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R.I.P. 橋本孝之No. 278

橋本孝之、全人生とこれから by sara

text by sara

2021年5月10日(月)16時57分、みんなが愛した橋本孝之ータカちゃんが旅立った。

音楽家としての独自性や才能については周知の通りですが、この場で橋本孝之の人生、生き方について書き記せるのは自分だけかもしれない、そこに焦点を当て思いつくままに書かせていただきます。

彼との出会いは12年前、2009年の3月末。出会って間なし、お互いの音楽的志向も人柄も知らない時に「ソウルメイトって言葉があるけど、自分たちってそうかもね」と冗談まじりに話したのを覚えています。

当時の彼は公園や練習スタジオでひとり孤独に演奏していた無名の人。私は長らく音楽活動を中断して現代アートの現場であるギャラリーノマルの仕事に全力。半年後に音楽ユニットを結成し、彼が旅立つまで活動を続ける事になるとは夢にも思わない段階で何故「ソウルメイト」が口に出たのか?

それは分かりませんが、私たちは.es(ドットエス)として12年間の活動を続け、彼とのライブやフリーセッションは記録が残っているだけでも200回以上ーとても濃厚な、言葉では説明できない深い対話を重ねてきました。

音楽活動だけではありません。コンセプトメーカーとしてドットエス結成時から共に歩んできたノマルのディレクター林聡、橋本孝之、そして私saraの3人は日常的な悩みから大いなる野望まで、何でも相談し合い助け合ってきた朋友であり、ほか数名の心許せる友人たちと共に新年会、各人の誕生会、忘年会など何かにつけて林さんの自宅に集い、子どものようにはしゃぎ、歌い、語り合ったかけがえのない仲間でした。

さらに彼がようやく東京から戻ってきた今年の4月からは、いよいよノマルの外部ディレクターとして、アート&サウンドの新たなプラットホーム創りを一緒にしようと年初から約束していました。「4月からは、毎日でもノマルに来るで!」と…。

音楽ユニットの相方であり、親友であり、仕事さえも共にーここまで縁が深まるとは想像だにしなかった12年前ですが、不意に出た「ソウルメイト」という言葉は何か予感があったのかもしれません。

そんな彼が、前途洋々だった4月に病気発覚。それからたった一ヶ月で旅立ってまだ2週間しか経っていません。あまりにも縁が深いと「悲しい」だけでは説明できない、不思議な感覚を初めて経験しています。

彼の生身の身体はもう消えているのですが、彼の意識なのか魂なのか、どう呼べばいいのか分からないそれは、すぐそこに、時には自分の内に共に居るような感覚。あの世というものがあるなら既に彼の意識はそこに在るのでしょうが、タカちゃんならこう言う、こう考えている、喜んでいる、困っている、まるで生前以上にそれが分かるような気にさえー演奏という形で空間や時間を共有、交感してきたそれと、同じような感覚がまだ続いているのです。

 

・ノマルと橋本孝之

ここで、彼がこれからの人生を共に歩もうとしていたノマルについて書かせていただきます。

現代アートの版画工房、ギャラリー、デザインスタジオを有するノマルは、「奇跡の実験工房」「稀有なアーティストの交流拠点」と言われるように、アーティスト(主に視覚芸術)との共創の場として30年以上、独自の活動を続けて来ました。JazzTokyoでの2017年の彼のインタビュー『確かな「心」の芽生えと「自己」の消失の先にあるもの』、今年1月の.es(橋本孝之&sara)+林聡ロングインタビュー「アートと音楽の未来へ向けて」にも出てきますが、彼が大阪在住だった5年間、特に結成時の1年間は大手広告代理店勤務の彼が仕事帰りに出勤のごとく立ち寄り、閉廊後のギャラリー空間で私たちはセッションや話し合いを重ねてきました。

初演は外のライブハウスでしたが、その後はギャラリーでも現代美術作家とのコラボレーションによるライブを継続的に開催。その繋がりから、美術館やアートプロジェクトにも何度か招聘いただきました。ドットエスは、サウンドとしては唯一のノマル取り扱いアーティストでもありました。

ライブの為のリハーサルや練習、新たなフォーマットの実験という時もありましたが、ギャラリーでの時間に名付けをするならばそれは「遊び」です。私たちは、本当によく、遊んだ。

時間は幾らでもあるし誰に聴かせるでもない。思うがままに様々な楽器を使い、時には互いの楽器を交換し、踊ったり声を出したり妙なパフォーマンスをしてみたりーそれは今にして思えば、いや今後においても、非常に重要な時間だったと感じています。

無為に、自由に、ナチュラルリバーブが美しい空間で遊び尽くした私たちは、常にその空間に在る現代アート作品をリスペクトし、そして呼応しながら、言葉に出来ない何かの懐へ深く潜り込む時間を重ねました。大いに遊び、そして本番では完全集中という振り幅を無言のうちに身に付けて行ったように思います。結成時から今春まで、タカちゃんと私は「ノマルで成長した」が口癖でした。

2013年 P.S.F. Recordsからリリースされた「void」が到着、大喜びの記念写真。

・橋本孝之という生き方

彼の高校時代からの大親友であり、一番の理解者であるKさんから、告別式の前夜にいただいたメールがあります。橋本孝之の人となりをこれ以上に表する文章はないと思い、Kさんの了解を得て引用させていただきます。

「破壊的なのにガラスのように繊細で、ドライで割り切ってるのにやたら人情深くて、戦略的思考的なのに急に爆発的に衝動的だったり、劇的に社交的かと思えば何年も殻にこもって人との接し方がわからなくなったり、クールな装いとは裏腹にマグマのような情熱で煮えたぎっていたり、モノに対するこだわりを持っている割には所有欲は強くなかったり。15歳で知り合ってから、これまでの彼の変化・成長を側でみてきたけど、.esやソロでやっていた音楽活動によって、きっと彼自身がそれまで自分で理解・コントロールしきれなかった数々の相対性や矛盾、葛藤を自由に解き放つ表現の場所ができて、すごく解放された感じだったな。それが音に表れてた。

だから、サラさんが彼によって輝かされたって言うのと同じように、彼もサラさんによって解き放たれ輝くことができたんだよ。」

橋本孝之の人当たりの良さは誰もが最初に感じるところですが、長く深く付き合うほどにその複雑な扉が開かれていくー。

そして彼は、職域においては卓越したビジネスマンでした。東京では100人もの部下に温かい眼差しで接し、得意先にも大いに愛されたことは疑う余地がありません。ビジネス上の成果を次々に出して、どんどんステップアップして行きました。

自分が属する様々な環境において、誰もが色々な顔や態度、力の加減、オン/オフを使い分けていると思いますが、こと橋本孝之においては、瞬間瞬間に全集中。何事も誰に対しても、オンしかなかった。

人と言葉やメールを交わす際も、その瞬間、対する相手が何を望んでいるか、何を喜ぶかを瞬時に見極め、最大限の敬愛と言葉とエネルギーを注ぐ。音楽領域での彼の輝きと周囲の期待、それは職域であれ、友人との時間においても同様で、橋本孝之は、どこに居ても奇跡の人でした。

東京でのライブ後を知りませんが、ノマルやツアー先の演奏後は共演者やお客様へフォローアップをして、皆が帰ると突然バタンと気を失ったように倒れ「白目をむいて寝てる」といつも林さんと笑っていましたが…全ての瞬間が、彼の全人生でした。

2014年に転勤で東京へ居を移してからはさらに活動の場を広げ、沢山の素晴らしい音楽家との共演で彼はさらに大きく成長していきました。ソロでの活動、kito-mizukumi rouber、UH、そして前述の高校時代からの大親友Kさんをボーカルとするロックバンド「The Sound Wearhouse」では、橋本孝之はギンギンにカッコいいロックギタリストだった!

チームドットエスの林さんとタカちゃん、タイプは全く違いますが、二人にはある共通点があります。過去(記録)に、全く興味がない。アルバム制作やライブにおいて、その制作や企画段階では二人とも正気を失ったかのように突き詰め妥協を許さぬ姿勢、しかし事が終わると見向きもしないー。二人とも、自分が関わったアルバムをおそらくほとんど聴き返さないし、現物への執着も無い(ように見える)。

ドットエスの全記録、音源、画像や動画の管理は私の役目ですが、タカちゃんの東京でのライブも同様で、送られてきた音源や情報をすべてサーバで整理、管理してきました。それは自分の事でもある感覚でー。そこに安心感があったのかもしれませんが、おそらく彼の手元には何も残っていないでしょう。

事を成し遂げるまでは寝食もいとわず完全集中の二人をいつも心配してきましたがー今振り返るとタカちゃんは昨年後半くらいから少しずつ体調に異変を感じていたように思います。グチや弱音を好まないから、ちょっと疲れているだけすぐ治ると。生命力あふれる彼が言うなら、そうなのかなと深く考えていなかったことが今となっては悔やまれますが、それが彼の生き方だったし誰にもどうにも出来なかったと思うしかありません。

2021年2月13日.esラストライブ。Chang Teng-Yuan個展にてChangのキャラクター「parrotman」マスクを着けてのパフォーマンス。

・旅立ちまでの一ヶ月

3月は早期退職を決めた会社の仕事の総仕上げと引き継ぎ、音楽仲間への帰阪の報告、それぞれの送別会。そして春からの大阪の仕事のために連日の就活と面接、引っ越し準備ーいくらタフな彼であったとしても、それをたった一人でやり遂げるのはどれだけ大変だった事でしょう。眠れない、食べられない、身体が痛いと電話では聞いていましたが「やり遂げる、4月からは少し休む」に安堵していた自分がいました。

7年間の単身赴任から家族の待つ家へ戻り、新たな就職先に前途洋々ながら寝てばかりいる彼へご家族が強く通院を促し、病気が発覚してから旅立ちまでは約1ヶ月でした。治療方針が決まるまでの最初の2週間は散歩に出かけたり買い物にも行けた。その間、彼の自宅や見舞い先で何度か彼と話す機会を持てましたが「俺、大丈夫やとしか思われへん」「うん、絶対大丈夫!」と。そして私は「これだけのことを経験したら、きっとまた音が深くなるね、楽しみやね」と今から思えばとんでもないことを言った…「どんな音になるか、想像もつけへんわ」とタカちゃん。けれど彼が立ち上がれなくなるまでそれからわずか2週間でした。旅立ちの前夜でさえ復活を信じて疑わなかった私は何が起こったのか全く理解ができず、何も感情がわかないような時間をしばし過ごしました。

52歳になったばかりの春に、彼は全てを使い果たし、全てを完璧にやり遂げて、旅立ちました。あまりにも衝撃的なエンディングでしたが、何人分もの人生を、全て生き切ったのでしょう。

今、思うのは、彼はおよそ人間の全てをその体に宿した、超人だった。喜怒哀楽などという四文字では語れない。孤独や恐怖や怒りという感情も、ホームパーティーや気のおけない仲間の前で見せる無邪気で陽気で、ちょっと雑で横着な面も含めて、彼の中にはあらゆる感情や人格が内包されていて、全てが圧倒的なエネルギーで放出された、それは演奏においても。

彼が放つ全人格の、その音に、全ての人がどこかで自分の周波数を合わすことが出来たのだと思います。それだけ彼の放つエネルギーは凄まじかったからー彼の音楽に対して様々な感想や評価があるでしょうが、その言葉が、その人自身のチャンネルを表しているのかもしれません。

 

・橋本孝之とのこれから

この4月から、ノマルでアートの活動もタカちゃんと共にすることになったのは、ドットエスのホームだから、友人だから、というだけではありません。林さんも私も、彼の審美眼とセンスをこよなく信頼し、愛していました。

彼は若いころにグラフィック・デザイナーとしての経験を積んでおり、デザイン力もデザインを見る力も秀逸。その後の営業職のキャリアによるプレゼンテーション力、コニュニケーション力、WEB解析士としてのネットワーク分析力、「キャリアコンサルタント」ならではのコンサルティング力、英語力などノマルにとっては願ってもないスキルの塊。

さらにファッションも大好きで、ファッション誌やハイブランドの新作動画はシーズン毎に必ずチェックして、良い動画を見つけた時は「こんな感じでドットエスのPV創られへんかな!」とリンクを送ってくれることもしばしば。「演奏さえ良ければ服装はどうでもいい、という態度は違う。すべて含めて美を創りたい」は、ドットエス結成当初からのポリシーでした。

現代アートは私たちと知り合う前から彼の守備範囲で、東京住まいの7年間も、休日には美術館やギャラリーを巡っては色んな情報をシェアしてくれました。

この12年間、ノマルで開催してきた展覧会を一番長時間見ているノマル所属アーティストは、間違いなく橋本孝之です。さらに、展覧会場でのライブやセッション時には作品が発するものとどれだけ深く対話をしてきたことかー、彼は常にノマルのアーティストや作品に強い関心と理解を持って接してくれました。

「いろんなアートシーンを見てきたけど、どう考えてもノマルの作家と作品は、別格やと思う。ノマルがもっと発展するサポートをしたいねん」。それを聞いた時、林さんと私はどれほど嬉しかったことか…!

そしてドットエスとは、彼にとって、内包する全てを“あるべき形”にとらわれることなくいかようにも出すことが出来る、解放される自由な場であったのだろうと思います。

彼の旅立ちを知った時、もう音楽をやる意味はないと血迷いましたが、それは一瞬でした。橋本孝之&saraではない「.es(ドットエス)」として音楽活動を続けていきます。

4月の帰阪が決まった今年の初めから、林さん、タカちゃん、私とで何度も話し合ったこと。それはノマルで、既存のアート&サウンドというかたちではない、何かもっと突き抜けた事が出来ないかということでした。

3月、深夜に何度か電話で話し合いました。彼の言葉で印象に残っているのは「もう、演奏という形ではやり尽くした気がしてるねん。これから先、同じように楽器を使って演奏しても、それはそれで人は喜んでくれるしええとは思うけど…何かもっと別次元に行きたい」。

その「何か」が何であるのかー4月からじっくり三人で話し合い創っていく予定でしたが、彼は大きなテーマだけを残して今世の仕事を終えてしまった。彼の意識を想像しながら歩み進めるのがこれからの自分たちの仕事だと思っています。仕事?いや、解き放たれた遊びを、ノマルで。

告別式で奥様が、多くの人に愛されて幸せな人生だったと挨拶されました。本当にその通りで、あれほど多くの人に愛され多くの人を幸せにした人生はないでしょう。

みんなが彼から受けた輝きを、それぞれが身近な人に繋いでいけば世界は少し変わるように思います。そして私も、タカちゃんが繋いでくれたご縁を、大切にしていけたらいいなと思っています。タカは、みんなのタカだからー彼が愛した人たち、まだ会ったことがない人も含めて、私も愛して繋いでいきたいと思います。

彼が欠けたのではなく、彼の分までということでもなく、彼と共に変わらず、ノマルとドットエスのこれからを歩んで行きたいと思います、もう少し休んでから…。

2021年5月24日 sara

 


photo by 笹岡克彦 Katsuhiko Sasaoka

sara(.es ピアニスト)
2009年、大阪の現代美術画廊「Gallery Nomart(ギャラリーノマル)」をホームに橋本孝之(alto sax, guitar, harmonica)と共にコンテンポラリー・ミュージック・ユニット.es(ドットエス)結成。現代美術ディレクター林聡がプロデュース。結成当初より現代美術をはじめ様々な表現領域とのコラボレーションを行い、国内外にて活動を展開。2013年 P.S.F. Recordsよりアルバム「void」リリース。領域を縦横無尽に横断する音楽家として独自の存在感を放ってきた。アートシーンでは2011年「させぼアートプロジェクト」(長崎)、2013年 静岡市美術館、2016年 大分県立美術館にて招聘公演。2017年 / 2018年「龍野アートプロジェクト」(兵庫) 連続出演。音楽領域においては、即興、ノイズ、電子音楽、ジャズ、ロック、クラシック、現代音楽など国内外の音楽家達とのコラボレーションによって生まれるボーダレスな世界― “音”と“音楽”の間(ま)で交錯する感覚を表現。2021年5月、橋本孝之が病気により永眠。ユニット名「.es ドットエス」として活動を継続。
Gallery Nomart website
.es website

 

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