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R.I.P. スタンリー・カウエルNo. 274

カウエルさんを悼む 寺井珠重

text by Tamae Terai  寺井珠重
photos: from private collection

 

昨年の12/17、スタンリー・カウエルの訃報が飛び込んできた。わずかひと月前に、“SteepleChase”から『Live at Keystone Korner Baltimore』をリリースしたことを自らSNSで告知していたところだったのに…知らせてくれたのは、盟友のドラマー、アルヴィン・クイーン。カウエルさんは(Covid-19ではなく他の病気で)入院中に逝去されたとのことでした。享年79。もうそんなに高齢だったんだ。夫の寺井尚之(p)と私にとって、トミー・フラナガンが音楽の父なら、サー・ローランド・ハナは叔父さん、二人ともドラマチックで激しい気性でしたが、一世代下のスタンリー・カウエルさんは、とても温厚で優しいお兄さんだった。’80~’90年代、頻繁に来演し、私たちの店《Jazz Club OverSeas》の常連さん達は“カウエルさん” と親しみを込めて呼んでいました。

=出会いはThe Heath Brothers=

カウエルさんと最初に会ったのは1983年、”ヒース・ブラザーズ”のピアニストとして《OverSeas》に来演したときです。その”ヒース・ブラザーズ”は、ジミー・ヒース(ts)、パーシー・ヒース(b)、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)の三兄弟にカウエルが加わったドリーム・バンド!それまで『幻想組曲』やマックス・ローチとの共演盤を聴いてきた私にとってのカウエルは、ブラック・アート・ムーヴメントの旗を掲げるインディペンデントな「新主流派」というイメージでした。ところが、その夜、カウエルをフィーチャーしたナンバーは、バド・パウエルの硬派バップ・チューン〈Parisian Thoroughfare〉!オープニングは超速のピアノ・ソロ、そこから3人が入ってカルテットになった途端ミディアム・テンポに落とします。そのカラーチェンジ!そのタイム感!フラナガン達デトロイト派に通じるシルキーで均質なタッチとダイナミズム…革新的なのに正統派、カウエルさんのプレイは圧倒的な排気量で、ジャズの王道を優雅に走行するロールスロイスのようだった。そのモンスターパワーのルーツが、幼少時に頻繁に自宅を訪れピアノを弾いてくれたアート・テイタムにあったことは、当時知る由もありませんでした。正真正銘のブラック・ミュージックを自分の店のピアノで聴いた感動は今も鮮やかに残っています。

カウエル先生

それ以来、寺井尚之はすっかりカウエルさんのミュージシャンシップと人柄に惚れ込み、来日ツアーのあるときには必ずと言ってよいほど、演奏していただきました。ソロはもちろん、バスター・ウィリアムズ、セシル・マクビーといった名ベーシストたちとのデュオ、バスターとフレデリック・ウェイツ(ds)とのトリオ“ウィ・スリー” などなど・ ・・ツアーのオフ日には私たちの自宅に宿泊したこともあります。私たちがNYに行くと、愛車フォードを自ら運転し、当時教授を務めていたブロンクスのCUNY(NY私立大学)から野生の鹿が走るアップステートへ、私たちの知らないNYの郊外へとドライブしてくれたことを思い出します。

 

 

寺井尚之にとってのカウエルさんは、知識と技術を惜しみなく与えてくれる最高の先生でした。〈Cal Massey〉に代表される左右対称のミラー奏法や、囁くようなピアニッシモからピアノ・ルーム全体が震動するような強烈な響きに膨らませるピアノ技巧など、「君はもう音楽大学で学ぶ必要はない。」と言いながら、しっかり稽古をつけてくださったことは現在も宝ものです。その想いはカウエルの教え子たちに共通のものだったようで、彼が亡くなった直後、恩師を悼む追悼の言葉がSNSに数多く投稿されていました。

=真理を探し求めて=

オフ・ステージのカウエルさんは、とても穏やかで冷静な人、コンコード・ジャズフェスティバルでのJ.J.ジョンソン・クインテットの大阪公演を控えた日の午後、ホテルで一緒にお茶を飲んでいると、J.J.が憔悴した様子で現われました。「東京滞在中の妻が倒れたので私は今から病院に行く。後は頼んだぞ。」と言うのです。カウエルさんは、少しも動揺することなく、J.J.に丁寧なお見舞いの言葉をかけて悠然としていました。その夜のコンサートでは御大抜きのカルテットで見事なプレイをして大喝采を浴びました。長身の体躯は、ピアノの指使いと対照的に、いつもゆっくりと動き、私にもわかるようにゆっくりと話します。汚い言葉を出すことは絶対にありませんでした。ホテルやレストランを所有する裕福な黒人家庭で育った鷹揚さと、偉ぶらない態度が印象に残ります。また、時間にはとてもきっちりしていました。かつてのボス、マックス・ローチが反面教師で、自分はそうなるまいと決めたのだそうです。

一方、カウエルさんは理想を追及し変遷する人でもありました。ラトガーズ大の教授を退職しジャズ・シーンにカムバックするまでは、米国のクラブで演奏することは稀でした。ジャズをリスペクトしない酔っ払いの居る場所で演奏することをよしとしなかったのです。そしてジャズ・ピアニストという職業へのプライドから、自分で設定した最低賃金以下の仕事は受けないというポリシーを持っていました。教授の道を選んだのはそのためだったのかもしれません。

私生活でも、クリスチャンからムスリム、そして仏教へと信仰をシフトしています。私たちの自宅に泊まった時は、般若心経を唱える良い声が朝と夕方に朗々と響き、浅薄な宗教心しかない私は恥ずかしく思ったものです。結婚も同様で、カウエルさんは何度か結婚しています。ジミー・ヒース夫人のモナさんによれば、スタンリーは超エリートだから、選ぶ女性も超一流ばかりだったそうです。最初の奥さんは、元モデルで社会活動家のエフィ・スローター、彼女はスタンリーと離婚後、ワシントンD.C.の市長と結婚しました。次はブロードウェイのキャスティング・ディレクター、最後に、亡くなるまでの32年間を共にする真の伴侶と結ばれます。妻、シルヴィアさんは辣腕弁護士で同じ仏教徒、温かな家庭を作り、カウエルさんの手を握り締めて最期を見届けたそうです。愛娘のサニーさんはヴァイオリニスト兼ヴォーカリストとして活動中、晩年は父娘で共演しています。カウエルさんの生き方は、理想を求めてさまよい、きっちりとゴールインを重ねていったように見えます。

=最後に聴いたピアノ・ソロ=

最後に会ったのは2009年、チャールズ・トリヴァー・オールスター・ビッグバンドで来日し、大阪中央区の御堂会館でのコンサートがハネた後に、ベーシストのルーファス・リードと店に来てくれたときです。長年カウエルさんを愛する常連さん、カウエルさんを初めて見る寺井のピアノの生徒たち、そしてミュージシャン仲間が夜更けに集まり、アットホームな歓迎パーティをしました。最初に出会ったカウエルさんは42才、寺井は31才。それが、二人とも同じように白いヒゲになっていて、今写真を見ると感慨もひとしおです。

その夜、集まってくれた皆のため、そして高齢の寺井の母のためと弾いてくれたのがビリー・ストレイホーンの〈Lush Life〉でした。ピアノからはみ出す長い脚、そして“蜘蛛(spider)”と異名のある、とても長くて有機的に動く10本の指、左手はアート・テイタムやトミー・フラナガン達が基本とする10thヴォイシングで、厚みのある芳醇なサウンドが大河のように悠々と流れていきました。白髪になってもプレイはちっとも枯れていない、それどころか一層豊かな色彩を感じさせる品格のあるプレイで、言い表せないほどの感動を覚えました。夫はこのときカウエルが「黒人ジャズピアノの伝統」に根差す巨大なアーティストだと痛切に感じたと言います。

『Juneteenth』
(Vision Fugitive 2015年作品)

それ以降もカウエルさんとの交流は続き、それが縁で、2015年、澤野工房さんが、カウエルさんのソロ・アルバム『Juneteenth』(Vision Fugitive)をリリースする際、解説を書かせてもらいました。それは「奴隷解放記念日」に因んだオリジナル組曲を録音した素晴らしいアルバムです。短い解説ですが、英訳して本人に観てもらったら、A+の採点をくださった。それが、私のささやかな誇りです。

カウエルさんは突然逝ってしまった。店に飾ってあるポートレート写真と〈エクイポイズ〉の譜面は、カウエルさんが夫に贈ったものです。〈エクイポイズ(equipoise)〉とは“完璧にバランスのとれた状態”のこと。それこそがカウエルさんの信条だったのだと思います。写真も譜面も長い年月ですっかり色褪せてしまいましたが、彼がくれた思い出はいつまでも鮮やかです。カウエルさん、本当にありがとう。ご冥福をお祈りします。

OverSeas店内に飾るポートレート

寺井珠重(てらい たまえ)
大阪出身、関西大学哲学科卒、夫でピアニストの寺井尚之とともに、大阪中央区で《Jazz Club OverSeas》を営む傍ら、音楽史やジャズ関係の翻訳に携わる。
http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/

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