橋本孝之と阿部薫 by 大島彰
text by 大島彰
《橋本の風は、内ではなく宙へと向かっています。》
5月10日(月)16時57分。音楽家として唯一無二の存在だった橋本孝之さんは《その演奏のように強烈で美しいエンディングを》選択されたようです。………そんな報せをドットエスとして共に活動されていたsaraさんから受け取りました。
最期までカッコ良かったですネ。即興音楽の演奏家としては珍しくイケメンで、礼儀正しく、オシャレで、誰からも愛されてました。
《聴いた人の世界観までも覆してしまう、そんな鋭く研ぎ澄まされた音楽の可能性を、私は強く信じている》と言葉にする橋本孝之は、とてもとてもロマンチストな奴だったと思います。
《音でその答えを出してきたという自負があります》と言い切る、最期の解答が昨年末に発表されたCDアルバム3部作となりました。とてつもない作品で、3枚全てが会心の出来で、何度も何度も繰り返して聴きました。本人にも、とても気に入ってると話すと、素直に喜んでくれました。自他共に認める代表作だと思うので、多くの方に聴いて戴きたいです。それが奴の望む、最高の弔いかと。
最後に逢ったのは2月の大阪「ノマル」でのドットエスのライヴでしたが、そのときは更に別の新しい面を魅せてくれました。常に今までとは違う新しい何かを追求している姿勢が、私は好きでした。また機会があれば聴いてみたいと思わせてくれる、世界中に夢を与えてくれた《彗星パルティータ》ような男だったのかと。
初めて逢ったのは2019年12月ですから、出逢いは遅かったです。場所は国分寺「giee」。私がその夜に来店するのを知った橋本孝之さんは会社を休んで逢いに来てくれました。彼の敬愛する阿部薫のCDや本の制作に私は多く関わっていました。それで、とても逢いたかったとのことでした。身に余る光栄で、突然の出逢いに恐縮しました。
その夜は、阿部薫に関する話をじっくりとして、私がDIWから出して頂いた『騒』のソロ10枚を全て聴いて、気に入ってもらっていたことを知りました。『騒』のソロというのは77年~78年の最後の1年を記録したものですが、この時期の演奏には賛否両論あり、デビューの頃を知る方たちには概ね不評でした。評価されていたのは芥正彦さん、吉沢元治さん、灰野敬二さん、柳川芳命さんくらいで、若い演奏家にも理解者がいるというのがとても嬉しく思いました。
話が進み、まだ企画中だった新しい阿部本に書いてくれることになりました。依頼したテーマは「晩年の阿部薫は何をやろうとしていたのか」という私の最大の興味についてです。
年が明けてから、打ち合わせと称して深夜遅くまで飲んだり、メールのやりとりをしたりして、音楽家としての阿部薫像を語り合い、少しずつ詰めていきました。………速度について。間合いについて。………私はどう思っているか? そんな話題で延々と議論したことは初めての経験でした。
私は理解のキーワードとして【気配】の話をしました。「灰野敬二さんが、空間に造り出す《気配》って、阿部薫と似ているな、って感じたことがあるんですよ」と。………暫しの沈黙のあと、「《気配》ですか。私も感じたことありますね」………そんなやりとりをして、最終的に「音楽以上の何か」という原稿が、新しい阿部本『阿部薫2020─僕の前に誰もいなかった』に収録され、文遊社より昨年12月発売されました。その本には、橋本孝之の後のページに、最大の理解者であるsaraさんにも書いて頂きました。阿部薫についての本なのですが、橋本孝之についての本にもなるようにと編集したつもりです。
私が橋本孝之とした仕事はこの一つだけになってしまったのが残念です。沖縄電子少女彩さんとの再演を企画していたのですが叶わぬ夢となってしまいました。
橋本孝之のアルトは独自性の強い、唯一無二のものだったと思います。私は阿部薫のアルトより、橋本孝之のアルトが好きです。阿部薫を超越していたところもあると感じていました。
ただ音楽以上に、個人的には飲み友が突然居なくなったというダメージが大きいです。橋本孝之は酒豪です。酒に強かった。それが一番の想い出。出逢って愉しかったです。ありがとう。
大島彰 (ランダムスケッチ)
1955年京都市出身、川崎市在住。故・羽仁五郎に師事し、歴史・哲学を学ぶ。著作に「一里塚の起源」「もう一歩遠くまでといつも思っていた」他。編集者としては「邪馬台国関係文献目録」『阿部薫覚書』『岡村孝子全歌詩』他。音楽プロデューサーとしては、柳川芳命「地と図」(渋谷ジァンジァン)、「花の女子高生コンサート」(長野県上田市) 他。テレビ、ラジオ、CD制作などの仕事も多数。