニアス・モンク(p)、アル・マッキボン(b)、アート・ブレイキー(dms) の豪華なメンバーだった!
こっそり持ち込んだニコンで撮ったディジー・ガレスピーの写真が、写真雑誌「日本カメラ」の月例読者写真コンテストに応募して銅賞に入選した!ファインダーを覗きながらジャズ・ミュージシャンの写真を興奮しながら撮った体験が、やがてジャズ・カメラマンの道へと進む事になった!
1972年3月雪の朝、ジャズ・カメラマンになる夢をいだき東京を目指して故郷の愛別町を後にした!
青森で、ちょうどオスカー・ピーターソン・ トリオの公演があり撮影、翌日に静岡行きの長距離トラックに乗りヒッチハイクで東京にやって来た!

マル・ウォルドロンを撮ったのは、1972年7月の全国公演の来日の時で、ライブ・オフの日に下北沢のジャズ喫茶マサコにぶらりとやって来た。マサコママからの電話で直ぐにカメラを持って店に駆けつけた。片隅の席でマル・ウォルドロンがコーヒーを飲み終わってから、ストロボを店の子に持たせ横顔を数枚撮らせてもらった。端正な顔だちのマル・ウォルドロンの美しいポートレイトが撮れた!この一枚の写真が、スイングジャーナル誌の安藤和正副編集長に認められてジャズ・カメラマンへの道が切り開かれたのだ!
私にとってマル・ウォルドロンとマサコのママは、最初の忘れ難い恩人になったのでした。

Mal Waldron with Masako 1972
鯉沼利成さんとマル・ウォルドロン

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

鯉沼利成という”稀代の興行師”がいた。プロモーターという呼称を嫌い、”俺は興行師だよ”とぼくに告げたことがある。いろいろ仕事の場を共有させていただいたがプライベートな付き合いはなかったので生年は詳らかではない。多分ぼくより数年年長だと思うが、今後、このシリーズに寄稿する方が明かしてくれるだろう。亡くなったのは2018年。最初に出会ったのは青山の地下のオフィス。原信夫とシャープス&フラッツのオフィスの一角を使い、あいミュージックを名乗っていた。ドラマーを志望しシャープス&フラッツのバンドボーイを経てマネジメントを担当するようになったと聞いた。1972年7月、鯉沼さんがスイング・ジャーナル社と組んでマル・ウォルドロンの全国ツアーを企画したとき、ちょっとした付き合いがあった。ぼくが旧トリオレコードに入社してまもなくミュンヘンのENJAレコード、ホルスト・ウェーバーとマルのトリオ・アルバム『Black Glory』のディストリビューション契約をしたのだ。マルのアルバムとトリオレコードの販売特約店網「Trio Jazz Mania」のプロモーションのタイアップを申し入れたのだ。お互いに新参者ということで協力を約し合い、翌年5月にはセシル・テイラー・ユニットのライヴ録音とソロ録音、11月にはチャールス・トリヴァー Music Inc. の招聘とライヴ録音が実現。Music Inc.ではピアノのジョン・ヒックスのビザがおりず、急遽スタンリー・カウエルのビザ取得のために奔走するなどがあって結び付きは強固なものになっていった。キース・ジャレットの招聘をめぐってネスヒ・アーティガンと組んだ先輩プロモーター斉藤延之助さんと鯉沼さんの綱引きがあったが、ECMのマンフレート・アイヒャーに助力を頼んで結局鯉沼さんの手に落ちたのもそういう過程があってのことだった。鯉沼さんとキース・ジャレットの関わりについては、後日、また触れる機会があると思う。
ミュージシャンとして最初に触れたマル・ウォルドロンは大変物腰の柔らかな紳士で親日家でもあり(アフリカン・アメリカンとして苛酷な経験を経たあとのヨーロッパでの生活がマルに平安をもたらしたのだろう)、アルバム・ジャケットに日本語で「幸せ」とサインしてくれた。ジャズ喫茶を中心にジャズを学んだぼくにとって1日に1回はジャズ喫茶でかかる人気盤『レフト・アローン』のマルはぼくにとっても特別な存在だった。のちにトリオレコードがレーベル契約に成功するECMのスターターがマル・ウォルドロンだったのも何かの因縁だろうか。『Black Glory』もENJAレーベルの第1弾としてリリースされたがENJAより設立が2年早いECMとの契約を狙っていたぼくは同じミュンヘンを拠点としいわばライバル関係にあったENJAとはカタログ契約を控えこのマルのアルバムの単独契約としたのだった。ホルスト・ウェーバーによると、ホルストが親友のマルをスイングジャーナルの児山編集長に紹介し、児山さんから鯉沼さんにつながったようだ。チャーリー・ミンガスからビリー・ホリデイ、アビー・リンカーン、エリック・ドルフィーとつながる輝かしいキャリアをバックに、ビリーとの想い出を綴った『レフト・アローン』(Bethlehem 1959) がジャズ喫茶の定番となったマルの日本での人気はすさまじく、2度にわたる全国ツアーは大成功に終わった。創成期の鯉沼さんにとっても大きな自信になったのではないだろうか。その後何度となく日本を訪れるうち邦人女性と結婚、ブリュッセルに居を構え、晩年はファミリー・バンドを組んで日本を周回、2002年ブリュッセルで亡くなったが彼ほど広く日本人に愛されたアフリカン・アメリカンのジャズ・ピアニストも稀だろう。享年77。

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菅原光博

1949年、北海道上川郡愛別町生まれ。ワークショツプ写真学校細江英公教室OB。1973年1月よりジャズを中心に、レゲエ、ブルース、ソウル系コンサートを内外で取材開始、雑誌、ジャケット、ポスター等をメデイアとする。著作に、『田川律+菅原光博/ジャマイカの風と光』(1984 音楽の友社刊)、『菅原光博+藤田正/ボブ・マーリー よみがえるレゲエ・レジェンド』(2014 Pヴァイン)。 https://mitsuhiro-sugawara.wixsite.com/photographer

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